王国じまい、はじめます!
七嶋璃
身替りの王太子妃
第1話 妹の駆け落ち
「カタリナが駆け落ちした?」
息せき切って自室に駆け込んできたマリアムの報告を受けて、セシリアは大きな声を上げ、座っていた椅子から思わず立ち上がった。
マリアムは幼い頃から仕えてくれているが、こんなに慌てている姿ははじめて見た。
「どう、して」
立ち上がった椅子に再び力なく腰を下ろす。
セシリアの年子の妹のカタリナは一週間後に王太子との婚約の儀を控えていた。それを見届けた後にセシリアは修道院に入ることになっていた。
今頃両親と兄は大騒ぎだろう。
状況が全く変わってしまったのでセシリアもこのまま修道院に、というわけにはいかないだろう。セシリアは深い溜め息を吐いて言った。
「私に何かできることはあるかしら」
「まだわかりません。旦那様の判断待ち、ということになります」
「そうよね」
セシリアは再び深い溜め息を吐いた。吐く気がなくても出てしまう。
「お茶を淹れてまいりましょう。旦那様方の様子も見てまいります」
「頼むわ、マリアム」
確かにカタリナは考えなしに行動してしまうところはあるけれど、こんな大それたことをするとも思えない。どうして、という気持ちとこれから先の不安で気分が悪くなってくる。
気分を落ち着けようと大きく深呼吸して顔を上げると、壁にかかった二着のドレスが目に入った。
一着は婚約の儀で着る予定だった若草色のドレス。修道院に入るので一度しか着ないのだから、ありものでいいとセシリアは言ったのだが、最後だからと母が新調してくれたものだ。
もう一着は修道女の簡素な黒いドレス。どちらももう着ることもないだろう。
妹のカタリナが王太子妃になると決まる前から、セシリアには修道女になるということを決めていた。
本来ならセシリアも富裕な貴族か商人に嫁いだほうが家のためになるのだが、こどもの頃に神隠しにあったという噂が立ってしまったセシリアにはなかなか良い縁談がなかった。それで修道女になることを決めたのだが、カタリナが王太子妃になるという前提が崩れた以上、名ばかりの貧乏大公家の娘のセシリアが自分の思い通りの未来を選べる、というわけにもいかないだろう。
セシリアの噂を知ったうえでもなお大公家と姻戚になりたいというあまり評判のよろしくない富裕な商人などはいくらでもいる、より好みしなければだが。
見るとはなしにドレスを見ていると、お茶の支度をしたマリアムが戻ってきた。
「マリアム、お父様たちは」
「まだ話し合っておられます。しばらく待ちましょう」
マリアムがお茶を入れる。紅茶と微かにハーブの香りがする。マリアムが庭で摘んできてくれたのだろう。
細やかな気遣いに感謝しながらカップを口に運ぶ。腹の中がじんわり温まり、やっと息がつけた気がした。
「甘いものも落ち着きますよ」
マリアムに勧められるまま、糖衣のたっぷりかかった小さなケーキを口に入れる。濃厚な甘みが口に広がり脳を刺激する。
うちにケーキがあるなんて珍しい。婚約式があるからかしら。
舌に残る甘さをお茶で流し込み、セシリアは椅子から立ち上がった。このまま手をこまねいているよりも、自分にできることがしたい。
「カタリナには悪いけれどなにか残っていないか部屋を探させてもらうわ。マリアムも手伝って」
セシリアとマリアムは、自室を出てカタリナの部屋へと向かった。
カタリナの部屋は鍵がかかっておらず、すんなりと開いた。
鏡台の上にヘアブラシや使いかけの香水瓶が置いてあり、今にもカタリナが出てきそうだ。
セシリアは他のものには目もくれず、まっすぐに寝台へと向かった。
宮台の上段、左端の引出しを取り外す。引出しの長さは宮台の奥行よりも短く、奥に物が隠せるようになっている。カタリナが大切なものを隠す場所はこどもの頃から変わっていない。
引出しを取り外したあとに手を差し入れる。かさり、と指先に紙が触れ引っ張り出す。
小さく折りたたんだ紙片を広げると、セシリアに宛てて、こどもができたのでこどもの父親と逃げますという短い文章が、カタリナの文字で書き付けられている。
頭から血の気が引いていくのがわかった。ふらりと揺れたセシリアの上体をマリアムが支える。
「セシリア様、お座りください」
マリアムが引き寄せた椅子に座る。紙片を握った手が氷のように冷えている。
これでカタリナを連れ戻して王太子妃にするという解決方法は消えた。
こうなれば正直に話して破談にするというのが最善だろう。その後、大公家がどうなるかわからないが。
とりあえず、父や兄に知らせなければ。
父と兄もカタリナを連れ戻そうと算段していることだろう。
だがカタリナにとっても今連れ戻されてもいいことは一つもない。
子の父親と別れさせられたるのは確実だし、生まれた子だって里子に出されるかもしれない。カタリナにとって悪いことしか浮かんでこない。
ふうっと息を吐き、ひじ掛けを支えにして立ち上がる。
「セシリア様、もう少し休まれては」
「大丈夫、早くお父様に伝えなくては」
父と兄が話し合っている書斎へ向かう。まだ体が小刻みに震えているのがわかるが、ゆっくりしてはいられない。
書斎の扉をノックし、返事を待たずに開け放つ。父と兄の視線がセシリアに集まる。
セシリアはその視線を無視したまま、父が座っている書斎机に近付きカタリナの書き置きを差し出した。
書き置きを見た父は頭をかかえ、兄は言葉にならない唸り声をあげた。
「カタリナのことは探さないでいてあげてください」
「それどころではない。今後の方策を考えなければ」
「妊娠しているとなれば連れ戻したほうが事態が悪化する。身を隠してもらっていたほうが、シーラッハ家にもカタリナにもいいはずだ」
父は頭を抱えたままだが、兄のコンラートがセシリアに答えてくれた。
自称に近い詩人の父と違い、駆け出しとはいえ文官となった兄のほうがいくらか世慣れている。
「方策もなにも正直に打ち明けて破談する以外にないのではありませんか」
「今さらそんなことできるわけないだろう。大公家の家名に泥を塗るようなことなど」
「小手先のごまかしでなんとかできるとは到底思えません。本当のことがわかってしまったときの損害のほうが大きいのではありませんか」
「ばれなければいいのだろう。ばれなければ」
「そんな方法が本当にあるとお思いですか」
「それは……今から考える」
「破談にするなら早い方がよろしいのでは。私もお役に立てるかどうかはわかりませんが、できることはなんでもやります」
「なんでもする、か」
父はそれきり頭を抱えたまま黙り込んでしまった。沈黙が流れる。
「お兄様、私はとりあえず戻ります。なにか決まりまし……」
「そうだ」
セシリアの言葉の途中で、突然父が大きな声で言い顔を上げる。
「セシリア、お前が王太子に嫁げばいい」
「は?」
「父上?」
セシリアとコンラートは同時に声を上げた。
「セシリアとカタリナはよく似ている。髪の色が同じならば、後ろから見れば儂は区別がつかん。体つきだけではない面差しもよう似ておる」
「いや父上、さすがにそれは」
「お父様、そんなものはすぐ露見します」
「いったい王宮の誰がセシリアとカタリナの区別がつくというのだ。上級学校で同じだったものは貴族や大商人の娘たちばかりで、
確かに父の言うとおりだ。上級学校は貴族や大商人が通う学校で男女は別となっているので、セシリアとカタリナの顔を知っているのは貴族や大商人の娘だけ、と言っていい。そういう娘たちは学校卒業後、遅かれ早かれ縁付いて同じような家に入ってしまう。そして王宮や春宮に来ることはほとんどない。
社交界もセシリアは修道女になると決めていたので全く参加せず、カタリナは上級学校を卒業してすぐ王太子との縁談があったので2、3度ほどしか参加したことはなかった。
「確かにそうかもしれませんが、お兄様はどうお考えですか」
「そうだな。あまりいい手とは言い難いが、正直にカタリナが逃げたと言った場合、この家がどうなるか全く予想がつかないのがな」
コンラートは眼鏡をはずし、目頭を抑えた。
現在の王はなかなかの気分屋でいうことがころころと変わる。うまくいけばお咎めなしということにもなるだろうが、最悪の場合大公家取り潰しということもないとはいえない。王の気まぐれはなかなか苛烈でセシリアが物心ついてからずっと国の情勢は不安定だ。当の王太子の噂は全く聞こえてこないので、どういう人物なのかはセシリアにはわからない。
「そもそも母上がどうおっしゃるか」
「そういえばお母様はどちらに?」
「エレオノーレは寝室だ。珍しく塞ぎ込んでいてな」
「そう。やはりお母様の意見も聞いたほうがいいのでは」
「そうだな。追い打ちをかけるようで気が引けるが報告しないと後々もめそうだからな。とりあえず行くか」コンラートが言う。
シーラッハ家は母によって切り盛りされていた。世事に疎い詩人の父だけだったら実入りの少ないシーラッハ家はとっくに破産していただろう。
貧乏ながらもなんとかやっていけているのは、ひとえに母のおかげだった。
父を書斎に残し、セシリアとコンラートで寝室へと向かう。
ドアをノックしてしばらく待つと母が顔を出した。髪が乱れ顔色が悪い。
「母上、お休みのところすいません。これを」
コンラートがカタリナの書き置きを母に渡す。
母は紙片を開き中を確認すると、ぐっと手の中に握りつぶした。
「旦那様と話をします」
そう言うと母は父の書斎へと向かった。セシリアとコンラートも後を追いかける。
さっきまで塞ぎ込んでいたとはとても思えないほど足が速い。
母はノックもせずに書斎のドアを開けると父にくってかかった。
「これはどういうことですか」
「いや、儂も初耳だ。さっき知らされた」
「どうなさるおつもりですか。カタリナはもう王太子妃にはなれないのですよ」
「どうもこうも、儂はセシリアを代わりに嫁がせればいいと思うのだが」
「セシリアを……」
母が書斎に入ってきたセシリアをまじまじと見る。セシリアは手際が良く多少強引なところもある母が嫌いではなかったが、値踏みするように見られると身がすくむ思いだ。
母はしばらく黙ったままセシリアを見つめたあと、「しばらく考えさせてください」といって再び寝室へと引っ込んでしまった。
「だそうだ。エレオノーレに従うということでいいな」
父が言い、セシリアとコンラートはそれに従うしかなかった。ふたりで書斎を出る。セシリアはすがるような目でコンラートを見たが、兄は首を横に振りながらこう言った。
「母上の決定次第だが、覚悟はしておいたほうがいいだろう。とにかく今は待つしかない。大分遅くなってしまったが私はとりあえず出仕してくる」
「はい……」
コンラートと別れ、セシリアは自室に戻った。待っていたマリアムにことの顛末を話す。
「大変でしたね。すっかり冷めてしまったのでお茶を淹れなおしてまいります」
マリアムが出ていくと、入れ替わるように母が入ってきた。
「お母様……」
立ち上がりかけたセシリアを母が手で制す。セシリアはそのまま椅子に腰をおろした。何を言われるのかと固唾を飲む。
母はなんでもないことのように言い放った。
「あなたがカタリナの代わりに春宮にいってちょうだい」
やっぱりという気持ちと、本当にそれでよいのかという気持ちがないまぜになって何も言えなくなる。
「支度は私が全部やります。あなたは心づもりだけしておきなさい。どこに出しても恥ずかしくない娘に育てたのだから」
「……お母様、本当にうまくいくとお思いですか。もし私がカタリナではないとわかってしまったら」
「そのときは私が責任を取ります。あなたは今の王の恐ろしさを知らないから。このまま正直に言うにしても、あとで発覚するにしても処断はそのときの王の気分次第。ならば一か八かの策にかけてみるのもいいと思ったまでです」
王の気まぐれはセシリアにはぴんと来ないが、母には身に染みているのだろう。
母は伯爵家の出だった。母曰く、つまらないことで取り潰しになった、と。セシリアが生まれる前の話だ。
そのような大きな事案を経験したことがないが、国の方針がころころと変わり非常に不安定だというのはセシリアも感じるところだ。
「そうは言っても最終的に決めるのはあなたよ」
「私、ですか。そんな大きな決断は無理です」
「確かにシーラッハ家にとって大きな決断ですが、それ以上にあなたの将来が決まる大切な決断です。あなたが決めないと」
母は首を振ってきっぱりと言った。そしてセシリアの肩に手を置き、ゆっくりと言った。
「よく考えて、明日の朝にあなたの考えを聞かせて」
母が立ち去り、セシリアが部屋にひとり残された。
正直、王太子妃という立場は荷が重すぎる。それに露見した場合のリスクも大きい。しかし家のことを考えるならば引き受けるべきなのか。
セシリアはあれこれと考える。自分の将来、家の立場、カタリナのこと、いったいどうするのが最善なのか。
明日の朝までまだまだ時間はたっぷりある。
セシリアは椅子に座り直し、なにが一番良いかを考え始めた。
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