「同志少女よ、敵を撃て」は「何」を撃ったのか

@turugiayako

「同志少女よ、敵を撃て」は「何」を撃ったのか

 今月の11日に、「同志少女よ、敵を撃て」の文庫版と、コミカライズ版が同時発売される。同作については、多くの方の多くの評論・感想が語られており、ネット上でもたやすく見つけることができる。私が一番好きなのは、斎藤美奈子の書いた書評だ。私は斉藤先生はもちろんのこと、世の中のほとんどの書評家の足元にも及ばない知性の持ち主だから、わざわざ何か書くまでもないと思っていたが、気が変わった。

気が変わった理由は実は「同志少女よ、敵を撃て」それ自体とは関係なくて、小説を学ぶ学校に通い始めて、これまで以上に文章を書いていかなくてはならないと思い始めたので、ここ1年ずっと「アニメ化したらどうなるんだろうな」と考えていた同作の感想を、まずは書いてみたくなった、というだけのことだ。 

「同志少女よ、敵を撃て」について語るための切り口は、全ての良い創作物がそうであるように、いくらでもある。フェミニズム。シスターフッド。女性兵士。独ソ戦。ソビエト連邦。ロシアとウクライナ。有害な男性性。ホモソーシャル。戦時性暴力。それだけ多くの観点から「語ることができる(批判することもできる)」ということそれ自体が、「同志少女よ、敵を撃て」が「良書」と呼ばれるに値する小説であるという事実を、証明するものであろう。

現在のわが国のオタクたちの一部には、小説や漫画や映画というものを、現実とは隔絶した絵空事の世界を描いており、また描くべきであり、政治性など現実とかかわる主題を創作に取り込むことはそれ自体が作品の価値を落とすものであるという、幼稚でばかげた意見が散見されるが、事実は全く逆で、優れた創作とは、必ず絵空事の中に「我々の住む、この現実」を反映させている。現実と全く接点を持たない絵空事に、人は何も心を動かされなどしない。

文学とは、人間を描くものだといわれるが、人間とは社会の中に住む動物である。文学の領域は広く、例えばクレヨンしんちゃんのような子どもが見るものとされるアニメでさえ、「この我々が生きる社会」を反映させることで、面白くなっている。世界文学は、全てこの世界を映し出す鏡である。

だからこそ、作家は社会を見ていなくてはならない。足を動かし五感を働かせ、この世界の生の現実に触れなくてはならない。家の中に引きこもって文章を書いてばかりいる人間は決して作家ではない。「同志少女よ、敵を撃て」を書いた逢坂冬馬が、よくテレビに出ていたのは、別に目立ちたがりだからでも、本を宣伝するためだからでもなく、それがあの人なりに世の中と接点を持つための手段であるからだ。作家は世の中に対して責任を持つ。作品を世に放つ以上、責任を持つのは当たり前だ。昔の作家は、行動する作家であった。勢い余って自衛隊に突撃し、切腹した作家さえいたほどだ。あそこまでいくと行き過ぎな気もするが、とにかくかつて日本には作家がいた。

いた、という過去形なのは、文学の社会的な影響力の低下と共にそういう作家は少なくなってしまったからだ。現在の日本において、「国民文学」と言える立場についているのが漫画であることに、あるいはその双子であるアニメであることに、異論のある人は少ないだろう。

ただ、実際のところ、漫画やアニメの制作者たちがかつての作家たちのように世に対して物申すことを、歓迎しない風潮が、社会にはある。今の日本に溢れているのは、消費者である。彼らは、漫画やアニメに対して、ただ自分たちを楽しませてくれることだけを求めている。お説教など聞きたくないというわけだ。

もっというと、ここまで巨大となり、誰もが認めざるを得ない日本の文化となったにも関わらず、我が国における「漫画家」の地位は、かつての作家たちのそれに比して、低い。さらに現在の日本の「人気コンテンツ」の原作者となるような漫画家ともなると、その仕事の多くの部分が、「コンテンツの管理者」となってしまうという実態がある。

先日私が書いた「空をまとって」についての感想文にも書いたが、それはどう考えても「作家の仕事」ではない。今の日本において、「作品」として世に出されてしまったものは、それが人気を得てしまえばたちまち資本の手によって「コンテンツ」として食いつぶされてしまう。関連商品が市場に氾濫し、コラボが山のようになされ、SNSでバズり、そして飽きられれば消費者からも、企業からも捨てられ、次の「コンテンツの種」が探し出され、祭り上げられる。

ぶっちゃけ,消費者が一番悪いと思う。推し活と称してコンテンツに金を注ぎ込むだけで、作品を見た上でどう自分が生きるかという問題に向き合わない人たちが悪い。実際、日本の漫画やアニメには、社会に対する明確なメッセージは、しつこいぐらいに描かれているのにも関わらず、彼らは、その存在自体を否認する。少なくとも、否認する人が目立つ。そんな状況の中では、漫画家が、世に対して物申す存在となることは、難しいのだ。 

 逢坂冬馬は、おそらくは、かつての作家たちのような在り方を、今に復活させたいのだ。彼は姉との対談において、「作家は作品だけで自分の思いを語るべきだ」という思想への反対意見を述べ、自分の作品に込めた想いが曲解されないためにも、積極的に自分の意見を発信していきたいと述べている。僕の推測と、そこまで遠いことは言っていない。逢坂冬馬がこのようなスタンスをとることが可能だったのも、「同志少女よ、敵を撃て」という作品自体の持つ、パワーの証である。同作を読んだ人は、肯定的に評価した人とであれ、否定的に評価した人であれ、逢坂冬馬が「政治的な発言」をすることを、一切意外だと思わないであろう。 

 実際のところ、私は、フェミニズムについても、クィアについても、戦争と平和についても、「同志少女よ、敵を撃て」に内包されたそれらの要素について論じてきた人たちほど、詳細に、丁寧に語ることはできない。

 高原到という人が「同志少女よ、敵を撃て」を含めて日本の戦争文学全般(はだしのゲン、進撃の巨人、鬼滅の刃)を論じた「戦争論」という名著をぜひ読んでほしい。私には到底書けない種類のことばかり書かれている。 

 私が今、書きたいのは、例えば高原到さんのような人が書かないような切り口で、「同志少女よ、敵を撃て」について語る文章だ。

 高原到さんが、例えば僕のような語り口で「書かない」のは、「書けない」のか「書けるけど、その必要性が低いから書かない」のかはわからない。実をいうと、僕のような「語り方」で「同志少女よ、敵を撃て」について語ることが、世の中からどれだけ求められているのかもわからない。ただ僕は、僕にできることをやっていくことをやっていくしかないという冷酷な現実を前にして、おとなしく屈服するだけだ。

「同志少女よ、敵を撃て」という小説について、フェミニズムもシスターフッドもクィアも「戦争は女の顔をしていない」もろくに知らない僕が、唯一語れるやり方で語ることしか、僕にはできないのだ。「同志少女よ、敵を撃て」という小説について、僕が語る言葉は、これだ。

「2020年代になって、やっと日本の小説は、漫画に追いついた」 

 先ほど紹介した、高原到先生の著書「戦争論」の表紙を見てほしい。「同志少女よ、敵を撃て」と共に、戦後の日本で発表された「戦争」という主題に向かい合った創作物の名前が並んでいるのだが、そのタイトルは「はだしのゲン」「進撃の巨人」「鬼滅の刃」「チェーンソーマン」「機動戦士ガンダム」「デビルマン」……そう、全て漫画か、アニメである。戦後の日本において、国民一般に広く共有された「物語」の座に座っているのは、漫画なのだ。 

 私が今現在、小説について学ぶために通っている学校の講師の方が、言っていた。「日本には、国民文学と呼べるような、日本人ならば誰もが知っている小説がない。うちのかみさんは、それに相当するのは日本では漫画だといっている」 

 私も、その通りだと思う。

 なぜ日本という国で、漫画という表現がここまで巨大化し、発展したのかは、それだけで何冊も本が書けるほどの壮大なテーマであり、従って私が語ることはできないのだが、とにかくそういう状況であることは、私にすら語れるし、私にすら理解できることである以上、おそらく世の中の大半の人が同意してくれることだろうと確信している。 

 日本において、文化の中心は、漫画である。

 他の多くの国では文化の中心と言える椅子に座っている「文学」とか「小説」とか呼ばれるものは、我が国では、どちらかと言えばマニアックな、狭い範囲で愛好されているものといっていい。それは、単純に経済規模で見れば明らかである。

 漫画の方が、売れているのだ。

 それが逆に、漫画という文化にとって今、停滞を生む一因となっている。漫画だけを読めばそれだけで一生を費やしてしまうことができるから、漫画という文化の「外」に対する想像力が育ちにくくて云々……という話は、本題からずれるのでやめておく。 

 つまり「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」と同じ並びに立つことができるという点で、「同志少女よ、敵を撃て」は、日本の小説の中で、異色なのである。 

 何故に「同志少女よ、敵を撃て」は、それができたのか? これは言い換えれば、「同志少女」という小説は「何」を撃ちぬいたのか、という問いだ。 

 実際のところ、私がこの小説を手にとって読んでみたのは、書店に並んでからすぐにではなく、確か半年ぐらい経過してからだったように思う。最近はそうでもないが、その頃、つまり「同志少女」が出版された2021年頃の私には、新刊書を買うという習慣がなかった。本と言えば、文庫本しか読んでなかったし、それも基本的に「古典」と呼ばれる本しか読んでいなかった。

 とはいえ、書店の棚にずらりと並べられたその表紙に、目が吸い寄せられていたのは事実だ。セラフィマが銃口を除いてライフルを構えている、あの表紙である。

「同志少女よ、敵を撃て」というタイトルから、それが第二次世界大戦時のソビエト連邦を舞台にした小説であることは、容易に想像がついた。「同志」という言葉から、容易に共産主義が連想できるし、「少女」という言葉と「敵を撃つ」という言葉の並びは、第二次世界大戦においてソビエト連邦に多数存在した、女性狙撃兵を連想させる。もっとも、この連想は私がたまたま先の大戦の歴史を多少知っていたからできたことであって、多くの人ができることであるかどうかはわからない。「逢坂冬馬」という作者の名前には、見覚えがなかった。いかにも重厚な歴史小説を書きそうなペンネームだと感じたのを覚えている。

「独ソ戦とは、マニアックな題材を選ぶ作家だ」 と感じた。

 おそらくは売れないだろう、とも。

「同志少女よ、敵を撃て」が、世間で話題となっているということを知ったのは、確か2022年2月頃に読んだ、週刊文春に連載されている、林真理子のエッセイだった。

 2022年2月という日付を読んで、賢明な読者の方々はおそらく察しただろうが、ロシアによるウクライナへの侵略が始まった直後に書かれたエッセイで「昨年末、『同志少女よ、敵を撃て』という小説が出版され、話題を呼んでいる。第二次世界大戦時のソ連軍の女性兵士たちを描いたもので、フェミニズム的な要素もある。現代日本は、ちょっとしたソ連ブームだ」という意味の一文が書いてあった。

「へえー。あの小説、売れているんだ」 

 と、意外に感じた。

 それから、インターネットをのぞいてみると、特に意識したわけでもなく、「同志少女よ、敵を撃て」の話題をよく目にするようになった。作者である逢坂冬馬を、テレビや新聞や週刊誌と言ったメディアで目にする機会も増えた。私がSNSでフォローしている人たちも、よく話題にしていた。小説を書き始めたり、読み始めたのは、大学卒業後だという逢坂の経歴や、ロシア文学者の奈倉有里と姉弟だという情報も、メディアで目にした。

 いつの間にか、何故か、私はこの小説の話題を追い始めたのだ。書店で手に取り、レジに持っていく決断を下した直接的な理由は、斎藤美奈子の書評を読んだからかもしれない。その書評の中で斉藤は、けなしてもいないが、絶賛をしているわけでもない。そのスタンスが、私の興味を沸かせたのだ。 

 自宅で、「同志少女よ、敵を撃て」を読み始めた時、私の心を流れた感情は、「困惑」だった。

「漫画じゃん。これ」 

 そう。漫画だった。あくまでも比喩である。

 私がこれまで読んで漠然と抱いていた「小説」の、それも「高尚とされる小説」のイメージから、「同志少女よ、敵を撃て」は、かけ離れていた。例えばそれは、山崎豊子の「二つの祖国」を読んだときに抱いた感覚とは、明らかに違っていた。冒頭のプロットは、明らかに「鬼滅の刃」に似ていた。主人公が、平和な日常の中にいる。残虐非道な敵の襲来によって、平和は崩壊し、主人公の家族は殺害される。主人公は、既に戦いの渦中にいる者と出会う。そのものに導かれ、主人公は戦いへと旅立つ。真似たというよりはそれは、物語論の定番に沿っただけなのかもしれない。こうして書いてみれば、「進撃の巨人」の冒頭にも似ている。 ただ、私が「同志少女よ、敵を撃て」に感じた「漫画じゃん、これ」という感想は、単にプロットの共通項、だけから生じたものでは、多分ない。 

 Amazon.co.jpで「同志少女よ、敵を撃て」を検索すれば、メディアで目にするものとは、やや違った景色が見られるだろう。極端な賛否両論である。高く評価する肯定的なレビューと、低く評価するというよりかは激しく批判する否定的なレビューとに、くっきり分かれているのだ。 

 否定的なレビューは、ほとんど似たような表現が用いられている。

「内容が軽い」

「文章がひどい」

「人物描写に深みがない」

「これではまるでラノベだ」

「こんなもの、小学生でも書ける」

「こんなものを持ち上げる日本のメディアや小説家や本屋大賞が信じられない」 

 ……ざっと、こういう言葉ばかりだ。 

 現在の日本の、小説を読む人たちの間では、「ラノベ」とは、「酷い小説」の代名詞として使われている。決して、電撃文庫やスニーカー文庫から出ている小説だとか、アニメ風の挿絵がついているという意味で使われているわけではない。とはいえ、「同志少女よ、敵を撃て」という作品に対する「悪口」として、「ラノベ」という言葉をチョイスする人たちの感覚には、興味深いものがある。実は絶賛する意見よりも、批判する意見の方が、本質に鋭く迫っている……ということは、あり得るかもしれない。 

 大前提として、ある時代において画期的な表現とは、賞賛と同じくらい、批判にさらされる。画期的な表現が内包する「新しさ」とは従来の表現に慣れてきた人たちにとっては、グロテスクで、忌まわしくて、目をそらしたくなるものであることは間違いないからだ。宇野常寛という人の書いた「リトル・ピープルの時代」という本を読んでほしい。その中でも、特に村上春樹を取り上げた章を読めば、文壇にデビューしたての頃の村上春樹が、如何に冷笑と嘲笑と罵倒の的となっていたかがわかるはずだ。そしてまた、批判とは、ある程度多くの人の目にさらされたものだけに寄せられるものであることがわかるはずだ。誰も読まない小説は、誰も批判しない。

 同志少女に寄せられた多くの批判は、同作が2021年の日本における「国民文学」、広く大衆に読まれた小説であったことを証明している。 

 では「同志少女よ、敵を撃て」にある、「新しさ」とは何だったのか? それは必ず、グロテスクで、忌まわしくて、目をそらしたくなるものであるはずだ。新しさとは、そのようなものであるからだ。 結局それは、批判派の言うところの「ラノベのような部分」であったと考えるのが、最も適切であろうと考える。

 ラノベと呼ばれるものは、差別されていながら、極めてその定義があいまいな小説ジャンルである(まあ差別されるものとは、そういうものかもしれない)。そもそもそれが「ジャンル」と呼べるものであるという見解でさえ、同意しない人々は少なくない。彼らは、ラノベと呼ばれるものは、ただ単に電撃文庫や角川スニーカー文庫と言ったレーベルで出版される、イラストレーターによるアニメ風の表紙と挿絵のついた、中高生を読者層として想定した小説を指す言葉に過ぎず、「SF」や「純文学」と言った言葉と同列に語ることができる「ジャンル」などではないと主張するだろう。

 一方で、今世紀初めにラノベを論じた大塚英志や東浩紀といった人たちは、そうは考えなかった。彼らはラノベと呼ばれる小説の「文章」「物語」に着目し、これは「文学」と異なる、いや新しい「文学」といえる表現だと語り、「キャラクター小説」という言葉で読んだ。

 こういったことは大塚英志の「キャラクター小説のつくり方」「物語の体操」「ストーリーメーカー」と言った著作、あるいは東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」「動物化するポストモダン」と言った著作を読めば出会える主張だ。私が歪んで誤読している可能性も否定できないので、興味を持たれた方は、是非実際にこれらの本を読んで、その主張を読解してほしい。

 私の言うことを、何でもかんでも真に受けてはいけない。

「キャラクター小説」の定義とというのは煩雑だが、一言でいえば「文章の美しさには重きを置いていない」「キャラクターは基本的に、テンプレートに沿った上で、その枠内で人物像を構築する」といったところだろうか。少なくとも、世の中でラノベと呼ばれている小説は、こういうイメージで語られている。

 これは単純に、「読書に慣れていない人向けの、初心者向けの軽い、大衆的な小説」という意味ではない。いや、確かにラノベにそういう役割「も」負わされている/いた、という側面もあるが、私に言わせれば、一般的な小説と言われている小説に、ラノベよりもよほど「読みやすい」ものがいくらでもある。台詞と改行が多い小説のことだ。ただしここでいう「読みやすさ」とは、必ずしも「読者を作品世界に引き込む力の強さ」を意味するものではないことに、注意が必要だ。これは私も最近になって実感してきたことだが、「読みやすさ」と「読者を引き込む力」は、トレードオフの関係に、おそらくある。

 読みやすい文章は、その「弱さ」故に読み進めることができず、逆に「読みにくい」と言われる文章はその「強さ」故に読者を作中世界に引き込む。

 ラノベだと、「ソードアートオンライン」の第一巻を初めて読んだときに、冒頭の文章の「読みにくさ」に驚いた記憶がある。ここまでセリフも改行も少ない文章から幕を開けた小説が、10代の青少年に読まれているという事実に、だ。実際のところ、「読みやすければ人は読む」というのは、幻想である。人は馬鹿ではない。読みやすいからという理由だけで本を読んだりはしないのだ。読みやすい文章を書くのは、実は簡単である。情報量を減らして書けばいいだけだからだ。 

 ラノベをラノベたらしめるものとは、決して単なる「読みやすさ」「大衆性」ではない。「キャラクター小説」という言葉を使った人も、おそらくそれをわかっていたのだ。重要なのは、「キャラ立ち」である。

 と言い切ってしまうと、また複雑な議論が立ち上がってしまうし、実際のところ、「キャラ立ち」というものを、私自身がどこまで理解しているかと言えば心もとないのだが、ラノベと呼ばれる小説の中にも、出来の良いもの、悪いものの差というは当然あるが、少なくともどれほど出来が悪くても「キャラ立ち」がなされていないもの、少なくとも「キャラ立ち」というものに全く考慮がなされていないものはない、とは言ってよいと思う。

「キャラ立ち」というものが、ラノベにとって必須条件なのだとすれば、「同志少女よ、敵を撃て」は、堂々と「ラノベ」を名乗ることができるであろう。一例をあげるならば、「片付けが苦手」といういかにもわかりやすい特徴を用いて人物像を表現する、というのは、これは私にはラノベによくみられる手法であると感じられた。 

 つまり「同志少女よ、敵を撃て」の持つ「新しさ」とは、ラノベのような「キャラ立ち」を、一般文芸の体裁で出版された小説で行ってしまったことにあったのだ! などと結論づけてしまっては、なんというか、流石に「弱い」気がする。

 もちろん、その結論には「正しさ」も含まれてはいるのだが、なんというかそれでは、

「結局、ライトノベルコーナーに置かれるべき小説を、一般文芸コーナーに置いたのが新しかったってことっすか?」

 という新たな疑問を出現させかねない。それはなんというか、「新しさ」と呼ぶにはいささか心もとない。総菜コーナーに果物を置くことが新しいなどと言うものではないか。 

 結局のところ、「同志少女よ、敵を撃て」は「傑作」なのだろうか? それとも「駄作」であり、「ラノベ」に過ぎないのだろうか? 

 大前提として、何が傑作で、何が駄作とみなされるのかという問いに、普遍的で、万人が納得する答えなどありえようはずがない。「みんなが読んでいるから」などというのは、「傑作である」ことの証拠になどならない。

 もしそんな理屈を認めてしまえば、世界で最も美味な食品はマクドナルドのハンバーガーだ、という話になる。

「時の洗礼が、作品の価値を決定する」というのは、一つの意見である。だから古典というのは、面白い作品が多い。一時代に人気を博しても、時代の移り変わりとともに見向きもされなくなっていったものは、所詮一時的に大衆の熱狂を獲得しただけで「本物」ではないと見なす人は多い。その理由は「普遍性の欠落」にある。時代が変わってもなおも読み継がれる作品は「普遍的な面白さ」を備えていると見なされるのだ。 

 小説家とは、逆説的だが、「嘘が着けない人間」だとどこかで読んだ文章を覚えている。小説家は決して、自分が信じていないことを書くことができない。私だってこの文章を書きながら、「私はこんなことを、本当はちっとも信じていない」と考えて書き直したものがいくつもある。

 小説家は、自分が信じているものしか表現できない。それは「人間の真実」と呼ばれるものである。それは、地域や時代によって左右されない普遍性と称されるものだ。もちろん、「普遍性」を描いたものが評価されるのは、結局のところ、人間というものが地域によって、あるいは時代によって、容易に変わりうるし、変わってしまうものであるからだ。

 もしかしたら、ここ20年ほどの人類は、それまでの歴史上のどの時代と比較しても、圧倒的に「変わってしまった」かもしれない。インターネットやSNSがなかった時代の人間と、今の我々が、同じような精神構造を備えているなどありえない。地球の裏側に住んでいる人間と日常的に会話を交わすことができる時代など、これまでなかった。今や人類は、人類全体で一つの巨大な脳みそを共有しているも同然である。近代社会が全ての前提としている「自我」というものが、昔とは全く違ってしまっているとみるのは、決して妄想ではないだろう。そんな時代であっても、昔と変わらない「人間の本質」はあると思う。だからこそ、古典は今も、読まれるに値する価値を保っている。

 しかし、その価値を保ったままでいる古典の数は、少なくなってしまうかもしれない。

「人間」が変わってしまえば、かつて「人間」を描いた物語もまた、変わってしまった今の「人間」たちの目には、その価値が理解できなくなってしまう……というより、価値がなくなってしまう、と言った方が正しさに近いかもしれない。

 例えばの話、どこかの星に、地球人のように文化を発展させた宇宙人がいたとして、彼らの作り出した物語は、我々にとって価値あるものだといえるだろうか。無論、学術的な価値はあるだろう。しかし、我々が地球人の書いた文学を読んで受け取るような感動を、その物語から受け取ることができるとは、思えない。 

 そう。結局「同志少女はラノベなのか文学か」という議論には、はっきりいって意味などないのだ。

 仮にラノベだとしよう。しかしそうなれば、ラノベとは劣ったものだと見なす人にとっては否定的な見解となり、ラノベは文学よりも優れたものだと見なす人にとっては、肯定的な見解となる。 

 SNSの発達が明らかにしたものとは、結局のところ、「人類は分かり合えない」ということかもしれない。皮肉な話だが、コミュニケーションに伴うコストを大幅に下げて、ダイレクトに、スピーディに、人間と人間が繋がってしまうことによって、かえってお互いの「違い」を、私たちは知ることになってしまった。

 SNSを暇なときにでもちょっと覗いてみれば、我々は、我々の社会には「宇宙人」だとしか思えないような人たちが山ほどいるという現実に、直面するはずだ。少なくとも、私はそうだ。私とは感性も、価値観も全く異なる人々が、世の中には多くいる。

 そういった人のつぶやきに触れていると、「あれ、もしかして地球って、とっくの昔に人に擬態したエイリアンに乗っ取られていて、俺だけが本当の人間なのかな?」という錯覚にとらわれてしまう瞬間が、頻繁にある。きっと私のつぶやきを読んだ他の人も、「こいつ。エイリアンなのかな」と思うことがあるはずだ。似たような感覚を覚える人は、きっと多いはずだ。 

 そして、このような時代においては、「人間の普遍的な真実」を描く「文学」と呼ばれるものの権威は、もはや地に落ちているのかもしれない。

 人間が一人一人違うものだと、誰もが知ってしまっているからだ。

 もはや私たちは、明治時代に夏目漱石が書いた小説を読むよりも、SNSを一時間でも眺める方が、よほど人間について学べてしまうかもしれない、というのはさすがに極論かもしれないが。「戦争は女の顔をしていない」が現在の社会で、古典的名著として広く読まれているのも、実はあの本が「SNS時代のリアル」にフィットしているからかもしれない。この記事を読んでいる人にはあえて説明も不要かもしれないが、「戦争は」は、独ソ戦でソビエト連邦の側に立って戦場にいた、無数の女性たちの証言を集めた本だ。その構成は、どこか、X(旧Twitter)のタイムラインに流れる、無数の名もなく人々のつぶやきに似ている。「大きな物語」ではないのだ。「独ソ戦」という歴史上の巨大な出来事の渦中にいた、決して英雄ではない人たちの「小さな物語」の集まりだ。だからこそ、日々SNSに触れている私たち現代人は、リアルに感じるのではないか。 

 私は、発達障害者だ。だから定型発達をした人たちとは、物の感じ方、考え方という点で、決して埋まらない隔たりがある。私は自分の肉体的な性別と、自分自身が認識している性別との間に齟齬がないが、世の中には、自分の肉体的な性別と自分自身の認識の間に、齟齬や違和感を抱く人もいる。私は異性に性欲を抱くが、同性に性欲を抱く人もいる。マイノリティーの間でさえ、考え方の違いから言い争いに近い状態になっている景色もよく見る。

 もはやこのような時代にあっては、「人間の普遍的な真実を描くのが文学だ」という素朴な認識は、多分通じないだろう。いや、いまさらこんなことをNoteに書いている私こそ、とっくに頭の良い人たちが気付いていたことに驚いている間抜けに違いない。 

 おそらく、今の時代の「文学」とは「戦争は女の顔をしていない」のような表現だ。誰もが共有可能な「リアル」など存在しないということを当たり前の前提としたうえで、個人個人の目に映る、「小さな物語」を描くものが、文学と呼ばれる。

「同志少女よ、敵を撃て」が撃ちぬいたものとは、実は「これ」だった。 

 つまり、「こんな小説は所詮、ラノベに過ぎない」というレビューがAmazonの作品ページに溢れている現状自体が、実は同作が社会的に持っている意味の、最も端的な表れだ。その意味とは、もはや私たちは、「普遍的なリアル」など、別に小説を読むときに求めていないということである。

 この状況は、おそらくは、ここ20年か30年くらい、世界中でちょっとずつ進行してきた。「ハリー・ポッター」のような小説が世界中で読まれ、「涼宮ハルヒの憂鬱」がオタク以外の普通の人たちに受け、「君の名は。」「シン・ゴジラ」が邦画の興行収入のトップとなる状況は、ちょっとずつ進行してきた。

 今や、大人が特撮映画やアニメを見ることは、全く特別なことでも、恥ずかしいことでもなくなった。リアルに対する需要が、ないのだ。少なくとも、かつてほどには。 

 ここまで読んできた読者は、きっと「それでお前は、同志少女という小説についてどう感じているんだ? 良いとも悪いとも、全く述べていないじゃないか」と思うだろう。 

 私は、「同志少女よ、敵を撃て」についてもちろん、評価することができる。ただしそれは、いわゆる「文学」に対して肯定的に評価するようなものとは、おそらく違った種類のものとなるだろう。アニメや漫画を評価するときに使う言葉と、似た言葉を使うことになるだろう。私たちは、既に、そのような言葉でしか賛辞を贈ることができなくなっている。

 それが良いことか悪いことかを問うことすら、既に意味がない。「良い」「悪い」とは結局のところ、「基準」があって初めて成り立つものである。その基準は、法律であったり、社会的倫理であったり、私の嫌いな言葉だが、ふわっとした「空気」だったりする。

 しかし「基準」がないところには、良いも悪いも存在しない。

「自分はこれを良いと思う。だからこれは良いものだ」

 というトートロジーだけがあるのだ。

「『同志少女よ、敵を撃て』のようなくだらない小説が多くの人に読まれている今は、世も末だ」

 といった、Amazonでよく見かける言葉にも、意味はない。結局「昔はよかった。今は駄目だ」といった言葉でさえ、「昔はよかった」と言いえるだけの、「基準」の存在を前提としているからだ。

「『同志少女よ、敵を撃て』は、『何』を撃ったのか?」 

 それは、私たちがいまだに、普遍的な「リアル」の中に生きているという、幻想であった。

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