第5話 第一歩


学校の放課後、麻子は職員室で雑務をこなしていると、廊下を歩くすばるの姿を見かけた。その足取りはどこか重く、顔にはいつものような怯えが見える。


「星宮君、ちょっといい?」

麻子はそっと声をかけた。


すばるは少し驚いたように足を止めたが、静かに麻子の方へ向き直った。


「先生……何ですか?」


「少しだけ、話せるかな。」


麻子は柔らかく微笑み、隣に置いてあった椅子を指差した。


すばるが黙って椅子に腰を下ろすと、麻子はカバンから一枚の紙を取り出した。それは地域の子ども向け相談窓口の案内だった。


「すばる君、こういう場所って知ってる?」


すばるはその紙をじっと見つめた。そこには可愛らしいイラストとともに「困ったことがあったら、話してみませんか?」という言葉が書かれていた。


「相談……?」

彼は戸惑いの表情を浮かべながら呟いた。


麻子は静かに頷いた。

「ここはね、学校や家で困ったことがあったときに、話を聞いてくれる人たちがいる場所なの。誰にも言えないことがあっても、きっと君の力になってくれる。」


すばるはその紙を手に取ったが、すぐには納得できなかった。家のことを誰かに話すなんて、考えたこともない。


「……僕が行っても、意味があるんですか?」


その問いに、麻子は一瞬考え込んだ。そして、すばるの目をじっと見つめながら、優しく語りかけた。


「すばる君がどう感じるかが大切なんだよ。今の生活を少しでも変えたいと思うなら、そこに行くことがその一歩になるかもしれない。もちろん、すぐに行かなくてもいいんだよ。けれど、行動を起こすことはそれだけですごいことなんだ。」


「行動を起こす……。」

すばるはその言葉を心の中で繰り返した。





その夜、すばるは自分の部屋で紙を見つめていた。窓の外では冷たい風が吹き、家の中では父親の怒声が響き渡っている。母親が必死に抑えようとしている声も漏れ聞こえた。


「話してみる……なんて、できるのかな。」


紙に書かれた「話してみませんか?」という文字が頭の中で反響する。すばるは深く息をつき、意を決して部屋を出た。


居間では、母親がソファに座って疲れた表情を浮かべていた。すばるは小さな声で話しかけた。


「お母さん……僕、ここに行ってみたい。」


すばるが差し出した紙を見た母親は、一瞬戸惑いの色を浮かべた。母親の手は微かに震え、何かを言いかけては飲み込んだ。


「これ……学校の先生がくれたの?」


すばるは黙って頷いた。母親は再び紙に視線を落とし、じっと読んでいた。そして、数分間の沈黙の後、小さく息をついて言った。


「わかったわ。……明日、一緒に行こう。」


その言葉に、すばるの胸は少しだけ軽くなった。母親が受け入れてくれたことが、彼にとっては大きな安心感だった。





翌日、すばると母親は相談機関を訪れた。施設は明るく清潔で、壁には子どもたちが描いた絵が飾られていた。温かな雰囲気が漂っていたが、すばるは緊張で体が硬直していた。


受付の女性が優しい笑顔で迎え入れてくれ、すばると母親を面談室へ案内した。そこには、柔らかな声で話しかけてくれる相談員が待っていた。


「こんにちは、すばる君。今日は来てくれてありがとう。」


その言葉に、すばるは小さく頷いたが、視線を下げたままだった。話し始めることが怖かった。


相談員は柔らかい声で続けた。「ここではね、どんなことでも自由に話していいんだよ。困ったことがあれば、その気持ちを少しだけ分けてもらえるかな?」


その言葉に、すばるは一瞬迷ったが、母親が横で頷いているのを見て、勇気を出して口を開いた。


「……僕、家で……。」

その先の言葉が詰まる。どう表現していいのかわからなかった。


相談員は急かすことなく、静かに待ってくれた。それが、すばるにとっては安心感だった。


「お父さんが、すぐ怒鳴ったり……お母さんを叩いたりするんです。それが怖くて……。」


ポツリポツリと言葉を紡ぐすばるの目には、涙が浮かんでいた。それを止めることはできず、彼は小さな体を震わせて泣き出した。


相談員はそれを遮らず、ただ「そうだったんだね」と優しく声をかけた。





帰り道、すばるは母親と手をつないで歩いていた。冷たい風が頬を撫でる中、彼の胸にはほんの少しだけ希望の光が灯っていた。


「僕、先生にお礼を言わないと。」

ふと、すばるはそう呟いた。


母親は驚いた顔をしてから、柔らかく微笑んだ。

「そうね。すばる、頑張ったものね。」


その言葉に、すばるは照れくさそうに笑った。




家に帰り、すばるは机に向かってノートを開いた。麻子先生の言葉が何度も頭をよぎる。


「行動を起こすこと、それだけで十分すごいんだよ。」


その一言が、彼の中で新たな勇気を育てていた。どんなに小さくても、一歩を踏み出せば何かが変わる。彼はそのことを初めて実感していた。



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