うちの隣には「ときなしさん」が住んでいる。
なかつつつ
第1話
うちの隣には不老不死の「ときなしさん」が住んでいる。
うちの隣のときなしさんは見た目が三十代後半くらいの女性で、黒い髪を肩甲骨あたりまで伸ばしている。夏は暑いからと後頭部でポニーテールに縛っていたが、僕は髪を縛っていない方が好きだ――なんて、そんなことはどうでもいい。
ときなしさんはよく、うちに遊びに来る。
今日も僕が予備校での授業と自習を終えて家に帰ってくると、ときなしさんがうちのこたつに入ってみかんを食べていた。
「よ、少年。ちゃんと受験勉強してきた?」
ときなしさんは背中を丸めて民放のバラエティを見ていたが、廊下にいる僕の気配に気づくと僕へ顔を向けて笑った。
「ちゃんとかどうか知らないけど、やってきたよ」
僕は今、高校三年生だ。来春に大学受験を控えた受験生としてはまあ及第点をもらえるくらいには、真面目に勉強してきたと思う。
僕はリビングに足を踏み入れると、かごに入っていたみかんをひとつ掴んで自分の部屋に向かった。背中にときなしさんの「手洗いうがいはしっかりなー」という間の抜けた声を浴びる。ときなしさんに言われなくても僕はリビングのそばを通る前、帰って一番に手洗いうがいをしていた。
部屋に入って真面目に明日の授業の予習をしていると、母さんがのんびりと「夕飯できたよー」とぼくを呼んだ。リビングに行くと、ときなしさんはまだこたつに入っていた。このまま一緒に夕飯を食べるつもりのようだ。かごのみかんの山が、少し低くなっている気がする。父さんは仕事で帰宅が二十二時を越えることも多いから、母さんとしてはにぎやかでいいと、ときなしさんが夕飯を食べて帰るのを拒むどころかむしろ喜んでいた。僕としては、ときなしさんの相手は母さんがしてくれるから、どっちでもよかった。時々、急に「なあ、少年」と僕へ話を振るのは面倒だけど、まあ適当に返事をしても怒ることはないから、面倒なだけだ。
「このゆでたまご、ちょうどいい固さだ」
サラダに入っていたゆで卵を飲み込んだときなしさんが、うんうんとやたら満足げに頷く。
「そうでしょう」
母さんもなぜかやたら満足げに答えた。たしかにゆで卵はちょうどいい固さだった。だけど、ゆで卵くらいでそんなに充実感を得られるものだろうか? 僕が想像しているより、ゆで卵の固さの調整は難しいのだろうか。夜にちょっとお腹が空いたときに食べられるし、今度僕もつくってみようか。母さんに頼めば夜食用のおにぎりを作ってくれるのだが、いつも作ってもらってばかりでは申し訳ない。
まあ、二人が過剰に嬉し気なのは、単純に仲良し同士の会話のテンションだというだけかもしれない。ときなしさんと母さんは、とても仲が良かった。この家は僕の母方の祖父――つまり母さんの父親が建てた家で、ときなしさんはその百年くらい前から住んでいるらしい。だからときなしさんは母さんが生まれたときから今までをずっと知っているわけで、母さんは仲良しの親戚と同じようにときなしさんに接していた。僕も、生まれたときから今までずっと、隣にはときなしさんが住んでいる人生を送ってきたわけだけれど、母さんとときなしさんほど仲良しではない。
もしかすると、母さんならときなしさんの本当の名前を知っているかもしれない、と僕はぼんやり考えた。
ときなしさんのなまえは「ときなし」ではない。「ときなしさん」というのは文化・情報保護法第十七章で定められた無形文化財特別長期保持者に認定された人たちを示す総称だ。医師免許をもつ人を「お医者さん」と呼ぶのと同じ。最新かつ最高レベルのボディ・ナノマシン・インターフェイス処理を受けて、アーティフィシャル・エピジェネティクス調整を受け、不老不死と呼ばれるにふさわしい肉体を得た人間を、このあたりでは「ときなしさん」と呼んでいる。由来は簡単で、時が止まったように――まるで時間が存在していないように、歳をとらないから、という意味だ。地方によっては「不老さん」とか、「ちよさん」とか「生体アーカイブ」とか、さまざまに呼ばれているらしいが、うちの隣のときなしさんを見ると、「ときなしさん」というのはちょうどいい名前だなと思う。のんびりして、ときなしさんの周りだけ、時がゆっくり流れているように見えるからだ。
ときなしさんは、後世に残すべき知識・技術を風化させないように存在している。人類の歴史のなかで、資料が残っていなかったり、後継者がいなかったり、さまざまな問題で失われた知識や経験が多い。戦争や災害といった、国レベルに影響する大規模な問題についての生の声も、時が経つにつれて風化し、過去のものとなってしまう。確実に人類が歩んできた学びを積み重ねるために、それらを確実にとどめ、必要なときに必要なものとして参照できるようにすること――それが「ときなしさん」たちがいる理由だ。
つまり、うちの隣に住むときなしさんも、何かずっと昔から覚えていることがあるはずなのだけど、僕にとってはただのぐうたらした年上のお姉さんでしかない。
---
「少年、ゆで卵だよ」
コンコンとノックの音が聞こえたと認識したときにはすでに、ときなしさんは部屋のドアを開けていた。ゆで卵が二つ載った皿を持っている。
僕は黙って振り返り、眉間にしわをつくることで、ノックなしで入ってきたデリカシー意識の低さに抗議したつもりだったけれど、彼女はまったく気にすることなく、机に向かう僕のところまでやってきて、ゆで卵の皿を参考書の横に置いた。
「頑張っているので私が作ってあげた」
ふう、とため息をついて、半分にされたゆで卵の、ちょうどいい色合いの黄身を眺める。
「この前、勉強のときに食べようと思って自分でも作ってみたんだけど、固くなりすぎちゃった。これくらいがちょうどいいよね」
「私もこれくらいが好きだよ」
母さんがつくるゆで卵も、これくらいの加減な気がする。母さんに教えてもらってつくったのだろうか。普段は自分の家で食事をしているはずだから、ときなしさんの料理の腕もそこそこなのだろうか。そうだとしたら、たまには母さんの代わりに夕食を作ってくれる、くらいあってもいいじゃないか。
僕がゆで卵をもごもごと頬張っていると、クリアファイルに入れてデスクライトの支柱に立てかけていた、進路希望調査にときなしさんが気が付いた。
「おお少年。未来を考えているのか、偉いね」
「しめきり、きのう、で…きょう、おこられ、た」
「飲み込んでから喋りなよ」
「……」
ごくん、とゆで卵を飲み下す。
「〆切昨日で、今日、先生から怒られた。明日には出さないといけない。父さん帰ってきたら一応みてもらう」
隣にのんびりと生きているときなしさんが住んでいるせいか、今まで受け取った通知表の過半数に「少しのんびりすぎ」とコメントされてきた僕は、今回の進路希望調査も、出すのをすっかり忘れていて、怒られたばかりだった。忘れないように立てかけて置いたのだけど、勉強しているうちに存在が頭から消失しかけていたので、ときなしさんに言及してもらったのは正直、助かった。
「県外の大学に行くんだ」
「まだ受験終わってないから、行けるかどうかわかんないよ」
進路希望調査の第一希望には、県外にある国立大学の工学部が書いてある。第二、第三希望は空欄だ。両親と一緒に今日、決めるつもりだった。これものんびりすぎるだろうか。高校二年生の冬、高校三年生の春、夏とすでに三回も進路希望調査を書いているので、大体の方向性は担任の先生も把握しているはずだから、少し待ってくれてもいいのに。
――そんな甘いことも、言っていられないのだろうか。
そろそろ、自分でしっかり考えて、決めていかなくちゃならない。
そういう、未来に対する覚悟への不安が、ずっと心の底にあった。
「ときなしさんはいいなあ、働かないでも生きていけるし」
椅子の背もたれに体を預けると、ギ、と軋んだ音がした。
「もらえるものはもらっておかないとね」
ときなしさんが朗らかに微笑む。
彼女は、国から毎月お金をもらって暮らしている。まるきり何もしていないということはなく、このあたりに住む人の畑仕事を手伝ったり、公民館の集まりがあったあとの掃除をしたり、細々と労働的な動きをしていることは知っている。それでも、一般的な「労働」という概念からは、自由だと表していいだろう。
「でも、やりたいことをやるのが一番いいよ、少年」
ばしばしと、ときなしさんが僕の両肩を何か追い払うように力を込めて叩く。
「そのやりたいことがまだわかんないんだよ。好きなことと、できることは違うじゃん。それに、すごくやりたいことがこれから見つかるかもしれないし」
ゆで卵をつまんで顔の前に持ち上げ、見つめる。
卵を茹でてゆで卵を作ることはできるし、食べることは嫌いじゃないけれど、ゆで卵を一生食べて暮らすほどに好きかと言われると、そうでもない。でも、ゆで卵はこれからも食べていくだろう。そういうことだ――そういうことかな?
「考えるとわかんなくなっちゃうんだよなあ」
「今やりたいことをやればいいんだよ。もちろん、刹那的なのは困るけど。人間の人生ってそこそこ長い気がするけど、自分の考えも状況も、意外ところころ変わるから、考えるべきなのって5年先くらいまでなんだ」
「じゃあ僕は、大学生のときのことを考えればいいのかな」
そうだよ、とときなしさんが頷く。
「だから、今入りたい大学は何かってのを考えればいい。大学に入学したあとにやりたいことが変わるかもしれない。でもそのときは、また大学に入りなおせばいいし。5年先までを考えるべきだけど、人生全体からしたら、5年なんて誤差だよ、誤差」
それは、無限に生きていられるときなしさんだけの話じゃないだろうか。例えば100年生きるとして、5年というのは5%だ――5%だったら、誤差だろうか。案外、少ないかもしれない。
「もちろん、5年より先の未来を考えるな、ってわけじゃない。でもそれより先の未来の話は、『夢』ってワードで語っていいんじゃないかな?」
「年長者っぽいこと言ってる」
「あのねえ少年。私が何年生きてると思っているの?」
「いっぱい」
「まあそれがわかっていればいいか」
ときなしさんが僕の真後ろでため息をついて、微かに僕の後頭部の髪を揺らした。
ずっとあった不安が、布巾で拭いたみたいになんとなく綺麗になった気がした。またぽつりと不安が現れるかもしれないけれど、そのときは都度、拭いていけばいいのかもしれない。
「ときなしさん、ありがとう。とりあえず、今行きたい大学は考えてあるから、まずはそこに行くために頑張ってみる」
「いいねえ少年。青春だ。年長者として言っておくと、青春って本当に過ぎ去ったら帰ってこないものだから、謳歌するんだよ」
「ね、年長者のお言葉だ……」
僕とときなしさんは、えへへ、とのんびりした調子で笑いあった。それから数秒沈黙があって、ときなしさんは「こんな時間だ、帰らないと」と言って、部屋から出て行った。
それから一時間ほど経って、父さんが帰ってきたので、僕は進路希望調査の紙を持ってリビングに向かった。
ある土曜日、午前中だけの予備校授業を終えて、昼過ぎに僕が帰ってくると、ときなしさんの家の玄関に向かって、頭を下げているスーツ姿の男の人とすれ違った。ちょうど、お暇の挨拶をしていたところのようだ。その人は堅苦しい生真面目な顔をした、僕の父さんくらいの年代に見える人だった。その人の顔立ちを認識した瞬間、ぴりりと記憶に引っかかるものがあって、僕は首をかしげるのと会釈するのを同時に行うことになってしまった。
「こんにちは」
生真面目な男の人は、やはり生真面目な挨拶をした。被ろうとしていた帽子を再び胸元に当てて、紳士然とした振る舞いが目に眩しい。自然体なのに整った動作に、僕は単純に「きれいだな」と感心した。そして、ぼんやりしていた記憶が輪郭を持つ。
テレビで見た顔、だったのだ。
「あ、もしかして、岡山のときなしさんですか?」
数日前に夜のニュースでやっていた、伝統工芸イベントの紹介で、彼が出てきた。日本刀の研磨の技術を保持している岡山在住の「ときなしさん」で、江戸時代にも使われていた技術を修行の末に身に着け、それを保存しており、現代の研磨師たちに伝授しているという。
「ええ、そうです」
落ち着いた口調で岡山のときなしさんは肯定した。隣に住むときなしさん以外のときなしさんを生で見るのははじめてだった。全体から、重厚なオーラが漂っている。ただの人ではないというのが、話しているだけでわかった。隣のときなしさんとは大違いだ。
ニュースでは、岡山のときなしさんが写っている、平成初期に撮られたフィルム写真が出てきた。全体的にセピア調に色褪せたそれに写っていたのはまさしく、目の前にいる男性で、写真のなかで時を止められた姿と僕の前に立っている姿はそっくりそのままだった。150年以上前の写真、数日前のテレビ番組、そして現実の今。この3つにまったく同じ姿で存在している――その事実を、僕はうまく受け止められずにいた。映画のなかに入り込んでしまったような、自分のいる空間がフィクションの世界に飲み込まれてしまった感覚。目の前にいる男の感情が想像できない。
「この前もテレビに出てたのを見ました。すごいですね」
自分で考えてそう口にするけれど、なんだか決められた台詞を口にしている気分だ。
隣に住んでいるときなしさんが普通の「お姉さん」だから、普段は意識していないけれど、本来の「ときなしさん」はこのように非人間的な雰囲気を醸し出しているものなのだろう。
「ありがとう」
君は、ヨリトくんかな、と岡山のときなしさんは、僕の名前を言い当てた。もしかして、長く生きている分、勘のようなものが鋭いのだろうか。
「そうです。隣に住んでます」
感心した声をあげると、岡山のときなしさんは、肩を僅かにあげて、「彼女に教えてもらったから」と笑った。どうやら、ときなしさんが僕のことを勝手に喋ったらしい。情報の大事さを知っている「ときなしさん」のはずなのに、個人情報をそんな簡単に漏らしていいのだろうか。
「ヨリトくんのことを、とてもいい子だと話していたよ」
――前言撤回。この個人情報は、漏らしていいものだ。
「今は高校三年生なんだって? 大学受験を頑張っているんだってね。どうか良い結果になることを祈っている」
岡山のときなしさんが帽子を被って僕に微笑みかける。
その微笑は凄まじく完成されたもので、ますます芝居に出てくる人物のように感じられた一方で――僕の受験を気遣ってくれる彼に、人間的な親しみを抱き始めていた。彼も、人間なのだ。当然だけれど。
「ありがとうございます。勉強頑張ります」
僕も彼に笑いかける。
「……でも、ときなしさんに何の用だったんですか? ええと、」
彼も彼女も「ときなしさん」だと話し始めてから気づいた僕が口ごもると、彼が言葉を引き継いだ。
「野田大輔です」
「え?」
「私の名前。野田大輔と言います」
さらりと発された「ときなしさん」の名前に僕の思考が一瞬止まる。そうだ、当然だけど「ときなしさん」にも本当の名前があるのだ。時々、僕だって疑問に思っていたじゃないか。本当の名前を知らなくても、この周辺の「ときなしさん」は隣に住む彼女だけだから、彼女を表すのに支障はなかった。
「野田、さんは、何でこんなところまで?」
名前を知ったことで、フィクションめいた雰囲気が和らぎ、目の前に立っているのは一人の人間だという感覚が強くなった。
「ああ。彼女に会いに来たのは、少し思うところがあって……話を聞いてもらいたいと思ったからなんだ」
野田大輔と名乗った彼は、懐かしむような表情でときなしさんの玄関の方――「ときなしさん」がぐうたらしているはずの方向へ視線を向けた。
「私は技術を繋いでいくために、この立場になったことを後悔していない。それでも、本当にこれでいいのか悩むことはあってね」
野田さんの言葉に、僕はなるほどと、納得した。ときなしさんと話していると、気が抜けてしまう。僕も受験のプレッシャーにやられそうになったとき、ときなしさんと喋って、「まあこんな風にぐうたら生きている人もいるのだから、それより頑張っている自分はどうにかなるだろう」と勝手に気楽に思うことがある。
「そうなんですね」
「私もこうなって長い方だけれど、彼女には負けるからね。先輩の言葉を聞きたくなったのさ」
「そうな……、そうなんですか?」
明らかに、野田さんの方が長く生きているというオーラを放っているのに、あのときなしさんの方が年上には見えない。
「あれ、彼女は言ってなかったのかな。彼女は、日本で最初の無形文化財特別長期保持者だ」
知らなかった。それって、非常にすごいことなんじゃないだろうか。
僕はぽかんと間抜けな顔をしていたのだろう、野田さんは穏やかに微笑んだあとに僕の肩をぽんぽんと痛みのない力で叩くと、着ていたコートの襟元を正して静かに歩き出した。その足取りは確かだったけれど、背中をほんの少し丸めて、見えないものを背負っているように感じられた。
「帰っちゃった」
隣から聞こえた声に僕は飛び上がりかけ、いきおいよく声のした方を振り返った。そこには半纏を着たときなしさんが野田さんの小さくなる背中を見つめて立っていた。
「私について何か言ってた?」
ときなしさんが、野田さんから僕へと視線を移して不安げに尋ねる。僕は小さく頷いた。
「ときなしさんは、日本で最初の『ときなしさん』だって言ってた」
「ふーん」
自分から聞いてきたわりに、ときなしさんの声は、まったく興味なさそうだった。僕が学校であったことを語るときの方が、いくらか面白そうに聞いてくれている。
「本当?」
「本当かどうかでいえば本当だけど、私は彼みたいにすごくないよ」
「それはわかる」
「え、ショック」
「自分で言ったじゃん」
ときなしさんはすごい人なのかもしれない、とドキドキしていたが、やっぱりときなしさんはぐうたらした、自由な人のままだった。いつもと変わらないゆるい会話に、僕は笑うふりをして、密かに安堵のため息をついた。
「長く生きてると、色々あるんだよ」
両手を空の方にぐいと伸ばして、ときなしさんは伸びをした。
「だから、前に少年へアドバイスしたみたいに言ってやったんだ。5年先くらいまでのことを考えて、やりたいようにやりなよって」
一カ月ほど前にときなしさんがゆで卵を食べている僕に、ときなしさんがかけてくれた言葉を思い出す。勉強がうまくいっていると断言できるほどお気楽ではないが、ちゃんとやりたいことのために勉強できている実感があった。
「あれ、すごくいいアドバイスだったと思う。きっと野田さんも大丈夫だね」
「そうだろう、少年。お姉さんは長生きだけが取り柄なんだ」
ときなしさんはそう言い残して、自分の家に戻っていった。
---
「風邪と事故には気を付けてね」
母さんが口元に白い息を留まらせながら、僕の首に巻かれたマフラーを整える。うん、と答える僕の口元も白く濁った。
いよいよ明日は第一志望の国立大学の受験日だ。そのために僕は、大学近くにホテルをとっていた。仕事帰りの父さんと最寄り駅で待ち合わせている。夕食をおごってくれるらしい。焼肉屋を予約したと連絡があった。地味に楽しみだ。父さんも一緒にホテルに泊まって、明日、受験会場まで送ってくれるらしい。一人で行けるとは思うけれど、大人がそばにいてくれるのは心強い。
――僕の身近な大人といえば、あとはときなしさんだけれど、彼女がそばにいても、あまり心強いとは思えないかもしれない。
そんな風に考えていると、それを見透かしたように、隣の家の門からときなしさんが出てきた。
「少年、明日受験なんでしょう。頑張ってね」
半纏の袖に手を突っ込んで背中を丸めた姿で、ときなしさんは僕に声をかけてきた。いまいち締まらない。母さんが、僕に手を振ってときなしさんの代わりのように、家のなかへ戻っていく。
「うん、頑張るよ。それじゃバスの時間があるから、行くね」
ばいばい、と胸元で小さく手を振る僕に、ときなしさんは僕の三倍くらい大げさに手を振り返す。
「私が保持してる、絶対残しておかなきゃいけないデータね」
ときなしさんが言う。
「それはね」
僕は手を下ろす。
「ゆで卵のちょうどいい茹で時間だよ」
――ああ。
――それはとても、大事なことだ。
人類にとって、すごく大事な、知識だ。
「帰ってきたら、ちょうどいい茹で具合のゆで卵を作ってあげる!」
僕は「わかった」と呟いて、バス停へと歩き出した。
帰ってきたら、おいしいゆで卵が自分でつくれるように、何分が正解なのかときなしさんに聞いてみようと思う。
うちの隣には「ときなしさん」が住んでいる。 なかつつつ @nktu_pdu
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