怪盗

珠洲泉帆

怪盗

 計画は大詰めに近づいていた。今、マリアはアンナと一緒に屋敷の最上階にある書斎にいる。そこで息を詰めて深夜の十二時を待っている。アンナの表情は硬く張りつめており、緊張していることがありありとわかる。二人の座っているテーブルには小さな宝石箱がひとつ置かれている。先日、アンナが所有しているその宝石を、ちょうど十二時きっかりに盗むという予告状が届いた。そこで、怪盗がどこから来てもいいように、二人で見張っているのだ。

 実は、予告状を出したのは他ならぬマリアだった。彼女は一流の美術品には目がない。アンナの持つ素晴らしいサファイアもそのひとつ。「海の女王」と呼ばれるその宝石のため、半年以上も前から準備をしてきた。アンナと親しくなり、充分に信用させる。機を見計らって予告状を出す。アンナが慌てたところで、わたしが一緒に見張るからと申し出る——あとは、アンナの気を引いた隙に、箱から素早く宝石をちょうだいするだけ。そうと気づかれないよう、マリアはひとつ深呼吸した。ここでしくじってはならない。すべてが水の泡にならないよう、細心の注意をはらわなくては。

 二人は黙ってそのときを待っていた。時計の針の音だけが大きく響く。やがて、長針と短針が文字盤の真上で重なったとき、アンナが大きく息をついた。

「時間だわ」

「そうね」

「宝石は、まだここにちゃんとある」アンナは箱を開けた。強い存在感を放つ「海の女王」にマリアの視線が吸い寄せられる。「さすがの怪盗も、二人の目があっては手出しできなかったようね」

 アンナは笑顔になった。重くのしかかっていた肩の荷が下りたようで、緊張がすっかりほぐれている。よし、今だ。マリアはポケットからこっそりあるものを取り出した。オレンジ色のスーパーボールだ。そっと床に落とすと、こと、こと、と音を立てながら跳ねて転がっていく。アンナが「なあに?」と床をのぞいた、今、今だ!

 マリアは開かれた箱の中から正確に、そしてさっと「海の女王」を抜き取った。それをポケットに入れ、箱の中にはよくできたレプリカを置く。そして何食わぬ顔で「どうしたの?」と尋ねる。箱の位置はアンナが開けたときから一ミリも動いていない。プロのなせる早業だ。マリアは得意満面になるのを必死におさえた。

 思えば、ここまで長かった。アンナと親しくなろうとしているときは、このときが待ち遠しくてしかたなかった。しかしアンナは用心深く、警戒を解くのにひどく苦労した。友として絶対の信頼を勝ち得た今、マリアに怖いものは何もない。マリアもまた、肩の荷が下りた気分で椅子に寄りかかった。もうアンナには用はない。もらうものはもらったし、どこかへ姿をくらませて……。

 マリアの胸がちくりと痛んだ。マリアは心の中でため息をついた。この計画の唯一の障害といえば、この思い。そう、距離を縮めていくうちに、マリアはアンナのそばにいたいと思うようになってしまった。アンナの赤色がかった金髪や、よく動く青い瞳や、笑ったときに現れるえくぼ。そういったものの一つ一つが愛おしくてたまらない。姿を消すなんてことはせず、友人としてそばにい続けようか。いや、いっそ唇だけ奪って、未練なくどこかへ去ろうか。ターゲットに恋をするなんて、怪盗として言語道断。しかしマリアは自分に言い訳をする。好きになっちゃったものはしょうがないじゃない。

 アンナは転がっていたスーパーボールを拾い上げ、宝石箱を手元に引き寄せていた。「海の女王」を——そのレプリカを——てのひらにのせ、大切そうに眺めている。

 突然、アンナが言った。

「これ、複製だわ」

「え?」

 時が止まった。マリアはぽかんとアンナを見つめた。

「レプリカよ。本物じゃない。まあ、たいした問題じゃないわ」

 アンナは箱から顔を上げ、マリアを見つめ返した。

「本物はあなたが持ってるんだから、心配する必要はないわよね?」

 首の裏を汗が伝った。マリアは驚きのあまり、言葉もなくアンナの顔を見るしかできない。

「ねえ、そんな顔しないでよ。全部あなたの計画通りなんでしょう? お祝いするわ、わたしが床に気を取られたちょっとの間に本物と偽物をすり替えるなんて、よくやったものよ」

 マリアの顔がかっと熱くなった。やっと出てきたのは、蚊の鳴くような声の「どうして……」だけだった。

「どうして、ですって? わたしって疑り深いの。だって、こんな貴重品を持っているくらいだし。自分に近づいてくる人間は全員財産目当てだって、ちゃんと理解してるのよ。あなたの演技はすごく上手だったけど、それでもバレバレだったわ」

 アンナはにこにこ笑っている。その青い目が、マリアを見据えてすべてお見通しだと言っている。マリアは観念した。がっくりとうなだれて、すり替えた本物の「海の女王」をアンナへ差し出す。

「わたしの負けよ。これは返すわ」

「けっこうよ」

「なぜ?」

「あなたごと、わたしのものにするからよ」

「は?」

「わたしはね、欲しいものは何が何でも手に入れないと気が済まないの」言いながら、アンナは宝石を乗せたマリアの手をきゅっと握った。「『海の女王』だってそうだったけど、あなたも同じ。わたしと仲良くなろうと精いっぱいのあなたって、すごくキュートだった」

 二人は見つめ合った。しばらくしてから、テーブル越しに、アンナはマリアの唇に静かにキスをした。

「アンナ」

「なあに?」

「わたしの負け、じゃなくて——完敗だわ」

 アンナはくすりと笑った。大切な宝石を守り抜き、新たに欲しいものを手に入れた、それは余裕たっぷりの微笑みだった。

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