第二話 旧地下都市区域

「環夜、そろそろ起きて学校に行きなさい。彰はもう行ったわよ?」


 八時頃になると、智美が環夜を起こしに部屋に入ってきた。彰よりも少し高い声。

 環夜は寝ているふりをする。黙って掛け布団に包まったまま、目を強く瞑った。


「環夜っ」


 智美は環夜の包まる掛け布団を剥がし、環夜を寝台から転げ落とした。その行動は先程の彰とそっくりで、そういうところも含めて環夜は自分の家族との血の繋がりをいつも疑っていたのだ。


「…体調悪いから。彰から聞かなかった?」


 環夜は智美を睨みつけながら言った。智美は気にもとめずに環夜の額に手を当てた。美しく整った顔が、少し色の薄い黒髪が、光に反射して煌めく青みがかった瞳が、環夜に近づいてくる。


「聞いてるわ。熱は測ったの?」


 環夜は慌てて、その手を振り払い、掛け布団を拾って寝台に戻った。


「測りたくない」


 かろうじてそう呟くと、掛け布団に包まって寝台沿いの壁に寄りかかった。


「どうして?仮病は駄目よ」


 智美は近づいてきて、体温計を無理矢理、環夜の脇の下に挿し込んだ。環夜はすぐさまそれを抜き取り、床に叩きつける。


「母さんには関係ないだろっ」


 ――どうせ他人のくせに。


 環夜は小声で毒ついた。


「何か言った?…もう、ものは大切にして」


 智美は眉間に皺を寄せて、環夜の目の前に座った。


「別に。中等学校は義務教育で学費が無料なんだから家のお金に損失は出ない。休むのは僕の勝手だろ?」


 環夜は俯いたまま言い訳を発する。そんな環夜の言葉を聞いて、智美は始めて怒ったような表情をした。


「私たちも払っている税金で通っているのよ?」


 智美の言葉に環夜は奥歯を噛みしめる。


「はっ、別に通いたくもないのに無理に通わされるこっちの身にもなってよ。恩着せがましい」


 家族を信じられない環夜は次第に口調が荒くなっていく。それが家族と自分の関係を壊しているとも知らずに。


「なっ、その態度をやめなさい。学校に行くのは国民の義務なのよっ」


 智美の口調も段々と荒々しく厳しいものになっていく。立ち上がり、環夜の頬を引っ叩く。


「痛い、やめてよ。…もういいから。僕のことは放っておいてくれない?」


 環夜はとにかくこの場から早く逃げたく思い、話を無理矢理にでも切り上げようとした。

 智美はいつもと態度の違う環夜をおかしく思ったのか心配そうに言った。


「大切な息子を放っておけるわけないでしょ?」


 そんな智美を見て環夜は布団を握り締めた。大切な息子という言葉が今の環夜にとっては苦しいものでしかなかったのだ。


 ――大切?嘘をつけ。ずっと僕のことを騙していたくせに。


「何?言いたいことあるならはっきり言いなさい」


 智美は環夜に歩み寄るが、環夜はその手を振り払って掛け布団を頭から被った。


「わかったよ。学校にはあとから必ず行くから」


 環夜は掛け布団の下から智美に向かって言った。

 布団越しから智美の溜息が聞こえた。


「……遅刻していくわけね。何限から行くの?」

「四限までには必ず行くよ」


 智美は環夜の返事を聞くと部屋を出ていった。智美の足音が遠ざかっていくのを環夜は布団の中から黙って聞いていた。


 

 しばらくして智美が仕事に出かけていったことを確認すると、環夜は布団から出た。背伸びをし、窓掛けを閉めてから、寝巻きを脱ぐ。洗面所に行き、歯を磨いて水を浴びる。

 部屋に戻ると環夜は、勉強机の上に置いてある鞄を開けて、中に着替えや貴重品を入れ始めた。


「こんなに…簡単に騙せるものなんだよね」


 環夜は一人きりの部屋で呟いた。急に家族への罪悪感が芽生えてきたのだ。このまま黙って家を出てもいいのだろうか。心配しないだろうか。いや、心配して欲しいと心の何処かで望んでいるのだ。

 

『彰、父さん、母さんへ

 僕はこの家を出ます。今まで育ててくれたことは感謝しています。

 ありがとう、さようなら。

 これからは僕に関わらないで欲しい。僕のことは探さないでください。

                   亜奏 環夜』


 結局、環夜は手紙を書いた。必要最小限のことしか書かなかった。

 最後に自分の名前を書いた。もちろん本当の苗字の方で。当てつけのように見えるかもしれないが、これは環夜の意思だった。覚悟だった。長年暮らしてきた家を故郷を離れ、亜奏 環夜として生きていく覚悟。

 環夜は手紙を実母からの手紙の入っていたあの黄ばんだ封筒に入れ、勉強机の上に置いた。


「今日から、僕は早日 環夜ではなく、亜奏 環夜なんだ」


 そして自分に向かって言い聞かせるように言う。

 環夜は服棚を開け、一番丈夫で動きやすい私服を取り出す。安物ではないが、あまり高価なものに見えない厚手の長袖に足首で絞る緩めの下履き。靴下は黒を選び、つば付き帽子を被る。


 貴重品と着替えを入れた鞄を背負い、環夜は玄関に向かった。階段を下りた途中で居間に寄って、智美が作ったであろう朝食を食べて食器を洗った。

 丸い麵麭に、南瓜の汁物。卵と緑野菜の炒め物と青汁の入った牛乳。

 十五年間食べてきた飯の味は、冷めきっていても美味しく感じた。

 環夜は最後にもう一度振り返り、そのまま靴を履いて家をあとにした。


「これでもう僕は一人だ。いや…最初から一人だったと言うべきかな」


 悲しくなどないはずなのに涙が頬を伝う。本当は引き止めて欲しかったと思いながら、誰もいないこの時間を選んだのは、引き止められれば、きっと家に残ってしまうと分かっていたからだ。

 環夜はもう振り返らなかった。今日からこの家は知らない家・・・・・なのだから。

 

 家を出てから真っ直ぐ商店街を抜け、十五分ほど公共施設のある通りを進むと、高層住宅の建ち並ぶ錆びれた街が見えてきた。


「旧地下都市…廃墟が建ち並ぶここなら…身を隠すには丁度いい」


 環夜は廃墟を見上げて呟く。人の気配一つない路地の向かい側、立入禁止の看板を跨いで旧地下都市区域に入る。


 環夜は建物の中には入らなかった。いつ崩れるかわからない廃墟にいるなんて恐れ知らずなことはできない。廃墟に囲まれた見渡しのいい広い公園を環夜は拠点とすることにした。噴水付近にある赤錆びた金属製の椅子からは金属特有の錆臭い香りがして、環夜は思わず鼻を摘んだ。


 雑草は生い茂り、辺りには虫もいる。風雨を防げる可能性のある休憩所の屋根は所々穴が空いている。

 だが環夜は挫けないように自分の頬を叩いた。環夜が成人して上層地域に行けるようになるまで、あと一週間。その間だけ此処で暮らせればいいのだ。

 食料は家から持ってきた。一週間なんてあっという間だ。

 環夜は鞄から毛布を取り出すと、休憩所の柱に寄りかかりながら、それに包まって寝た。




――――――――――――――――――――――――


「今日で…六日。あと一日でやっと下層地域この場所を離れることができる」


 環夜は日捲り代わりに休憩所の柱につけた傷を見ながら深く息を吐く。環夜たち国民の利き腕には便利な機能を搭載した液晶がついているが、時計機能はあっても日付機能がなぜかない。なので、日捲りは別にいるのだ。


 環夜は、廃墟生活に草臥れ、目の下にできた隈を擦りながら残り少ない保存食を口に放り込む。噛みしめるたびに口の中の水分が奪われていく。美味しいとは、とてもじゃないけれど思えないこの食事も、もう四日目だ。

 二日目までは保存食でないものを食べていた。家から拝借した、総菜や米の入った安い弁当。だが、三日以降は流石に持たない。

 水分も底をついてきた。節約はしなければ明日になる前になくなる。


 ――大丈夫。僕はやれる。飢えなんて我慢できる。家を出る時決心したんだ。もう後悔はしない。


 だが、此処で寝泊まりし始めてから殆ど眠れていない。短い時間で寝たり起きたりしてしまっている。体は余計に疲れきっていた。

 環夜は乾燥麵麭の欠片を食べて水を一口飲んだ。

 そして、横になると薄い毛布に包まり目を瞑り、早く明日が来ることを願って眠りに落ちた。

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