ツーツー普通論

小狸

短編

 *


 皆がどのように普通に生きているのかが、私には分からないのである。


 普通、普通、普通。


 普通の定義も、昨今では曖昧である。普通であることを問うことそのものが禁忌になりかねないことだってある。基準は人それぞれが持っていて、皆が尺度を調節して、世の中というものは回っているのかもしれない。


 故にこれは、誰かから教えを乞うて会得するようなものではない。


 何をもって、ほとんど毎日職場に行き、何をもって、休みの日に休んでいるのか、私には全くもって理解することができないのである。


 休みの日は、ほとんど私は動くことができない。何もする気が起きず、ただ茫然と天井を眺めていて一日が終了する。


 だから、趣味や活動を行っているなどという話を聞く度に、首を傾げてしまう。


 一体その余裕は、どこから生まれるのだろうか。


 余裕――そう、余裕である。


 この言葉こそ、普通という定義に関わって来る概念だと私は思う。


 どうせ世の中は、恵まれた家庭に育った幸せで頭の良い、そして余裕のある人間が回していると、私は思っている。


私が出会って来た中で、今現在「幸せです」と口を揃えて、たとい嘘だとしても言える人間は、皆そうだったからである。


 だから、所詮社会の末端の私が世の中に対して何を発したところで、何にもならないのである。


 ああ、そうか。


 こういう思考回路から、「選挙に行かない大人」が発生するのかな、などと思った。


 いや、私は行くけれど。


 父が反面教師になってくれている。


 私の父は、選挙に行かない親だった。


 私の人生は、なかなかどうして、普通というカテゴリに属することはできないものだった。


 色々あった。


 色々、辛いことがあった。

 

 色々なことを、諦めた。


 仕方ないと言われた。


 ああ、仕方ないんだなと思って、時には奥歯を噛み締めて諦めたこともあった。


 親の所得格差。


 両親仲。


 機能不全家族。


 そんな属性が、私から多くのものを諦めさせていった。


 そしてどんどん項目が減っていって、気付けば私には、もう選ぶ権利は残っていなかった。


 何が職業選択の自由だよ、と思う。


 何かになれる奴は、何かに恵まれた奴なのだ。


 少なくとも私は、何にもなることができなかった。


 諦めた数多くの夢も希望も、もうどこかに飛んで行ってしまった。


 だから今更、何かになろうという気すら起こらない。


 どうせなろうとしたところで、それになることができる人間は、あらかじめ決まっている。


 最後にそこに立っているのは、私ではない。


 努力することが許容されて、頑張りが認められて、精進が功を奏して、そういう環境に育った、自己肯定感と自己効力感の高い人間。

 

 そういう人間が重宝され、良い地位、立場を得てゆく。


 それで良いじゃないか。


 私みたいな変な努力だけ積み重ねてきた口だけ達者な愚か者がそこに立ったとしても、代替の人間の方がきっとうまくやるに決まっている。


 そこに存在しているのは、私である必要性は、どこにもないのである。


 駄目、駄目、駄目。


 散々言われてきた。


 だから言われる前に、傷付きたくなくて、自分を駄目だと思うようにした。


 すると私はどんどん駄目になっていった。


 そうだ、これで良いのだ。


 駄目な人間が、駄目というレッテルを張られて、駄目に生きる。


 決して、幸せにはなれない。


 それこそが、現代の多様性という言葉の限界だろう。


 無論、自殺などはしない。


 そんな人に迷惑をかけることをしたくはないからである。


 どこで死のうにも、迷惑がかかることには違いがない。


 ただ、生きる。


 漫然と、死にたいくらい辛い毎日を。


 それだけのことである。




(「ツーツー普通論」――了)

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