しるし
疋田ブン
第1話
まず、5月12日の話からだ。
手島数(てじますう)太(た)は、京王線代田橋駅のホームで、12時4分着の電車を待っていた。数太は新宿の服飾専門学校に通う学生だ。立っていたのは、4号車の4番ドアーが停まる位置だ。そこはラッシュ時なら混雑する、バスタ新宿方面に便利な位置だった。
昼過ぎのホームは閑散としていた。数太の周りには、サラリーマン2人と子供連れの主婦がいた。いや他にもいた。5メートルほど八王子寄りの5号車の1番ドアーが停まる位置に、一人の女がいた。女の髪は長かった。しばらくシャンプーをしていない感じだった。紺色のロングカーディガンの裾から、グレーのタイトスカートが覗いていた。ストッキングは履いていなかった。サンダルをつっかけていた。サンダルの甲に、チェックのベストを着たウサギのキャラクターが付いていた。サンダルは一目で安物だとわかった。
(あんなに型崩れしたカーディガンの下には、きっと、汚れたTシャツを合わせているな)と数太は想像した。数太は服飾デザインを勉強していた。だからそう言う事に勘がさえた。そして、
(顔をチェックするまでではないな)とウサギのキャラクターのサンダルで判断していた。
「まもなく、3番線に、新宿行き電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がって、お待ちください」
数太は八王子方面を見た。赤に青のラインの電車が近づいて来た。長い髪の女は、黄色い線の外側に1歩出た。
(危ないなぁ)
数太の顔を風が押した。
ついさっき、ヘアーサロンでカラーを入れたばかりの髪が気になった。
目を細めた。
長い髪が女の目尻を打っていた。
女が振り向いた。
振り向いた身体の重心は不自然だった。
目と目が合った。
女は笑った。
すがるような、たのむような、粘った笑顔だった。
数太の目は真ん丸になった。
(割と、タイプかも……。うぅーん。オレより5つぐらい年上かな)
数太は、もうすぐ20歳になる。
電車がけたたましく警笛を鳴らした。
女の身体が完全に斜めに傾いた。
数太は身体が浮いたように感じた。
(これ自殺ってヤツかよ。マジかよ。オレ、自殺の場面に遭遇してしまったのかよ)
2人のサラリーマンも、子供連れの主婦も息をしていなかった。
電車が急ブレーキをかけた。
嫌な音がした。
電車の車輪に、【キィーン!】とギザギザの吹き出しが貼り付いたようだった。
(レールから火花が飛んでいる。本当に、火花って出るんだ)
火花に気がとられた一瞬、女の事は忘れていた。
女の足がホームから離れた。
電車がヒステリックな警笛を鳴らした。
(あっ!)
数太の手が伸びた。
気持ちが女を助けようとした。
女は数太に笑みを向けたままだった。
主婦は「きゃー!」と叫んで子供の目を塞いだ。
電車は鋭く軋む音をたてた。たてて、4号車の4番ドアーの印の所で停まった。そこはつまり、数太の前だった。警告サイレンがホームに響いた。あちこちの黄色灯がクルクル回った。
(マジかよ……)
数太は後ずさりした。駅員が駆け寄って来た。
「マグロに布を掛けろ」
年配の駅員が若い駅員に言った。
(マグロって……)と数太は思った。(マグロって、死体のことかよぉ?)
「布ですか?」
若い方は経験の浅い駅員であったのか、ひどく動揺していた。
「マニュアルにあっただろう」
「あっ、」
「忘れて来たのか。ボケッ! すぐ持って来い」
年配の駅員が怒鳴った。若い駅員が走り去った。運転手が電車から出て来た。年配の駅員は運転手の方に行った。
(マグロになっているのかよ)
数太の心臓がドクドク音をたてた。
(マグロって、どんなになって、マグロになってい…い…、いるのだろう。2歩も歩けば、マグロが見える……)
数太は2歩前に進んだ。
「スゲェ―」
死体はバサッと叩きつけられたようだった。
手前のレールのすぐ向こうに女の頭があった。
血に濡れた長い髪が目に飛び込んだ。
それ以外はよく見なかった。
「スゲェー」
数太はその現場をスマホで撮影した。
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