第8話 父親との対立
その日も、家の中には重い空気が漂っていた。
リビングにはしんとした静けさが広がっており、すばるは窓際に座り、外の景色をぼんやりと見つめていた。
冬の寒い風が部屋に吹き込んでくるが、それよりも冷たいのは家の中の空気だった。
すばるは、もうすぐ父親が帰ってくる時間だということを知っていた。
父親が帰ってくるたびに、家の中の空気は変わる。
彼の怒鳴り声、物が壊れる音、そして母親が必死に抑えようとする声。
すばるは、それを何度も見てきた。もう慣れたはずだと思っていたが、毎回、心の中で湧き上がる恐怖は消えなかった。
その日も、案の定、父親が帰宅すると、すばるは無意識に体を縮めた。
静かな足音が玄関から響き渡り、すばるは手に持っていた本をぎゅっと握りしめる。
「ただいま。」
父親の声が響く。
その声には、いつもとは違う少し冷たい響きがあった。
すばるはその声に反応せず、ただ黙って本を開いたふりをした。母親は、何も言わずにその声に迎え入れる。
だが、その夜、すばるは予感していた通り、父親の不機嫌そうな顔がリビングに現れた。
父親は、いつものように無言でソファに座り、テレビをつけた。
すばるは、なるべく目を合わせないようにしながら、黙って部屋の隅にいる母親の方を見た。
母親は、すばるの目線に気づき、何も言わずに微笑んだが、その目には不安の色が浮かんでいた。
そのとき、何かが落ちた音が響いた。
それは床に落ちた一枚の紙だった。
すばるが目を向けると、それは――
「これは……。」母親が呟いたその言葉に、すばるは不安を覚えた。
父親が拾い上げたその紙には、児童相談所の案内が書かれていた。
無意識に母親が持っていたものだ。それを見た父親は、一瞬で顔を引きつらせ、顔色が変わった。
「なんだこれは!」父親が突然声を荒げた。
その怒声に、すばるはびくっと体を震わせた。
父親の目が、母親とすばるを交互に睨む。母親は、もう一度その紙を見つめ、深く息をついた。
「それは……すばるのために……。」母親が言いかけた言葉を、父親は無理矢理に引き裂いた。
「恥ずかしいことをするな!お前、俺がいるのに何を考えてるんだ!」
父親は立ち上がり、紙を握りしめて母親に向かって叫んだ。
その言葉の響きに、すばるの胸が締めつけられる。
「何が恥ずかしいことだっていうんですか?」母が、思わず口を開く。
しかし、その声は震え、すぐに父親の怒鳴り声に飲み込まれた。
「お前、また口を出すのか!お前に何がわかる!」父親はその場で立ち上がり、すばるに向かって歩み寄った。
「すばる!最近学校の帰りが遅いらしいが、こんなことをやっていたのか。俺を馬鹿にして!」
父親はすばるに迫る。
その目は、すばるを完全に追い詰めるような冷徹さを持っていた。
すばるは目を逸らすことすらできず、体が固まって動けなかった。
その瞬間、父親の拳がすばるの腹部に叩き込まれた。痛みが一気に広がり、すばるの目の前が暗くなった。痛みが引き裂くように胸を貫く。すばるは膝を折り、倒れそうになるのを必死で堪えた。
だが、すばるが体勢を立て直す暇も与えられなかった。
「動くな!」父親の怒声が轟くと、すばるの顔面に冷たい手が強引に押し当てられた。力を込めて頭を押さえつけられ、すばるの体は再びぐらついた。
「お前が悪いんだ!お前が!」
その声が耳をつんざくように響き、すばるは反射的に目を閉じた。
しかし、次の瞬間、頭に激痛が走る。父親がすばるの後頭部を容赦なく叩き、激しく壁に頭を打ちつけた。
「ぐっ……!」
すばるはうめくことしかできなかった。後頭部から広がる痛みが脳を揺さぶり、頭がぼやけていく。
立っていられないほどの衝撃が走り、ふらついた足元が不安定になる。
「ダメだ……」
すばるはその場に膝をつき、次第に意識が薄れていく。暗闇が迫り、目の前が完全に白く霞んだ。
その瞬間、冷たい空気が背中を打ち、母親の叫び声が耳に入った。
「やめて!お願い、やめて!」
母親が必死で声をあげ、すばるを守ろうと走り寄った。その手が、すばるの肩を掴んで支えようとするが、すばるの体は震え、足元が崩れそうだった。
「すばる!」
その声を最後に、すばるの意識は完全に途切れた。
母親はその瞬間、震えながらも強く立ち上がった。
その顔には涙が浮かんでいたが、どこか決意の色が見て取れた。
「やめて!すばるは何も悪くない!」母親は声を震わせながら言った。
その言葉が部屋に響いた瞬間、空気が一変した。
父親は一瞬、驚きの表情を浮かべた。しかしすぐに怒りが湧き上がり、声を上げた。
「お前が何を言おうと、俺の家だ。俺が決めることだ!」父親はその場で腕を振りかぶるような素振りを見せたが、母親は恐れることなく一歩踏み込んだ。
「もういいのよ!」母親はそう言って、しっかりと立ち向かう。
今まで恐れ、耐え忍んできたが、今この瞬間だけは違った。すばるを守るため、彼女は強くなる決心をしていた。
「私は、すばるを守るわ。」母親は震えながらも、まっすぐに父親を見つめた。
その目には、今までの悲しみや恐れが込められながらも、しっかりとした決意が込められていた。
父親は一瞬、言葉を失ったように見えた。母親の言葉が深く胸に響いたのだろうか、父親はただ黙って立ち尽くす。
その静かな瞬間が続いた後、父親は何も言わずに部屋を出て行った。母親はすばるを見つめ、ゆっくりと肩を落とす。無言のまま、すばるをしっかりと抱きしめた。
「お母さん……」すばるは、涙を浮かべながら言った。その声は震えていたが、母親の温かさに包まれて、ようやく少しだけ心が落ち着いた。
「すばる、今までごめんね。でも、これからはあなたを守るために、何でもするわ。」母親はすばるの頭を優しく撫でながら、そう言った。
すばるはその言葉に胸が熱くなり、母親を強く抱きしめた。彼は今、初めて母親の本当の愛を感じ取った。母親は、すばるを守るために、これまでの恐れを乗り越えたのだ。
その日、すばるは初めて心の底から母親に感謝し、また自分を少しだけ誇りに思うことができた。
家の中の空気はまだ重かったが、すばるは確かな希望を感じていた。それは、父親から解放されたわけではない。しかし、母親とともに歩む道は、これから少しずつ明るくなることを信じていた。
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