我国-桜帰伝

染鞠

1. 和合の一族

 突風に、緋司は咄嗟に目を瞑った。

 風が止んで頭を一振りすると、後ろで束ねた紅色の髪がさらりと揺れる。頭に乗った梅の花びらがひらひらと地面に落ちて、無数のそれに紛れた。

 領地の西側、山域との境界には梅の木が立ち並んでいる。舞い落ちた花びらが地面を覆い尽くし、青空の下、真緑の山の麓に濃い紅色の絨毯が広った景色を見せていた。

 緋司は汗をぬぐい、鍬を荒く固まった土の上で大きく振り下ろした。花びらも鍬に巻き込まれて土の中にめり込む。何度も繰り返し、手際良く土を耕していく。

「こっちは終わりました。」

「おぉ、ありがたい。」

近くで作業をする男の一人がこちらを振り向いてニカッと笑った。前髪を掻き上げ、大きく腰を伸ばして左右に捻る。

「ふぅ。やっとここまで戻ったか。しばらくは、来てほしくないもんだ。」

 男は近くの小屋に目を向け、先月に破壊された最後の耕運機を見てため息をついた。手作業で農作業なんていつの時代だと、誰も口には出さない。人が住むには危なすぎるこの場所は、田畑として利用するしかないものの、荒らされては整えの繰り返しでは気が滅入る。

 しかし、後退するわけにはいかない。この梅並木の最前線から。

 とはいえ逃げられないのは緋司含む〈和合の一族〉の人間だけで、住人は義務感をもってこの地に住んでいるわけではない。これが日常だ。この日常を、ごく自然に受け入れていた。

「いやしかし、本当に助かりますがね。力仕事のためにこんな辺鄙なところまで、緋司さんがわざわざいらっしゃらなくとも———」

 そう言いかけてた男の腰を、隣の女が肘で小突いた。顔を見合わせ、女は口パクで何かを訴えているが、男には全く伝わってなさそうだ。

緋司は素知らぬふりをして、あたりの道具を片付け始めた。冷静に装ってはいても、とにかくチラチラと梅並木の方へ視線が向いてしまう自覚はあった。

 数週間前からこの辺りへ通い、幾度となく見た梅並木はもう満開の時期を迎えている。緩やかな風でも花弁が舞うほどだ。こんなに美しい景色を眺めているというのに、いつ散ってもおかしくないという焦りが先走る。家でじっとしていられずここへ足を運んでしまっていたが、ここでの作業も終わってしまって、落ち着かない気持ちが増すばかりだ。

 焦燥と同時に、さすがに今日だろうと緊張と期待が胸を占める。

 とは言っても、こちらの方面から『あの人』が帰ってくる保証はないのだが。

 片付けも終わり、日が落ち始め、皆が解散した後も、緋司はその場に居座ってはいたものの、数時間後には内心ガックリとうなだれながら、家に帰ってきたのだった。

 赫州、梅ノ香領の西寄りに位置する我が家では、多くの人が忙しなく動き回っていた。緋司の目の前を、あちらこちらへと紅色の髪が通り過ぎる。

 我が家といっても、一家族が住む一軒家ではない。〈和合の一族〉のほとんどが共に住んでおり、住み込みで働く従業員も多い。そして梅ノ香領の避難所も兼ねているため、いくつも大広間がある巨大な屋敷だ。すぐ外に出られるように、塀がないのが特徴的で、逆にどこからでも入ることができた。

 緋司は人の隙間を縫いながら自室へ向かった。家に帰ると緊張や焦りの代わりに、ただ寂しさに包まれるのが最近の日課になっていた。何もできない、考えても仕方ないと頭ではわかっていても、他のことが手に付かない現状が遣る瀬無い。

「本当に帰ってこないつもりじゃないよな…」

「おかえり、緋司。」

 声の方を振り返ると、長身の男がこちらを見ていた。緋司と同じように紅色のまっすぐな髪を後ろで一つに束ねている。亡き父親似らしい細い目は優しく緋司を見つめている。

「ただいま兄さん。」

「向こうはどうだった。」

「うん、やっとひと段落って感じ。」

 緋司は兄の長束が持つ灯篭を受け取り、共に歩きながら今朝の様子を伝えた。

「そうか。まだ寒いから、来月からかな。冬至さんに相談するか。」

「とうじぃならなんでもいいって言うんじゃない。いつかは芽が出るだろって。」

「ふ、まぁそうかもな。頼りになるが、豪快というか雑というか。」

 そのとき不意に、長束の顔から笑顔が消えた。緋司は長束が言いたいことを察して視線を反らす。話題を避けてきたが、この辺りが限界か。

「あいつは。まだ帰ってこないのか。」

「…どうだろ。」

 長束が不機嫌を表に出すのは本当に珍しい。そもそも気分を害することなど滅多にないはずなのだ、〈和合の一族〉はそういう一族なのだから。おそらく長束自身もその感情に戸惑っているのだろう、黙った二人の間に気まずい空気が流れる。

 すると突然、背中に温もりを感じた。

「まぁまぁまぁ、もうちょっと待ってあげよ。」

「!母さん。」

 優しくすべてを包み込むような、暖かな笑顔がそこにあった。緋司は心底安心して、ほっと胸をなでおろした。緋司と長束の母———旭はポンポンと二人の背中を軽く叩き、舞うように揺れながらゆっくり二人の間を通り抜ける。

「母さん。もう明日だよ。」

「わかってるわ。あの子も。そう怒ってあげないで。」

 母は振り返り、長束に向かってウインクした。

「ちゃんと帰ってくる。信じてあげて。」

 そう言って太陽のような優しい笑顔を向けられると、本当にそうなる気がするから不思議だ。

「長束にぃもせっかちだなー。遊んでるわけじゃないんだし、待ってあげればいいじゃない。」

 今度は二人の間を、二束の紅髪が通り過ぎた。

 従姉の雛雲が、大きな箱を持って母を追いかけていく。

「一族全員そろって、でしょ。みーんな待ってるんだから、ちょっとくらい遅れたって誰も怒らないよ。ね、緋司。」

「ん?うん」

「なにその締まらない返事は。毎日迎えに行っちゃうくらい一番待ち遠しいくせにー。」

 雛雲はわざとらしく箱に頬を着けて抱きしめ、高い位置で結った長いツインテールを振り乱して去っていった。母と雛雲の楽しそうな笑い声が遠のいていく。

「長束もね、本当は心配でたまらないのよ。」

「不器用だねぇ、兄弟そろって。」

 咄嗟に何も言い返せずポカンと口を開けた互いを見て、長束と緋司は吹き出した。

 長束はまだ何か言いたそうだったが、「そうだな、待とう」と言っただけだった。



 ピー-----------



 突如鳴り響く鶯笛の音。

 高くか細いがどこまでも通るこの音を、うちの者は誰一人として聞き逃さない。

 談笑中でも、料理中でも、寝ていても、音を聞いたその直後に。

 一歩、足を踏み出す。

 音の方へ。または屋敷の外へ。

 長束と緋司も例外ではない。

 飛び出した先、西方の空に紅の煙筒を確認。

 全力で駆ける。

 ピュゥーーーーイッ

 誰かが指笛を鳴らした。すると視線の先、遠方から複数の黒い点が現れる。それらは一気に近づき、獣の影となって土煙と共に迫ってくる。

 彼らの種を〈ビャオルフ〉と呼んでいる。遠目では、暗灰色の長毛を靡かせて走る姿が狼のように見える。しかし短い鼻口部と大きな耳、そして鋭い瞳孔は猫科のそれだ。ネコ科とイヌ科の特徴を併せ持つ並外れた巨体がしなやかに地面を蹴って、ものすごいスピードで近づいてくる。

 自分の元へ駆け寄る〈ビャオルフ〉の胸元の毛を掴むと、勢いに任せて背中に跨った。首元の毛を掴んで背中に這うようにしがみ付き、さらに加速して合図があった場所を目指した。

 少しずつ合流しながら、自然と先頭を〈鶯目〉である旭が走り、その後を全員が追う。

 言葉はない。

 誰も何も言わない。

 力強い走りで風を切る。

 大地をいくつもの紅髪が駆け抜ける。

 とてつもない速さをもってあっという間に目的地に近づいた一行の目が、遠方に二つの点を捉えた。

 〈仇鬼〉だ。

 そして子供だ。

 目立つ白髪、このあたりでは見たことがない子だった。身長は低く小柄で、十歳前後のように見える。その子の後ろから、背を丸めた状態でも二メートルはある〈仇鬼〉が迫っていた。

 子供は声も出せない状態で必死に逃げている一方、〈仇鬼〉は明らかに遊んでいた。ゆっくりと後ろを歩く〈仇鬼〉の周囲を小さな火の玉が漂っている。〈仇鬼〉の指が一振りされるのに連動して、ゆっくりと子供へ向かって飛んでいく。直撃することはなく、頬をかすめて前方に落ちたり、煽るように目の前を横切る。火の玉が減ると、〈仇鬼〉の人間に似たその掌から新しい火の玉が生成され、お手玉をするように投げるとまた周囲を舞う。

 子供は何度も転倒し、必死にそれらを避けながら走っているが、小さな歩幅とよろめく足では〈仇鬼〉との距離をとれそうにない。二人が通った道筋は、円形の焼け跡が点々と残っている。

 一行はさらに加速した。

 旭を中心に徐々に横へ広がり、一糸乱れのない頂点を鈍角とした陣を組む。

 その中で何を言われるでもなく、緋司と三人はわずかに陣を外れた。

 一行に言葉はない。目配せもない。

 顔は涙でぐしゃぐしゃ、体はドロドロ傷だらけで走る子供がこちらに気づいたその時には、緋司が〈ビャオルフ〉に乗ったまま体を大きく横に倒し、その子を抱え上げていた。共に陣から外れた三人は、飛来する火の玉から庇うために〈仇鬼〉と緋司達の間に割り込んでいる。

 しかし火の玉が飛来するより速く、スピードを落とすことなく駆け抜けた。その両サイドから旭が率いる陣の端が迫り、気づけば〈仇鬼〉の動きを封じる円形の陣が形成されていた。

 緋司は相当な距離をとった後に減速した。振り返ると、三人は既に陣へ加わっていた。

 〈仇鬼〉を中心に〈ビャオルフ〉が取り囲み、その外側を〈和合の一族〉が若干距離をとって囲う、二重の円に変形していた。

 内側の円の〈ビャオルフ〉の間を、火球が飛んでいるのが見える。それは先ほどまでとは一転、音を立てて勢いよく燃えていた。〈ビャオルフ〉は一様に〈仇鬼〉の周りをゆっくりと周回しながら、火球を身軽に避けて隙を狙う。

 改めて、大きな〈仇鬼〉だった。背が丸まった姿勢は猿のようで、細身の体は老爺のようだが、赤黒い皮膚と額にそびえ立つ長い角が不気味だ。

 〈和合の一族〉は円形に配置し、まっすぐに〈仇鬼〉を見つめた状態で祈るように額の前で手を組んでいる。瞬きもなく、微動だにしない。誰にも表情がない。完全に〈ビャオルフ〉と『共鳴』している。

 二匹の〈ビャオルフ〉が前後から〈仇鬼〉に飛びかかった。肩と足首に牙を突き立てる。そこへ火球が飛来するが、すかさず他の〈ビャオルフ〉が素早い身のこなしで火球を叩き落とした。隙を与えず攻撃し続ける中でも、〈ビャオルフ〉同士が傷つけあうことは一切なかった。一糸乱れぬ連携だ。

 しかし、相性が悪かった。この〈仇鬼〉、でかいだけでなく表皮が頑丈な個体らしく、なかなか傷口が広がらなかった。徐々に弱っているのはわかるが、それはこちらも同じだった。〈ビャオルフ〉は火傷を負い、力任せに吹き飛ばされ、叩きつけられて傷ついていく。

 さらに運悪く、火を扱うが故にすでに周辺へ被害が出ていた。近くの木が燃え始めている。木々が近いこの場所ではどれだけ燃え広がるかわからない。家に燃え移るのを避けるためにも、一刻も早く片付けたかった。

 しかし決め手に欠ける、もどかしいせめぎ合いが続いた。火の粉が舞い、火が燃え移り炎となる。炎に囲まれてもなお、その場を離れるわけにはいかなかった。誰かが崩れれば、〈仇鬼〉はその隙から逃げるだろう。逃げた〈仇鬼〉はまた必ず人を襲う。この個体はもう、その『楽しさ』を知ってしまっている。

 『待っている』時間は長く感じた。もう熱さは無視できない。人の体がもたない———

 ふと、〈仇鬼〉がわずかにふらついた。さらに、〈ビャオルフ〉を振り払うため体を反転させた勢いで、大きくよろめいた。

 やっと『毒』が回り始めたのだ。

 ここで一気に畳み掛けたい、が。

 〈仇鬼〉の周りを囲うように、これまでの比ではない数の小さな火の玉が現れた。それが徐々に大きくなる。火球の様子も異質であり、燃えているのではなく、炎よりも赤いドロッとした何かが『閉じ込められている』ようなだ。

 徐々に、だんだん、ゆっくりではあるが、さらに大きくなる。

 ———爆発したらどうなる?

 死に際の抵抗。

 自爆に近いそれを止める術がなく、火球はもう拳ほどのサイズにまで膨らんでいた。

 遠目で見ていた緋司も焦りが生じた。もし爆発したら、近くにいる全員が巻き込まれる。どころか、被害範囲は測り知れない。遠くの住民にまで避難の声をかけるべきか。どこまでいっても選択肢に『撤退』という文字はない。

 と、一瞬頭を鷲掴みにされて力強くかき回され、何かが横を通り過ぎた。突然のことに硬直する緋司の目に、〈ビャオルフ〉に乗って駆け抜ける、一族の中では異質のうねりのある薄桃色の髪が映る。

「紅華!!!」

 待ちに待ったその人が帰ってきた。

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