第9話 窮屈と自由




父親が相談窓口の紙を見つけた日から、家の中の空気はさらに冷え込んでいた。


以前から重苦しかった家庭の雰囲気は、一層息苦しくなり、すばるは家にいるだけで心が押しつぶされそうになっていた。


夕食時、父親は終始無言で箸を動かし、母親とは目を合わせようともしない。


一方で、母親もただ無表情に皿を並べ、言葉を選ぶようにして最低限の会話を繰り返すだけだった。


「すばる、学校でちゃんとやってるの?」

母親が問いかけても、父親が睨みを利かせているせいか、その声はどこか震えていた。


「うん……」

小さく頷くすばるの声も、父親の目を気にするあまり尻すぼみになってしまう。


食事を終えると、すばるはそそくさと自室に戻り、机に向かうふりをした。だが、勉強に集中することなどできなかった。隣の部屋から漏れ聞こえる父親の不機嫌な声や、母親の沈黙が、胸の奥で不安をかき立てる。


「僕、どうしてこんな家に生まれたんだろう……」


その思いが頭をよぎるたび、すばるの心は暗闇に包まれるようだった。




一方、学校ではすばるの世界が少しずつ広がっていた。


体育の授業で初めて触れたバスケットボール。その日以来、すばるはクラスメイトの圭吾に誘われて、昼休みや放課後にボール遊びをするようになった。


最初はボールを触るのもためらっていたが、圭吾が丁寧に教えてくれるおかげで、少しずつ動き方がわかるようになってきた。


「すばる、こっち!パス!」

圭吾の声に応えてパスを送ると、すぐに返球が来る。


「シュートいけ!」

渾身の力でボールを放った結果は外れたものの、圭吾は笑顔で言った。


「いいぞ!その調子!」

その瞬間、すばるは胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。家庭では抑圧されてばかりの自分が、ここでは認められている気がしたのだ。




ある日の昼休み、圭吾がすばるに話しかけてきた。


「なあ、すばる。今度、俺が入ってるミニバスのクラブに来てみない?」

「ミニバス……?」

聞き慣れない言葉に、すばるは首を傾げた。


「小学生向けのバスケチームだよ!練習は週に2回あるけど、楽しいぞ。お前、結構センスあるし、絶対楽しいと思う!」

圭吾は目を輝かせて説明する。


すばるは少し迷ったが、結局「やってみたい」という気持ちが勝った。


「……わかった。行ってみるよ。」

その答えに、圭吾は満面の笑みを浮かべた。




週末、すばるは圭吾と一緒にミニバスの練習に参加した。体育館には、すでに何人かの子どもたちがウォーミングアップをしており、緊張するすばるを迎えるように明るい笑顔を向けてくれた。


「じゃあ、まずはドリブルの練習から始めよう!」

コーチの明るい声に、すばるは戸惑いながらも頷いた。


「最初は難しいけど、コツを掴めば楽しくなるよ。」

優しい言葉に励まされながら、すばるは圭吾や他の子どもたちに混じってボールを突き始めた。



練習の最後には、簡単なミニゲームが行われた。

すばるは圭吾のチームに入り、コートに立つ。ゲームが始まると、ボールを追いかける興奮と緊張で、すばるの心は高鳴った。


「すばる、右にカット!」

圭吾の指示に応えて動いたすばるに、ボールがパスされる。咄嗟にキャッチし、再び圭吾に送り返すと、彼が鮮やかなシュートを決めた。


「ナイスパス!」

チームメイトの声援に、すばるの胸は熱くなった。家庭では抑え込まれていた自分が、ここでは誰かの役に立っていると感じられた。




練習が終わり、コーチがすばるに近づいてきた。優しい笑顔を浮かべながら、少し腰を落として目線を合わせてくれる。


「すばる君、初めてにしてはすごく上手だったよ。練習を重ねたら、もっと上手くなると思うな。」

その言葉に、すばるは嬉しさを感じた。


「それでね、クラブに入るためにはおうちの人の許可がいるんだ。次回は、ぜひおうちの人と一緒に来てくれる?」

コーチの柔らかな声に、すばるは一瞬笑みを浮かべたが、すぐに目を伏せた。


「おうちの人……」


その言葉が、すばるの胸をぎゅっと締め付けた。


自分が心から楽しいと思えることを続けるためにも、親の許可が必要だと言われた瞬間、楽しかった時間に影が差し込むような気がした。


圭吾が「すばる、次も絶対来いよ!」と声をかけてくれるが、すばるは曖昧に頷くだけだった。




家に帰ると、やはり重苦しい空気が漂っていた。


父親はテレビの前で無言のまま座り、母親は疲れた顔で皿を洗っている。


すばるはどうしても話を切り出せず、自分の部屋へと足早に向かった。


机の前に座り、ノートを開く。楽しかったミニバスの練習のことを思い出すと、胸が少しだけ軽くなる。だが同時に、コーチの言葉が頭をよぎった。


「次回はおうちの人と一緒に来てくれる?」


どちらに相談すればいいのか、すばるにはわからなかった。


父親に話しても「そんなものに時間を使うな」と一蹴されるのは目に見えている。


母親なら聞いてくれるかもしれないが、今の家庭の状況を考えると、そんなお願いをすることが母親に負担をかけるのではないかと不安だった。


「せっかく楽しいことを見つけたのに、どうして親の許可が必要なんだろう……」


すばるは、ため息をつきながらノートにペンを走らせた。ミニバスでの出来事を書き出しているうちに、ふと涙が零れ落ちた。




夜、布団に入ったすばるは、目を閉じてもミニバスのことばかり考えていた。コートを走る自分、仲間と声を掛け合う瞬間、ボールがパスされた時の手応え――それは、家庭では味わえない自由と喜びだった。


だが、その自由を続けるためには、どうしても親の協力が必要だという現実が、彼を悩ませた。


「お母さんに話したら、許してくれるかな……?でも、余計な心配をかけたらどうしよう……」


父親の険しい顔と、母親の疲れ切った表情が交互に浮かび、結局すばるは答えを出せないまま眠りについた。


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