「オレグとジルベール」
@sasorizanotatudoshi
「オレグとジルベール」
「オレグとジルベール」
夜の埠頭に二台の車が止まっていた。
車の近くには二人の男がおり、一人は若い男でもう一人は若い男よりも倍近くは年が離れている男だ。年上の男は若い男に対して銃を向けている。銃を向ける男の顔は銃を突きつけているにも関わらず、非常に苦しそうだ。まるで銃を突きつけられているのは自分かのように、その顔は苦悶で歪んでいた。若い男の方は銃を突きつけられながらも恐怖は見られない。まるでこの状況を受け入れているかのように表情は穏やかに目の前の男を見据えている。
■オレグ
一台の車が警察署に到着し、若い男が出てくる。名前はオレグ。26歳と若いながらも将来を期待されている刑事である。彼のことを署の人々は「正直者」「善い奴」「融通の利かない奴」「生真面目野郎」「愚か者」「裏切り者」と様々な名で呼ぶ。
オレグがこの警察署に来て最初に逮捕したのは、彼の指導員を務めた先輩のベテラン刑事のルークだった。ルークはまず右も左も分からないであろうこの若輩者に一発かましてやろうと最初の挨拶の時に彼に差別的な発言をした。まわりで聞いていた者は笑う者もいれば、軽蔑の眼差しを送る者もいた。オレグはなんの問題もないという風に笑顔で挨拶を返した。しばらくはルークとパトロールを行った。
治安の悪い地域やサボり方などを教わった。オレグはルークの話をしっかりと聞き、教わった通りに行動した。「良い子ちゃんだな」「行くぞ。お坊ちゃん」などとルークは彼をからかうような発言が多かった。ある日いつものようにパトロールをしていると、ルークから決まったルートではない場所へ行くよう指示があった。
指示された場所は危険地域として立ち寄る際には重武装で人数を揃えて行く場所だと聞いていた。オレグはルークに再度場所を確認するが、やはり場所は間違いないようだ。そして、ルークはなんだかイライラしているのか、何かを恐れているのか興奮しているように見えた。
指示された場所の少し手前で車を停め、オレグはルークを刺激しないように言葉を選びながら聞いた。「ここで何をするつもりなのか?危険地域なので離れるべきではないか?」と言葉を聞いたルークはオレグを一瞥し「ここで待っていろ」と言い残して車から降り、近くの建物に入って行った。
一人車内で待つオレグは周囲を見る。人の気配や視線は感じるが、ゴーストタウンのように誰の姿も見えない。不気味なほど静かだ。
10分ほど待った頃にルークは戻って来た。車のドアを開け助手席に座ると乱暴にドアを閉め「行くぞ。早くしろ」と言った。その際に先ほどはなかった内ポケットに膨らんだ封筒が見えた。息が荒く、さらに興奮しているようで隣のオレグにもはっきりと分かるほどの怒気が感じられる。ルークはオレグにまたいつもとは違う場所へ向かうように指示した。車内は熱くないはずだがルークは脂汗をかいていた。新たに指示された場所の検討がついた時、オレグはこの先の展開を予想した。オレグは周囲に車がいないのを確認し、急ブレーキを踏んだ。
予想もしていない急ブレーキにルークはつんのめり、何が起こったのかと驚いた顔でオレグを見る。オレグは冷静に言葉を発した「すいませんが、ここから先は何をしているのかを言ってもらわないと進みません。さっきの場所で何をしていたのですか?これから向かう場所が自分の考えている通りならこのまま行く訳にはいきません。教えてください」オレグは車を端に寄せてルークの言葉を待った。
ルークの顔が徐々に赤くなり、目が血走っていくのをオレグは冷静に観察していた。ルークが叫ぶ「クソガキが。何様のつもりだ。今すぐ俺の言ったとおりにしろ。殺されたいか」とまくしたてオレグの胸倉を力任せに掴んできた。
オレグは冷静に言葉を返した「自分の思っているとおりなら服務規程違反です。さっきの場所で金でも借りたのですか?それともまさか金を奪った?内ポケットの膨らんだ封筒が見えていますよ。今から行こうとしているのはこの辺りを縄張りにしているギャングがいるところだ。金貸しと言われているが常に警察がマークしている危険人物なのはみんな知っている。そいつに金を払うのですか?」とオレグが言い終わるのと同時にルークの拳がオレグの顔面を何度も殴打した。オレグは素早くシートベルトを外して車のドアを開けて転がるようにして車内から脱出した。態勢を立て直す為に立ち上がろうとするが、足に上手く力が入らない。ルークもシートベルト外し、車外へ出てオレグを逃がさないように近づいてくる。
一瞬の差でオレグがルークに銃を向ける方が早かった。オレグはルークを腹ばいにさせて自分で手と足に手錠を掛けるように言った。ルークは腹ばいになりながらもオレグに罵詈雑言を浴びせた。隙を見せれば反撃しようと襲い掛かってくることが分かっていたオレグは銃を向けたまま適度な距離を保っていた。
手錠を掛けたのを確認し、無線で呼んだ応援が駆け付けたのを見てオレグは一気に緊張が解け、その場に座り込んだ。ほんの数分のやりとりが永遠にも感じられた。
応援を呼ばれたのが分かった時、ルークはオレグに懇願した。先ほどまでの罵詈雑言が嘘かのようにオレグを称賛し許しを求めた。このままでは自分は殺される。金を払わなければいけない。払わないと家族も危ないのだと涙ながらに訴えた。
最初の逮捕者が自分の指導員であるベテラン刑事というニュースは署内で話題となっており、オレグは良い意味でも悪い意味でも注目の的となった。
病院での治療を勧められたが、オレグは署に戻りことの顛末を報告することを優先した。ルークの言うことが本当だった場合、彼や彼の家族が被害に合わないようにするべきだと思ったからだ。オレグは誰に報告をすれば良いかを近くにいた同僚へ尋ねた。同僚が答える前に「オレグ」と自分の名前が呼ばれた。声の方向に目をやると40代から50代くらいの壮年の男が立っていた。男は「こっちへ」と言い、個室の部屋へオレグを連れて入った。「大丈夫か?病院が先だったのじゃないのか?」とオレグを気遣う。オレグは「大丈夫です。報告を済ませたら病院へ行きます。至急お伝えしたいことがあります」と壮年の男を見据えて言った。男はオレグの言葉を待っているという感じだ。「彼はどうやら地元のギャングに金を借りているらしく、今日が返済日なのか非常に焦っていました。彼の胸ポケットに金の入った封筒があるはずです。それと、彼を逮捕した時に金を返さないと彼と彼の家族に危険が及ぶと言っていました。すぐに彼の家族の保護を要請します」と手短に要点だけの報告を済ませた。壮年の男の顔が一瞬悲哀に満ちた表情になりすぐに普段の表情に戻った。そしてオレグに「分かった。彼と彼の家族の保護を約束する。お前はこれから俺と病院だ。車で送る」と言った。
車内で男は自分の名前をジルベールだと名乗った。オレグは彼のことを知っていた。この街で、この署内で彼を知らない者はいない。テレビでも見ることがあり、署内での表彰は数えきれない実績を残している敏腕刑事だ。
病院へ向かう車内でジルベールは言った「ルークは、今回が初めてじゃないのだ」と彼は言う。「ルークはギャンブル好きで署内でも賭けや金のやりとりをしていた。それに気付いた俺と署長でルークをセラピーに連れて行き、しばらく謹慎処分にしていた。復帰したのは3ヶ月ほど前で、俺も署長も様子を見ていた。次は無いぞと念も推したのだ。ルークはベテランだし、目の付け所も良い。検挙率も高い優秀な刑事だったのだ。復帰してからはギャンブルの話は聞かなかったし、真面目に仕事をしていると思っていた。オレグ、君の指導員にルークを選んだのは俺と署長の判断だ。ルークに新人を見てもらえば初心に帰れるのではないかと思ったのだ。それなのにこんな結果になってしまい、君には申し訳ないことをした。心から謝罪する」とジルベールは悲痛な顔をして言った。
病院へ到着し、オレグは礼を言って治療を受けたら署に戻ることを伝えたが、ジルベールは治療が終わるまで待っている。そして、家まで送るから今日と明日は休めと言った。オレグは申し出を断ったがジルベールは譲らなかった。仕方なくその申し出を承諾し、治療を受けた後に家に送ってもらった。明日また連絡する。もし体調が回復しないようなら、回復するまで休んで良いとジルベールは言った。電話には出られるようにしておいてくれと言い残してジルベールは去って行った。
次の日の朝、ジルベールから電話があった。体調はどうだ?と聞かれたので、今からでも働けますと軽い口調で言った。電話の先でジルベールがふっと笑ったように感じた。「今日までは休め、それとルークの家族のことだが、あいつには奥さんと子供がいたが、別居状態だったようだ。ここから遠く離れた奥さんの実家に今はいるそうだ。一応ルークのことは伝えたが、もう二度と連絡してこないでほしいと言われたよ」とジルベールは告げた。
「それと、地元ギャングの、いや一応あいつは金貸しか、あいつについては証拠が無いから逮捕はできないが、何名かでマークしている。俺もこのあと奴に会ってルークのことを聞いてみるつもりだ。明日、署に来たら俺のデスクに来てくれ」と言い、ジルベールは電話を切った。
署に行くと署内の刑事達の視線がオレグに集中した。中にはヒューと口笛を吹く者や敵意を含んだ目で見てくる者がいた。
オレグはジルベールの部屋の扉をノックした。「入れ」と声がしたので、扉を開ける。部屋の中にはジルベールと署長がいた。署長はオレグと握手すると本来はジルベールが座る椅子に腰を下ろし「オレグ、君には申し訳ないことをした。ジルベールからも聞いているだろうが、ルークの更生を信じていた。優秀な刑事だった。私とジルベール、そしてルークは年がそこまで離れていなくてね。同期のような付き合いだった。お互いの家にもよく行っていた。以前はあんな感じではなかった」と言い終えてから、オレグに言った「今日から君の指導員はジルベールが担当する。彼は署内で№1の刑事だ。彼から学ぶことは君のこれからのキャリアの役に立つだろう」署長は立ち上がり、オレグともう一度握手をして部屋を出て行った。
ジルベールと二人きりとなり、ジルベールは座れと言うジェスチャーでオレグを座らせた。「署長が今言ったとおりこれからは俺が指導員だ。とはいっても、指導終了日までそこまで長くはないがね。それで、どうだ?指導が終了しても俺と組まないか?相棒になってみないか?」とジルベールはオレグに告げた。
オレグからすれば願っても無いチャンスだ。ジルベールから学べることは非常に多いだろう。刑事としてのキャリアをスタートしたばかりのオレグにとってこれ以上に喜ばしいことはなかった。迷うこともなく「イエス」と答えていた。
オレグとジルベールはその日以来、常に行動を共にすることになった。寡黙で厳しい印象だったジルベールだが、署内では他の刑事達のフォローや職場を円滑に回すために冗談を言い、積極的にコミュニケーションをとっているように見えた。
ランチも二人で食べた。食事中もジルベールはオレグに仕事のノウハウを丁寧に説明した。特にジルベールが何度も口に出す言葉は「自分の本能を信じろ」だった。
「今の時代は刑事達が誤認逮捕や冤罪を恐れ、必要以上に対応が後手に回りがちだ。それに犯罪者もSNSで動画を撮って後から違法捜査だと警察にクレームを入れる奴らが多い。でもな、自分の本能を信じて飛び込んでいけ。お前がもし失敗しても署内全員でお前をフォローする。もちろん相棒である俺はお前のことを絶対に信じる。だから、臆病にはなるな」オレグはジルベールの言葉を心に刻んだ。
オレグとジルベールを含め総勢10名の刑事達が武装をして待機している。
彼らがいる場所はルークが金を受け取ったと思われる危険地域だった。ルークは逮捕された後の供述で、あの危険地域には地元のギャングだけでなく、様々な組織の人間が集まり、資金洗浄や取引を行っていたそうだ。ルークは金をもらう代わりに警察の情報を組織に流していたと話した。
これを受け、ジルベールは即座にチームを編成し、作戦を練った。作戦が決まり、署長の承諾が得られた翌日、10人のチームは武装して結構に備えた。ジルベールを先頭に隊列が組まれ、2名は車両に残り銃撃戦が始まれば応援を呼ぶ役割だ。オレグは隊列の真ん中で銃撃戦が始まれば被弾しにくい位置だ。「決行だ」ジルベールの言葉と同時に隊列は建物の中に入って行く。侵入した地上階は見通しがはっきりしている。中央に大きい階段があり、隊列は上に登っていく。階段の隅はほこりが貯まっているが中央には足跡が残っている。人の出入りがあったのは間違いない。しかも最近の跡もあるようだ。建物は二階までしかない。
二階は柱と壁で区切られた作りになっている。中央には広いスペースがあり、テーブルや椅子にソファが見られる。慎重に奥へ進みテーブルの上を確認する。もぬけの殻だ。「空振りだな」ジルベールが言う。机や椅子には使われていた跡があり、このスペースは掃除でもしていたのか綺麗に保たれていた。「机の上に何かをずっと置いていた跡があるな」机の上を見ると大小真四角の跡がある。何かの機材を置いていたのか。
「キャッシャーだろうな」ジルベールが言った。金を数える機械のことだろう。
「ここで金のやりとりをしていたことは間違いない。が。引き払われたあとか」
「金を燃やした痕跡があるな、燃えカスや残りから何か分かれば良いが。訳ありで世に出せない金を処分したのだろうな」
チームは建物の外に出た。これから鑑識を呼んで調査をしてもらうことになるが、ジルベールは組織に繋がる手掛かりは何も出ないさ、と呟いた。
オレグはジルベールの家に招かれた。ジルベールには妻がおり、子供はいなかった。
夫人はオレグを自分の息子のように可愛がってくれた。豪華なディナーを作りオレグをもてなすのだ。美味しい料理と酒を飲みながら、ジルベールと夫人の馴れ初めやジルベール刑事の華麗なる武勇伝を聞き、とても充実した時を過ごした。
ジルベールはオレグにも自分のことを語れと言われ、あまり楽しい話は出てきませんよと語り始めた。オレグは児童養護施設で育った。生まれてすぐに施設の前に捨てられていたそうで、親というものが良く分からないのです。子供の頃はよく本を読んでいました。施設には自分と同じ境遇の子がたくさんいましたし、施設やボランティアの方が良くしてくれました。たくさん遊んでもらったのを覚えています。意外かもしれませんが、毎日遊ぶのに忙しかったのです。自分よりも年下の子の面倒を見るのも好きでした。里親に引き取られる子や突然いなくなってしまう子もいました。実は自分も施設を抜け出したのです。14くらいの時でした。何か嫌なことがあったとかではないのですが、自分だけで何かをしたくなったのです。年齢を偽って書類が必要無い日雇い労働などでお金を稼ぎました。野宿をしたり、教会や知人の家に泊めてもらったりしました。ある日、施設にいた子と会ったのです。よく一緒に遊んでいたのですが、彼は突然施設を抜け出しました。どうやら悪い仲間に誘われてお金儲けをしていたようですが、トラブルに巻き込まれたらしく、ひどく憔悴していました。一緒に警察に行って保護してもらおうと言いましたが、警察が信用できなかったようで、数日後に彼は亡くなりました。何故かは分からないのですが、自分は彼が亡くなった時に警官になろうと思ったのです。あの時に彼が警察に頼ることができていれば、そんな風に思ったのかもしれません。
そして、こうして今に至るという訳です。偉大なジルベール刑事と共に働けること、光栄の極みです。と最後は冗談めかして話を締めくくった。
夫人は目に涙を浮かべていた。ジルベールもオレグを優しく見つめていた。
「すいません。変な空気になってしまいましたね。それにしても奥さん。この料理とお酒は最高ですよ。お腹がパンパンで爆発しそうです」
夫人は笑った。
夫人から「今日は泊まっていって」と言われ、一度は悪いと言いながら断ったが、ジルベールも「泊まっていけ。命令だ」というので一泊して、次の日はジルベールの車で一緒に署へ向かった。署へ向かう車内でジルベールが「いつでも家に来い。妻がお前を気に入ってしまったようだ。俺から妻を取るなよ」と言った。
オレグは笑った。
ジルベールが休みを取り、オレグは古株刑事のアランとパトロールをしていた。
「オレグ、ルークのことでジルベールに何か言われたか?」といきなり聞かれた。
「いえ、何も。何故です?」
「いや、お前が知っているか分からないが、あの二人は古くからの馴染みでさ、それこそ今のお前とジルベールのような関係だったのだよ」
「相棒だったということですか?」
「そう。ルークの指導員をしていたのがジルベールでさ、すぐに意気投合して相棒になっていたよ。お前はルークに良い感情を持てないだろうが、ルークは間違いなく優秀だった。ジルベールの教えを守り、たくさんの凶悪犯を逮捕してきた。今じゃ見る影もないが。今のようになるなんて誰も想像してなかったよ」
オレグは「そうですか」と蚊の鳴くような声で答えた。
ジルベールと組むようになり、検挙率は上がっていった。彼の情報網は驚くべきもので、容疑者がどこに隠れていようと即座に特定して逮捕できた。ホームレスや主婦、サラリーマンといった意外性のある人物からもジルベールは情報を得ていた。
ジルベール曰く、彼ら彼女らは情報提供者というより、アンテナのようなものだと言った。探偵や情報収集をメインにしている訳ではなく、日常での些細な変化を見逃さずに報告してくれというお願いをしているだけだと言う。そういうアンテナを張り巡らせておけば、事件が起こった時に現場周辺のアンテナの元を訪れ電波を拾うだけだと事も無げに言った。オレグはジルベールから学べることは無限にあると感じた。
「オレグ、お前には俺が引退した時の後任として基地局になってもらう」
「どういうことですか?」
「俺は今までアンテナには一人で会ってきた。何かあった時には俺一人で責任を負うのもそうだし、彼らの信用を得る為でもある。アンテナの電波を拾う基地局は一人で良いのだ。だが、俺はお前を彼らに合わせた。意味は分かるだろ?」
「・・・はい」としか返事が出来なかった
「おいおい、俺が早死にするみたいに思っているだろ?まだまだ俺は現役だ。そうやすやすとお前に任せてやるなんて思うなよ」冗談のようにジルベールは言った。
オレグも表情が和らぐ
仕事も順調で、週末にはジルベールの家で過ごすのが当たり前になってきたオレグの元に予期せぬ郵便物が届いた。差出人はルークであり、オレグに一度面会に来てほしいという内容だった。オレグは不思議に思った。何故、自分宛に?面会なら普通はジルベール宛ではないのか?ルークとはあの事件以来、全く関りが無かった。自分の指導員ではあったがプライベートの付き合いは無かったし、一カ月も一緒にはいなかった。それに、彼は自分のことを恨んでいるはずだ。彼を逮捕したのもそうだが、彼は最初から自分を毛嫌いしているように思えた。もう一度差出人と宛先を確認するが、やはりルークからオレグへの郵便だった。内容にも再度目を通す。面会の要望とは他に、この手紙のことは誰にも言わないこと。面会する気がないならこの手紙を燃やすかシュレッダーで確実に処分してほしいと書かれている。
オレグは小さく息を吐き、どうしたものかと思案した。
次の週末、ジルベールには予定があるので家には行かないことを伝えていた。
「妻が寂しがるな。いつも週末が近づくと俺にオレグを早く連れてこいと催促するのだぞ」とジルベールは笑いながら言った。「お前にも遂に女が出来たか。大事にしろよ」とジルベールは何故か嬉しそうに話す。
「違いますよ。急な予定が入りまして、奥様には宜しくお伝えください」
オレグは自分でも分からないがルークの面会に行くことにした。面会時間は一時間も無い。何を話すのか考えてみたが見当もつかない。面会が終わった後にジルベールの家へ行こうとも考えたが、もしルークと面会して罵詈雑言の内容を言われるだけだったら、その後にジルベールの家に行くのは止めておこうと思った。
変な空気をあの家へ持ち込みたくない。
久しぶりに面会室で会ったルークは記憶の中よりも健康で、かなり痩せた印象を持った。ルークもそれに気付いたのか「痩せたよ。酒もたばこも娯楽もない塀の中だ。筋トレするくらいしかやることがない。まあ、俺の場合は他の受刑者とは距離を置くように配慮されているのもあるがね」
ルークは刑事だった、受刑者の中にはルークに逮捕された者もいれば、警察だったということで命を狙われるには充分だった。
「面会に来てくれてありがとう。そして、すまない。お前を散々殴った」
「もう済んだことです。もしかして要件は今の謝罪ですか?」
「謝罪もそうだが、お前と話したかった。忙しいところ悪いけどな。来てくれるか不安だったが、来てくれて嬉しいよ。俺は話ができるのが今の内だけだからな」
オレグはルークの顔を見た。もうすでに自分には先が無いことを悟っているのだ。
オレグにはルークと亡くなった施設の友人が重なって見えた。自分をからかい、顔を殴っていた男がとても弱々しく見えた。この面会が終わった直後に殺されるかもしれないのだから。オレグには想像もできない恐怖に常に晒されているのだ。
「今はジルベールと組んでいるのか?」と聞かれ、オレグは我に帰った。
「はい。たくさんのことを学ばせてもらっています」
「そうか。彼は優秀だ。いや、優秀過ぎるのだ。彼に追いつこうとするほど遠くに感じたよ。ああ、聞いているかな?俺とジルベールが組んでいたこと」
「はい。聞きました。アランから」
「勤続年数だけが取り柄のおしゃべり野郎だな。長く署にいるだけあって色んな噂を話しまくっているだろ?」
「アランの前では重要なことは話さないように言われています」
「ははは、変わらないな。俺が署に入った時から言われていたよ」
少しの沈黙の後、ルークは真剣な表情になり「なあオレグ、お前は善い奴だ。俺はお前に嫉妬していた。お前にキツク当たった。全部おれの弱さが招いたことだ。本当にすまない。俺は最低なことをした」
「何故、自分なんかに嫉妬を?右も左も分からない新人ですよ」
「お前が署に来る前に署長とジルベールから新人の指導員になるよう頼まれた時に二人に言われたよ。今度来る新人は非常に優秀だから、しっかり指導しろと。お前も初心を思い出せと。あの時の俺にはその言葉が酷く残酷に聞こえた。もちろん二人はそんな意味で言った訳じゃない。俺に発破を掛けて真っ当な刑事に戻るように言ってくれていた。でも、あの頃の俺はおかしくなっていた。ギャンブルで抱えた借金で首が回らなくなっていた。妻と子供はとっくに俺に見切りをつけて出て行った。俺を捨てた妻と子供に二人が重なってしまった。俺はまた捨てられるのかと恐怖した。怒りが全身を支配した。だから、お前を傷つけた。」
オレグはなんと言えば良いか分からなかった。考えがまとまらない内に思い浮かべた言葉を発していた。「でも、あなたは優秀じゃないですか。署のみんなが言いますよ、あなたは優秀だったと」励ますつもりで言っていた。
「いや、俺は優秀なんかじゃない。優秀なのはジルベールだ。彼が自分の手柄を俺に回してくれた。そのおかげで表彰もされたし、給料も上がった。ボーナスもたくさんもらえた。その頃は家族の仲も良かった。俺のクソみたいな人生で一番幸せだった。俺が馬鹿だった。俺はジルベールの優秀さを忘れて自分の力だと思ってしまった。ジルベールよりも先に事件を解決しようと単独行動が増えた。そして、一人で動いた時はいつも失敗した。失敗した責任も全てジルベールが尻拭いをした。あいつ一人で全てが解決してしまう。俺は酒やギャンブルに逃げた。自分の無能さと向き合うのが恐かった。自分が特別であると信じたかった。自分が無能で特別ではないと確信した時にはギャングから金を借りてギャンブルをしていたよ」
オレグは何も言えなかった。ルークはもう一人の自分だ。まるで鏡のように。今の自分はルークが道を踏み外す前の状態と同じだ。考えてみればオレグ自身が事件を解決に導いたことなど一度もない。ジルベールの言葉通りに動き、忠犬のようにお利口に指示を守っていれば手柄が自分のものとなっていた。周囲はまたオレグが手柄を立てたと賞賛してくれる。まるで自分が解決したかのようにオレグは胸を張ってその賞賛を受け止めていた。もし、ジルベールの指示が無ければオレグは犯人を逮捕できたとは到底思えない。ジルベールと組んでいなければただの右も左も分からない木偶の坊だ。
「オレグ」と名前を呼ばれ目の前の男を見る。
「オレグ、気をしっかり持て。お前は大丈夫だ。お前は俺とは違う。お前は何かに逃げていない。自分とジルベールを比べることもないだろう。それが普通だ。当たり前なのだ。俺はそんな当たり前のことができなかった負け犬だ。お前にはそうなってほしくない。これからもジルベールと組んで働くなら、彼を信じろ。そして、彼に助けが必要な時がきたら必ずお前が助けろ」
長いようで短い面会時間が終わり、オレグは放心していた。
今日、ルークと会ったのは正解だった。ジルベールと組んでからは自分で考えて行動することを忘れていたように思う。これからもジルベールと組んで彼が引退する時、自分は第二のジルベールになるだけだ。それも第一のジルベールよりも遥かに無能で彼の残したシステムを使うだけの木偶になるだろう。
いや、しかし検挙率が上がり犯罪者が減ることで被害者も減るのだ。それに自分がこれから成長することを忘れなければ良いのだ。大丈夫だ。
変な思考を重ねて堂々巡りになりながら、いつの間にか家に着いていた。
ベッドに横たわり、ルークの言っていた言葉を思い出す「彼を信じろ」
「信じているさ」と呟いてオレグは眠りについた。
■ジルベール
ジルベールにとって自分以外の人間の思考回路はどこかショートしているのかと子供の頃から考えていた。親の言いつけを守っていれば温かい食事ができる。寝床もある。家族が仲良くいられる。
先生に駄目と言われたことはやらない。勉強をすれば先生の言ったことなのだからその通りに従う。そうすれば平穏な時を過ごせる。テストで良い点を取れば褒められ賞賛される。
これらのことは当たり前のことだ。言われなくても当たり前だ。
しかし、周囲の人間を見ているとジルベールの考える当たり前はどうやら違うようだ。親の言いつけを守らないから叱られた。食事を抜きにされた。一緒に寝るのがダメだと言われた。家族の仲が悪くなった。
先生の言うことを聞かなかったから怒られた。勉強は分からないからしない。テストで悪い点を取っても笑っている。
答えがあるのにみんなは何故できないのだろう?とジルベールは疑問に思っていた。自分達よりも遥かに長く生きていて力も強い存在であり、自分達を生かしてくれている親や先生が言うことはテストで言えば答えを教えてくれているのと同じだ。その通りにすれば良いのだ。なのに・・・
何度か周りの子に聞いたことがある。何故、親や先生の言うことを聞かないのか?と、当然ながらそんな質問に答えられる子供などいない。彼らは理屈で動いている訳ではない。ジルベールも何度か質問している内に理解した。どうやら言われた通りのことができない人間は自分とは違うようだ。ジルベールは子供ながらに関わる価値がある人間とそうでない人間の区切りをするようになった。
ジルベールは何をやらせてもすぐに理解して高水準な結果を出すと褒められることが多かった。ただし、ジルベール本人は理解しているというよりも言われたことをその通りにしているだけである。教科書に載っている内容が正しいか正しくないかは問題ではなく、親や先生が覚えなさいと言えばそうするだけである。
物質同士が合わさることで化学反応が起こるというのも物質の本質を理解している訳ではなく、ただそういうものだと記号的に記憶しているだけである。
ジルベールにとって意味というのは深く考えるべきものではなく、どちらかと言えば排除するべきものであった。いくつかの選択肢や理論がある場合には否定されないのであれば全てを学んだ。また、人間関係においてもジルベールは特異ながらも上手くやれていた。相手が何を欲しているのかをジルベールは見極めることができた。人は肯定されると嬉しくなる生物だ。それが当たり前だ。ジルベールは相手の変化に敏感だった。髪型や髪色が変わっていれば褒めた。美形と言われていれば褒めた。服装が似合っていれば褒めた。良い車に乗っていれば褒めた。たくさんお金を持っていれば褒めた。たくさん食べられることを褒めた。親が元気なことすら褒めた。
人は褒められることが好きだ。賞賛されることが好きなのだ。
ジルベールは人間関係をある程度は操ることができると学んだ。これは誰かに教わった訳ではない。彼自身が独学で学んだものだ。
操ると言っても人形のように扱う訳ではなく、誰かに何かをお願いして手柄を与えてやれば、その誰かは他の誰かに賞賛され、自信と喜びを得られる。
逆に言えば手柄を与えず誰からも賞賛されないようにすれば、自信は失われ不幸を呼ぶだろう。
これらのことをジルベールは何度か実験してみた。実験を検証した結果。
手柄を与えることは続け、手柄を与えないことは止めた。
人は基本的にプラスの思考に向かうのが望ましい。それが当たり前だという結論に達した。
学校はジルベールには天国のような場所だった。たくさんの実験動物が溢れており、自分は彼らを管理する飼育員だと思っていた。彼らは自分が想定したとおりに動く。ジルベールの考えた行動パターンに彼らはピタリとハマる。それが快感だった。みんなが笑顔で幸せになれる環境を自分は作れる。誰も不幸にならない楽園を自分が作れるのだ。
ジルベールは自分と似た存在を欲するようになっていた。自分の本質を語れるような存在がいれば良いのにと常々思うようになった。だが、そんな存在はいなかった。自分と似ていると感じた人を見つけ、コミュニケーションを取り、少しずつ探りをいれていく。しかし、すぐに気付いてしまう。自分とは異なる存在であると。
結局、大人となり社会人となってもジルベールは自身と似た存在を見つけることは叶わなかった。
ジルベールは人生で一番悩んだと言っても過言ではない事態に直面した。
仕事についてだ。自分は何をしたいのか?何の職業が一番合っているのか?
親や先生は自分がどんな職業にも就けるし、何をしても成功するだろうと言った。
卒業まで一年ほどの時間があった。他の生徒たちは最後の一年を文字通り死ぬほど満喫しようとパーティー三昧だ。その間、ジルベールは部屋に籠り自分の将来を考えていた。仕事の選択。これは今までの彼の人生の中で最も難しい悩みであった。まさか自分にもこんなに悩むことがあるのかと彼は笑い、落ち込んだ。
この難題には正解が無い。不正解すらも無い。当たり前が存在しない。
今まで生きてきた価値観が通用しない。
いくつもの選択肢を考える。
学校の教師はどうだろう?自分が先生の立場となり生徒たちに手柄を与えるのだ。
弁護士はどうだろう?絶対的なルールの基に正義を行うのだ。
政界への道はどうだろう?自分が先導してルールを作り、人を導くのだ。
セールスマンはどうだろう?メディアは?インフラ?まさかの軍隊?
ジルベールが部屋に籠り考えに耽っているのを心配した両親が担当の先生と共に将来の話をする場を設けた。
彼の成績ならどこでも通用します。あとは彼の選択次第ですと先生は言う。
両親も自分達の息子が選ぶ道を信じるというスタンスのことを言った。
ジルベールは思った。彼らにこの道を行けと言われれば自分は何の迷いもなくその道を行くだろうと。しかし、あくまでも彼らは自分で選択した道を選べと言う。
何の成果も得られない時間が過ぎ、解散しようという流れになった時、先生からいくつかの資料やチラシをもらった。何かの参考になれば良いねと言われた。
家に帰りまた部屋に籠った。先生がくれた資料やチラシを見る。一般的にあまり人気の無い職業のものばかりだというのでジルベールには紹介していなかったそうだが、彼はこの中のいずれかの職業に決めようと思った。先生が自分に与えてくれたこの中のものから選ぶのだ。
全ての資料とチラシに目を通し、彼は第一候補の警察になることを決めた。
両親と先生からは自分のことを誇りに思うと言われた。正義感と責任感、リーダーシップのある自分に合っていると褒められた。自分はどうやら正解を引き当てたようだ。とても嬉しかった。今までの人生で最も幸福感で満たされた時だ。
警察官となってから思ったことは、自分は本当にこの仕事を選んで良かったということだ。警察に入ることを決めた瞬間からジルベールは身体を鍛え、法律を学び、警察署を見に行き、パトカーを追いかけ、警察官の動きを観察することにした。
少しでも早く自分の地位を確立したかった。早く自分の考えたマニュアルや行動パターンを試したかった。早く誰かに手柄を与えたくてたまらなかった。
ジルベールは異例の速さで手柄を立てた。ジルベールは解決に時間が掛りそうな複雑な事件は後回しにし、すぐに手柄を立てられる小さい事件の解決を最優先に動いた。ジルベールは万引きが多い店やスピード違反が多い場所を知っていた。
どんなに小さいことでも構わない。着実に検挙率を上げていった。
その頑張りが報われたのは予想よりも早かった。
後に署長となる男からジルベールは呼ばれた。
「刑事になり俺と組め」その男は自分にそう言った。
その男はグレンと名乗った。
ジルベールは知っていた。このグレンという男は署内で知らない者はいない。
数々の手柄を立て、署内の入り口の目立つ所に彼の賞状やメダルなどが飾られている。カリスマ性があり、嫌でも目に付く。署内№1のエースだ。
彼は言った。「お前は非常に優秀だ。目の付け所が他の奴らとは違う。俺も入りたては小さな事件を解決しまくった。それこそ、事件をでっちあげたりもしたよ」と男は笑いながら語る。「それで?刑事になって俺と組むか?損はさせないと約束するぞ」と握手を求めてくる。ジルベールは迷いなく頷いて握手した。
刑事になりグレンと行動を共にするようになってから、署内の検挙率は更に上がった。最強のコンビだと言われるまで時間は掛からなかった。グレンはジルベールを家に招待した。一緒に住んでも良いぞとすら言ってきた。グレンの家は不釣り合いなほど豪華なものだった。どうやったらこんな家に住めるのか?と聞いたことがあるが、手柄をたくさん立ててボーナスをもらうのさ、と彼は言った。
彼には妻と息子がいた。息子はジルベールによく懐き、妻もジルベールを歓迎した。
まさしく理想の家庭だった。「週末は俺の家に来い。お偉方も来るからお前を紹介してやる。お前は俺の相棒だ。俺の相棒に損はさせない」とグレンは言った。
週末、グレンの家ではパーティーが開かれ、参加した面々は見たことのある顔ぶれだった。ジルベールはグレンに紹介され、誰とも分からない大勢と握手を交わした。だが、大勢の中でハッとする顔ぶれがあった。この男は、たしか地元ギャングの幹部だ。ギャングではなく金貸しと呼ばれているが、署内の人間はみな彼らをギャングと呼び、逮捕できる証拠を探している。黒い噂の陰にはいつも彼らがいたのだ。
彼らはボスが優秀なのか尻尾を掴ませなかった。証拠が出ることも無く、逮捕者が出ることも無かった。
グレンはジルベールを彼らの元へも案内して挨拶と握手を交わさせた。
幹部の男はビンゴと名乗った。偽名だろうが。のちにビンゴは組織のトップに立つ。
「疲れたか?」とグレンは聞いてきた。
「人に酔ったよ。こんなに豪華なパーティーは初めてだ」
「そうか。だが、今のうちに慣れておけ。これが当たり前になる」
ジルベールはグレンを見据えた。グレンもジルベールを見ている。
「何か言いたいことがあるのか?」
「あなたの最終目的は?」
「行けるところまでさ」
「名声ですか?それとも富?」
「両方だな。いや、実際には違う。多分だが、お前と同じだよ」
グレンは意味ありげにジルベールの奥底に眠る本質を見るように言った。
しばらくの沈黙があり、グレンが言った。
「別荘がある」
「はい?」
「ここから大分離れたところに別荘がある。俺はそこには家族しか連れて行ったことがない。次の週末、そこにお前を連れて行く。俺とお前の二人だけで。腹を割って話そう。何を話しても良い。隠し事はなしだ」
次の週末、グレンの車の中にジルベールはいた。彼が言っていた別荘へ向かう。
どんどん人里離れた方に車は向かう。車に揺られて四時間ほどだろうか。目的地に着いたようだ。近くにはコンビニはもちろん建物が見当たらない。
別荘は木造の立派なものだった。車から荷物を運びこむ。男二人だけにしてはかなりの荷物だ。「うまい酒に、うまい食い物だよ。楽しみにしていろ」とグレンは楽しそうだ。
つまみと酒を楽しみながらコンビを組んでからのことを語った。これまでのグレンのことも聞いた。彼の父親も刑事で家にはほとんどいなかったそうだ。ほとんどの時間を母親と過ごしたそうだ。グレンは子供の頃かなりやんちゃな性格だったようだ。喧嘩が好きでよく母親や先生に叱られたそうだ。だが、喧嘩する相手のほとんどは年上や自分よりも体格が良い強そうな相手を選んでいたそうだ。
「弱い者いじめをする奴はクズだからな。早く生まれただけで偉そうにする奴や言葉で相手を考えなしに傷つける奴らを相手にする。理由が無いならやらない。母親には悪いと思ったが、見て見ぬふりができなくてね。身体が動いてしまう。そういう奴らに限ってやられたら親に言うのだ。突然殴られたとか何もしていないのに傷つけられたと。そいつらの親も親で自分の子供は悪いことはしないと話も聞かない。俺の方が大勢を相手にしてボコボコにされているのに、悪者は俺一人だ」
グレンは酒を流し込む。
「でもな、さすがに俺も反省したよ、母親にもこれ以上迷惑掛けたくなかったし、このやり方じゃ通用しないと。それに気付くまでに何度ボロボロになったか分からないがね。やり方を変えた。どうしたと思う?」グレンはジルベールを見た。
「さあ、分かりません。考えられるとすれば、無視をする。彼らのことを見ないようにするとか?」と返した。グレンは微笑しながらジルベールに再度聞いた。
「お前ならどうする?」
「自分ならですか?」
「そうだ。お前が子供の頃にだってそういう奴らはいたはずだ。お前はどうしていた?上手くやり過ごしたか?それとも奴らの側にいたか?俺と同様に戦ったか?」
「自分は・・・」ジルベールは子供の頃を思い出していた。自分はどうしていただろう?そうだ。思い出した。自分にとって彼らは実験動物だった。自分は飼育員だった。彼らを自分の考えた行動パターンに落とし込み、見事にハマると嬉しかった。彼らには褒美を与え、褒め、みんなを幸せにしていた。みんなが笑顔だった。
そうだ。自分は最高の飼育員をしていた。
思い出したのは良いが、目の前のグレンへどう返事をすべきか考えた。
自分は最高の飼育員でした。などと言えば完全に頭のおかしい奴だ。
グレンは笑いながら言った「おい、隠し事はなしだと言っただろ?頭に浮かんだそのままを言えよ。ここには俺とお前しかいない。誰かを殺したか?とんでもない事故でも起こしたか?隠し子がいる?本当は大統領になりたいとか?なあ、何を偽ることがある?俺とお前は一心同体だ。俺を信用できないか?俺はお前を信用している。じゃないと背中を任せられないだろ?俺はお前を、お前は俺を守って来たじゃないか?凶悪犯を逮捕する時、武装した奴らに向かって行く時にお前は俺を信用していなかったか?」
ジルベールは自分の内面をさらけ出して全てを話した。
子供の頃から周りとは一線を引いていた。相手を意のままに操るのに喜びを覚えた。自分のマニュアルや行動パターンに相手を落とし込むことで幸せを得られること。自分が最高の飼育員だったこと。警察に入った経緯や入ってからのこと。
そして、パーティーの時にビンゴと名乗ったマフィアの男とグレンの関係、豪華な家に住めている理由、パーティーの面々の正体など、グレンに聞きたかったことも包み隠さず尋ねた。
グレンは笑いながら拍手しながらジルベールを称賛した。
「お前は俺の見込んだ通り、最高の男だ。ちょっと待っていろ。これから長くなるからな、最高のもてなしを準備する」と言ってキッチンの方へ行き、グレン自ら料理をはじめた。「手伝おうか?」と聞くが、「お前が主役だ。くつろいで待っていてくれ」と言うのでソファに座り直した。
つまみは食べずにチビチビと酒を飲んでいると、旨そうな匂いと共にグレンが皿を運んできた。さすがに手伝うと言って皿を何往復もして運んだ。
男二人にはあまりにも多すぎる量のごちそうが大きいテーブルを埋め尽くすように並べられた。料理の他にもグレンが用意した最高級の酒が次から次に出てきた。
「さあ、最高の夜に乾杯だ」と言って何度目になるか分からない乾杯をした。
料理はどれも本当に美味しかった。とても食べきれる量ではなかったが、あまりの美味しさに食べ過ぎた。全体の半分も食べられなかっただろう。しかし、グレンは明日に残しておけるから大丈夫だと言って、ラップを掛けながら片づけをした。
「本当に最高でした。食べ過ぎて、見て下さい。この腹を、爆発しそうですよ」と言うと、グレンは大笑いした。
「さて、話の続きだ。お前は俺に全てを話してくれた。次は俺の番だ。長くなるから覚悟しろ。まず、あの家についてだが、俺は金を払っていない。住まわせてもらっているというのが正解だ。誰が?今の署長とその上のお偉方、そしてギャングのボスだ。警察とギャングは裏で繋がっている。よくある話だ。俺は選ばれた。人柱と呼んでも良いし、無敵の人と呼んでも良い。からくりはこうだ。ビンゴのいるギャングは銀行強盗や他のギャングやマフィアから流れてきた金を集めて資金洗浄をメインにやっている。国外にいる仲間や取引先を通じて金を流して綺麗にして戻す。綺麗な金が戻って来た奴らから安くは無い手数料を取る。さらに頭が良いのは金が使えるようになって大喜びして財布の紐が緩みまくっている連中に自分達が仕切っている賭場や女達を紹介する。どうだ。とんでもないビジネスプランだろ。ビンゴ達にしてみれば金が向こうから勝手にやってくるのだ。最高だよ。
だが、警察だって甘くはない。金が運び込まれる時を狙って一斉検挙だよ。普通ならこれで終わりだ。だがな、事はそう単純じゃなかった。パーティーにいた顔ぶれを憶えているか?あいつらは資金洗浄や賭場、女絡みで甘い汁を吸っている連中だ。マフィアやギャングではなく、一市民として、公的な仕事をしている奴らだ。表向きはクリーンだが、腹の中はタールだよ。漆黒さ。奴らは権力や根回しをして組織的な犯罪ではなく、地元マフィアのボスが個人的にやったことで、最小限の逮捕者を出して終わらせた。関係者を全員逮捕ということになれば自分達も逮捕されるし、組織が滅べば甘い汁を吸えなくなるからな。こうして当時のボスは逮捕され、近々ビンゴが正式にボスに就任することになるわけだ」グレンは話疲れたのか酒を飲み、ふう、と息を吐いて続けた。
「さて、お前の質問にこれでほとんど答えたかな?これが真相だ。ああ、いや、俺が何故全てを知っているかを話してないな。俺が署に配属された時、署の雰囲気は最悪だった。給料が低いのに危険な職種だ。なり手がいないから常に人手不足。家にも帰れずモチベーションと検挙率は最底辺。家庭を持つなんて夢のまた夢。まともにベッドの上で死ねると思うのはファンタジーやSFの世界だったよ。
それほどに酷かった。俺の時には指導員なんて制度は忘れ去られていた。右も左も分からない新人を散々好きに使ってポイさ。誰がやるよ?そんな仕事。俺は配属されてから一週間も経たないうちにブチギレ。署内で先輩刑事達を相手に大乱闘さ。もちろん停職処分。正直そのままクビだろうと思っていた。それがな、流れが変わったのさ。停職中に電話がきた。すぐに署に来いと。停職を解くって言うのだ。
署で待っていたのは署長と知らない男が二人立っていた。一人が前に出て握手を求めて来た。その人が新署長だと知ったのは後になってからだ。もう一人はこの署のベテラン刑事だった。彼はいつも一人で捜査をしている一匹狼の刑事だ。署にはほとんどおらず、昼夜かまわずの捜査でこの署の検挙率は彼が支えていると言って良い。実はこの刑事はお前も知っている奴だ。誰だと思う?アランだ。びっくりしただろ?今じゃ噂話が大好きなホラ吹きジジイだの言われているが、あの姿はフェイクだよ。アランはとても賢く鋭い。そして流れを読むのが天才的なのさ。
新署長は俺とアランにコンビを組むように命じた。そして、この署を変えると言って改革していった。汚職刑事達は逮捕し、署に寝泊まりしている刑事達を家に帰らせた。給料についても経費の見直しや汚職刑事達が辞めた分で補填し、俺とアランのコンビが活躍するようになると予算も増えて新しく人を雇うこともできるようになった。署は生まれ変わったよ。人に余裕ができてくると忘れられていた指導員制度を復活させた。新人教育をしっかり行い、人が辞めない組織作りと質の向上を両立させた。全てが上手くいっていた。そんなある日、署長に俺とアランは呼ばれた。何か大きな事件を任されるのかと期待に胸を膨らませた。だが、俺の期待は外れた。署長は俺とアランを自宅に招いただけだった。アランは真っ先に断りを入れた。そして俺に目配せして一緒に部屋を出ようとした。今思えばここが運命の分かれ道だった。おれは部屋に残った。署長の家に行くことにした。俺はキャリアを求めたのだ。アランは優秀だった、いや、優秀過ぎた。目の付け所や頭の出来が違った。あまりにも遠い存在だった。俺はアランのおこぼれを頂戴していただけだ。アランは何も言わずに自分の手柄を俺に譲った。署長の家に行った時の感想はお前と同じさ。そう。あの家だ。今俺が住んでいる家。以前は当時の署長が住んでいた。
あとはお前が経験したのと一緒さ。パーティーに呼ばれ大勢と挨拶と握手を交わした。そして署長に別荘に誘われ、全てを話された俺は署長とこのシステムを守る存在となった。どうして署を生まれ変わらせたのかを聞いたよ。あの時は署が荒れすぎていて警察として機能していなかった。国外や近隣からのマフィアやギャングが入って来てやりたい放題さ。それに怒った地元ギャングのボスとお偉方がコネを使って自分達と繋がりのある署長を派遣したのさ。これが真相だ」
ジルベールはあまりの話の内容に動悸が収まらなかった。
身体が震えている。とんでもないことを聞いてしまったと頭を抱える。
グレンがジルベールの横に座り優しく言う。
「ジルベール。大丈夫だ。安心しろ。俺とお前は完全に守られている。俺達に危害が及ぶことは絶対に無い。俺達は二人で一つだ。俺がお前を絶対に守る。信じろ。だからお前にも俺を信じてほしい。誰も死なないし、傷つかない。だから頼む。俺達でこのシステムを守り通していくと誓ってくれ」
その後、グレンはとんとん拍子に出世していき、ついには署長の椅子に座った。
ジルベールにも昇進や栄転の話がでたが、グレンは断った。このシステムを守る為には現場を統括してまとめられる者の存在が必要不可欠だからだ。グレンは一人になったジルベールに早く新しい相棒を見つけるように言った。自分達が信頼できる新しいパートナーを探さなければならない。あのとんでもない秘密を共有できる者を。しばらくはジルベールだけが現場で動くこととなった。あんな秘密を共有できて信頼できる者がそう簡単に現れる訳がないのだ。
どのくらい経った頃か、署にルークという新人が配属されて来た。ジルベールは自分から署長にルークの指導員を買って出た。現状の職員の中に自分達と秘密を共有できる者がいなかったからだ。署長も了承した。
ジルベールから見てもルークは優秀だった。度胸はあるし、目の付け所が良い。自分が少しのフォローを入れればルークはたちまち犯人を逮捕していった。指導員が終わってからも自分と組まないか?と提案するとルークは迷いなく快諾した。
ジルベールはルークを引き入れようと考えた。だが、焦りは禁物だ。慎重にルークと言う存在を見極めなければならない。それに懸念点もある。彼には家族がいる、子供もまだ小さい。危ないことに巻き込みたくない思いがあったし、一番気になっていることがルークはギャンブル好きで借金もあるという噂だ。もし噂が本当なら間違いなく候補からは外れる。何かにだらしない奴に任せられることではない。
結果として噂は本当だった。署内で現金のやりとりをするルークをジルベールは見てしまった。二重の意味でジルベールは落胆した。あんなに面倒を見てやったのに、家族からも愛想をつかされているというのも聞いていた。候補からルークは完全に外れた。ジルベールは少しほっとした。引き込まずに済むならその方が良い。
ルークは優秀な刑事だ。一刑事として鍛え直そうとジルベールは誓った。
ルークをセラピーに通わせた。もう二度とギャンブルをしないと誓わせた。
セラピーを終えたルークを署長とジルベールは迎え入れた。彼の家族はもう彼との縁を切ったようである。しばらくの間はジルベールの監視のもとルークは現場に出ていた。勘も取り戻してきているし、相変わらず目の付け所が良い。やはり優秀なのだ。一人でも大丈夫だろうとジルベールは署長に報告した。
しばらくの平穏が訪れたのち、署長とジルベールに二つのニュースがあった。
ひとつはルークがまたギャンブルに手を出しており、しかもギャングに金を借りているらしいという話。もうひとつは署に優秀な新人が配属されるという話だ。
「どちらも良いニュースならどれほど良かったか」グレンが嘆く。
「ルークには最後通告を出しましょう。そして噂の新人の指導員に任命してください。あいつが立ち直る最後のチャンスです」とジルベールは言った。
■オレグ
しばらく落ち着いた日々が続いたある日。
ルークからまた手紙が届いた。
大体の内容は前回と同じだが、決定的に違うのは面会日と時間が指定されていた。
今回は週末ではなく平日だ。
ジルベールに休みの許可をもらった。
「仲人役は任せろよ」と彼は言った。
手紙に書かれた日時に訪れると意外な人物がいた。
アランだ。
何故、彼が?
彼もルークに呼ばれたのか?
アランはこちらに気づいて「よう、署内の人気者」と言った。
挨拶を返して彼の隣に座る。
しばらくしてルークが姿を現した。だが、何かおかしい。身体が斜めに傾いているような気がするし、顔はなんだか苦しそうだ。
「悪いね。お二人さん。お忙しい中」とルークは軽い感じで話すが、喋る度に苦しそうにしている。
「左の脇腹か」アランが突然言葉を発した。
「ご名答。さすが元№1刑事」とルークも返す。
「いよいよなのか」とアランが言う。
「ああ、今だってこの世にいるのが奇跡だよ」
オレグは状況が理解できていなかった。
「ルークは左の脇腹を刺された。今回はたまたま助かったが、次は無いってことだ」
アランは冷静にそう言った。
「かなりの出血だったらしい。俺は早々に気絶しちまったが、しばらくは寝たきり。大分良くなったから、またこのパラダイスに戻って来たって訳だ」
ルークは終始軽い感じで話しているが、目には涙が貯まっている。
「おい、勘違いはするなよ。オレグ。お前が俺を逮捕してこのパラダイスに連れて来てくれたのは全部俺の責任だ。俺は当然の報いを受けているだけだ。だからお前は何も気にしなくて良い。目の前の馬鹿を見て。自分はこうはならないと誓うのだ」
オレグは何も言えなかった。
「おっと、時間も命も限られているから、今日は全部話すぜ。もう怖いものなんてないからな。アラン。もし俺の説明に足りないところがあれば補足してくれ」
アランは黙って目を閉じて頷いた。
ルークは署に来てからのこと、ジルベールと組んでからのこと、そして署長とジルベールが隠しているのであろう秘密についてオレグに話した。
「こんなところか。俺は詳細までは調べられなかったが、大体の説明には筋が通っている筈だ。どうだ?アラン」
「やっぱり優秀じゃないか」とアランは破顔して笑った。
ルークは一通り喋り終わると、ヒューヒューと息をし始めた。
顔はかなり白くなっている。アランが看守を呼び面会は終わった。
去り際にルークは「あとはアランに聞け」と言った。
二人で刑務所を出た後、近くのレストランに入った。
オレグはしばらく茫然としていることしかできなかった。
「最近の若い奴らは打たれ弱いっていうのは本当だな」とアランは自分が頼んだ特大のハンバーグを次々に口に運びながら言った。
「ルークの話は本当ですか?」
「あれが嘘を言っているという結論を出すなら刑事を辞めろ」
「でも、信じられません。そんな・・・」
「そうそう、俺は今日付けで刑事を辞めることになったからよ」とアランはなんてこともないように言った。
「はい?」
「だから、今日が俺の仕事納めだって。最近の奴は耳まで悪いのか?」
「頭がおかしくもなりますよ。急に色んな話をされて混乱しているのに、あなたまでいきなり辞めるなんて話をするのだから」オレグの声に周囲の客が驚いた。
「最近の若い奴らはキレやすいっていうのも本当だな」
「俺は・・・どうすればいいんですか?」
「俺はお前じゃない。自分で決めろ」
「分からないですよ。自分に何ができるっていうのですか・・・」
「何もしないというのもひとつだ。俺のような臆病者になりたいなら」
「え?」
「お前は知らないだろうが、これでも昔は署内№1の凄腕刑事だぞ。署内のことは何でもお見通しさ。署長もジルベールも俺のことは煙たがっていたが、俺はあの二人のことは見ないようにしてきた。干渉しないと決めた。今日な、辞表を出しに行った時に署長室にはジルベールもいたよ。あの二人の顔を最後に見ることになるとは。最悪だったぜ。最後に俺が何かを言い出すかもしれないと冷や冷やしていたのだ。全く最近の・・・。いや、あいつらは最近の奴らじゃないか。もうジジイだ」
オレグは目の前の老兵を見ていた。
「そんな捨てられた子犬のような目で見るな。いいか、よく聞け。お前が臆病者になるか、ドン・キホーテのようになるかは知ったことではない。だが、もしジルベールを最後まで信じるなら、絶対に信じる覚悟があるなら、奴の息子の墓を調べろ」
オレグはレンタカーを借りて目的地に向けて走っていた。
ジルベールには息子がいた。夫人が自分を本当の息子のように可愛がってくれたことを思い出していた。
人里離れた丘の上の墓地にその名はあった。
「アントニオ・ジルベール」
以前、ジルベールが珍しく休みを取り、アランと組んだ日。それがアントニオの命日だった。まるで何かに導かれるかのようにオレグは覚悟を決めた。
■ジルベール
署長から大至急部屋に来るように呼ばれた。
あんなに焦るグレンの声聞いたのはいつぶりだろうか?
部屋へ入るとグレンは要件を伝えた。
これからアランが辞表を出しに来るという。
ついにこの時が来たかと、二人は顔を見合わせた。
アランが優秀なのは知っていた。だが、彼は真相を知っているようなのにずっと沈黙を守ってきた。決定的な証拠が無いからかもしれないが、見て見ぬ振りをしてきたのだ。それが、このタイミングで辞表を出すということは、まさか・・・という思いが二人にはあった。少ししてアランが部屋に入って来る。二人でいるのは逆効果だったかと思ったが、アランは気にせずに署長へ辞表を出した。
部屋を出る前にアランは「ルークが刑務所で刺されたらしい。このままじゃあいつは更生するチャンスも家族に会うこともできなくなる。あいつは優秀だった。馬鹿な奴だが、俺はお利口さんよりも馬鹿な奴が好きだ」と言って、敬礼して部屋を出た。彼の最大限の譲歩であり抵抗だろう。すぐにジルベールはルークを安全な刑務所へ移す手配をした。
ジルベールは自分の携帯の鳴る音で目が覚めた。
誰だ。こんな時間に。
発信者はオレグだった。
■オレグとジルベール
夜の埠頭に二台の車が止まっていた。
車の近くには二人の男がおり、一人は若い男でもう一人は若い男よりも倍近くは年が離れている男だ。年上の男は若い男に対して銃を向けている。銃を向ける男の顔は銃を突きつけているにも関わらず、非常に苦しそうだ。まるで銃を突きつけられているのは自分かのように、その顔は苦悶で歪んでいた。若い男の方は銃を突きつけられながらも恐怖は見られない。まるでこの状況を受け入れているかのように表情は穏やかに目の前の男を見据えている。
「オレグ、それを渡してくれ。何も見なかったことにするのだ。全て忘れろ。そうすれば君のキャリアは素晴らしいものになる」ジルベールがオレグに向けて懇願するように言う。オレグの手にはUSBが握られている。
「頼む。オレグ。俺は君を巻き込むつもりはなかった。信じてくれ。君は・・・
君は・・・」最後の方は言葉にならなかった。
「アントニオに重なって見えていましたか?」
ハッとジルベールの目が見開かれ、呼吸が荒くなる。
「オレグ・・・君は君だ。だが、たしかに俺も妻も息子が生きていたら、君のような素晴らしい青年になっていただろうと思っていた・・・」
オレグは全てを受け入れるようにジルベールを慈愛に満ちた目で見ている。
どのくらいの時間が経っただろうか。
遠くからさらに二台の車がこちらに向かってくる。
ジルベールの身体はひどく震えていた。
それぞれの車から一人出て来た。
署長のグレンと地元ギャングのボスであるビンゴだ。
グレンがオレグに対して言う「オレグ。君は素晴らしい刑事だ。今日のことは忘れよう。君が望むなら希望の部署に栄転することも可能だ。もちろん引き続きジルベールと組んでキャリアを積むのも良い。だから、オレグ。頼む。私は同じ刑事に危害を加えたくは無い。私は署をより良くすることを目的にしている。君達現場の刑事が安心して働ける場所を作りたいのだ。嘘じゃない」
ビンゴは興味なさそうにタバコを吸っている。
オレグは三人の男を見渡して告げる。
「このUSBを俺は朝になったら、しかるべきところに届け出ます。自分を止めるなら今しかありません。撃つならどうぞ。それであなた達のシステムは永遠に守られるのでしょう?」
ビンゴは腰から銃を抜いてオレグの方を見ている。
オレグはジルベールの目を見据えた。そして、彼にだけ聞こえるように話した。
「あなたと組めたことを光栄に思います。あなたは素晴らしい刑事です。あなたが教えてくれたことを忘れることはありません」そう言ってジルベールに向かってオレグは敬礼した。
そして、ジルベールに背を向けて一歩、また一歩と車に向けて歩き出す。
いつの間にかグレンも銃を手に持ち、オレグを狙っていた。
ビンゴもいつ撃ってもおかしくない状況だ。
ビンゴがジルベールに叫ぶ「撃たないなら俺が撃つぞ。早くやれよ」
グレンもジルベールに目で撃てと言っていた。
ジルベールにはオレグがスローモーションのように自分から離れていくのが見えていた。
横目にはもうトリガーに指が掛かっているビンゴの姿と、動くことができない自分の名を叫ぶ以前の相棒がいた。
ジルベールの脳内には走馬灯のように子供の頃から現在に至るまでの事が思い出されていた。その中には息子の姿はもちろん、オレグと自分と妻の三人で過ごした記憶もあった。
ジルベールが絶叫すると同時に銃声が夜の埠頭に響いた。
「オレグとジルベール」 @sasorizanotatudoshi
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