07.カズアキさんの推し
「圭祐、ここでは聞き役に徹することだ。先入観を捨てて、彼が本当に伝えたいことに耳を傾けてみろ」
助けを求めるおれの視線を察したのだろうか。カウンターの向こうから、フリッツ氏がさりげなく囁いた。
助言を貰ったおれは、急いで息を整える。息を吐いて、吐いて、それから吸って。心をしっかり落ち着けてからカズアキさんに向き合った。
「お話、もう少し聞かせてもらえますか?」
と優しい声で促すと、カズアキさんの表情もどこか和らいだ。それまでピンと張った糸のように張り詰めていた緊張感が緩んでゆくのがわかる。心の中でホッと胸を撫で下ろしたおれは、カズアキさんに話の続きをねだった。
「カズアキさんの推しの話、聞かせてください」
「……話していいのかな。でも、ずっと誰かに話したかったんだ」
躊躇いながらも嬉しそうに目尻に皺を作ったカズアキさんは、ゆっくりと話しはじめた。
「ボクね、まさか自分に男の推しができるなんて思ってもみなかったんだ。だから、はじめは戸惑ったよ。学生ならまだしも、二十歳超えて社会人になって、彼女がいたりいなかったりしていたボクが、まるでひと目惚れをしたかのように、あのひとに心を攫われたから」
心なしか弾んだ声で教えてくれる思い出話に耳を澄ませ、時折「そうなんですね」だなんて相槌を打つ。カウンターに肘をついて指を組みながら語られる話が、この先どんな風に捻れて拗れてゆくのかハラハラしながら、フリッツ氏にアドバイスされた通り聞き役に徹する。
カズアキさんの口は滑らかに、そして穏やかに推しを語ってゆく。
「もう別れたんだけど、当時の彼女に付き合って行ったライブで……落とされた。実は席はね、それほどいい席じゃなかったんだ。でも、ちょうどモニターの真正面でさ。曲の途中でメンバー紹介とコールアンドレスポンスをしてて、あのひとの表情も砕けてゆるゆるだったわけ。モニターによく映ってた」
きっと、何度も何度も思い返している記憶なんだろう。カズアキさんは心の底から幸せそうに頬を緩ませて、まぁるく笑った。
だからかもしれない、おれが違和感を覚えたのは。推しを語るとき、そんなに幸せそうに笑えるものなのか、と。カズアキさんの推しに対する純粋な好意に圧倒されて考える。ならばユキコさんは、一体、なんだったのだろう、と。
湧き上がったままべとりと張り付いた戸惑いは、続きを聞いたら解消されるだろうか。おれの口は、聞き役の役目から逸脱して無意識に質問を投げていた。
「モニター越しに見てたんですか?」という問いに込められていたのは、そんなことだけでいいのか、という懐疑的な思い。けれどカズアキさんは、夢見るようなうっとりとした目をしながら頷いた。
「そうだよ。だから見たんだよね、ボク。あのひとが踊り出す前に、祈るように目を瞑って、曲が元に戻った瞬間にパフォーマーの顔になったのを。さっきまでのゆるい顔とは違って真剣な顔で踊りはじめたのを」
だからあのときのカメラマンには、報奨金を出したいくらいなんだけど。だなんて笑って言うカズアキさんの目の奥では、興奮の炎がチカチカと燃えていた。ユキコさんが宿していた暗い炎とはまた違う清廉な光だ。
まさか、そんなことって、ある? 口を開けば戸惑いが飛び出しそうなおれの肩に、フリッツ氏の手がそっと添えられたから。おれはぎりりと奥歯を噛み締めて踏み止まった。
「……そのあとのステージは、もう釘付けだよ。あの日の熱狂が、ボクの中でまだ続いてるんだ。距離なんて関係ない。あのひとがどこにいて、どんなパフォーマンスをしていても、すぐにわかるようになったから」
そう告げて、カズアキさんは深く、大きく、味わうように息を吐いて、吐いて、それから吸った。幸せそうに語るカズアキさんの声が遠く感じる。まるでおれかカズアキさんのどちらかが遠い場所にいるような。
おれの戸惑いや狼狽になんて気づかずに、カズアキさんは満足そうにひとつ頷いて、とても穏やかな目をおれに向けた。
「ボクはあの瞬間を、スイッチが切り替わったあの瞬間を目撃したから、あのひとを好きになった、ってわけ」
おれは「……その人のファンになったんですね」と、返すのが精一杯だった。肩に感じるフリッツ氏の手の重みだけが、ふわふわと飛んでいきそうな複雑な心を繋ぎ止めている。
「いや、ファンではない」
おれの相槌を否定するような断定的な言葉が響いた。フリッツ氏だ。そうしてカズアキさんも同意するように、にこやかに首を振った。
「そう違う、ファンじゃないよ。あのひとはボクの推しになったんだ」
「推し……とは」
「圭祐くん、君、若いんだからスマホで調べてみなよ」
カズアキさんも若いじゃないか、という反論を押し殺して、言われるがままに林檎のマークがついたスマートフォンを取り出した。検索サイトで『推しとは』を入力して検索する。数秒も経たずに返ってきた結果を要約すると、推しというのはこういう意味らしい。
いわく——
「んんん……単に好きってだけじゃなく、強い支持や憧れを持っている? 応援したり支えたいと思う気持ちや、他人に勧めたいと思うほどの強い好意……?」
「加えて、相手と距離を詰めたいと思う気持ちや、親密な関係になりたいという見返りを求める感情を持つことは少ない人間をいう」
フリッツ氏がさりげなく加えた言葉に、あれ? と思う。
推し活と称しておれの周辺を嗅ぎまわり、バイト先に押しかけて店に迷惑をかけていたユキコさんのあの行動はなんだったのか、と。距離を縮めたいだとか、見返りは求めないだとか。そんなことはまったくなかったぞ、と。
だから、湧いた疑問がいつの間にか口から飛び出していることに気づかなかった。
「……距離を縮めたいと、思わない? 本当に?」
「本当だよ。ボクは別にあのひとの視界に入りたいわけじゃない。あのひとのプライベートに触れたいとも思わない。あのひとが輝く場所はボクの隣じゃないからさ。遠いところで輝いていてほしいだけなんだ。ボクはそれを応援したいだけ」
「カズアキさんが頑なに『ファン』じゃなくて『推し』っていう言葉を使うのは、なにか意味があるんですか?」
「本音を言うと、ファンって自称するのも他称されるのも気恥ずかしいんだよね」
カズアキさんははにかむように笑った。
「ボクはさ、『推し』って言葉を知って、救われたような気がしたから」
「救い……ですか」
「そう。推しって言葉はさ、主体性が自分にあるんだよ。ファンって言葉だと、あのひとに所属しちゃう気がする。あのひとのファン。よりも、ボクがあのひとを推す。ボクの推し。ボクが推したいから推す、のほうがボクに合ってる」
カズアキさんの目は、表情は、先ほどとは打って変わって真剣そのものだった。
推しとファンという言葉が持つ意味の違いを意識したことなんて、今までなかった。おれに取っては同じ意味に思える言葉が、カズアキさんにとっては全然違っていて、その違いに救われたなんて。まるで目から鱗が落ちたかのような感覚だ。
カズアキさんは少し泣きそうな顔で微笑みながら、言葉を続けた。
「男のボクが、男性のあのひとに好意を抱いてもいいんだって思えたんだ。自分で自分を許せた。自分の好きなものを好きだと言える。それで充分なんだよ。だから認知されたくもないと思ってる」
切々な思いを聞き届けたおれは、けれど、ふと湧いた疑問を口にしていた。
「じゃあ、なんでカズアキさんは、その推しに手紙を書こうとしてるんですか?」
真摯に認識されたくないと語りながら、手紙を書きたいだなんて矛盾している。認知されたくない、認められたいとは思わないと言いながら、なぜわざわざ手紙を送ろうとしているのだろう?
はじめは純粋な気持ちで『推し』に接していても、ユキコさんのように歪んでしまうものなのか。推しに接触したいと思うようになるものなのか。
おれはゴクリと喉を鳴らした。カズアキさんがどう答えるのか、じっとりと汗で濡れた両手を握りしめて、ただ待った。
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