X-it(エックス-イット)
向愛水哉
第1話 質屋神《しちやがみ》の話
「―ねぇ 陸、質屋神の話って知ってる―?」
「―知らない。なにそれ? なんか勧誘しつこい団体みたいな?」
「そういうのとは違って、…都市伝説みたいなものかな?
―3カ月前、東京のある質屋が買い受けた
…それが人間をモノに変えてしまう能力を持つ神様だったんだって。
それで その質屋の人は、みんなモノに変えられてしまったみたいなの。
―モノに変えられた人は 周りの人の記憶からも消えてしまって―
その質屋がどこにあったか、今では誰もわからないの。
―それでも その質屋と取引があったところでは、帳簿上 謎となる
取引先がわからない数字が現れるって話―」
ここまで言って、夏美は恋人の顔を窺い見る。半信半疑という面持ちだ。
「―経理担当者の間じゃ、最近有名な話よ―」
ふぅん…と感心した風に唸って、陸が問いかける。
「―夏美のとこはどうなの? 謎の数字、出たの―?」
「―ふふ、数字が合わないなんてしょっちゅうよ。」
大人びた微笑みを浮かべ、鏡の前で化粧水の瓶を傾ける、恋人の美しい指先を眺める連城陸は、1日の終わり、彼女と他愛ないことを語り合う、このひとときが好きだ。
今宵それが いつもより短いのは他でもなく、その合わない数字のせいだったのだと彼女は改めて伝えたくて、こんな話をしたのだろうか。
「…でも なんか、可哀想だね、モノに変えられた上に 誰からも忘れられちゃうとかさ…、」
「―ほんとよね。
―でもこれ、ただ可哀想で終わる話じゃないらしくて―、
なんでも、その質屋さんを誰かが見つけて 早く助けてあげないと、
いずれは東京じゅうの人間が、なにかのモノに変えられてしまうってことなのよ―、」
「―え?、なに? そっち系のハナシ?
そんなん無理じゃね? 相手は神様なんだし、そもそも どうやって助けるん?、」
「…そうよねぇ。でも ほら、あるじゃない?モノに命を吹き込むヒトとか、
モノのココロ?がわかるヒト? みたいな?、」
「あー、なんか職人系の?」
「そう、そういう人なら その神様の力に対抗できて、質屋さんを助けられるんだって、噂によると…」
時計の針は1時に近付き、目覚ましのベルが次に鳴り響くまで あと5時間と少し。
ドライヤーを諦めた夏美はタオル地のナイトキャップに長い濡れ髪を束ね入れ、
恋人が待つ寝台へと歩みを進めた。サイドテーブルに雑誌を置いて、陸は寝具を捲り夏美を招き入れる。とはいえ ここは彼女の部屋で、総ては彼女のものだった。
「だからさ、陸とかどうかな?」
夏美は愛しい恋人と額を突き合わせ、悪戯っぽく彼の瞳を覗き込む。
「―え?」
「陸って超絶技巧で名を馳せた、知る人ぞ知るピアニストだったわけじゃない?
いわばピアノの職人で、楽譜の音符を生きた音楽に生まれ変わらせる天才だったからには、適正あると思うんだよね、質屋さんを救出する人材として―」
「…どこから突っ込んだら良いやら…」
頭を抱えつつも笑顔を取り繕いながら、ため息交じりに陸は答える。
「―あのさ、都市伝説なんだろ?、単なる。なんで俺をそんな神サマと戦わせたがんの?無理だし。だいいちピアノの職人ていうなら調律師さんとかのが合ってる気するし、…俺がピアニストだったのなんか、もう ずいぶん前のハナシじゃん…、」
「でも私としては~、陸ってカッコいい正義の味方になる素質十分のヒトだし~、
そういうカツヤクをしてくれたら嬉しいかなぁ~?って思うわけよ。」
ベッドの上で、向かい合わせに座って、そんな与太話の中でも恋人を英雄に仕立てたいらしい夏美は熱心に説き伏せて来る。酔っている訳でもないのに。
ここで陸は反撃に転じる。
「…案外ソッコーで返り討ちに遭ってモノに変えられるかもよ?
―どうする? 俺 夏美を縛るヒモとかにされたら―」
陸の瞳は、濡れているように潤んで黒い―。その瞳で、仮に彼女を縛るなら、どこに
絡まり どこに巻き付くか、算段をするように見つめられたら―
たまらず夏美は身を捩る。
「―うわ! 渾身の自虐ネタくる!? しかもエッロ!!
ダメですよ、陸さん、私、明日も早いんですから!」
「わかってます。だから この話はここまで―。」
ちゅ…と音を立てて夏美の唇に軽く口づけると、
「おやすみ」
と言って陸は壁のほうを向き横たわった。
夏美は微かに瞳を潤ませ、そんな彼の背中を見つめる。
連城陸がピアノを弾くことを辞めてから1年と10カ月になる。
彼が夏美のところに転がり込んでからも早や1年―。
実際 今の彼は定職にも就かない。夏美は彼の情婦だ―。
―それでも彼をこの世に繋ぎ止めることが出来たのは、多少は自分の功であるという自負が彼女にはある。今は随分穏やかに、本来の彼らしい気さくな青年に戻ってくれたが、ひところの彼は、ピアノもろとも自分の命すら捨てかねない状況で、彼がそうなった理由を朧げながら夏美は知っていた。だからこそ、彼女は彼を捨て置くことが出来なかった。
こうなる前は、彼女の一方的な片思いだった。友人を介して、名前だけは覚えられていたぐらいの存在―。連城陸は、誰をも魅了してやまない優れた音楽的才能と、
人目を引く姿形の持ち主だった。ひとたび白と黒の鍵盤の上に舞い降りれば、その手は翼を持つ鳥のように飛ぶが如く自由に跳ね、聴く者の胸の内に無限に拡がる各々の楽園を夢想させた。
しかし今 その右手は永遠に失われてしまった―。
それ故 彼は今 自分の掌中にある―。
―なにも悲しいことはない―。
次に目が覚めれば、また煩わしく油断のならない労働の時間が待っている。
今の彼は、そんな彼女を気遣って、欲に任せた営みを諦めてくれる、
優しく得難い恋人だ。それは間違いない。
けれど その夜2人は いつになく、眠りに就いてしまうまで、
背中合わせのままだった。
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