第6章:「後悔することが多すぎる…」
第6章:「後悔することが多すぎる…」
エゼキエルは、小さくて厄介な少女――イシュタルのことを考えていた。すると突然、機械のような女性の声が頭の中で響いた。その声は完全に機械的ではなく、人間らしさと機械的な冷たさが入り混じった、奇妙なハイブリッドな音色だった。
不思議なことではあったが、エゼキエルは特に気にしなかった。そもそも、自分の反射と会話を始めたあたりから、自分を正気だとは思っていなかったからだ。声が聞こえるなんて、普通なら精神状態がまともではない証拠だろうと誰もが思うに違いない。
しかし、その声は再び彼の脳内で響いた。
《対象を処理中…》
その言葉に、エゼキエルは一瞬動揺した。自分の狂気がさらに深みにハマったのかと思ったが、それだけではなかった。この声には聞き覚えがあったのだ――そう、これが初めてではない。二度目だ。
何なんだ、この声…いや、それよりもなぜ聞こえる?
エゼキエルの困惑は当然のものだった。自分の狂気が新たな段階に到達したのか、それとも本当に何か異常が起こっているのか――もはや自分では判別がつかなかった。
焦る心を抑えつつ、彼は首をイシュタルの方に向けた。あの声を聞いたのは自分だけなのか、それとも彼女にも聞こえているのか。それを確認できれば、自分が本当に狂っているのかどうか判断できると思ったからだ。
だが、その視線の先で彼が目撃したものは、まさに予想外の出来事だった。
制服姿のイシュタルが信号がまだ青のままの道路に向かって倒れ込んでいたのだ。その驚愕の表情が、エゼキエルの網膜に焼き付けられる。
まるでハリウッド映画のアクションシーンのように、すべてがスローモーションで進んでいるかのように感じられた。しかし、これは演技ではない――現実だ。
彼女の倒れ込む様子を見つめながら、エゼキエルは背筋が凍るような光景を目撃した。何者かが彼女の背中に手を伸ばし、それをゆっくりと引き戻しているのだ。それを見て、エゼキエルは即座に理解した。これは偶然ではない。誰かが彼女を突き飛ばしたのだ。
俺だけが不運ってわけでもなさそうだな…
そう思った瞬間、再び頭の中であの声が響いた。
《対象データを処理中。》
だが、彼にはその声に耳を傾ける暇さえなかった。
犯人が誰なのかを確認する前に、まずはイシュタルを救うことが最優先だった。だが、車が来ていないか確認しようとしたエゼキエルは、恐怖に凍りついた。彼の視界には、通常よりも速度を上げた大型トラックが迫っていたのだ。
時間がない…!
「えっ? どうすればいいんだ?」
「わからない!どうしたらいい!?」
「誰かが何かしなければ、トラックに轢かれてしまう!」
エゼキエルの頭は疑問と混乱でいっぱいだった。彼の心は恐怖と不安に支配され、吐き気すら感じていた。胸は激しく鼓動し、一瞬、体がふらつきそうになった。
「誰か助け…!」
振り返りながら助けを求めようと叫んだ。しかし、周りの人々は恐怖で固まり、誰一人として動こうとはしなかった。それを見て、彼の不安はさらに増幅する。
くそっ! 俺が何とかしなきゃ!
このまま何もしないで終わるのか?
《データ処理中》
転んだ衝撃で混乱していたイシュタールは、ようやく地面から起き上がると、その顔には完全な困惑が浮かんでいた。我に返ると同時に、彼女は甲高いクラクションの音を耳にし、音の方向に目を向けた。
目の前、ほんの数メートル先には、猛スピードで迫りくるトラックがあった。避けるには遅すぎる。それに、彼女の足は震えたままで、全く動こうとしない。
エゼキエルも同じような状態だった。体が言うことを聞かず、パニックで完全に硬直していた。
また役立たずのまま終わるのか? と、彼は落ち込んだように考えた。
「違うだろ!」
「今度こそ!」
叫びながら、彼は両腕を広げて飛び出した。まるで自分の命を救うような勢いで。
「それでこそだ。」
低く響く、どこか不思議な男性の声が囁いた。
再び、全てがスローモーションのように見えた。エゼキエルは、トラックが自分とイシュタールに迫る様子をはっきりと目にした。
俺、死ぬのか…。
なんで、たった今知り合った女の子を助けようと飛び込んだんだろう…。
こんなことをして、俺、どれだけバカなんだ…。いや、そうじゃない。
この胸の内に湧き上がる幸福感、この感情は何だ…。
こんな気持ち、初めてだ。
俺は死ぬ。でも、幸せだ。
死ぬことが幸せなんじゃない。一度だけでも、何かいいことができたから…。
俺みたいなやつが、彼女みたいな人のために死ぬのは悪くない投資だよな…。
ああ、結局彼女が買ってくれたサンドイッチ、食べられなかったな…。
《個人の最終データ処理完了》
ほんの数ミリ秒の間に、彼の中でこれだけの思考が巡った。次の瞬間、トラックがエゼキエルに激突し、彼の体は数メートル後方へと吹き飛ばされた。
エゼキエルの身体の状態は、人間の目には到底表現できないほどだった。いくつもの手足が不自然な方向に曲がり、全身は血にまみれていた。彼の姿はもはや人間には見えなかった。
痛い!痛い!痛い!痛い!
痛い!痛い!痛い!痛い!
痛い!痛い!痛い!痛い!
耐え難い激痛の中で、彼は必死に思考を巡らせていた。
同時に、周囲から聞こえる人々の悲鳴や恐怖の叫び声が耳に入ってくる。
《個体データを転送中》
どうか…どうか…助かっていてくれ… 痛みに耐えながら、そう祈った。
《データ転送失敗》
耐え難い痛みが少しずつ薄れていくのを感じる。
もう疲れた。もう何も考えたくない。ただ休みたい…。
《データ転送失敗の原因を分析中》
《原因発見!》
《外部干渉が個体のシステムと身体に影響を及ぼしています》
《エラー!エラー!エラー!エラー!...》
また、あの奇妙な声が聞こえる…。
俺、狂ってしまったのか?
これで死ぬんだよな?
もう何も心配する必要はない…。ついに、すべてが終わる…。
そう思った瞬間、現実は彼の思いを裏切った。彼の身体は完全に破壊されていた。
あぁ…悲しい…。
視界がぼやけ、わずかに見える景色さえ涙で曇っていた。
死にたくない!
幸せになれなかった。平穏な人生が欲しかった…。
せめて家族が欲しかった…。
妹やメイドに別れを言いたかったな…。怒ってしまったことを深く後悔している。
この人生で後悔ばかりだ…。
…え?あれは何だ?
ぼやけた視界の中で、それをはっきりと見ることはできなかったが、目に入るだけで恐ろしいと感じた。
地面からねじれた四肢が現れた。それは強烈な暗黒のエネルギーで形成され、不吉な紫色の光が周囲を覆っていた。それらはエゼキエルの視界を完全に覆い尽くし、彼を深い闇へと引き込んでいった。
すべてが消え去った。周りには何もない。暗闇、いや、濃密な霧が広がっているだけだった。
「…ああ、傲慢、強欲、色欲、憤怒、暴食、嫉妬、怠惰…」
突然、女性の声が響いた。それは先ほどまで聞こえていた機械的な声とは全く違う、人間的な声だったが、どこか狂気を孕んでいた。
「…すべてが一つに。」
「嬉しくて、もう抑えきれない…」
その声は歪みながらも興奮した様子でそう言い放った。
そして最後に、エゼキエルはぞっとするような邪悪な笑い声を聞いた。
―続く―
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