くゆる日の話
夢崎 醒
第1話
猫の好きな彼は、猫に興味を示さなくなった。
私は、散歩のたび、猫を見つけては、はしゃぐ彼が好きだった。猫のマスコットをプレゼントした日は、目を輝かせて喜んだっけ。
彼の実家は、猫を飼っている。車で三十分ほどのそこに、彼は飼い猫に会いに、よく行っていた。
「うちのさくらが、一番かわいいんだ」
口癖のように、よく私に飼い猫のことを自慢していた。
でも、今、私の目の前にそんな彼はいない。
「詩ちゃん、大事な話がある」
夏の蒸し暑い夜、虫たちの声の中で、彼は重たそうな口を開いた。
夏の暑さにも勝る、煙草の火を眺めながら、伏せ目がちに、私を見る。否、彼は元来、人の目を見る人ではないから、そう見えただけかもしれないが。
「どうしたの」
ブルッと震える、加熱式煙草を握り直す。
「おれ、今の仕事辞めるよ」
煙草の煙をフーッと吐いて、そう返す彼。
どうして。
彼と一緒に暮らして三年。彼の仕事の話は、よく覚えている。雑貨屋で働いていること、楽しいこと、辛いこと。よく仕事の話をする彼は、仕事は嫌いではない、そんな印象だった。
しかし、この一年(結婚し、今に至るまで)は、辛かった話をよく聞いた気がする。
「詩ちゃん、おれ、今日も頑張ってきたよ」
仕事終わり、そう嬉々として報告してくれる数が、減ってきたような、そのように感じる。
日を追うごとに、彼は暗い顔をして帰ってくるようになっていった。何かがあったことは明白だ。でも、その何かが、恐ろしく感じて、私からはずっと聞けずにいた。
「健介、どうしたの」
私は、彼の顔をじっと見つめる。彼とは、目が合わない。彼は、灰皿にトントンと灰を捨てながら、大きなため息を吐いた。
「上司と揉めちゃってさ。上司が、公私混同したことをするから、ちょっとカッとなっちゃって、怒鳴っちゃった」
彼らしい。私はそう思った。
元々彼は、正義感の塊のような人だ。曲がったことが大嫌いで、そのような時は、鬼のような人になる。
「一年前から、私利私欲な働き方を、上司はしていたんだよ。でも、最近、それに耐えかねたスタッフが、何人も辞めて。俺が詰問した時は、あっけらかんと知らぬ存ぜぬな態度を取ってきて。それが、とっても、許せなかった」
彼は、時々煙草を蒸して、ポツリポツリと話す。
正義感の塊である彼には、とても許せないことだと思うし、事実そう独白している。デバイスを持つ手が、熱い。
「すぐに上司の上に話が行ったよね。そうしたら、ほぼ確実に、県外の店舗へ、おれが移動することになった。詩ちゃんとの生活もあるし、もう、あの店で働く意味も価値もないと思ったから、おれ、辞めるよ」
火を揉み消しながら、俯きがちに話す。どこか寂しそうで、落胆していて、そして希望を断たれた横顔。
私の持つデバイスが震える。あと二十秒。
「私は、健介の進む道を応援するよ。辛い時は支えるから」
デバイスが点滅を繰り返す。私は、不安を押しつぶすように、潰れた声を出した。
ブーッ。デバイスが吸い終わりを合図した。
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