この街の華の風
壬生諦
この街で Ⅰ
消沈前の夕陽がビル群に反射している。
行き交う人の群れを焼き、黒く映す時間帯。これから営業が始まるはずもない、埃臭く、物が乱雑に捨てられたクラブに、黒い服装の男が二人いる。
日焼けしたスキンヘッド、歴戦を物語る傷がいくつも残る一方は、パーカーを脱いでソファーに丸めると、プロレスで使われるものと同じリングへ上がった。
ファイトクラブ。店側が用意した格闘家と誰かをリング上で殴り合わせることが、かつてこの場所の名物とされていた。
だが、合意でない客(店側に嫌われた獲物)が無理やりリングに上げられ、一方的に蹂躙される実態が公にバレた末、廃業した。
それでもなおここにいる男二人は、慣れた作業に取り掛かるばかりで会話もない。バイブスを増強する音楽も、陽気な喧騒も去った以上、ただ物音のみが響く。
一方は、格闘に精通している者であろうと、か弱い女子供だろうと関係なくリング上でタイマンを張るのを理想とし、正義の執行を逃れながらその蛮行を続けてきた。
もう一方、キャリーケースを運ぶ肥満の男は、かつての従業員で、退散したオーナーや他の従業員が捕まる中でも逃れ、寡黙なファイターの趣味に付き合っている。
訳も分からず廃れたナイトクラブに運ばれ、整理がつかぬままゴングを鳴らされ、なぶられる。罪なき一般人の悲劇を安全席から観戦するのが愉しかった。
これが七件目だった。場所とやり方にこだわりを持つ代わりに、決行する日付や時間はバラバラ。拉致する対象も老若男女様々で、捕獲場所は郊外も視野のため、連戦連勝だった。
法律などという、生まれる前から勝手に在り、少数の意を汲まず、魅力のない俗物ばかりを一先ず安堵させるだけの下らないものに縛られるのが億劫な二人は、今こそが夢の中。
ただ表で生きているだけの人間には知り得ない、自分たちみたく深淵にのみ寄る辺を持つ者の間でのみ知られている『啓示』がこの街に存り、それを受けたスキンヘッドのファイターが制御を外したことにより、本能を堪えなければならない鬱屈な人生からの卒業を叶えた。
今回の獲物は贅沢なものだ。現役の女子高校生、この街の名物とも言える高嶺の花園、
性欲より闘争欲が原動力のスキンヘッドでも、街行く彼女に目が眩む想いだった。歩く姿は百合の花。他の有象無象とは比べ物にならない魅力を感じた。
その衝撃から、今回の獲物として即決し尾行、人目の無くなった隙に華奢な体を車へ投げた。
一目惚れした少女を自らの手で蹂躙してしまうのだ。戦いの中にしか快楽はないと、あらゆる物事に対して斜に構えてきた男でも、その快楽を意識せざるを得ない。
相方のデブなど試食を試みようとするほどだった。移動中、少女を詰めるキャリーケースを小気味よく叩いていた。起きていたら精神的苦痛となったはず。
キャリーケースが鈍い音を立ててリングに乗り、中央まで滑らされる。
大の大人と違い、華奢な少女の場合は中にゆとりができるため、自分以外が獲物に傷を付けることを良しとしないファイターは、粗末な仕事ぶりに苛立った。少女の後でこいつも殺してやろう、と。
デブが三本のロープを揺らしながらリングに上がり、キャリーケースを開き、体育座りで寝かせられた女子高校生を取り出した。
内側から自力で脱出する術など無いため、拘束も施されていない。長い間、狭い空間で自由を奪われていただけでなく、拉致する際に麻酔を嗅がされたため、すぐには活発になれず、極太の腕に抱えられても無抵抗だった。
鼻息は荒く、頬も朱色が濃い。密閉されていたから当然だが、これまでの獲物と比べて発汗量が少なく、何より動揺が窺えなかった。
違和感を察知して目配せする男たち。罠か、と冷たいものを感じるも、それなら尚のことさっさと始めてしまおうと非言語で通じ合う。
キャリーケースを蹴飛ばして場外に落とす。ドンッと鈍い音が白けたクラブに響く。
猿轡を外すと、女子高校生は即座に口を大きくした。
それでも小さな口だ。普段から声を張り上げることがないのだろう。格闘など更に無縁。
目隠しは外されず、羽交い絞めで青コーナーへ引きずられた。
黒緑色のブレザーとスカートにはアレンジがなく、細い両脚にタイツを履いている。若い娘にしては遊びがなく、艶のある黒髪を赤いリボンで横結びにしているのも大人の印象。
つまりは怯える素振りもないということで、それは余裕とも取れるため、男たちは警戒心を強めた。
「やけに大人しい。絶望しているわけでもないはずだ。例のお嬢様校の生徒だろ? みんな君みたいな感じなのか?」
デブが柔らかい物腰で問うも、少女は答えなかった。
絶体絶命の状況。弱肉強食の、哀れな下位。長く閉じ込められていたことで体が痺れ、自力で立ち上がることもできない脆弱さ。
過去には実績のあるボクサーを拉致したこともあった。そのボクサーでもこれだけの窮地に立たされれば狼狽えた。
しかし、この少女からは一切、困惑した素振りさえ窺えない。
「……どうする?」
デブが不安気に問う。
二人も能無しではない。これまで六回も拉致と撲殺を成功させてきたのだから。
スキンヘッドは少し考えたフリをしてから「さっさと始めよう」と答えた。
あの衝動を忘れるな。立場を失くし、衝動さえ拒むようでは、自分が自分でなくなる。
最優先は闘争心を満たすこと。餌が同じリングの上にいるのに、引き下がる選択肢などない。
例えばこの少女が囮で、忌まわしい、欺瞞なる正義の鉄槌を受けるオチが待っていたとしても、それでも譲れない信念がこの男にはある。
「フン、後がないのは俺も同じだ。さっさと狩れよ」
スキンヘッドの事情は知っているため、この橋が真ん中で崩れ落ちるものと決まっていても、進むのだと分かっていた。この悪運がどこまで続くのか、共犯者も半ばヤケになりつつ少女の目隠しを外した。
ゆっくりと、少女の目蓋が開かれる。
照明のもと、久々の光に臆しているからではなく、元より切なさを醸す垂れた瞳なのだと、目元の黒子も含め、高校生離れした色気に男たちは感嘆した。
「惜しいな。やはり試食すべきだった」
デブは眉を吊り上げてリングから降りた。
青コーナーへ運ばれてそのまま、がに股で座る少女を見下ろし、自分の拳がこの美しいものを壊すのだと、スキンヘッドは決意する。
……僅かばかり、自分という格闘家はこんなものだったのかと悔いて。
デブは近くのソファーにふんぞり返り、テーブルに置かれたリモコンを手に取ると、照明と、あちこちに設置されたスピーカーを操作し始めた。躍動を促すアップテンポの音楽がやかましく流れると、冷静な少女も流石に顔を歪めた。
栄光の時代だった。ゴングが鳴る時も、鳴らない日も、このような狂乱でクラブを演出していたものだ。
今でも満員の客席から喝采を浴びているような幻覚に溺れることができる。誰に対してでもなく、ファイターは自らのために両手を掲げ、無人の客席に雄叫びを返した。
音楽は止まないが、今回の獲物は反応が薄くて苦笑した。「俺は
「お嬢さん、名前を教えてくれよ。分かるだろ?」
少女は少しムッとした。子供扱いが癪だったのか、君島にとって意外な反応だった。
少女がようやく立ち上がった。赤コーナーに寄り掛かる君島がだらしなくなるほど、きめ細やかで静謐な所作だった。
「お嬢さん、何故ここに運び込まれたのか、これからここで何をするのか、何をされるのか。聡明な印象通りなら、全て察しているはずだ」
「……勿論です」
少女の声は年齢以上に女としての経験が感じ取れる、あるいは厳かとも取れる低さだった。
一音ずつに芯があり、やはり怯えは窺えない。君島の中で、あるいはこの娘が、という期待が芽生える。
駆け引きの粋を知らないデブが、始まらないショーに苛立ってウイスキーに手を出すも、君島は、少女が強者であるのなら、ゴング前のこの時をも愛おしく感じた。
「失礼をした。いや、うるさくない女は素敵だ。惚れてしまったのかもしれんな。だが、出会い方が悪かった。俺と君は今から殺し合う間柄。俺は君を撲殺するし、君も俺を殺しに来ていい。武器も使用可能だ。運良く隠し持っていたらの話だが」
説明中も嫌な予感が消えなかった。合点がいったように瞬きした少女を逃さなかったうえ、二つした予想のうちの悪い方が当たってしまったらしく、時間を稼がれているように思えた。
「これが正しい行いではないことを理解しておりますか?」
自発的に口を開いた獲物の問いがこれだ。
命乞いや動転ではなく、正義の味方の位置からこっちを睨める。これまでの情弱な被害者たちと違い、少女の揺るがぬ眼差しは君島を動揺させた。
「君には分からない。いや、誰かに理解されたいわけでもないんだ。それでも俺は、もう戻れない」
「それは――」
「おい、煽りはもういいだろ! さっさとショーに移れよ!」
客席から野次を飛ばすデブも悪寒を払えない。ウイスキーも、胃に運んでいるだけで舌で感じられていない。
しかし、少女は野次にも臆さずに正面の君島へ問いを投げた。
それが、君島の予想を的中させる証となる。
「貴方が『ゴーレス』だからでしょうか?」
その単語のみで、君島の額が汗ばんだ。
「何だと?」
「元凶どころか『啓示』を受ける条件さえ未だに定かではありません。今の問いも当てずっぽうです。貴方をここで止めることができなければ、貴方たちという、この街の闇が世に知られてしまう恐れもありますから、
「お前は何者だ? どうしてそれを知っている?」
か弱く哀れな獲物として扱うのは間違いだった。
それを知るのは、この街の影に身を潜める者たちの、更に一握りとされているはず。その証拠すら見せていないのに正体を暴いてみせた眼前の少女にこそ恐れを感じた。
ゴングが鳴るまでは手を出さない。そのルールからではなく、自らの痩せこけた信念が足を引っ張っていて、眼前の華を無下にできずにいる。
もう遅い。君島はこれから迎えるオチを想像して、沈む夕陽に心を重ねた。
「私が何者かを答えるつもりはありません。貴方たちとはこれきりなのですからね。ですが、名前なら名乗りましょう。私は
「由埜? 覚えがあるな。それにやる気はあると見た。君からは手練れ特有の余裕が見受けられる。悪いが強者と弁えてやらせてもらうぞ」
両の拳を顔の前に備えると、君島の貌が獣に化けた。殺す意志を明確に表している。
凡庸な女子高校生であれば腰を抜かす意気だが、小撫はそれにも動揺しなかった。
垂れた瞳には慈しみか憐れみの意味が感じられ、臨戦態勢の君島にとって不愉快だった。
君島の心は更にかき乱される。予想通り、悪寒の原因は既にこの場所に到着しているからだ。
「いいえ、貴方の相手は私ではありません。私が相手をしてもいいのですけど、彼女はきっと譲ってくれないでしょうし」
無防備なまま肉食獣と向き合っていたのに、無警戒にも小撫は視線を逸らし、出入り口へ続くバーカウンターのその先を見た。
警戒していたため、男二人がそちらを振り向くのも速かった。
そして、それより速いものがやってきた。
出入り口の外にも廊下があり、そこからピンク色の、棒状のものが飛来して、一番大きいスピーカーに突き刺さった。
不協和音は断末魔、火花を散らして壊れたスピーカー。
爆破に巻き込まれて周囲の照明も砕けた。男たちは小撫の倍大きい口を更に広げて愕然とした。
対照的に小撫は得意気だった。
喜びと安堵。いつも通りの彼女に微笑してみせた。
「おまたせ小撫! 大丈夫? 酷いことされなかった?」
小撫とは異なるグレー基調のセーラー服を着た、比較して溌剌とした印象の少女は、普通、この場で感じ取るべき暴力の恐怖に無関心なまま手を振り歩んできた。
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