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黒主零

第1話「それは面白くもないお話」

・拡張現実とネット接続の技術が進んだ時代ではハードの有無や差異に関わらず協力プレイが可能だ。

「……」

赤羽研護は実家が豆腐屋の高校生だ。朝は早く、故に夜も早く眠らなければいけない。それと天性の後ろ向きな性格が災いしてか一緒に遊ぶ友人も決して多くはない。それでもわずかな余暇を持て余していないのはこの最近はまってるARゲームのお陰だ。

「……」

あまり時間は取れないが没頭しているこの時間は決して悪くない。昔まだ母親が生きていた頃に買ってもらった古いゲーム機でもWi-Fiに接続できれば最新のゲームが可能になるのはどんな技術なのか分からないが悪い気持ちにはならない。

「……ん、」

いつも一緒にプレイしているプレイヤーがログインしてきた。本名などの素性は一切知らないがハンドルネームは「X」となっている。会話もしたことないがプレイ時間帯が近いからよく一緒になる。

今日も自然と同じタイミングで協力プレイのデイリーを行い、同時にクリアする。

「……」

X相手にフレンドポイントを送り、相手からもポイントが送られてくる。実際に自分の何かが減るわけではないし、システムで勝手に送信されるだけだが妙に心をくすぐられる。

「お兄ちゃん、まだ起きてるの……?」

声。それは現実から。研護がARゴーグルを外して後ろを振り返ると寝間着姿の妹がいた。

「お前こそもう寝た方がいい。お前は朝早く起きる必要がないとはいえいい時間だぞ」

「……あまり子供扱いしないで。そんなに歳違わないじゃん」

小さく膨れる妹。時計を見上げる。確かに普通の学生からしたら全然遅い時間ではないかも知れないが、これまでずっと付き添いで早寝早起きしていた妹からしたら遅い時間と言っていいだろう。

「……そろそろ寝る。お前達も早く寝ろ」

「……はーい」

小さく返事をして部屋を去って行く。

「……」

ゲーム機の電源を切ってカーテンを閉める。その前に

「……」

銀色に輝く月光を瞳の中に入れておきたかった。

時刻は既に22時過ぎ。高校生が外を歩くには少々遅い時間。

「……」

妹たちを起こさぬように研護は着替えてこっそり家を抜け出した。

夜の散歩は決して珍しくはない。しかしそれは寝る前ではなく起きた後だ。

朝が来ていない以上夜という時間に間違いはないかも知れないが、しかし起きた後を夜と言うには違和感がある。

だから研護はいつか眠る前に夜風を浴びたかった。

(……そう言えばいつもより1本早いタイミングでログアウトしたな)

別に申し合わせているわけではないが、Xと言う相方に対して少しだけ申し訳なさが浮かぶ。

どこの誰とも知らぬ相手だ、連絡手段もない。それだけの関係でもない。そう自分に言い訳をしながら、初夏の夜風に身をくすぐられる。

そんな夜に。

「……」

研護は足を止めた。小さな池が近くにある桜の木。既に散っていたはずの桜の花が満開となっていた。

否、正面に見える桜の木は既に枯れているはずなのに池の水面に浮かぶ虚像が満開の桜を映していた。

ゲームの景色がまだ続いている?しかし研護は額を拭ってもAR装置がついていないことを確認する。

なら、池の方に何か仕掛けが?そう思って桜に歩み寄った時だ。

「これは……」

桜の木が銀色に輝いた。今度は水面ではない。正面に実在している実体の方だ。

何か仕掛けがあるのかと思って手を伸ばす。枯れた大木の幹に触れた瞬間。

「!」

桜の木を包んでいた銀色の光が1つに集まると、やがて1つの姿を生み出した。

それは、少女の姿だった。


・柊咲町と言う町がある。加速した少子高齢化に伴い、いくつかの町が合併して出来たばかりの町だ。

その外れの方には大きな一軒家が存在する。元々教会だったその場所を改築して作られた。

表札には「黒主」と書かれている。

「……」

夜は10時過ぎ。長男である黒主正輝がゲーム機を机の上に置く。

「ふう、」

深い息を吐いた。日課であるARゲームをある程度遊んだ後は大抵こうなる。

朝は早く起きて日課である空手の稽古を行い、学校では生徒会の仕事で忙しく、放課後には道場の方で空手をやるか学校の水泳部で遅くまで汗を流す。土日は土日で家庭内家庭教師によりみっちりと勉強を見てもらう。そんなぎゅうぎゅう詰めの毎日における数少ない娯楽と言っていい。

(今日の相手……確かKと言ったか?いつもより少し早めにログアウトしたみたいだな。何かあったのか?)

部屋を出て水を飲むためにリビングまで向かう正輝。

家が大きいのはいいが、生活していると意外と移動が面倒だったりする。寝る前に少し水を飲もうと思っても5分くらいは歩かないといけない。運動になると言えばなるかも知れないが正輝は既にスポーツ推薦をもらえるほどには体を動かしている。

長い廊下を歩いてリビングに到着すると、

「あ」

赤い髪の少女がそこにいた。

「美咲さん」

「正輝さん。こんな夜にどうしたんですか?」

「水を飲もうと思って」

設置されたウォーターサーバーを使ってコップに水を注ぐ。

「美咲さんは?」

「私も似たようなものです」

彼女の名前は赤羽美咲。中学生くらいの外見に見えるが正輝が生まれた頃にはもう今の姿だったという。実際にそれから高校生に上がっても彼女の外見に差異はない。

実の親が多忙な正輝にとっては育ての親と言ってもいい存在だ。

「早く寝ないと成長に障りますよ。朝の稽古も欠伸とかしたら怒りますから」

「分かってます。もう寝ますよ」

水を飲み干すとコップを流しに置き、正輝は部屋へと戻る。

彼女の存在を不思議と思ったことはいくらでもあるが、もう既に慣れた。確か昔にどうして姿が変わらないのか、実際の年齢はいくつなのかと聞いたことがある。

「そうですね。年齢で言うならあなたのお父様の3つ下です。外見に関しては……あの時この姿に戻ってから固定されたみたいです。或いは彼女から託された……の効力でしょうか」

と、余計に不思議な話をされてしまった。まだ小学生くらいの頃に聞いた話だったからはぐらかされたのかも知れない。とは言え10年以上は全く姿が変わっていないのは確かだ。それに空手の師匠……矢尻師範とも顔見知りらしく、師範が学生時代の頃から知り合いなのは間違いないらしい。

「師匠、美咲さんってずっとあの姿のままなんですか?」

「……難しいことを聞くな」

いつか直接聞いてみて矢尻達真は難しい顔をした。元からあまり明るい性格ではないが赤羽美咲に関して質問すると大抵押し黙ってしまう。

「そうだな、赤羽美咲の外見はずっとあのままだ。……俺が知るあいつとは大分姿が変わったがな」

「?どういうことですか?」

「詳しくは俺も知らない。そういうことだとしか言われていない。……三船の問題は他言できないしな」

「みふね?」

「忘れろ」

それ以降師匠は何も正輝には言わなかった。

気にはなるが黒主正輝にとって赤羽美咲は大事な家族に違いない。それこそ本当の両親よりかも。

「……」

正輝が壁に掛けた写真を見る。それは家族写真だ。

先代から医療器具メーカーの会社を継いだ父親はいつの間にか全然別のジャンルの企業になって今でも世界各地を回ってる。

母親は……今どうしているのかが分からない。

姉はほとんど寝る時くらいしか家にいない。そして妹は……

「……寝るか」

深く考え過ぎたら悪夢を誘うだけだ。正輝は無を念じて布団の中に入った。


それは正輝がまだ生まれて間もない頃だ。義体技術、そして人工知能を応用することでついに父親の企業は人造人間の開発に成功した。その頃にはアジア地域の方に小さいが隕石が落下する事件が起きていた。地形が大きく変わり、地上に新たな火山がいくつも発生して多くの街が火の海となった。

そこで日本から大量の人造人間レスキュー隊が派遣されて救急活動が行われた。それ自体は世界中から賞賛された。しかし人間そっくりの外見とは言え人間ではない。これに怯えた要救護民間人から彼らは攻撃を受けた。それに対して防御行動を取ったところを心ないメディアにさらされた。

国内にいるタカ派によって企業は攻撃を受け、株価は下落。それでも人命救助のため企業は活動していた。やがて正輝が生まれた頃にとある事件が起きた。

イメージ回復のために民間人向けに大きなイベントが開催された。正輝達社長の家族や友人達も招待された。しかしそこに彼らの活動をよく思わないテロリストが紛れ込んでしまった。

結果として東京支部本社は爆破され、従業員も来客もたくさんの犠牲者が出てしまった。

正輝はギリギリで難を逃れたのだが、父の義父とその息子が犠牲になった。

これらを重く見た父は日本国内の支社をすべて閉鎖し、海外に活動の舞台を移した。

そして、メディアに姿を見せる時用に偽りの家族を用意した。正輝達本来の家族を黒主という名字の元、赤羽美咲に預け、別の人間を妻子としてずっと国外にいる。

正輝やその姉が会う機会はほとんどなく、何年かに一度会えるかどうか。正直長年会っていない母親はおろか父親の顔もほとんど覚えていない。赤羽美咲はそれより頻繁に連絡を取っているらしいが。

そして久しぶりに先月顔を見せたあの日に……。


「……ん、」

正輝が目を覚ます。久々に懐かしい夢を見ていた気がする。しかし、

「……いつもより少し早いな」

ベッドから起き上がって時計を見る。いつも起きている時間よりわずかだが早かった。

窓を開けて朝の風をその身に浴びる。朝焼け前の赤と青がせめぎ合う空が見える。

「……よし、」

顔を洗い、着替えてからリビングに向かう。

「あ、」

「あ、正輝様」

リビングにはメイド服姿の一人の少女がいた。

「…………アリス。早いな。こんな時間から起きていたのか」

「あ、はい。正輝様もお早いですね」

「……まあな」

この少女はアリス。正輝よりやや年下のこの少女は何年か前に父が保護した少女だ。どう見ても日本人だし昔父が言っていた本名も日本人にしか見えない名前だったが今は理由あってこのアリスという名前を名乗っている。現在は学校に行かず黒主家のメイドとして日々生活している。

正輝とはこの間少しあった仲だ。

「美咲さんは?」

「先ほど起床されて既に道場の方へ向かっています」

「ありがとう」

軽く水を飲んでから正輝もまた道場の方へと向かう。やたらと広いこの家の廊下を歩く場合には重りをつけて筋トレしながら行くのが我流ルールだ。

「おはようございます」

「おはようございます。早いですね、正輝さん」

「目が覚めてしまったので」

道場。元々は礼拝堂だったらしき場所。その中央で正座をしていた赤羽は珍しい真紅の胴着を身につけている。帯を必要としないかなり珍しい特注品の胴着だ。材質を見るにかなり古いはずなのによほど丁寧に扱われているからか新品同然にも見える。

そう。ここでやるのは空手だ。昔父や赤羽がやっていて、現在では正輝も習っている。

大倉道場と言う公式の空手道場にも通っているが、せっかく昔から空手をやっているらしい人が家にいるのだから精神修行も兼ねて正輝は毎朝赤羽に稽古をつけてもらっている。

「しかし不思議なものですね。昔私はあなたのお父様に稽古をつけてもらっていました。それが今では私があの人の息子に稽古をつけているだなんて」

「父親……強かったんですか?」

「はい。とても。拳の死神と呼ばれて全国大会で暴れていました。足を痛めてしまってからは引退してしまって大会などには参加しなくなったんですけども」

「……」

父の話をする赤羽の顔はいつも嬉しそうだ。本当は40近い年齢の筈だが姿が姿のためか中高生くらいに見えてついうっかり正輝は赤面する。

「拳の死神は少し子供っぽいですけどね」

「本人もあまり呼ばれたくなさそうにしてました」

と、談笑をすることもなくはないが赤羽も正輝も基本的にあまり冗談なども言わない真面目な性格だ。そんな二人が真剣に空手の稽古をやれば当然そこには一種の厳かな空気が生まれる。慣れていない人ならば数秒で離れたくなるような雰囲気だ。しかしそれもまた修行の一環だった。


「あれ、」

稽古を終えてシャワーを浴びて正輝がリビングに戻ると既に食べ終えた後の食器が見えた。

「アリス、姉さんは?」

「怜悧様は既に朝食を取られて出発の準備をしています」

「早いな」

時計を見ればまだ6時前後。社会人ならともかく高校生が家を出るには早い時間だ。

「起きた時間はあんたの方が先でしょ?」

と、そこへ噂の人物がやってきた。

「姉さん」

制服姿の2つ上の少女。黒主家長女にて第一子である黒主怜悧だ。その背中にはギターケースと竹刀袋を背負っている。正輝に負けず劣らず多趣味な長女だ。

「おはよう。もう学校?」

「まあね。今日は吹奏楽のヘルプも頼まれてるから」

ちなみに怜悧は正輝よりもやや両親との時間を長く過ごしているからか或いは一種の反抗期か、黒主という偽りの名字を気に入っていないらしく生来の本名である甲斐怜悧を名乗っている。学校でもその名前で登録されているためかあまり正輝と姉弟であることは知られていない。

そして、怜悧が本当の父親と親子であることが周囲に知られることもない。何故なら既にマスコミ用に用意された偽物の娘がいるからだ。当然名前も顔も怜悧とは全然違う。確か実際の年齢も違ったはずだ。

「じゃ、行ってくる」

「ああ、行ってらっしゃい」

正輝が振り向いて声をかけた時には既に怜悧の背中は閉じゆくドアの向こうに消えていた。

「……俺もそろそろ準備をしようか」

リビングに戻り、アリスが作った朝食を食べる。白米、目玉焼き、サンマ、味噌汁。正輝が好きな和食だ。

男子高校生の平均より遙かに運動量が多い上に無駄にコスパを重視しがちな正輝は集中すると食事すら忘れてしまうことがある。

「食事を疎かにしてはいけませんよ。あなたのお父様も一人暮らしをしていた頃は頻繁に食事を抜いていたこともあり、足の治りが遅くなりました」

「……?父親の足は完全に義足になったって聞きましたけど」

「…………その前に一度治りかかってたんです。結局無茶して足を失うことになりましたけど」

と言う会話があったので正輝はどんなに忙しくても食事を疎かにはしないように意識をしている。それは怜悧達にも伝わっている。

「ごちそうさま。いつもおいしいよ、アリス」

「ありがとうございます!」

食器を流しに持って行く。隣でアリスがもう一食分の調理を始める。

「……まだ部屋から出ないか?」

「……はい。でも窓の外を見ている時間が多いので」

「……せつなは悪くない。悪いのは……父親達だ」

正輝はきびすを返した。


・柊咲市立高等学校。正輝や怜悧はそこに通っている。部活動が盛んなことを除けば普通の高校だ。

「……」

正輝は教室に荷物を下ろすとすぐに生徒会室に向かう。1年生ながら書記に選ばれた正輝は誰より早くここへやってきて掃除と過去のものを含む生徒会書記がかき集めた書類に目を通している。

(上に立つ存在が、皆を管理する立場の存在が、誰よりしっかりしてないといけないんだ)

いつから頭によぎるこの言葉。自分の家の事情が関係していないと言えば嘘になるだろう。昔はただ親を恨むだけだったが、こうして様々な部活の助っ人をしたり生徒会活動をして行く内に心のどこかで父親のやっていることは仕方がないことなのではないかと言う考えが生まれてきていた。

(けど、そんなことは絶対にない!誰かを見捨てて得られる未来を用意して、それしか用意できなくて仕方がないなんて、それを息子に用意するなんてあり得ない……!!俺だけじゃない。姉さんやせつながどれだけ苦しんだことか……!!!)

自分ならやれる。出来る。そう信じながら正輝は中学時代からなるだけ多くの人の力になってきた。

父親が未だなお背負い続けている責任と無責任から目を剃らしながら。


・必死にノートに書き連ねる授業内容。教師が喋った内容はもちろんその中で自分が気付いた全てをも書き込んでいく。その現実逃避が故に正輝は中学時代から成績優秀で他の生徒達や教師から一目置かれることになったのだ。

「そういう生き方はよくない」

昔、中学時代に矢尻に話してこのことを自慢してしかし帰ってきた言葉はそれだった。

「何でですか?」

「お前の父親がそれだったからだ」

「え?」

「お前の父親は学生時代の時点からしても過去に起きたある事件の罪を背負いそして責任から逃げるために空手をやり続けてきたんだ。その結果としてあの人は空手を失った。そして今、家族をも失ったんだ。……一応あの人からお前を預かってる身としては容認できないな。今すぐとは言わないから他の方法を探すんだ」

「……」

確か父親とこの矢尻師匠は学生時代先輩と後輩の関係だったと聞く。身寄りのない子供や障害を持った子供達を集めた全寮制の学校に通っていたらしく、つまりは父親はもちろん矢尻も身寄りがなかった事になる。そして恐らくは赤羽美咲もそうなのだろう。

「……けど父親は義理とは言え家族がいたと聞きました」

疑問をぶつける。すると矢尻は少し苦い顔をした。

「俺も何度か会ったことがある。ハチャメチャな同い年の義弟とその父親。だが、お前が生まれて間もない頃に起きたあのテロに巻き込まれて……」

「……」

その話も何度も聞かされた。

「実の両親もいるって聞きましたけど?」

「母親の方は俺も知らないが、実の父親に関しては見たことがある。……あの人がやりたい放題した結果会長の座から引きずり下ろされてどこかに隠居したらしいが。ただ、いろいろあったらしい」

「……」

正輝は祖父母の顔を知らない。赤羽にも昔聞いたことがあるが、あまり祖父にはいい思い出がないとしか言われていない。

「家族に関して興味があるのは当然のことだが俺も話せる範囲とそうでない範囲がある。出来れば直接会って聞くのがいいんだろうが、あの人の場合それも出来ないだろうしな」

「師匠は父さんと仲がよかったんですか?」

「そう見えるか?」

「詳しいですし」

「全寮制にいたからな。一時期あの人から空手を教わっていたこともあったし。ただ、あの人は自分が本当に思っていることはほとんど口にしない。本当の家族から離れ、偽りの家族を用意して世界を一人渡り歩いているあの人が今何を思っているのかは俺やあの赤羽美咲にも分からないことだ」

「……」


放課後。生徒会書記として今日の議事録をまとめ終わった正輝は水泳部の部活へと向かう。年頃と言うこともあってこの頃はよく考えて煮詰まりそうになることが多い。そんな時には頭から水をかぶるのが一番だ。

「……温水だけどな」

誰もいない更衣室で小さく笑う。あらかじめ生徒会の仕事があって部活には遅れると伝えてある。

衣服を全て脱いで水着だけ履くと、プールへと急いだ。その時に気配を感じなかったのは後に一生ものの不覚と知るだろう。

「……ん?」

部活動を終えて正輝が更衣室に戻ってくると違和感を得た。わずかだがロッカーの中に入れた衣服や荷物の位置などが違った。周囲を見れば同級生達が他愛ない雑談をしながら着替えているだけ。

別にロッカーはどこを使えというルールはないが、いつの間にか皆自分がどのロッカーを使うかはもう自然と決まっているようなもので、誰かが間違えて正輝のロッカーを開けてしまったという線も薄い。そして正輝は遅れてきた以上正輝より後にここを使った者もいないだろう。

「……」

正輝はまず財布など貴重品を確認した。問題はなかった。タオルで体を拭きながら制服に袖を通しつつ他のにもつの確認も行うがやはり差異は見当たらない。

(……ロッカーを閉じた際に崩れただけか?それとも点検の先生?)

やがてブレザーを着たところで初めてそれに気付いた。胸の内ポケットに何かが入っていた。ゆっくり中身を見てみるとそれはUSBメモリだった。

「……」

「どうした黒主?」

「いや、ちょっと生徒会室に忘れ物したかも知れない。先帰っててくれ」

「おー」

同級生達に挨拶をしてから正輝は荷物を持って生徒会室に行く。そこでは生徒が自由に使えるパソコンが一台だけある。もちろん生徒会室は鍵が必要で誰でも入れるわけではないが、役員である正輝は別だ。

(ウィルスの類いだとしたら自宅のパソコンから見るのは怖いからな。本当は少し気が引けるが……)

USBメモリを差し込んで内容を読み込む。やがて現れたのは1つのエクセルファイルだった。

(マクロに対応している。過度な処理を与えてパソコンをクラッシュさせるためのものか?念のためパワーシェルを開いていつでもプロセスをキル出来るようにしておくか)

慣れた手つきでキーボードを叩く。この時代、立体映像の要領で物理的なキーボードはあまり使われていないのだが低コストで済ませたい学校などに置いてある低スペックパソコンなどでは未だに物理キーボードが使われていることが多い。正輝も物理キーボードのパソコンばかり使っているためこっちの方が勝手がいい。

「……これは、」

そこには今から14年前の日付と家族写真が添付されていた。スーツを着ているが筋肉質な成人男性、20歳前後の少女とも見える年齢の女性、まだ幼い女の子と男の子が写ったその写真。確認するまでもなくかつての黒主家……いや、甲斐家だ。父親と母親の顔は正直この頃のものが一番しっくりくる。

この写真を見て懐かしさやら感慨深さやらは沸いてこない。それよりも何故この写真を自分に見させたのか、誰がこんなことをしたのかが気になる。

(俺が甲斐家であることを知っているのは黒主家を除けば矢尻師匠くらいしかいないはずだ。もちろん師匠がこんなことをするわけがない。だとしたら一体……)

エクセルファイルに添付された画像を調べていると、画像の下に一文が記載されていた。

「お前の家系を話されたくなければ、生徒会を辞任しろ」

数秒、正輝の思考は停止した。犯人……敢えてそう呼ぶとして犯人の思惑が理解できない。

この情報は場合によってはテロに繋がる情報だ。そして誰でも簡単に手に入るものでもない。

だのに要求するものが正輝の生徒会辞任と言うのはあまりにも解せない。

(情報を得た者と要求している人物は別人……?たまたま情報を得ただけの人物の仕業?それとも俺を生徒会から下ろすのは飽くまでも最初の目的であって別に本命の要求がある?)

USBメモリを引き抜き、鍵を閉めてから生徒会室を後にする。

(今回のこと、姉さんや美咲さんに知らせた方がいいか……?けどせつなやアリスに余計な心配をかけたくない。それとなく美咲さんにだけ伝えた方がいいか……?)

鍵を職員室に返し、家への帰路につく正輝。今日は買い物などをする必要もなくそのまま家だ。

(今度道場に行った時に矢尻師匠にも聞いてみた方がいいな)

夕暮れの紅に染まったドアを開けて家の中に入る。靴を脱いでリビングに向かう。

赤羽やアリスの気配はない。買い物に出かけているのだろうか。怜悧もいないようだ。

「って事は」

足を運ぶ。向かった先は洋室。まるで学校の教室のよう。外からの紅だけが部屋の中を照らすそこはまさに放課後の教室と言ったところだ。部屋へ近づく程に聞こえてくるのはピアノの音。

「せつな?」

ドアを開ける。開いた窓から一筋の風が吹き抜けてくる。そこには絵の具の匂いも混じっていた。

「……」

ピアノの音が止まる。夕暮れの中、ピアノの前に一人の少女がいた。

黒主せつな。黒主正輝の双子の妹。風に靡く黄金色の長い髪が暗闇の中で緑色に揺れる。


夜明け前。瑠璃色と紅に染まる桜の木から姿を見せた少女。研護よりやや年上に見えるクールな風貌。

それに比例してまるで氷の結晶のように青白く輝く長い髪は太陽の下では美しい銀色に映えるだろう。

「に、人間……?」

表情を変える研護の前で少女はゆっくりと大地に降り立った。

「……ここは、」

「に、日本語を喋った……」

「失礼ね。私は日本人よ」

やや現実離れした美しい外見だが確かに日本人に見える。尤も桜の木から出現するという非現実的な光景を目の当たりにした今では五感を麻痺したかのように呆けた表情を晒すことしか出来ない。

「……ここは日本のようね」

「あ、ああ。都内だ」

「そう。東京……」

周囲を見渡す少女。しかしまだ夜更けとあって腑に落ちないような表情だ。

「あ、あんたは……?ど、どうして桜の木から出てきたんだ……?」

やがて時を思い出したかのように研護が身を乗り出して問いかけた。

それを受けて少女は少し考え、そして口を開く。

「私はメナージュ。メナージュ・ゼロ。そう名乗ることにするわ」

決して日本人らしくない名前を名乗った。


・低くうなる室内機。やや古びた蛍光灯の明かりがフードコーナーの一角を照らしている。

「……はむ、はむ」

小さく響く咀嚼音。容赦なく小さな口に運ばれては消えていくコンビニ弁当の数々。

「おかわりを」

「……おかわりをじゃねえよ」

研護がすっかり痩せてしまった己の財布を悲しく眺めながら口を開く。

時刻はまだ朝焼け前。あと1時間ほどで帰らなければ朝の作業に遅れてしまうそんな時間帯。

一睡もしていない消耗がその言葉遣いを荒くする。

「あら、あまりよろしくない口調ね。私が何かしたかしら?」

メナージュと名乗った女性はお行儀よく、しかし5,6人前くらいの弁当を食べた口で不遜に言う。

「言いたいことならいくらでもある」

わなわな震えながら

「どうして桜の木から出てきたのか日本人なのにメナージュなんて名前って絶対偽名だろとかそもそも腹減ったからってどう見ても年下で初対面の奴にコンビニ弁当たかるなとか食い過ぎだろとか!」

「質問が多いわね。男は寡黙であるべきよ?」

口元を拭いながら彼女は答える。

「……なるだけ知らない方がいいわ。私のことは」

「……その割にはこうしてメチャクチャ恩を買ってないか?」

「日本語がおかしいんじゃない?ちゃんと学校に行って勉強しないと駄目よ」

「教育を口にするんなら名前も知らない年下の相手に飯をたかるな徹夜させるな」

「じゃあ名前は?私はメナージュゼロと名乗ったのだけど」

「それを名乗ったって言うのかよ……。俺は赤羽研護だ。街で豆腐屋をやってる」

「じゃあ学校に入ってないの?」

「行ってる。今は眠くて仕方ない。これじゃ授業中はずっと寝る羽目になる」

「よろしくないわね」

「だからあんたのせいだっての……」

研護が席を立つ。そろそろ日の出の時間が近い。いつもなら起きている時間に研護はまだ起きているどころか外にいる。不思議な感覚で少し恐怖を感じている。

「それなら仕方ないわね。そろそろ行きましょうか」

「……は?」

「あなたの家」

「いや、何であんたまで来るんだよ。桜の木から出てきた以上、特別な事情があるのは分かるが流石にあんたを俺の家に入れるのはまずいだろ。家族に何て言われるか分からん」

「そうね、あなたのような健全な男子高校生が私のような年上美人を家に連れ込むなんて不健全」

「……自分を美人と言うな」

「けど、そうも行かないわ」

「は?」

「本当は私はここにいてはいけない存在。けどしばらくはどこかに身を潜めていないといけない。少なくとも時空トンネルに戻るわけにはいかない」

「時空トンネル?」

「気にしないで。でも、しばらくはあなたのところで匿らせてもらうわ」

「いや、だから」

「認識操作魔法を使うわ。これであなたの家族は私のことを気にしない」

「ま、魔法?」

「場合によってはあなたにもかけてあげる。そうすれば私はあなたにとって空気みたいなものになる。ただ、あなたの家を隠れ蓑にする以上食費や水道代などが掛かってしまうかも知れない。それらを盗む形で私は隠れ住みたくないから出来れば一人くらいは家人に認識されておきたいわ」

「……何から何まで自己中の考えじゃないか」

「けどあなたにとってもデメリットだけじゃないわ。私という年上美人が近くにいるのだから」

「……ナルシストめ」

「言っておくけど私には一応心に決めた人がいるからそう言う行為は別の人にして。私は協力者であって彼女じゃないんだから」

「協力されてる側が言う台詞かよ。しかもまだ了承していない」

嘆息。いつの間にか日の出が始まっていた。最近の日の出は早い。そろそろ本気で戻らないとまずい時間だ。

「魔法とやらが出来るなら今すぐ俺を家に戻してくれ。時間がそろそろきつい」

「……あまり魔力を使いたくはないんだけど」

そう言うとメナージュは目を閉じて軽く念じる。次の瞬間、

「!?」

研護は自宅の玄関に立っていた。時計を見れば外出する前の時間だった。

「……まさか……」

慌てて靴を脱いで自分の部屋に戻る。パソコンを見ると表示されている時間はやはり数時間前のもの。

「納得いただけたかしら?」

それでも気付けば部屋にメナージュがいた。当然靴は脱いだ状態だ。

「あんた……本当に……!?」

「魔法使い……と言っていいのか分からないけど魔法が使えるわ」

「……あんた、一体何者なんだよ。瞬間移動だけならともかく時間まで戻せるなんて……」

「……私はメナージュ・ゼロ。世界のルールから外れてしまった女よ」

銀色の髪をかき上げて彼女は答えた。


朝。桜並木の坂道がある。行く者の多くは一方向。登り坂の先には学校がある。

「どうしたの正輝?」

「……ん。何か言ったか?」

正輝はふと隣を歩く少女を見た。矢尻翼。矢尻達真師匠の娘で正輝からしたら幼馴染みだ。一応正輝の過去も知っているがいい意味で他人事だと思ってほとんど話題にはしてくれない。

元々は正輝同様矢尻師匠の下、大倉道場に通って空手をやっていたのだがあまりやる気がなかったこともあり、中学時代にやめてしまった。あの時の翼の大爆発は正輝にとって思い出したくもない大事件の1つだ。

そんなボーイッシュな幼馴染みが頭の後ろに腕を組みながら脳天気に続けた。

「何だか昨日からいつもと違う意味で追い詰められてるって顔してるよ」

「いつも……って俺そんな感じか?」

「こんな感じ」

翼が懐から出したスマホを操作して画面を見せた。何の漫画か分からないがやたらと険しい表情の青年の顔があった。

「……こんな感じか」

「せっちゃん関係?それともお姉ちゃん関係?」

「……どれでもないし、何でもない」

正輝は昨日の話を結局誰にも話せていなかった。しかし翼に指摘された以上、赤羽やせつななど家族には何かあったって事がばれているかも知れない。

正輝がそう答えると翼はそれ以上言及してこなかった。ただ、校門をくぐって昇降口の近くに来た辺りで再び声を上げた。

「あ、これお姉ちゃんだよね?」

「え、ああ」

扉や壁に数枚のポスターが貼ってあった。そこには姉である怜悧が写っていた。

「詳しくは聞いてないけど姉さんがライブをやるらしい。何日か前に生徒会に貼っていいか許可を求めてきてた」

「正輝相手の場合、許可じゃなくて事後承諾みたいなものでしょ?」

「いや、会長がいたから意外と普通に依頼してた」

「なるほど~」

靴を履き替えて廊下に出る。

ちなみに生徒会長は剣道部も兼任していて怜悧が一度も勝てないライバルだ。正輝や翼も何度か会ったことがあるが怜悧との関係はそれ以上はよく分かっていない。

翼と同じように正輝達の事情を知っている可能性もなくはないだろう。

(とは言えまさかあの会長が仕込んだ犯人とは流石に考えにくいだろ。翼にしたってそうだ。俺達の事情は事が事だから知っている人間はかなり限られている。師匠の娘である翼はともかくとして会長の場合、もし知っていたとしたら姉さんが絶対の信頼を置いて明かした可能性が高い。だからあんな事をするとは……)

「正輝」

「ん、」

「またさっきの顔になってる。リラックスしていこーよー」

「……そうだな」

とは言えすぐには明るい表情になれないまま正輝は翼と共に教室に向かった。

矢尻師匠に注意されていたことも忘れ、ただ勉学に盲信して忘れようとした。

……のだが。

「……それで俺のところに来たのか」

矢尻家。翼と一緒に来た正輝はすぐに師匠と会って事情を話した。翼は少し離れたところでスマホをいじっている。間違いなく会話は聞こえていただろうが聞こえていないふりをしている。いい幼馴染みだ。

「はい。やっぱり話せる人が限られているんで」

「……そうだな」

矢尻師匠は茶をすする。そうしていると台所の方でヤカンがうなりを上げた。

矢尻家は少し大きな和風の一軒家だ。あまり家にいない翼の母親、つまり矢尻達真の妻の好みらしい。翼の母親については正輝は何回かしか会ったことがない。仕事をしているわけではないらしいが普段どこにいるのかは師匠や翼もよく分からないらしい。そんなんで大丈夫なのか心配になるが師匠が言うなら安心なんだろう。

「確かにお前達の事情を知っている者は限られている」

火を消して沸いたヤカンから熱湯を急須に入れる師匠。

「だが、お前が知っている以外にも何人かはいる」

「そうなんですか?」

「詳しく正確に現在も、と言う条件では俺達とあの赤羽美咲くらいしかいないだろうがお前の父親はまあまあ有名人で顔が広かったからな。そしてあの人を知っている人もまあまあ顔が広いのばかりだ。例えば昔大倉道場で有名だった馬場家がある」

「馬場家?」

「そうだ。空手の名門で、俺の知ってる4兄妹の一番上は特に強かった。2番目もお前の父親と最後に戦った相手でその戦いが原因であの人は空手が出来ない程の怪我を負ったんだ。……だからといって恨むなよ。あの人が既に気にしていない話なんだ」

「あ、はい。俺もあまり……」

「……それはそれであれだが。まあ、ともあれ馬場家は4兄妹全員があの人とそれなりに関係があったからお前が生まれてからも数年は付き合いがあった」

「今はないんですか?」

「……ああ、そうだな」

師匠は軽く俯いた。その表情は正輝も翼もあまり見たことがない真剣で陰鬱なものだった。

「もしかして例のテロに巻き込まれて……?」

「……俺の口からはあまり言えないことだ。とは言えあの家の人達も昔から空手をやっている通り礼節に厳しい人達だ。仮に恨みの類いがあったとしてもそれを息子であるお前に対して脅迫という形でぶつけたりはしないだろう」

熱湯に等しい茶を当たり前のように啜る矢尻師匠。猫舌というわけではないが思わず唾液が沸いてくる正輝と翼。

「つまるところ、今回の犯人が誰なのかは俺にも分からない。思い当たる節がないわけではないが、口に出していいレベルの確信もない。おとなしくあの赤羽美咲に話して対応してもらうのが一番だと思うぞ」

矢尻師匠がふとテレビを見た。そこではちょうど話題の中にあった人物の姿が映っていた。即ち正輝の父親とその偽りの家族。ほとんど記憶のない父親の姿は偽りの家族と一緒にいることもあって正輝からは他人事のようにしか見えなかった。

「師匠はあの用意された家族のことは知っているんですか?」

「あまり詳しくはない。妻役の方は少し面識がある。あの人の父親が拾った養子だ」

「てことは父親からしたら義兄妹のようなものでは?」

「だがあまりメディアに出ていなかったのが幸いであの人の妻役に自ら名乗り出たんだ」

「……じゃああの娘役は?」

テレビの画面には正輝とほぼ同い年くらいの少女が映っていた。

「…………お前に対して言うのは気が引ける」

「……あー、そういう……」

正輝が肩を下ろすと、翼が歩いてきて父親の腰を思い切り蹴った。

「痛いぞ」

「なんてことゆーの!!」

「……聞かれたから答えたんだけどな」

矢尻師匠はため息をつき、視界を窓の外に放り投げた。


帰り道。夕暮れの下校道。今日は水泳部も生徒会も空手の稽古もない貴重な放課後だ。

しかし正輝は浮かない表情で独り帰路をたどる。晴れ晴れした雲一つない夕焼けが目に眩しい。

「考えすぎるきらいがあるお前はもう少し他人を頼れ。俺を相手にするようにな」

と、翼に噛み付かれながら言っていた師匠の言葉を胸に反芻する。

「けど、うちの父親はどれだけ子供を用意したんだよ全く」

思わず愚痴を叩いてしまう。しかし、年頃の実子にとっては仕方がないことだ。

(思った以上に実は親子なんだなって思ってる自分が少し鬱陶しい)

しばらく歩いていると見慣れた我が家が見えてきた。さらには、

「アリス」

「あ、正輝様」

我が家のメイド少女の後ろ姿があった。

「買い物か?」

「はい。美咲さんから頼まれまして」

笑顔のアリス。事実上我が家の家主に対して奉仕できているのが嬉しいのだろう。

「その美咲さんは?家にいるか?」

「はい。いると思いますよ?」

「そうか」

「どうしたんですか正輝様?何かありましたか?」

心配そうにのぞき込んでくるアリス。正輝は小さく笑ってから軽くその頭をなでてやる。

「ふえっ!?」

「何でもないさ。荷物片方持つよ」

正輝はアリスの左手から買い物袋を奪い取ると軽々と持ち上げる。

「あ、ありがとうございます!」

「気にすんな。家族なんだから」

夕焼け。連れだって歩く二人の影は兄妹のそれにふさわしいものだった。

「……正輝も一緒だったんだ」

黒主家。リビングにはせつながいた。長袖だがせつなにしてはやや軽装で少し珍しい。

「ああ。帰り一緒だったんだ」

買い物袋を机に置くとアリスがテキパキと中から物を取りだして冷蔵庫などに入れていく。

「これは」

正輝が開けられていない袋に手を伸ばす。

「あ、正輝様!」

アリスが手を伸ばすも間に合わず、正輝が袋を開けてしまった。

「……あ」

中身は女物の下着が入っていた。

「……正輝」

せつなが一歩前に出た。ぎこちない動きで正輝が視線を背後へと移す。

「せ、せつな、これはちが……」

「制裁」


午後7時過ぎ。黒主家の夕食時は家族が集まる事はあまり多くないが今日この日は珍しく揃った日だ。

「……というわけだ」

両頬にビンタの跡を刻んだ正輝が昨日今日の話をした。

「…………」

体を震わせる怜悧。無表情だが動揺を隠し切れていないせつな。おどおどしているアリス。

「……そうですか。そんなことがあったんですね」

意外と動じていない赤羽がまっすぐ正輝を見やる。

「……どうするんですか?……どうすればいいんですか?」

「まずは感謝をさせてください正輝さん。あの人に言われたと言うのもあるでしょうが、よく独りで抱え込まずに話してくれましたね。ありがとうございます」

「あ、いえ……」

思わず目を反らす。密かに気にしていたことを直球で指摘された事の羞恥だとは今は思わないようにする。

「……けど、どうするんですか?」

せつなが赤羽に問いかける。物静かなこの二人の会話は同じ家に住んでる正輝達でもあまり見ない物だ。

「そうですね。流石に警察には頼れませんから考えておきます」

赤羽は笑顔で答える。あまり会話がないとは言え家族に違いはない。せつなも正輝やアリスに対してよりかは赤羽に対してはやや表情が柔らかく見える。

「で、姉さん」

「…………何よ」

不機嫌そうに生姜焼きを次々と放り込む怜悧を見やる。

「一応姉さんにも確認だけど犯人に心当たりはいない?」

「いるわけないでしょ。私の周りにいたらぶっ飛ばしてやるんだから」

「怜悧さん。あまり素行を悪くしないでください。正輝さんとも怜悧さんとも名字が違う私やあの人が学校に謝りに行くのは少々骨が折れるので……」

「……そんなに悪い子じゃないもん」

外見年齢だけで言えば怜悧の方が上に見えるがそれでも自分が生まれた時には既に今の姿だった赤羽相手には少々素直で下手に出てしまう。

「美咲さん。矢尻師匠とは付き合い長いんですよね?」

正輝が問うと、赤羽は目を閉じた。

「……そうですね。少しの間あなた方のお父様の弟子をしていましたので」

赤羽も矢尻師匠もお互いのことを訪ねると妙に感慨深いというか、言葉に困るようなそんな雰囲気を漂わせる。昔は矢尻師匠の妻、つまり翼の母親は赤羽ではないかと疑ったこともあるほどだ。

尤も怜悧も正輝もせつなもアリスも翼も矢尻師匠や赤羽にはずっと昔から世話になってる事もあってもはやそんな疑いなど意味がないようなものだが。

「……俺、実は美咲さんと師匠の間の子供って開き直ろうかな」

「待ってください。そんなこと言われたら私は陽翼に殺されてしまいます」

「よはね……確か師匠の奥さんで翼のお母さんですよね?」

「え、ええ。あの人の幼馴染みみたいなものでした。私はあまり話したことはないのですが……」

「けど、美咲さんにしては珍しく呼び捨てなんですね」

怜悧が今更ながら上品に口元を拭いながら言う。正輝が何か言いたそうにするとすごい顔でにらみ返された。

「そうですね……。昔の知り合いだからですかね。今となっては繋がりがある人もあまり残っていませんので」

「……」

赤羽の発言に静まる食卓。そこにはテレビもない。昔ニュース番組にキレた怜悧によって破壊されて以来黒主家には電波の通ったテレビは置かれていない。

「そんなに暗くならないでください。それより怜悧さん。そろそろライブが近いのでは?」

「あ、はい。今日も練習でくたくたです」

嘘つけ。体力馬鹿のくせに。

正輝が何か言いたそうにすると以下略。

「美咲さんやせつな、アリスの分のチケットは予約してあるんで安心してください」

「姉さん、俺のは……?」

「あら?欲しいの?」

「……美咲さん、姉さんがいじめる」

「怜悧さん正輝さん。意地悪は駄目ですよ?」

「……それに姉さん。私はその、あまりそう言うところは……」

「何言ってんのせつな。お姉ちゃんの格好いいところ、可愛い妹には特等席で見てもらえるようにいいところ予約してるから」

「……そう言うんじゃなくて」

「怜悧さん。無理強いは駄目ですよ。せつなさん、無理はなさらない程度に少し足を運びませんか?」

「「……はい」」

二人同時に頭を垂れた。静かだった食卓に少しだけ笑顔が零れた。


誰もが寝静まった夜の帳。

「……聞きましたか?」

赤羽の声が静寂に響く。

「……脅迫のことか?」

電話の相手は矢尻達真。

「ええ。またテロが起きるとは考えたくありませんが」

「……おい最上。俺の前でそのキャラやめろ」

「……私はもう赤羽美咲。最上火咲なんてこの世界にはいないわ」

声色の異なる両者の声。

「……あの子達、私とあんたの子供みたいとか言っていたわ」

「それは勘弁だな。あの赤羽美咲が言うにはそう言う世界もあったらしいが」

「あの赤羽美咲の話、どこまで信じてるのよ」

「さっぱりだ。とは言えあの日、お前があの赤羽美咲に負けた日の後に赤羽美咲と全く同じ姿で退院した時からあの赤羽美咲や紫なんちゃらが言っていた話は本当なんじゃないのかって思うようになった」

「……話を戻すわ。あんた、犯人に心当たりとかないの?」

「ないな。あいつらがあの人達の子供だと知ってるのはもう俺達くらいなものだ」

「……それはそうかも知れないけど」

「…………ただ、1つ妙な話を聞いた」

「妙?」

「ああ。あの人のボディガード役をやっていた権現堂が言うには、何ヶ月か前にあの人達が宿泊予定だったホテルで火災が発生したらしい」

「……それで?」

「犠牲者は出なかったそうだが……、権現堂は何かを隠してる。恐らくとんでもない秘密を抱えてしまったんだろう」

「……あの大男も大概ね。で、あんたは何だと思う?」

「……テレビで見るあの人の娘役。足運びが昔と微妙に異なる」

「どういうことよ?」

「今の時代、甲斐機関の技術力を使えば本物の人間そっくりのロボットを作ることは不可能じゃないんじゃないのか?」

「……まさか、」

「飽くまでも可能性の話だ。ただ、もし俺の感が正しければ、そしてあの人がするだろう判断なら……」

「……そしてあの子がその状況に立たされたら……か」


二人の会話がほとんど届かない正輝の部屋。

「……」

正輝は悩みを晴らすためゲームにいそしんでいた。のだが、

「いつもと相手が違う?」

プレイヤー名は変わらない。しかし、言葉なくとも通じ合っているかのように連係プレイが出来たあの相手と今日は何故か全く連携が取れない。

「……調子が悪いのかそれとも……」

別の悩みが出来た正輝だった。


「これがゲーム」

夜中。メナージュは研護から借りたコントローラーでいつも研護がやってるゲームをプレイしていた。

「あんた、ゲームもやったことないのか?」

「ええ。私、結構幼い時に封印されたから」

「封印……ねえ」

研護は後ろのベッドで横になってる。メナージュを無視して寝ようとしているのだが流石にすぐに眠れるほど図太い神経をしていなかった。

「その封印中にそんな大きくなったのか?」

「あら、セクハラかしら?」

「そう言う意味じゃない」

実際メナージュは幼いと言うには無理がある容姿をしている。実年齢は教えてくれそうにないが外見だけで言うなら大学生か新社会人くらいには見える。そのため確かに胸のサイズはまあまあある。

「瞬間移動だけじゃなく時間まで巻き戻せている以上は厨二病とか言う気はもうないが、流石に封印とまで言われたらな。何やったんだよあんた」

「別に。ただ、本来世界にあってはならないものの誕生に立ち会ってしまっただけよ」

「はぁ?」

余計に意味が分からない。とりあえずネットでメナージュゼロと調べたらロボットアニメが出てきた。

「……あんた、このアニメ見てたの?」

「……あら懐かしい。昔近所の花屋でポスターが貼られてたわ」

「……このどう見ても萌え萌えぽい画風のアニメの?」

「そう。地上波でやってなかったから何のアニメかずっと気になってたわ。私の幼馴染みがね」

「……このアニメやってた頃に?」

研護がざっくりと年代を計算する。自分よりやや上でその間に封印されて大きくなったと考えるにはやや無理があった。

「どういうことだよ。あんたいくつだよ」

「レディーに年齢を聞くのはバッドマナーよ」

言いながらメナージュはゲームを進める。本当に初心者かってくらい既に中々プレイがうまくなっていた。

ただ、いつも一緒にプレイしているプレイヤーとの呼吸は合ってなかった。

別に知り合いというわけではないが、妙な羞恥心を得てしまう。普通に考えて深夜に男子高校生の部屋で少し年上の女性がゲームをしているというのが時間を経るにつれて妙な感覚に繋がる。

(妹なら確かにたまに夜来るが、それと一緒には流石に出来ないよな)

「……と、」

急にメナージュがコントローラを置いた。

「どうした?」

「トイレ借りるわ」

「あ、ああ」

共同プレイ中に席を離れるのは他のプレイヤーに対して失礼だが、流石に初心者にそれを説くのはまだ早い。メナージュが部屋を出るとすぐに研護が代わった。

「……やっぱ俺と一番息が合うのは画面の向こうのこいつだけだよ」

小さく独り言。しかしすぐにコントローラを操作する指が止まった。

「……あいつ独りでトイレって大丈夫なのか?まあ、存在感を魔法で操作するとか言ってたから誰かに見つかっても大丈夫って事なんだろうけど……」

しかし研護の予感は的中してしまった。

「きゃあああああああ!!!」

「げっ!?」

夜中に響く妹の悲鳴。研護はポーズのジェスチャーとサインを送ると、コントローラを置いてすぐに走り出した。

「どうした!?」

叫ぶ相手は妹ともうひとり。

「……研護」

「お兄ちゃん!?」

トイレの前で腰を抜かしたかのように座り込む妹とトイレから出てきたらしいメナージュが対面していた。

「この人誰!?不審者!?」

「あなた、妹いたのね。でもどうして認知阻害の魔法が効かないのかしら?と言うかこの子……」

「……はあ」

嘆息。どうやら自分は少し寝ぼけていたらしい。時間を戻したというのが妙な時差ボケを生んだのかも知れない。メナージュがトイレといった時点で警戒しておくべきだった。

「どうしたの?」

そこへ新たな声。

「……お兄ちゃん、どうかしたの?」

それは座り込んだ妹とうり二つの姿をした少女。彼女もまた妹だった。

「研護、あなたの妹さん双子かしら?」

「…………こいつらは赤羽翡翠と赤羽琥珀。俺の妹だ」

今はただ頭をかきながらそう答えることしか出来なかった。


・燃え上がる太陽が夜の闇を照らすよりやや早い時間。

赤羽豆腐工場の朝が始まる。研護が到着するより先に既に父親が豆腐の製造を始めていた。

「遅いぞ研護」

「悪い。すぐ始める」

結局ほとんど眠れていない研護だが、加工前の大豆の匂いに包まれた作業部屋に入れば自然と体が引き締まる。幼い頃に母親を失った研護。そして妻を失った父親はお互い口下手なところもあってあまり親子らしい会話はない。しかし日課のごとく毎朝必ずやっているこの大量に豆腐を製造する時間だけは恐ろしいほど呼吸が合っていた。

赤羽豆腐工場はその需要の多さと打って変わって零細企業だ。赤羽親子を除いて従業員の類いは一切なく、日の出より前から作業を開始して日中帯、研護が学校に行っている間は父親が自ら商店街で豆腐を売りに行く。昔は従業員もいて結構賑やかだったらしいが少子高齢化や地元の過疎化に伴って寂しい姿となったらしい。

とは言え最近は通販もはじめ、売り上げという意味では以前より遙かに上昇。従業員も実質二人しかいないこともあり、家は中々リッチだ。親子揃って華美な趣味はないのでお金は結構有り余っているが。

「ふう、」

一日のノルマを終わらせて研護が浴室にやってきた。寝る前にも入浴しているが豆腐作りが終わった朝にも軽くシャワーを浴びる。それが必要なくらいには汗が滝のように流れるからだ。

着替えを洗濯機の中に入れて研護が浴室に入る。と、

「……あら」

「……は?」

そこには銀髪美女の姿があった。即ちメナージュ・ゼロである。

「な、な、な、ななななな!?」

「その狼狽は本来なら私の方の仕草じゃないかしら?」

「何でお前がここにいる!?」

すぐに股間を隠す研護。対してメナージュはどこも隠していない。昨夜話題に上がったように立派に育った胸。引き締まった腰。毛髪とは逆の漆黒の陰毛とその下の女裂。どこも隠していない。

朝からそんな物を直視してしまった事で研護のそれは隠しきれないほど元気になってしまうのも無理はない。

「あら。それが朝勃と言う奴かしら?」

「ちげえよ!!つか隠せ!何で風呂入ってるんだよ!?」

慌てる研護に対してメナージュは至って冷静でそのまま。

「あなたの妹さん達からここでは朝にお風呂に入ると聞いて。隠してないのは……そうね。別に恥ずかしくないからかしら」

「何でだよ!?」

「昨夜も言ったでしょ?私が封印されたのは幼い頃。体ばかりは見ての通り大人に育ったけど私の感覚ではまだ小学生に上がったばかりの頃よ?まだ自分の体にも慣れてないんだし」

「は、はぁ!?」

つまり目の前の美女はまだ自分は性的羞恥心を覚えるより幼いから裸を隠そうとしていないとの事だ。

「だから気にしないで。あなたも一緒に入ったらどう?そのために来たのでしょ?」

「んな堂々できるか!」

とは言え一刻も早くシャワーを浴びたいくらいには汗だくなのも確かだった。だから研護はいったん深呼吸してそれから浴室のドアを閉めた。

「あら、一緒に入ってくれるのね」

「俺が今一緒にいるのはまだ小学生。俺が今一緒にいるのはまだ小学生。俺はロリコンじゃない。俺はロリコンじゃない」

研護は自分が未だ豆腐を作っている状態の精神に没入した。昔漫画か何かで見た。一流のメイドは私服であってもオフであっても一流のメイドの仕草で献身をすると。それと同じでたとえ一糸まとわぬ姿で目の前に豆腐も大豆もなかったとしても豆腐屋の息子なら豆腐作りをしている時のように心を研ぎ澄ませなければならないものだ。

「俺は小学生に欲情しない。俺は小学生に欲情しない」

「……そー」

「おれりいやぁぁっ!?」

シャワーを浴びていたら突然メナージュの細くてきれいな指が未だそそりたったままの研護のそれを撫でた。

「な、な、何するんだよ!?」

「……硬い。こんなになるのね」

「何で触ったのかって聞いてる!」

「気になったから?私の幼馴染みの男の子のはこんな風にはならなかったわ」

「小学生男子のと比べるな!じっとしてろ!」

それから研護はあっという間に体中の汗を流すと浴室から出て行った。

「……男の人って皆お風呂早いのね」

一人残されたメナージュが小さくつぶやいた。

一方頭も乾かさずに服だけ着替えた研護がリビングに戻る。車の鍵がないためどうやら既に父親は商店街へと向かったらしい。いつも豆腐を売ってる店舗にも風呂はあるから問題はないだろう。

「……ん、」

流しには父親が食べたらしい朝食が乗っていた食器が置いてあった。先ほど研護が作った物だ。

「……一言くらい言ってけっての」

それだけ呟いて自分たちの分の朝食を作ることにした。

のだが。

「……忘れてた」

食卓。研護は嘆息した。

「研護。これしかないのかしら?」

メナージュは自分に出された分を一瞬で食べ終えてしまった。あまりに一瞬のためか妹たちも唖然としている。(こいつ、とんでもない食欲だった。コンビニで4000円くらい使わされたの完全に忘れてた。……使った金は返ってきたからいいけど……)

「研護」

「ない!つか食い過ぎなんだよお前」

研護が少し声を上げると、メナージュは肩を落とし、それを見た妹たちが研護をにらむ。

「お兄ちゃん!女の子相手に意地悪しちゃ駄目だよ!」

「……女の子って年齢かよ。20過ぎてるだろそいつ。それで高校生に飯たかってるんだぞ」

「兄さん、女の子はいくつになっても女の子なんだよ?」

「そこにこだわるなっての。……仕方がない」

研護は自分の朝食を持って台所へと向かう。

「?」

「……」

研護が背を向けたままぼそっと呟くと、一瞬だけ光が輝く。そして、

「ほらよ」

研護が二人分の食事を持ってきた。

「……あなた、」

メナージュは怪訝に見やる。見やりながら当然のように食事を貪る。

「それで我慢しろよ」

研護が鼻と腹を鳴らして自分の分の食事を食べ始める。メナージュはそれを数秒見てから爆速で食事を平らげた。

「あなたも使えたのね」

朝食が終わり、妹たちが片付けをする間。ソファで朝のニュースを見ながらメナージュが横に座る研護に呟いた。

「何がだ?」

「魔法よ。さっき料理を増やしたでしょ?……複製魔法かしら?」

「……魔法かどうかは知らん。ただ俺にはこれが出来る」

研護が財布から1000円札を取り出すと、次の瞬間には2枚に増えていた。

「……お金は複製したら犯罪じゃなかったかしら?」

「細かいな。……別に偽札じゃない。学生がコンビニとかで1000円や2000円出したところで偽札を疑う奴なんてそう滅多にいないだろ」

「……なるほど」

メナージュは紅茶を飲みながら流しの方を一瞥した。未だどちらがどっちだか区別のつかない妹たちが一糸乱れぬ連携で食器を洗っていく。

「あなたもその内なってしまうかも知れないわね」

「何にだ?」

「……世界から外された存在……メナージュ・ゼロに」


「だからって普通高校生が男女でテニスの大会をやるか?」

正輝は嘆息した。グラウンドの横にあるテニスコート。本来ならテニス部が使用するいくつかのコートに30人以上の男女が集う。

「まあ、都合がいいんじゃないかな?」

隣には翼がいてラケットを弄んでいる。そんなに器用な方ではないためよくラケットを落としているが。

「そうそうないだろこんなの」

正輝が再び嘆息。現在は体育の時間なのだが女子側の体育を担当している教師がインフルエンザに罹患してしまったためしばらくは男女混合で体育をすることになったのだ。

「テニスが出来る人数は限られてるだろうに。サボる奴とか出るぞ?」

「じゃあそれを先生に言ってみたら?僕としては都合がいいんだけど」

早速翼がコート横の方で座り込んでうとうとと船をこぎ始めている。

「おいおい、翼……」

「黒主正輝!」

「げ、」

正輝の声を遮る大きな声。正輝が振り向けばそこにいたのは北条刀斗。中学の頃からよく正輝に突っかかってきてる男子だ。正輝がやってる物は何でも打ち込んで短い期間に正輝と互角に渡り合えるくらいにまで上達する。その才能自体は正輝が正直羨ましく思えるほどなのだがしかしことあるごとに頻繁に勝負を挑まれては正直鬱陶しさも芽生えてくるという物だ。

つまり、

「俺とテニスで勝負だ!」

「コート埋まってるぞ?」

「テニスくらいボールとラケットがあればどこでもやれるだろ!」

「いや、流石に授業中にコートの外でテニスは危ないだろ」

勉強の成績も正輝に迫るほど高いのだが勝負にこだわるあまりたまに常識を忘れることが多い。

正輝とは既に2年以上の付き合いだが甲斐家に関することは全く話題になっていない。先日の手紙を書いた犯人の候補として一瞬だけだが刀斗は上がった。だが、確かに常識外れの部分はあっても明らかな犯罪をするような人物ではないことは正輝にも分かっていた。

「じゃあ準備運動でジョギング勝負だ!」

「……一語一句が意味不明すぎる……。ただ、どうせコート使えるようになるまでまだ時間掛かりそう……と言うか授業時間中には来そうにないからジョギング並走ならいいぞ」

「並走なんてつまらないことを……」

「じゃあよーいスタート!」

翼が突然合図を出したので正輝が阿吽の呼吸でほぼ同時に走り出す。

「あ、待て!」

「いってらー」

欠伸をする翼を置いて正輝と刀斗が走り出した。

「……さて、」

正輝は走りながら周囲を見やる。正輝を狙っている人物ならこうして他の生徒から離れれば行動に出るのではないかと睨んでいるからこその行動だ。

(それに相手が本物のテロリストの可能性が低い。少し危険思想なだけの一般人程度なら俺一人で十分だし万が一の場合でも刀斗がいる。二人掛かりなら心配もないだろう)

生徒会メンバーで成績優秀で多くの生徒から頼られる優等生・黒主正輝の中身は結構グレーだ。損得勘定と自らの気分を大前提に動くのは父親譲りな事を正輝はまだ知らない。

幼い頃から空手で鍛え上げられた正輝にとっては準備運動でしかない。軽く汗をかいた程度を走っている。

あれだけ文句を言っていた刀斗もほとんど汗をかかないまま正輝とほぼ並走している。恐らくいつでも抜いて全力疾走できるだろうが、さっきの翼のような不意打ちを防ぐために備えているのだろう。

(その焦りを利用させてもらう。少し心苦しいがな)

この不信の利用は師匠譲りな事をまだ知らない。

しかし、心の黒さに正輝が優越感を感じていたところだ。

「!」

突然正輝が、そしてやや遅れて刀斗が半身を切って進路を変えた。次の瞬間、手前にレンガブロックが落下した。もしも、正輝達が進路を変えていなければ大けがを負っていたか或いはそのまま死んでいただろう。

「……な、何だ!?どうしてこんなところにレンガブロックが……!?」

刀斗が周囲を見る。対して正輝はすぐに真上の空を見た。一番目立つ高所は校舎の屋上。しかし距離がある。2,3キロほどのレンガブロックとは言え正確に投げて落とすには少々難易度の高い距離だ。同じ理由で教室や廊下の窓からも難しいだろう。だとすれば……

「……そこか!」

正輝がフォームを変えて走った先は近くの木。刀斗がそれに気付いたと同時、木の上から一つの影が舞い降りた。

「!」

それは剣道着姿の人物だった。しっかり面まで装備しているためか顔は見えない。明らかに怪しいが、正輝達を狙っていたことは確かだ。そして今、剣道着姿は木に向かってきている正輝の前に降り立ち、一瞬で竹刀を抜いて正輝の足を狙う。

「くっ!」

ギリギリで一歩を踏みとどまり、竹刀が空を切る。それを意識するより早く再び前へと踏入り、相手へと接近を臨む。だが、相手もまた正輝が前に進んだのと同じ距離を後ろに下がり、かなりの早さで竹刀を構え直した。(かなり実戦慣れしているな……!それに竹刀とは言え飛び道具を持った相手はやはりやりづらい……!)

しかし正輝は構えを解かず、前へと進む。それが真剣ではなく竹刀である以上はどんな手練れだったとしても相手の肉体を切断することは出来ない。もしかしたら腕の骨が砕けるかも知れないが、その程度なら正輝も空手の試合で経験済みだ。

(美咲さんや師匠に迷惑をかける前にここでこいつを捕まえる……!)

正輝の手が狙うのは相手の面だ。捕らえることが出来なかったとしても、面を剥いで相手の顔を見ることが出来れば次善にはなる。

だが、相手はその正輝の手をいともたやすく払いのけた。

「!?」

正輝の間合いと手の動きからそれが攻撃のためではないものだと一瞬で判断し、だからこそ竹刀でない籠手をつけた腕で払いのけたのだ。つまり、

「っ!!」

本命である竹刀が再び振るわれる。正輝の目でギリギリ追えるレベルのスピード。体操着の半袖で命中すればかなり痛いだろう。だが、恐らく骨までは行かない。その判断で正輝は竹刀を左肩で受け止めた。

「!」

「ぐううううううううっ!!」

痛みに耐えながら素早く相手の手首に蹴りを放ち、竹刀を吹っ飛ばす。飛び道具のない勝負ならばと正輝がさらに一歩を踏み出す。が、

「!」

相手は吹き飛ばされた竹刀に目もくれず真っ向から正輝の前に出た足に蹴りを入れつつ正輝の鳩尾へと正確に拳をたたき込んだ。

「がはっ!!」

籠手で柔らかい体操着を殴ったから以上に激痛を感じたのは相手が放ったパンチは本物の一撃だったからだ。一瞬だけ意識を失った正輝は体勢を立て直すのにやや遅れ、そのわずかな間に相手は正輝の右足を抱え上げる。

「黒主正輝!スープレックスが来るぞ!!」

「!」

刀斗の叫び。しかしそれは間に合わず。気付いた時には正輝の体は宙を舞い、背中からコンクリートの地面に叩き付けられていた。

「………………っ、」

出血はない。骨折も恐らくない。だが正輝は既に立てずにいた。ただ、逆光の中自分を見下す剣道着姿を睨む。

「お、お前は何者だ……?」

「…………」

相手は答えず。落ちた竹刀を拾ってそのまま去って行った。

「お、おい!」

刀斗が正輝へと駆け寄る。

「背骨が折れたのか!?」

「い、いや、だが強打はしているな……!」

刀斗に支えられながら正輝は何とか上体だけを起こす。全力で走った後のように汗ばみそして血の気が引いている。

「なんなんだあいつは?」

「……俺が知りたい。剣道や空手、プロレス……とにかくいろんな武術が複雑に絡み合ったとんでもない我流格闘技だ。コマンドサンボとも違うだろうな」

「お前が全く歯が立たないとは……」

しかし、そう言う刀斗は軽く笑みを浮かべていた。それは強者を見つけた事への喜びでも正輝が手も足も出なかった事への侮蔑でもない。

「刀斗……これは他人事かも知れないが遊びじゃないんだ。迂闊なことは考えるなよ」

「……お、おう」

バツが悪そうな表情から刀斗は力ずくで正輝を立ち上がらせて肩を貸す。

「保健室か?……いや、さっきの奴が来たらまずいか……?」

「……いや、俺を殺す気ならとっくにやってる。少なくとも今奴に俺を殺すつもりはないだろう。一応誰か先生に不審者がいたと伝えたい」

「分かった。なら俺はお前を保健室に運んでから職員室に行く」

「悪い」

少しだけ背中の痛みが引いてきた正輝はそれでもやっと二人三脚で保健室へと向かう。

(……あの剣道着。やっぱりとんでもなく強い。相手を傷つけることに全く躊躇いがなかった。だが、妙な感覚もある。どうして俺を殺さなかったのか、それを考えるまでもなく何故か俺自身が納得している。なんなんだこの感覚は)

保健室に運ばれた正輝はそれから放課後近くまでずっと思考を巡らせていた。それが何故かどこか楽しかった。

夕暮れ。やっと独りでまともに歩けるようになった正輝は生徒会を欠席し、翼と共に大倉道場へと足を運んだ。

「正輝~やっぱまだ稽古は早いよ~」

「いや、稽古しに行くんじゃない。師匠に報告がしたくて道場に行くんだ」

「お父さんに?なら家に来ればいいじゃん」

「今日は確か遅いシフトだったから師匠は遅くまで帰ってこないはずだ」

「わお。娘より父親について詳しいなんて不思議な感覚」

暁が影を焼く坂道と階段の先に正輝が通う大倉道場がある。元は正輝の父親が会長を務める機関の子会社が趣味でやってる場所だったがかつてのテロをきっかけに切り離されて現在は独立したただの空手道場となっている。師範である矢尻達真は先輩達の力を借りて2号店のようなものをこの柊咲の街に開いて経営している。

元々は上溝と呼ばれる場所にあったらしいが、正輝は行ったことはない。

「失礼します」

やたらと重い扉を開けて正輝と翼が道場に足を踏み入れた。

「ん、正輝。それに翼も」

道場の奥の方にいた達真が二人に気付く。

「どうしたんだ?今日はお前稽古日じゃないだろう?それに翼まで……まさか復帰するのか?」

「冗談言うならお父さんのおかずまで食べちゃうよ!……正輝が何か話があるんだって」

「……そうか。ならちょうどいい」

達真が目配せをする。正輝がその先へ視線を移すと、見慣れた足運びの姿が組み手を行っていた。

正輝よりやや背の高い、しかしボディラインから女性と分かるその人物は、

「……ん、正輝」

組み手が終わり、ヘッドギアを脱いだ彼女は怜悧だった。

「姉さん!?大倉道場に通ってたのか!?」

「見学混じりよ」

汗を拭いながら正輝達に向かう怜悧。と、すぐ足を止めて振り向いた。

「ああ、歌音。紹介するわ」

「その人が?」

「そ。愚弟」

「おい、」

突然の蔑称に抗議する正輝。そして、怜悧の肩越しに会話の相手を見やった。それは正輝よりもだいぶ背の低い少女だった。その少女もまた怜悧に続いて正輝へと歩み寄る。

「正輝。こっち歌音」

「あ、ああ。どうも。黒主正輝です」

「黒主?へえ、怜悧の弟なのに?」

歌音と呼ばれた少女はヘッドギアを外し、長い髪をかき上げる。しかしそれでも顔の左半分は髪で隠していた。

「ま、いいや。馬場歌音寺です」

「馬場?」

正輝は反芻した。確かその名字は以前達真から聞いたことがあったはず。昔、大倉道場所属だった空手の名家と同じ名字。

「かのんじなんて名前もばばなんて名字も嫌だから歌音ちゃんの事は歌音ちゃんって呼んでね」

「い、いや、流石にいきなり下の名前は無理です」

存外グイグイ迫る歌音に後ずさる正輝。

「歌音。そいつ食ったって美味しくなんてないから」

「怜悧の妹になんてなりたくないから安心してよ」

「姉さん、この人は?姉さんもそうだけど大倉道場で見たことないんだけど」

空手道場。小学生くらいまでなら男子に比べれば少ないものの女子がいても何も不思議はない。しかし、中学生以上になると男子ですら継続して道場に通う者は一気に減少する。それが怜悧のような高校生くらいまで空手を続けている女子ともなれば本気で空手をやっている人物に間違いない。けど、それなら幼い頃からこの大倉道場で稽古を続けている正輝が知らない顔の訳がない。

「てか姉さんだって空手やってたのずっと昔だろ?」

「ああ。実はね、」

「怜悧と歌音なら上溝の道場に通ってたんだ」

達真が他の門下生への稽古を続けながら言う。

「上溝のって確か1号店というか本場の?」

「そう、昔父さんが通ってたって言うあそこだよ」

「父さんか……」

正輝が反芻。すると、歌音が顔を近づかせてきた。

「ねえねえ弟君。君たちって名字は違うけど姉弟だよね?弟君はお父さんのことどう思ってるの?」

「どうって……」

正輝が怜悧を見た。怜悧は変わらずあっけらかんとしてシャドーを始めた。

(姉さんはこの人に事情を話しているのか?てかどうしてこの人はそんなに俺に関わりたがるんだ?)

「あ、お姉ちゃん。正輝が初めて会った女の子にドキマギしてます」

「え?正輝ってば歌音みたいなのが趣味だったの?」

「違う。いろいろ圧が強いから怯んでただけだ」

正輝が体裁を整えると、歌音は小さく笑ってから一歩後ろに下がる。

「あはは、ごめんね。でも怜悧が超弩級のファザコンなのはいろいろ有名だから。弟君も一緒なのかなって」

「歌音!」

赤面した怜悧の跳び蹴り。歌音は笑いながら回避。

「この二人はお前といい勝負するかそれ以上の強さだぞ」

達真がやってきた。翼が飲み物をたかるがそれを無視して達真は続ける。

「お前に前言ったように歌音はあの馬場家の一員だ。上溝の大倉道場で現在未成年女子トップクラスの実力者だ。そして実は怜悧同様に全国大会出場まであと一歩だったりする」

「え!?姉さんそんなに強いんですか!?」

正輝の記憶が正しければ最初こそ正輝や翼と共に道場に通っていたが、翼よりも先にやめてしまっていたはずだ。

「正輝。この道場で何か気がつくことはないか?」

「え?いきなりなんですか……?」

「……この道場は俺が15年くらい前に作ったものだ。声をかけられる知り合いには声をかけたが、女性の実力者はいなかった。だが、上溝の方にはいくらでもいる。だから怜悧は上溝の方に行っていたんだ。……まあ、怜悧からは口止めされていたんだがな」

「……そうだったんですか」

理由を問いたいが、しかしあのとにかくあらゆる部分で意地っ張り且つ逆張りの化身みたいな姉のことだ。本人の中でいろいろ繋がった結果、今こうなっているんだろう。考えるだけ無駄だ。

「それより、あの歌音って人は俺達のこと知ってるんですか?」

「…………」

達真は黙った。正輝や翼くらいにしか分からないがかなり苦悩して何かを言おうとしている表情だ。

「……正直知っている可能性は高い。俺からはそれ以上は言えない」

「……ど、どういう……」

しかしそれ以上は追求できなかった。

「……」

遠く。怜悧の攻撃を避けながら歌音の右目がこちらを見ている気がしたからだ。

「ちなみにあの人、左目は……」

質問を変えたら今度は翼に脇を殴られた。

「な、んだよ」

「デリカシー」

「………………そっか」

ため息。

「で、正輝。何か用があってきたんじゃなかったのか?」

「……えっと、……何でしたっけ?」

いろいろ情報量の洪水で正輝はすぐに答えられなかった。そして翼もその内容までは聞いていなかった。

「翼はやはりもう復帰する気はないのか?」

「ないよー。まだ言うの?おそば通販しちゃうよ?」

「……陽翼のためにもブロックワードにしよう」

翼の発言に今度は達真がげんなりした表情となった。どうも空手に関与した女性はいろいろ強かになるらしい。ちなみに正輝もあの頃の矢尻家大戦争は思い出したくもなかった。

やがて、稽古が終わり、汗を拭って制服姿に着替えた怜悧と歌音がやってくる。

「歌音さんは家、この辺りなのか?」

姉への質問。

「何?本当に歌音が気に入っちゃったの?」

「違う。上溝とかって方の道場で会ったんだろ?なら地元違うんじゃないのか?」

「それは、」

「大丈夫だよ、弟君」

歌音が遮る。

「花音ちゃんはそろそろこっちに引っ越すから大丈夫なの。今日は道場の下見に怜悧と一緒に来たんだ」

「へえ、」

正輝としては思ったより姉と仲がいい事に驚きがあった。少しでも見せると面倒なので丁寧に隠すが。

「ちなみに歌音は正輝と同い年だよ」

「え、それなのに姉さんとため口呼び捨て!?」

「付き合い長いからね」

歌音が頭の後ろで腕を組む。その仕草はちょうどすぐ近くを歩いていた翼のそれと一緒だった。

つまり彼女も翼と一緒でのんびり屋だがどこかに恐ろしいスイッチがあるのだろう。気をつけねば。

「……ん、」

仕草を見て正輝は歌音が竹刀袋を背負っていることに気付いた。

「歌音さん、剣道もやってるのか?」

「私と同じでいろいろやってる。ちなみに言い忘れてたけど私と歌音はバンドメンバーだから」

「へえ、って事は今度のライブにも?」

「もちろん歌音ちゃんも参加するよー」

鼻歌交じりに言葉を投げる歌音。隣で翼も気付いたようだがやはり仕草や癖などがそっくりだ。

(……まさか師匠の隠し子とか?)

その疑問は冗談にならないので生まれた瞬間に殺した。

やがて、歌音や翼とは途中で別れて正輝と怜悧だけが同じ帰路についた。

「……」

「……」

夕暮れよりかは夜の闇に近づいた頃合い。二人の姉弟は言葉をなくし、ただ帰路への道を歩くだけ。

ただ、正輝には何となく怜悧が何か言おうとしている気配に気付いていた。しかし、やぶ蛇になりかねない事は極力避けたい。周囲に女性が多い正輝が得た渡世術の1つだ。


また別の夕暮れ。

「ったく。これからは食事も多く用意しなきゃな」

研護が学校の帰り道を、しかし帰路とはやや別の方向へと足を踏み入れていた。

「……まあ、金ならいくらでもあるからいいか」

そう言って普段はあまり足を踏み入れないコンビニに入店した。

普段はあまり食べないコンビニ弁当もメナージュ対策に少し多めに買って置いた方がいいだろう。足りなくなったら増やせばいいからむしろ種類を多めにしておいた方がいいかもしれない。

そうして高校生にしてはやや奇異だが買い物かごいっぱいに弁当や飲み物を入れてレジへと向かう。

「いらっしゃいませ」

アルバイトなのか、店員は研護と大差ない年齢の女性だった。名札には赤羽と書いてあった。

(……同じ名字か。珍しいな。とは言え親戚の類いじゃないだろうな)

「5920円です」

「え、高……」

「……どうされますか?」

「あ、いや、買います」

1000円札を6枚出す。赤羽店員はお札を受け取ると、

「……?」

少しだけ首をかしげたがそのままレジに通して商品を袋に詰めた。

「ありがとうございました」

(……バレたかと思った)

研護が店を去った後。

「……」

赤羽店員はその背中を見ていた。

(……兄さん?いや、甲斐さんに似ている気配。それにこのお札……三船の匂いがする。どうして?)

赤羽美咲は思考し、しかし来客に備えて忙しく仕事をすることにした。




音終島、そこはかつて日本の南端にあった人工島だ。ただし、その歴史を知るものは限りなく少ない。

何故なら人が住むよりも前に造られた場所だからだ。

「……人よりも前に神に造られた島か」

かつて、その島に一人の男が降り立った。

「人類が持つ悪の心を押しつけられた場所か。そして、あれがその象徴……」

男の視線の先には一本の桜の木があった。それは桃色ではなく白黒に咲く色のない桜の木。

そしてそれはこの島に咲いているのではない。正確に言えばこの桜の木を中心に自ずと大地が形成されていった結果、まるで島のように海の上に浮かぶ環境となったのだ。

「伝説として死に続けている我が主たる神が唯一この世界に残した実体。その存在があるが故にこの世界に矛盾は生まれ、邪神の使徒たるダハーカも、矛盾を媒介とする31の柱もこの世界に降り立つことが出来る」

「それで逆にこの地が争いを禁じる場所となったのか」

新たな声。それは先ほどまでいた男と同い年くらいの中年男性だった。

「……確かにな。この場所だけはあまりにも歪みが激しすぎる。我らであっても近づくことすら出来ないものばかりだ」

「この場所は、生まれた時から善悪両方の心を持った地球人じゃなければ立ち入ることは出来ない。……地球人として生まれているならその後別の存在になったとしてもこうしてまた踏み入ることが出来るがな」

二人の男は時空を超えて咲き死に続けている無色の桜を眺めた。

「しかし、貴様はまたただの地球人に戻り始めているようだな」

「それはお前だってそうだろう?……父親になるってのはそういうことだ」

「……」

やがて、静寂は訪れ、そこには誰もいなくなった。

しかし、数年後。

「……ここ、どこなの……?」

独りの幼い少女がそこに舞い降りたのだった。


「……どんな夢だよ」

研護が目を覚ます。時計を見ればいつも起きる時刻の数分前。これくらいなら誤差と言っていいだろう。しかし、

「……」

隣を見ればメナージュが眠っていた。あまりにも無防備に隣で眠る美女。健全な男子高校生である研護はすぐに元気になってしまった。

「……ないない。絶対にない。発情期の猿だってもう少し理性に逆らえる」

頭を振るい、研護はベッドから起き上がった。

メナージュが赤羽家に住み着いてからはや一ヶ月。彼女の言葉通り、彼女の存在をまともに認知できるのは研護とその妹達だけだった。正確に言えば会うのが一度きりの存在、例えばコンビニの店員などは彼女の存在を認知できる。会話も可能だ。が、その後すぐに彼女の存在を見失い、忘れる。

最初こそ半信半疑な厨二病女としか思わなかった研護も今では疑う方が無理だと言うレベルで悟っていた。

(……本当に世界から忘れられた少女だったのか。さっきの夢に出てきた小さい女の子って多分こいつだよな?本当にまだ小学生になったばかりくらいだった。髪も黒くて普通の日本人にしか見えなかった。その前にいたあの二人のおっさんの内どちらかがこいつの父親なのか……?)

やけに脳裏に焼き付いた玉響の記憶を思い返しながら研護は服を着替える。既にメナージュと同じ部屋で着替えることには慣れてしまった。そもそもたまにだが風呂さえ一緒なのだから今更だ。

(あれくらい小さい頃から独りであの島みたいなところにいたのならまあ、羞恥心とかがないのも分からないでもない。俺としてはもう少し気にして欲しいんだがな。じゃないと、もしかしたらが起きてしまう)

豆腐屋の制服に着替えた研護は台所に向かい、家族の分の朝食を作ってから工場へと向かった。


まだ朝日が昇ってすぐの頃だ。黒主家の道場で正輝が膝をついて激しく呼吸を乱す。

「はあ、はあ、……はあああっ!!」

立ち上がり、向かっていく先には真紅の影。こちらの拳は影さえ踏めず、気付けば膝や肘が正輝の腹や胸を穿つ。

「ぐっ!!」

「……この辺にしておきましょう」

赤羽が腕を下ろす。満身創痍と言っていい正輝とは逆に赤羽に消耗の色はほとんど見られない。

「い、いや、もう少しだけ……!」

「駄目です」

赤羽は足の力だけで正輝を道場の外まで投げ飛ばす。

「ぐっ!」

「自分より遙か格上の存在と一朝一夕で戦えるようになるわけないでしょう。まず自分の限界を知り、それを少しずつ伸ばしていくのが定石です」

「け、けど相手は……」

「正輝さん」

「…………っ、すみません」

赤羽の目線を受けて正輝はおとなしく引きさがらずを得なかった。

昨日、せっかく達真に相談に向かったのに怜悧や歌音の登場により完全に忘れてしまった例の不審者。家に帰ってから思い出して赤羽に相談したのだ。

正直今の正輝は15歳の年齢にしてはかなり強い。まだ全国に行くには早いが、その下のカルビ大会くらいならそこそこいい成績を収められるだろう。実際中学生でカルビ大会への出場を決めている。これは赤羽美咲でも成し遂げられていない偉業だ。

が、世界は広い。もしかしなくとも15歳の男子という条件だけで見ても正輝より強い実力者は無数にいるだろう。年齢制限すらなければもっと次元が違う存在はたくさんいる。

赤羽が知る拳の死神でも未成年の中では最強クラスだったが、年齢制限を解いてしまえばまだまだ青二才と言っていいレベルだ。

その弟子に長年稽古をつけられているとは言え、正輝本人の実力はその拳の死神と比較してもなお青二才にすらなれていないレベルと言っていいだろう。

「いいですか?どれだけ空手が強くてもそれは飽くまでも畳の上の競技に過ぎません」

かつて赤羽は言っていた。

「あなたのお父様はかなり空手が強い方です。それでも今なお現実という戦場に苦しめられ続けています。家族問題からの現実逃避がきっかけとは言え、全国区で暴れる程までの強豪選手になりました。それでも不幸な目に遭い、あなた方ご子息を除くほぼ全ての家族を失っています」

赤羽は数秒ほど、まるで別人の顔となり、

「……畳の上では命に関わるような蛮勇はほぼありません。しかし、一歩外に出れば何が命の危機に繋がるか分かりません。個人で出来る事には限りがあります」

「……なら、空手とか護身術って何のためにあるんですか……?」

「……少しでもその身を守るためです。そして、必要な時に必要なだけの勇気を養うためです」

「……必要なだけの勇気」


「ふう、」

教室。まだホームルーム前だというのに正輝は全身の疲労と痛みを感じていた。言うまでもなく今朝の稽古の影響だろう。稽古している間はまだまだやれると思っていたが終わってしばらく経つと、疲労を取り越して過労を感じる。

(美咲さんの言うように自分の限界を知る必要があるって話か。今の俺じゃまだまだこんなものか)

「どうした黒主正輝。朝から随分な表情に見えるぞ」

刀斗がやってきた。

「まだ背中痛いのか?」

「いや、それは大丈夫だ。ただ、惨敗したからな。特別稽古をつけてもらったんだ。朝から」

「……朝から稽古をつけてくれるとても強い人がいるとは、羨ましい奴だな」

「……正直な奴だな」

正輝は鞄から今日の宿題一覧を出してちゃんとやってあるかを確認する。もちろん抜け目はない。のだが、

「……ん?」

「どうした?」

「いや、姉さんのが混じってた」

見慣れないノート。その中に甲斐怜悧の名前が刻まれていた。

「かいれいり?剣道部のか?」

「ああ。あれ姉」

軽く説明してから正輝は怜悧のノートを持って教室を出る。あまり怜悧が姉だと言うことは言わない方がいいのだが、学校でくらいいいだろう。そんな軽い気持ちがあった。

(……けど確か、あの剣道着。学校の敷地内で襲ってきたよな。生徒……教師……いや用務員が怪しい?)

廊下を歩く正輝は同じく廊下を歩いていた掃除ロボットを見た。甲斐機関製の掃除用人型ロボット。かつてのテロを警戒してAIに満たない単純動作しか出来ないようになっている最新モデルだ。本来は自力で目的地への移動も出来ないのだが現在は牽引用の別ロボットからコマンドを受けているためひとりでに動いている。

(流石にまたロボットを使ったテロというわけじゃないよな……?あの剣道着は確かに一言も喋ってなかった。ロボットという線が考えられない訳じゃない……?)

やがて、足は3年生の教室にたどり着く。

「失礼します」

軽くドアを叩いてから中に入る。

「……ん、」

教室の端の方に目的の人物はいた。

「正輝じゃん。どうしたの?」

「姉さん、これ」

ノートを手渡す。

「何でこれをあんたが持ってるの?」

「分からない。鞄の中に入ってた。どこかで混じったんじゃないか?」

「……そう?まあいいや、ありがと」

怜悧が受け取ると正輝は踵を返す。

「あ、そうだ。正輝」

「ん?何?」

「今日多分サプライズあるから」

「は?」

「行けば分かるよ」

怜悧が少し笑って手を振る。正輝は首をかしげてから姉の教室を後にした。

そして、物思いに更けながら自分の教室に戻る。それから数分してチャイムが鳴り、担任の五十嵐教諭が入ってきた。

「はい。今日は少し変わった時期ですが転校生を紹介します。どうぞ」

「はーい」

「え……」

正輝がわずかに反応を示す。五十嵐先生に呼ばれて教室に入ってきたのはつい昨日見た顔だった。

「どうも。馬場歌音寺って言います。可愛く歌音ちゃんって呼んでね!」

姉の相棒である独眼の空手少女がそこには立っていた。ちなみに変わらず左目は前髪で隠している。

「ちなみにこれ見た奴は殺します」

言うや否や軽くその場で跳躍し、歌音は素早くローリングソバットを繰り出した。スカートの裾や前髪がヒラリと舞うが、どちらも見えちゃいけないものは見えなかった。

「ぎゃん!」

しかし、やはり左目が死角になっているからか黒板の角に頭をぶつけてはクラスの皆から笑いが零れる。

「よ、よろしくね~」

舌を小さく出す歌音。完全にクラスのムードを掴んでいた。

(……何でローリングソバットなんて繰り出したのか知らないが、空手技じゃないのにかなりの技に見えた)

正輝が視線を鋭くする。

(姉さんもそうだけど、同い年の女子でここまでの実力があるなんてかなり珍しいな)

西暦2040年の世界でもやはり空手をやっている女子は多くはない。小学生くらいなら男のきょうだいと一緒に運動感覚で親から慣わされる事はなくはないだろうが、中学生に入る頃にはやめてしまう事がかなり多い。男女限らずに反抗期や思春期、微妙な心情の変化から汗だくになりながら痛みを分け合うスポーツをやりたくなくなるケースは非常に多い。

しかし、逆を言えば中学になっても空手を続けているものは男女問わず真剣に空手に打ち込んでいる証拠である。才能あるかどうかはともかくそこに情熱があるのは間違いない。その情熱が才能や日々の努力の背中を押す。それが高校生にもなれば確かな自信と実力が伴う。

そのため高校生になっても現役で空手を続けている女子というのはそれだけで決して油断できない実力者と見ていい。

性別の違いによる筋肉量の差異から男子の方が空手は圧倒的に有利だが、技術や経験でどうにでもなる事が多い。少なくとも正輝からしたら姉も歌音も決して楽に勝てる相手ではないと言うことだ。

(……ひょっとしたらひょっとするかも知れない。水泳部には悪いがそろそろ始めてもいいかもしれないな、あの計画を)

正輝は小さく笑った。


「新たに部活を作りたい?」

剣道場前廊下。怜悧が驚きの声を上げた。眼前には弟の姿。

「ああ。空手部やりたいんだけど入部してくれないか?」

「空手部……もしかして歌音を期待しているとか?」

「そうだけど、何か駄目な理由とかあるのか?」

正輝の質問に対し、怜悧は紅茶を啜る。家とか道場とかでの言動からは中々想像できないが学校では静かにファンクラブが出来ている噂があるほどには人気がある。その理由が少し分かる気がした。

「歌音とはそこそこ長い仲だけど、最近の歌音はよく分からないんだよね」

「そうなのか?」

「向こうの道場からこっちの道場に移るって言い出したのもここに転校してくるって言い出したのも歌音らしくないんだよ。……目を焼かれてから何かおかしいんだ」

「目を焼かれる……?」

正輝の質問に怜悧は再び紅茶を口に運ぶ。何か言いにくいことを口にしようとする時の姉の癖だ。だから正輝は逸る気持ちを抑えて姉の言葉を待つ。

「歌音のあれは生まれつきじゃない。ここ最近火事に巻き込まれて出来たもの」

「……それって」

「そこから先は私からは言えない。でも、あの日から歌音はどこかおかしい。やっと自分本来を私以外の他人に出せるようになった。開放的になったのは分かるけど……」

「……」

少しだけ体温が下がったような気がした。わずかな目眩も覚える。姉が言った言葉の意味が分かりそうで分からない。だから脳裏がそれを遠ざける。

「ちなみに姉さんは空手部入ってくれるのか?」

うわずった声が放課後の廊下に響く。

「まあ、入ってもいいけど私結構忙しいんだよ?と言うか正輝だって生徒会に水泳部に道場あるじゃん。暇あるの?」

「水泳部を辞めようと思う」

その発言を怜悧は驚きはしなかった。結果を残している水泳部だが、弟に情熱があるようには感じられなかった。だからリソース的に犠牲にするなら水泳部の可能性が高いだろう。

「全身運動にちょうどいいと思ってたからずっとやってたんだけど、別に水泳の方で世界を目指すとか成績を残したいわけじゃないし」

「……あんたそこそこ成績残してるじゃん。それこそ空手と大差ないでしょ?今興味あることに全力出すのはいいけどそのために別の何かを犠牲にするのはよくないと思うんだけど……っ!!」

そこで、突然怜悧が蹴りを繰り出した。

「!?」

何が気に触れたのかは分からないが正輝が手に持っていた入部届が一瞬で粉々になっていた。

「な、にを……」

「うん?ああ、ごめんごめん。ついね」

「……」

類友と言う言葉が正輝の脳裏を走った。

「いや、矢尻先生から昔お父さんが似たようなことしてたって聞いたの思い出してイラッて来ただけ」

「……そんな突発的な感情で入部届粉砕されても困る。……その話なら俺も聞いたけど」

姉の父への感情はいまいちよく分からない。第一子故にきょうだいで一番両親と長くいたから正輝とは全く別の何か特別な感情があるのは正輝にも薄々分かっているがそれが具体的にどんな感情なのかは正輝には分からない。たぶん、怜悧本人でさえも分かっていないのだろう。

「とりあえず印刷し直しに行こうか。お詫びとしてお姉ちゃんも籍としては貸してあげるから」

「籍だけ?」

「本当に活動するようになって人数足りなくて私が暇だったら参加してあげるから」

それだけ言って怜悧は入部届の残骸をさっさと拾ってどこかへと歩き始めた。


大倉道場。2号店。正輝は改めて昨日の話を達真に話した。案の定達真は眉間にしわを寄せた。

「すみません」

正輝はサンドバッグを叩きながら謝罪の言葉を出す。

「いや、お前が謝るようなことじゃない。その剣道着の不審者の事は学校には言ったのか?」

「はい。俺の言葉だからかすぐ信用してくれて職員室で会議をしてくれました。近々警察にも警備の強化依頼を出すそうです」

「強豪の不審者だとこの道場にも事情聴取とか来そうだな」

「すみません」

「お前が謝るようなことじゃない。あの赤羽美咲も言っていたようにお前はお前に出来ることだけをやるんだ。翼から聞いたが、空手部を始めようとしているんだろう?」

「はい。確か師匠も昔高校で空手部やってたんですよね?」

「まあな。どっかの妹のせいで大変な目にも遭ったような気がするが遠い過去だ……」

達真が窓を開けて外を遠い目で眺めていることを正輝は知らない。

「部員は集まったのか?」

「まだ正式に部活動の新規作成手続きが完了していないので……ただ、馬場歌音を誘おうと思ってます」

「いきなり転校してきたんだってな。まあ、お前と歌音なら実力差もそんなにない。カルビレベルの二人がいると経験者が入部するにはちょうどいいんじゃないのか?未経験者相手だと厳しいかもしれんが。……いや、そういう時は翼を使えば……」

「……師匠。完全にキレた翼は俺にも制御できないんですからやめてください」

翼を再び空手の道に戻すことはたとえ神であっても不可能だろう。だから当然空手部にも誘ってはいないし、そのつもりもない。マネージャーくらいならありかも知れないが、しかしまた翼をガチギレさせてしまう可能性が少しでもあるならそれはできるだけ避けたい。

「押忍失礼します!」

そこへ元気な声。稽古を受けに来た小中学生達の声だ。夕方のこの時間帯は達真が道場を開け、書類仕事をしている間に正輝が彼らに稽古をつける。後輩達への稽古が終わったら今度は正輝が達真から稽古をつけてもらう時間が始まる。厳しいスケジュールだがこの程度こなせなければカルビ大会より先には進めない。

「どうした正輝?動きが鈍いぞ」

「お、押忍!!」

「あの赤羽美咲につけてもらった稽古の影響か?筋肉疲労を起こすほど過度なトレーニングは避けろと昔から言っているはずだ!」

「お、押忍!」

達真の稽古はかなり厳しいが筋肉痛を起こしたり怪我をすることはほとんどない。達真自身既に最盛期ではない。今ではもちろん最盛期ですら今の正輝とは大差ない実力だ。しかしその頃から無理のないトレーニングで確実に強くなる方法を探してきたという。

今達真が課しているのは木人のような形状をした特殊な装置を使った稽古だ。

「集中しろ正輝。怪我をするぞ!」

「お、押忍!!」

ギリギリで正輝が反応できる速度と回数で木人が突きを繰り出す。自動で動かすことも出来るが達真ほどの相手ともなると自動操縦では稽古にならない。だから達真本人が装置を使って速度と回数を通常より大幅に増加して攻撃を繰り出している。それに対して正輝はひたすらに防御や回避をするというものだ。

(いつもよりわずかだがキレがある気がする……ひょっとして師匠は師匠なりに例の不審者対策を俺にしてくれているのか……?)

「集中!!」

「押忍!!」


「それでボロボロなんだ」

矢尻家。稽古を終えた夜。正輝は足腰がガクガクの状態でやっとそこにたどり着いた。

「余計な負担をかけすぎだからだ」

達真はコンパネから風呂の湯張りボタンを押してそのまま炊事を始める。

「翼、連絡してやれ」

「はーい」

「夕飯より先に風呂なのか」

「そうだよ。正輝、僕と一緒に入りたい?」

「……いや、どうせ入るなら男とだな」

「え”?正輝、そっち側だったの?」

「違う。……前に合宿で男湯入ったんだがいろいろ慣れない状況が続いてな」

「……まあ、正輝の周りは女の子だらけだもんね」

言いながら翼はスマホで怜悧にメッセージを入れた。


コンビニ。夕暮れ終わり頃。黄昏と瑠璃色の間の空を桜の花びらが舞う。

涼しくも暖かくもある風を受けてメナージュの髪もまた舞う。

見慣れぬ町並み。扱い慣れぬ大人の体。いつもどこかであの少年と少女の顔が浮かぶ。

「……」

やがて、どこか見覚えのある町並みにたどり着いた。わずかな差異が残酷な時間の流れを告げているよう。

「それ以上はやめた方がいいですよ」

見慣れた家。進もうとした足に掛かる声。脳が揺れる違和感。どこか感じる自己嫌悪。

「あなたは……」

メナージュの視線の先には巫女服の少女。会ったことはないが、しかし情報としては知っている。

自分と同じでここにいてはいけない存在。疑問と拒絶と心のどこかでSOS。

「何故あなたがここに?あなたはこの世界の出身だけど、でも私と同じメナージュゼロの存在の筈よ」

「確かにそうですね。私はこの時まだここにはいない。逆にあなたは既に存在していました」

「……既に時空の闇に落ちていたけれどね」

メナージュは見慣れた家を改めて見やる。

「……平気よ。私はもうどこの時空にもいない。それがメナージュゼロだから……」

踵を返す。

「……私はどうしてここにいるのかしら……」

暗い青に沈む空。その先。

「……」

一人の少女が歩いてきた。赤羽美咲だ。

「……あなたは」

「……誰でもないわ」

メナージュは視線を伏せる。背後から巫女の気配は消えている。どこか一瞬、安堵を腹に宿すと、

「あ……」

空腹を告げる音が響いた。

「……」

「……」

赤羽とメナージュが視線を合わせる。

「……えっと、何か食べますか?体幹が少し揺れているようにも見えます」

「……けど、」

「今は私独りなので……。気を遣う必要はありません」

「……そう」

「私は赤羽美咲と言います。あなたは……」

「--------」

「え?」

「何でもないわ。メナージュ・ゼロとでも」

「は、はい?」

メナージュは目を伏せ、赤羽の背中を追う。かつて自分がこの世界に産み落とされた名前をこの世界は受け入れてくれなかった。そのことにわずかだが視界が歪む。やがて、どこか懐かしさと違和感が支配する部屋に彼女は足を踏み入れた。

(もう……ここにあなたの匂いはない……あなたのぬくもりは……どこに)

「どうぞ」

案内された席。大きなテーブルは大家族用。リビングに置かれたテレビにはゲーム機が接続されていた。

近くに置かれたパッケージは以前研護の部屋で見たものと同じ。

「……どうかしたんですか?」

赤羽は冷蔵庫を開ける。つまり視線はこちらにはない。気配だけでメナージュの視線を把握したのだ。

「……いえ、何も」

「……ああ、そのゲームですか?私はあまり詳しくないのですが……」

「私も詳しくはないわ」

いまいちかみ合わない会話。研護が特別なだけで本来理から外れて時空の闇に落ちた存在と会話するとこうなるのかも知れない。そもそもそのような存在と会話できるなど、先ほどの巫女のように共に弾かれた存在か、或いは弾いた存在くらいでしかないのだから仕方ない。

(……この赤羽美咲は、何なのかしらね)

メナージュは出されたコーヒーを一口飲む。

「苦!」


「正輝が遅くなるのか」

ライブハウス。汗を拭きながら怜悧がスマホのメッセージを見る。

視線の先にはスマホの液晶とその先にいる歌音の姿。

「弟君がどうかしたの?」

「稽古のしすぎで矢尻さんの家で休んでから帰るって」

「へえ?でも僕達も今から帰りでしょ?帰る時間ちょうど同じくらいになるんじゃないの?」

「まあそうなんだけど。せつなもアリスもスマホ持ってないから私に掛かってきたんでしょうね。翼は私達のスケジュールなんて把握してないだろうし」

「翼ちゃんか。矢尻先生の娘さんだって?」

「あんた今日会ったんじゃないの?」

「会ったと思うけど転校初日だから誰だか覚えてないかも」

「正輝と一緒にいる僕っ娘よ」

「あー……だったら覚えてるかも。共通点あるしね」

眼帯を外して左目をタオルで拭う歌音。火傷で崩れた横顔は怜悧でもその色を読みかねる。

「てか昨日もいたじゃん」

「そうだっけ?」

「……歌音、あんた……」

「ん、どうしたの?」

「……何で転校してきたの?わざわざ引っ越してさ」

「怜悧ともっと一緒にいたいから、とか?」

「今までだってずっと一緒だったじゃん」

「……そうだね。ずっと一緒だったね。でも、」

眼帯を付け直した歌音が怜悧の方を向いた。

「歌音ちゃんは有名になるわけにはいかないから」

「……それでよくライブやりたいって言ったよね」

「まあプロになるつもりはないし。誰も顔なんて気にしないでしょ。ま、歌音ちゃんは美少女ちゃんだけどね」

「……」

怜悧は何も言わずにマイクテストを始めた。


夜中。赤羽家。店の仕事と学校生活を終えて研護がようやく自由になれる時間だ。

宿題を適当に済ませ、風呂に入り、自室に戻る。

「ん?」

そこでやっとメナージュがいないことに気付いた。いやさっきから姿を見かけないことは気付いていたが妹のどれかと遊んでいるものだと思っていた。

しかし、夜中になれば大抵研護の部屋に戻ってくる彼女が今日はいない。

「……どこに行ったんだ?」

念のため家の中を回る。そもそもとして玄関に彼女の靴はなかった。

「出かけている?」

少しを考え、上着を着てから研護も外へと歩き出す。

春をやや過ぎた頃合い。メナージュとの出会いも既に2ヶ月ほど前。新たに進級して高校2年生になった研護の傍からメナージュが姿を消したことはない。

「……そう言えばゲームは…………今日は仕方ないか」

ノルマを忘れ、いつもの相手に少し謝罪。

(いや、メナージュの力でさっきの時間に戻ればすむ話か)

日付が変わった夜の桜道を研護は歩く。人の気配はほとんどなく、音もない。

「……」

歩く先は彼女と初めて出会った場所。特に何でもない街路樹。

「……いないか」

たどり着いたそこには何もない。時折車が走る音が聞こえるだけの街角。

今でも半信半疑である。この何でもない街路樹から人が、メナージュ・ゼロが突然姿を見せたのは。

本人が何も話そうとしないこともあって未だにほとんど彼女のことを知らない。

自分より年上の人間の配慮もあるだろうが、研護としてはだんだんともどかしさを感じ始めているのも事実だ。(そもそも年上と言ってもあいつは長年時空の闇とやらに封印されてるから精神年齢は小学生程度なんだっけか?だとしたら意外と俺の方から配慮をしてやる必要が……いや、余計なお世話か?)

少しだけ街路樹を撫でてから研護は踵を返した。

その数刻後。再び街路樹が輝いた。

「……間違えたか?」

足音は二つ。背丈に合わない軽い足音。

「座標は大体合ってると思ったんだけど……」

「奇跡の世界は、未来でも過去でもない。騎士レベルでなければ正確な座標を合わせられないのかも知れない」

「……あの人の気配を追いかけてきたんだけど。もしかして何かやばいことしちゃったかな?」

声二つ。少女の声が周囲を見渡す。対して隣の少年は腕を組む。

「今回は命令とは関係ないが、しかし正式な依頼を受けての行動でもある。よほど変なことをしない限りは正当性があるはずだ。……よほど変なことをしなければな」

「も、もう!あまり脅かさないで!……じょ、情報収集しよ!」

「……こんな真夜中にか?」

「……そ、それは……」

惑う声。そこへ新たな声。

「珍しい来客がいたものね」

メナージュが歩いてきた。

「……メナージュ・ゼロ……!」

「どうしてここにいる?」

「あなた達に言う必要はないわ」

「そ、そんなわけにもいきません!メナージュ・ゼロが表の世界を歩いてるなんて大事件、報告しないわけにはいきません!せめて事情を聞かないと……!」

「俺達は執行部ではない。だから直接あんたを捕まえる権限はない。だからといって無視していいわけでもない」

構える両者。対してメナージュも少ない魔力を蓄える。その時。

「そこまでだ」

声と爆発。逆巻く炎が三者の間を塞ぐ。炎がはじけ、中から一人の男が姿を見せた。

「ナイトバーニング!?」

驚愕の声が二つ。メナージュは声も上げられていなかった。

「……あなた、まさか、」

「久しぶり……と言いたいところだがまあ今はいいや。それより、そこの二人」

ナイトバーニングが対面の二人を見た。

「お前達の目当てはここじゃない。誘導するからついてこい」

「……あ、あの、メナージュ・ゼロは……?」

「騎士団の方では既に了承済みの事例だ。お前達も気にするな。そして他言をするな」

「……いきなり変なことが起きたって訳だ」

少年の方がため息をつく。少女の方も小さくうなだれ、ナイトバーニングの後を追う。

「ま、待って!」

メナージュが前に回り込んだ。

「あの人は……!?あの人はどうなったの!?」

「……言えない。お前も追求するな」

「意味が分からない……!どうしてあなたが、」

「お前がメナージュ・ゼロになったように俺もあの頃の俺じゃないんだ。言えることと言えないことがある」

「……私の封印を解いたのは誰の差し金?」

「……騎士達は事後承諾をさせられた。つまり今回の件は邪神案件じゃない。ただ、あんたを時空の闇に放置したままだと歪みが加速すると予想されたから俺達はなるべく不干渉をしながら時折こうして手助けをする。余計な情報は集めずにお前は自分のやりたいことをやればいい」

「……でも、私はあの人に会えない……」

「……」

ナイトバーニングはどこからか1枚の写真を出してメナージュに手渡した。

「……これは、」

「あいつの写真だ。因果が足りなくて直接会えないようだからせめてあいつの今を見せてやろうと思ってな」

写真に写るのは家族写真だろうか。見覚えのある顔よりだいぶ年齢が上になった顔が二つ。そしてその二人の子供と思われる顔が映っていた。

それを見てメナージュは落涙した。

「……一応言っておくと、この世界の寿命はそんなに長くない。最期が来るまでに最後を繋いでおくんだな」

ナイトバーニングは一瞬何かを言おうとしては、口を紡ぎ、背後の二人を連れてどこかへと去って行った。


黒主正輝はあまり明るくない表情でバスに揺られていた。

目に映る景色が都会のそれからやがて大自然へと変わっていく。

「車酔いしてるの?」

声。一瞬だけ視線を向ける。そこにいたのは明坂明美。中学の頃から水泳部で一緒に活動してきた女子だ。

即ち今ここにいる理由は、水泳部の強化合宿に向かう途中だった。

「……いや、そんなことじゃない」

正輝はため息をつく。

ご機嫌斜めな理由は単純だ。生徒会に空手部を作ろうと依頼したら水泳部の退部を断られた。

実は正輝は中学時代に水泳部の大会でいい成績を集めている。今回、高校進学の際にそれも評価された上で入学金などの一部免除が許されていたのだ。

3年になって引退するならともかく、まだ1年の7月に別の部活をやりたいからと言う理由で退部することは契約上難しい事が伝えられた。

(美咲さんに迷惑をかけないため、父親の力を借りたくないために補助金制度使ってた事を忘れてたのはうっかりだったが、どうしようもないことなのかよ)

嘆息。

「またため息してる。矢尻さんがいなくて寂しいとか?」

「翼は関係ない」

正輝はバスの中を見る。見るまでもなくほとんどが中学時代の水泳部から継続している仲間だ。

当然中学時代からそのままのメンバーでやっているわけではないが、ほとんど既に3年以上見慣れた顔。

正輝が水泳部を辞めて空手部をやろうとしているのは、この長年の友人達を裏切る行為でもある。

(……かといって兼部も難しいだろうしな。生徒会に大倉道場に水泳部に空手部……日頃の稽古や勉強もあるとしたらかなりタイトなスケジュールになる。不可能じゃないとは言え、かなり厳しいよな)

遠い目の正輝。一瞬だけ脳裏には例の脅迫状と剣道着姿が思い浮かぶ。

(……今更だけど脅迫状の主はあの剣道着なのか?脅迫状出したり不法侵入して襲いかかってきたりと明らか違法行為をしておきながら俺への要求が生徒会を辞めることだったり、いつでも俺を殺せる状況にありながら明らか手加減してそのまま見逃したり、甘いというか矛盾を感じる部分が似ている気がする。それに、もしも仮に俺が目的ならこの合宿にも何かしらのちょっかいを出してくるかも知れない。……今からでも帰りたい)

やがて、バスは再び都会の町並みへとたどり着いた。

「剣峰か」

少し離れたところに駅がある。鉄道にはそんなに詳しくないけど、剣峰という地名には覚えがある。

確か赤羽美咲が昔通っていた中学があるところだ。

(とは言え確か美咲さんって師匠や父親と同じで家族に何か問題があって、孤児ばかりが通う特殊な学園に通っていたんじゃなかったっけ?そこに行く前の中学が剣峰って事なのか?)

そう思いながらバスから荷物を取り出す。土日を使った一泊二日のためほとんど荷物はない。一応ARゲームは持ってきているが、使う時間があるだろうか。

「あそこみたいだね」

明美が指を指す。駐車場から少し離れたホテル。近くにプールもあるためパンフレットを見なくてもそこだと分かる。

「そうみたいだな」

「プールは貸し切りだったりするのかな?」

「流石に貸し切りじゃないと思う。水泳部って言ってもうち20人くらいしかいないし。ただ競泳用のコースはあるんじゃないのか?」

正輝と明美が荷物を持ってホテルまで向かう。当然部屋は別々だ。

(そう言えば昔、父親が学生寮に住んでいた頃女子と同じ部屋だったとか師匠から聞いたな。何だかんだで学校側からは信頼されていた証だとか。正直信じられないが、そう言う特別なポジションにいる素質があったから今も特殊なところにいるんだろうか……)

少し前に見た父の顔を思い出す。自然に全てをだますような偽善の言動。現実逃避のための言葉選びと趣味。形容する言葉を選ぶ程に正輝自身にも当てはまる部分があるのではないかと疑心が棘を出す。

そうしていると、

「っ!」

「きゃ!」

ホテルに入ったところで人とぶつかってしまった。

「す、すみません!」

「こ、こちらこそ!…………ええぇっ!?」

「え?」

顔を合わせた直後相手の少女が驚きの声を上げた。

「ま、まままま、ままままま」

「ま?あの、どうかしたんですか……?」

少女は正輝の顔を見てその後全身を視線で上下する。正輝より少し年上に見える少女。

「ま、まままま」

「おい、そこまでだ」

やがて。少女の後ろにいた少年がその肩を叩く。

「あ、あの、」

「何でもない。こいつ、少し驚き癖があるだけだ。じゃあな」

そう言って少年は少女の腕を引いて去って行った。

「……何だったんだ?」

「正輝?知り合い?」

「いや、……けど、どこかで見たような……」

正輝が二人の背中を見る。遠く離れていく背中にはうっすらと羽のようなものが見えた気がした。


駐車場。

「ふう、びっくりした。まさか正輝さんといきなり会うなんて……」

少女が胸をなで下ろす。

「確かにな」

隣で少年が周囲を見渡す。

「あの男に言われるがままにここに来たが、柊咲から遠く離れた場所で会うとは思わなかった」

「正輝さんここに住んでるわけじゃないよね?てことは美咲さんは……」

「ここにいないだろうな。……別に試験で来てるわけじゃない。俺とあいつが会う必要はない」

「でも正輝さん。結構若かったね。15歳くらいかな?」

「奇跡の世界と名付けられたこの世界での黒主正輝は2024年生まれだ。さっきニュースで一瞬見えたが今は2040年。今年16歳になる。俺達が初めてあいつらと会った頃と同じだな」

「……本当に奇跡みたいな世界なんだね。ここ」

「……俺達の敵だった雛水の手を借りて奇跡と名付けられた世界に来る事になるとは正直思わなかった」

「でもこの世界でも火村の一族は不幸な目に遭ってる。もしかしたらこの世界でも新たに雛水の悲劇が苛まれる可能性はあるかも……」

「……だとしても俺達がそこまで手を出していいわけじゃない。俺達は飽くまでも旅行をしているだけの存在だ。正輝にも美咲にも直接干渉をしてはいけない」

「……そう、だね。出来たらまたあの黒主家で5人で生活できたらよかったのに」

「……あの頃とはもう何もかも違う。お前の対象者だった正輝も俺の対象者だった美咲も別人だ。雛水とは別の、この世界の脅威に苛まれている」

「……」

少女がスマホを見た。先ほど渡されたばかりのそれにはいろいろ情報が載っていた。その中から約15年前のテロの情報も見ている。

「甲斐廉さん……正輝さんのお父さんにして最初の天使の父親……でもこの世界に他に天使はいない」

「そうだ。ここは俺達が知る世界じゃない。まだ誰もその行く先を知らない新たな世界だ。なるべく干渉しないまま、その行く先を見守るために俺達はここに来たんだ」

「……少し寂しいね。奇跡の世界なんて言うのなら私達も、いなくならないままあのまま過ごす世界があってもよかったのに」

「……無理なものは無理だ。俺達は自分たちの復讐のためにあいつらのことも自分たちの試験も投げ出して動いてしまった。雛水の奇跡で試験自体は合格した扱いになったがまだ一人前とは言えない」

「…………そうだね。ごめん、雷歌」

「……結羽……」


旅館で荷物を置いた正輝は早速水着を用意してプールへと向かう。現在時刻は午後2時過ぎ。6時の夕食までは練習に費やせる。

「……はあ、」

プールサイド。1時間ほど全力で泳いだところで正輝がプールから上がる。

「どうしたの?もうバテたの?」

明美が顔を出す。

「いや、何でもない」

ジャンプ台の上に座る正輝。明美は少しだけ眺めてからまた泳ぎ出す。

正輝が水泳部をやめようとしていることは明美も知らない。知っているのは生徒会だけだ。もしかしたらそこから話が進んで顧問などは知っているかも知れないが、正輝自身の口から伝えていない以上は騙しているも同義だ。

(別に水泳が嫌って訳じゃないんだよな。時間さえあれば続けてもいい。だけど、そこに情熱はあるのか……?)

同時に正輝に反芻が起きる。達真や怜悧が言っていた言葉だ。

(父親はつらい家庭環境という現実を直視しないために空手をやっていたらしい。今の俺はそれと被ってないか?空手をやりたいって言葉こそ逆だけど、やろうとしていることは一緒なんじゃないのか?せつなやアリスへの後ろめたい気持ちを紛らわすために脅迫状の犯人などを利用して本当は面白がっているだけじゃないのか?)

嘆息。再びプールへと飛び込む。

(姉さんはこのジレンマをどうしているんだ……?どうしようもないから俺も姉さんも日々多忙しているのか?)


夕暮れの道合。大倉道場。

「ん、今日は正輝いなかったな」

達真が稽古している顔ぶれを見る。事前に正輝が水泳部の合宿に行くことは聞いていたがこの時はすっかり忘れていた。

「そうですよ。正輝から聞いてなかったんですか?」

代わりに来た怜悧が小学生達を指導しながら達真の方を見る。

「いや、忘れてた。だからお前に来てもらったんだったな」

「矢尻さんもそろそろ歳が……」

「そんなに歳じゃない。……歌音はどうした?」

「歌音は指導員じゃないんで。今日は全くのオフだと思いますよ」

「そうか。まあお前達は空手にバンドに剣道までやってて普段忙しいだろうからな。たまにはそう言う日もあっていいだろう」

「そうですね。私も歌音も結構忙しいですからね。まだ今年の水着だって買いに行けてないし」

「怜悧。一応言っておくが、現実逃避にやるものじゃないぞ」

「分かってますよ。昔から散々聞いてますもん。……私が日々邁進してるのは情熱の場所を探しているだけですから」

「……」

達真が少しだけ肩を上下させてから業務用PCの電子キーボードのタイピングを始めた。


旅館。夜。練習と夕飯を終えて正輝はフリーな時間に入った。今日は稽古もない。気にかける家族もいない。

「……」

部屋でARゲーム機を起動させる。

「ん?」

いつもより全然早い時間だがよく一緒にプレイしているKがログインしていた。

(……いつも一緒の時間にやってるが、普段はこの時間からやってたのか?ならいつも遅い時間にやってたのは悪かったかも知れないな)

現実世界の景色にゲームの景色が侵略されていき、一瞬で視界はファンタジーへと変わる。それでいて現実で何か起きてもすぐに分かるようにうっすらと現実の景色も見えるような設定にしてある。

(……相変わらずこいつとは何故か息が合う。顔も声も名前すら知らない相手なのに)

お互いに息の合ったプレイでどんどんクエストをクリアしていく。長年の相方のようにスムーズな連携は直感により賄われている。お互い、気付いた時には相手への最適なフォローを考えるより先に実行している。

(……目の前にいる人間よりもこうして言葉も視線もいらない相手だからこそ何も考えずにプレイできるのか?だとしたら、実際に会って話して誰かと交流する事に何の意味があるんだ……?)

一人で、一人じゃないそんな夜が続いていく。やがて数時間が過ぎた。通常より多くのミッションをこなしたところで相手方がログアウトした。ARゴーグルを外してスマホを見ればいつもと大差ない夜の遅い時間となっていた。

「……言った傍から全く配慮なんて出来なかったな」

立ち上がり、伸びをすれば全身の関節からいい音が響く。

「……風呂にでも入るか」

着替えとタオルの準備をして部屋を出て行く正輝。目指す場所は大浴場。変な時間に入ることになったが、事前に清掃時間は知っている。よく漫画であるような男湯と女湯の交換もない。だからハプニングなど想像もする必要はない。

「あ、正輝さん」

「…………え?」

大浴場前。そこに先ほどの少女……結羽がいた。

「正輝さんお風呂ですか?こんな時間に」

「……あの、どうして俺の名前を……?」

「………………………………あ」

結羽は一気に表情を青くして俯く。

「あなたは、何者なんですか?」

「わ、私は……、私は、結羽(ゆん)って言います……!あなたとは以前に会ったことがあります……ので!」

「結羽……?」

一瞬よりも短い刹那に正輝は目眩を覚えた。

「何だ……目眩が……」

「正輝さん!?」

結羽が慌てて正輝に駆け寄る。

「だ、大丈夫です……」

「敬語なんてやめてください……」

「けど、俺はあなたを覚えていないし年上に見える……」

「そんなの気にしないでください!」

「え、ええ……?」

コロコロ表情を変える結羽という少女は見ていて少し面白いが、素性が分からない以上正輝は警戒を解くことが出来ない。しかし何故か比較するなら怜悧や歌音以上にどこか安心できる、馴染みのあるような感覚に襲われる。

(何なんだこの子は……!?どうしてこんなにもどこか懐かしい感覚があるんだ……!?この子の言うように本当に昔どこかで一緒にいたことがあるのか……!?それにしたってこんな、こんな……)

「結羽」

そこで、男湯の方から雷歌が出てきた。

「雷歌、」

「らい、か……?」

正輝の声に雷歌が眉間に皺を寄せながら視線を向ける。

「……接触したのか」

「ご、ごめん。ここで雷歌待ってたら正輝さんと会っちゃってつい……」

「……はぁ、」

大きなため息。この光景にも正輝はデジャビュのような目眩を強く感じる。

(この結羽って人だけじゃない……、この雷歌って奴にもどこか懐かしさがある。……父親の関係者か……!?)

「黒主正輝」

「な、何だ……?あんたも俺を知ってるのか……?」

「お前のことはよく知らない。だが、黒主正輝の事は知っている」

「……な、何を言ってるんだ……?」

「気にするなと言いたいところだが、結羽が関わってしまった以上話しておいた方がいいだろう」

「でも雷歌、いいの?私達もメナージュ・ゼロになっちゃったりしない?」

「ナイトバーニングの言動からして可能性は低いだろう」

「お、おい、何の話をしてるんだよ……」

「いいか黒主正輝。信じるかどうかはお前次第だ。勝手にするがいい。だがな、俺達はお前の前世を知っている。……正確に言えばそのさらに前世にあたるがな」

「前世……?その背中の羽と言い、怪しい教団か何かじゃないだろうな?今この国では全ての宗教活動は禁止されているんだぞ」

「そんなものではない。だが、羽まで見えているなら分かるだろう?決して作り物ではない」

そう言って雷歌はその銀色の羽を動かしてわずかだがその体を浮かせた。トリックでも何でもない本当にその羽の力だけで雷歌の体は浮いていた。

「……!?」

「俺達は天使だ。だからお前の前世とそのさらに前世の事も知っている。過去2代に渡って俺達はお前達とは深い関わりがあるんだ」

「…………」

正直信じられる要素は一つもない。ファンタジーな話にしか聞こえない。だが、心が雷歌の話が真実だと聞く前から納得していた。驚くことがないことに驚いている。学校の授業で聞いた内容を復唱してそう言えばこんな内容だったなと頭に再認識するような感覚に近い。

「……何故天使だと俺の前世と関わりがあるんだ?」

「天使には魂の姿が見える。同じ魂は二つとない。生まれ変わっても魂の形が変わることはない。だから分かるんだ。そして何の因果か、お前の魂は何度生まれ変わっても黒主正輝として生まれるようになっているようだ。三度目だから流石に分かる」

「…………」

荒唐無稽だが二人の表情を見るまでもない。信じるしかない真実だ。

「私達は昔正輝さんにはお世話になりました。天使としての仕事が一段落したことと近くにまた正輝さんがいるって事を知ったので少し顔を見たくなった。だから今日接触したんです。本当なら天使の世界の法律でこういう話はしてはいけないんですけどね」

「……それあんた達や俺に何かしらのペナルティがあるんじゃないのか?」

「今回、別件も動いている。そちらに関しては流石に話すことは出来ないが、それのお陰で多少は問題ないはずだ。先ほど、その別件で動いている存在とも会話をした。恐らくお前に迷惑は掛からないだろう」

「……そう、か……」

俯く正輝。すると、結羽が正輝の正面に来る。

「正輝さん。今正輝さんが何か抱えていることは何となく分かります。私達は祈ることしか出来ません。けど、あなたに天使の祝福を」

「……」

「……行こ、雷歌」

「……ああ」

そうして結羽と雷歌の二人は客室の方へ去って行った。

(……俺には何が起きているんだよ)

男湯。他に誰もいない湯船で正輝は一息をつく。とても信じられない話なのに心が納得しているよく分からない状況。

(直接会って話している家族達よりもそうでない他人の筈の存在の方がわかり合えているような感覚があるのは俺が薄情過ぎるからなのか……?それとも哲学的になってるだけで本来そう言うものなのか?)

体を洗い、適当に暖まったら正輝は着替え直して部屋へと戻る。

「……ん、」

鍵を使って中に入ると違和感を得た。机の上。ARゴーグルの傍に1枚の手紙があった。

無言のまま、しかし瞬く間にその手紙を手に取り、中身を目にする。

「お前は過ちを犯した。高くつくぞ」

そう記載されていた。


翌日。

「今月末の大会出場メンバーとポジションを決めるぞ」

帰りのバス。顧問の声を聞きながら正輝は手紙の内容を反芻する。もしかしたら指紋が得られるかも知れないためすぐにノートに挟んでリュックの中に入れてある。帰ったらすぐにでも赤羽や達真に頼むつもりだ。

(過ちを犯した。ぱっと思い浮かぶのはあの天使の二人の言葉だな。けど、あれはあの二人の失敗であって俺には関係ないはずだ。だとしたら何だ?例の脅迫状や剣道着と何か関係があるのか?)

「400m個人メドレー:黒主正輝」

「……………………は?」

顧問からの声に正輝が妙な声を上げてしまい、車内で笑い声が響く。

「ど、どうして……!?」

「そりゃお前はどの泳ぎでもいいタイムを出してるからな。スタミナもある。一番誰もやりたくない種目を任せるのがちょうどいい」

「そんな馬鹿な……!」

正輝が窓際の席から通りへと向かい、隣りにいた明美が慌ててどける。そして代わりに窓際の席に座った。

「正輝、どうかしたの?」

「え?」

「いつもだったら文句なんて言わなかったじゃない。皆の役に立てるなら、いい運動になるならって……何かあったの?」

「それは……」

正輝が言いよどむ。その時だった。

運転手が急にハンドルを切ってバスが急カーブをする。

「え……?」

正輝と視線を合わせたままの明美は開いた窓から外に投げ出された。

「……め、明美!!」

急ブレーキを踏んで止まるバス。それよりやや早いタイミングで正輝が窓から飛び降りる。

慌てて顧問達が外を見ると、正輝の姿はガードレールの歩道側にあった。

「黒主!!明坂!!」

ドアが開くと全速力で顧問や運転手達が走ってくる。

「……めい、み……」

しゃがむ正輝。その視線の先。普通ではない方向を向いて動かない明美の姿があった。明らかに首が折れていた。

「ど、どうして急にカーブをした!?」

運転手に詰め寄る正輝。それを何とか宥めようとする顧問。副顧問が青い顔をしながらスマホで救急車を呼ぶ。その一連の流れの中で正輝は異音を感じた。それはさっきまでバスが走っていた道路の先。そこに一体のロボットがいた。人間のふりすらしていない金属がむき出しのそのロボットはやがて……

「!!」

正輝が慌てて明美の方へと飛び込む。次の瞬間、そのロボットは自爆した。炎そのものは大したことがないが、爆風によりバスは横転し、窓ガラスが全て粉砕される。風に乗った破片が立っていた運転手と顧問、副顧問に容赦なく突き刺さり、血の雨を降らす。

「……あ……あ……」

ガードレールの外側。乾いた土の上。明美に覆い被さるような形の正輝。まるで口づけをするかのような近い位置にある明美の瞳はもはや何も映していなかった。


「……遅かった」

燃えるバスが見える山道の車道。結羽と雷歌がいた。

「正輝さんは……!?」

「……あそこにいる。無事なようだが……」

そこに新しい気配。

「…………あれは、」

「あなたは……メナージュ・ゼロ!?」

「どうしてここにいる……!?」

「……」

しかしメナージュは何も答えない。代わりにその胸に魔力を収集させる。

「あなた、何を……!?」

「お前の魔力は残り少ない……!!時間遡行魔法を使えばその身が危ないだけじゃなく歪みが……!!」

「けど、けど放ってはおけない……!」

メナージュがその淡い光を放とうとした時。

「!」

新たな姿が彼女の前に現れた。

「……」

紫電の花嫁姿。ならばそれはパープルブライドと仮称していいだろう。

「………………随分な姿になったものね」

メナージュが視線を鋭くする。その表情は極めて険しいものとなった。

「……あなたにそこまでの権限はない」

「何故!?あの子はあなたの……」

「……少し、違う」

銀色の仮面からはその表情は窺えない。しかしメナージュとパープルブライドはまっすぐに視線をぶつけ合わせていた。

「あの子は今、とてつもない絶望に身も心も奪われようとしている。それをあなたが助けようとしないのは何故!?答えなさい!!」

「……ただ救いの手を差し伸べるだけが優しさじゃない」

「説明して!!!」

「あなたには時間を戻すことが出来ても失われた命を取り戻すことは出来ない。失われなかった別の世界が生まれるだけ。……それをメナージュ・ゼロであるあなたがやってしまったらあなたはもう……」

「なら、蘇生を……」

「悪魔を作り出すつもり?それでも歪みは加速する」

「なら、どうしろって言うの!?」

「……あの子の強さを信じるしかない」

やがて、雨が降る。激しい嵐だ。雨にも消えない炎の匂いが風に乗ってその場を埋め尽くす。

「……目的を果たしたら早く元の場所に戻る事ね。メナージュ・ゼロがあまり出歩くものじゃないから」

「あなたも大して変わらないでしょ……!!!」

メナージュは一歩前に出た。その一歩は雨に塗られたメナージュの体にはより痛む。それでも、

「……っ!!!」

険しい表情のままメナージュはパープルブライドに歩み寄り、その襟首を掴んだ。

「自己犠牲で世界が成り立つと思わないで……!!それを他人に強いらないで!!!」

「……駄目。あまり近寄ると、あなたが……」

「関係ない!!!」

メナージュは震える手でパープルブライドの仮面に手を伸ばす。

「……!やめて、それをしたらあなたは……!!」

「うるさい!!」

そしてその仮面を取り外した。そこにはメナージュが想像していた少女のそれより大人びた女性の顔があった。

「パープルブライドだか悪魔だかメナージュ・ゼロだか知らないけど、友達の顔をこんな顔を見て私が黙っていられると思ってるの!?」

「…………」

そしてその顔にメナージュの吐血がわずかに被さる。

「もう……やめなよ……」

「私は……、あの人もあなたも必ず助けてみせる……!!そしてあの子を……必ず……!!!」

「もうやめて美夏ちゃん!!!」

拒絶の声。それは威力を持っていた訳ではない。だが、メナージュの体はゆっくりと水たまりの中に倒れた。同時にパープルブライドも膝を折った。

「……メナージュ・ゼロの名前を言うことは今の僕でも厳しいか。でも……!!」

吐血した口元を拭い、倒れた友の体を抱き起こす。そして背後の天使達を見やる。

「……ん、」

その背後。一筋の雷鳴が迸り、一人の男が姿を見せた。

「…………」

素顔のパープルブライドと男が視線を交差させる。

「そう、あなたは」

「終の進化を司るディオガルギンディオ。ブフラエンハンスフィア」

男は調停者としての名前を名乗る。

「……ここの歪みを感じてやってきたんだね」

「奇跡の世界が歪む姿は僕も見たくはないんでね」

そして男は抱き寄せられている女の顔を見る。

「……狂って世界から弾かれた歯車達がこうして顔を合わせる世界は確かに奇跡だな」

「……早くこの場から去って。まだこの子にあなたの顔を見せたくはない」

「そうだな。だから、」

ブフラエンハンスフィアは左手を挙げた。

「この場の歪みは全て引き受けよう」

次の瞬間、メナージュの姿が消えていた。横転し、炎に包まれるバスも倒れていた運転手達も、泣き叫ぶ正輝に覆い被さられていた明美も、全てが元に戻っていた。

「…………何の真似?」

「因果なものだな。騎士と調停者とパラドクスに分かれたが故に普通の人間じゃなくなったあの男が、何の因果もない奇跡の世界に到達したらこのような未来が待っているとは。そして、分かたれた存在こそが当初のロマンを持っている。……もしも梓山美夏があの場面に出会わなかったら……。最初から奇跡の未来が待っていたかも知れないと言うのに」

「……」

パープルブライドは血塗られた仮面を被り直し、時空から姿を消した。

「……そこの天使達」

そして調停者は完全に蚊帳の外だった結羽と雷歌を振り向く。

「……あなたは、」

「恐怖しなくていい。別にとって食うこともない」

「……お前は何者だ?どうしてあの男と同じ顔をしている?」

「さっきの言葉を聞いていなかったのか?」

「……聞いて理解できるように喋っていたとは思えないが」

「まあ、そうだろうな。ともかく、今回の件はパラドクス案件をも超える調停者案件になるだろう。お前達に責任はない。その代わりと言っては何だが、黒主正輝についていてくれないか?」

「正輝さんに?」

「目的は何だ?」

「別に。ただ、気にならないわけではないからな。黒主零の息子というものを」


夜が明けて、研護がふと気配を感じて目を覚ますとすぐ近くにメナージュがいた。

「お前、どこに行ってたんだ?」

しかし、返答はない。

「おい、おい!」

「……大丈夫、聞こえてるわ」

メナージュがゆっくりと顔を向けた。その表情は研護が初めて見るものだった。

「少し、古い知り合いと会っていただけだから……」

「……お前の古い知り合いって……」

「……少し疲れたから寝かせてもらうわ……」

それだけ言ってメナージュの意識は閉ざされ、闇に落ちて沈んでいく。


・駅前にあるライブハウス。その日は夕方頃からとある女子高校生バンドが貸し切りにして練習に使っている。徹底した防音室もあるが練習に使う4時間ほどは完全に店舗ごと貸し切っている。スタッフは一応いるが最低限の人数だけに留まっている。

「中々派手なことをするじゃん」

怜悧が担いだギターを机の上に置いて汗をタオルで拭きながら正面の相棒を見る。

「え、なんのこと?」

その相棒である歌音もまたタオルで汗を拭いながら相棒を見返す。

「私達二人しかいないのにわざわざライブハウスを貸し切るなんて」

「まあ、お金ならいっぱいあるし。僕達だしね」

歌音が背後のボックスをいじる。二人だけのバンド「レリーズ」。ギターボーカル専門の怜悧だけでは当然音が足りないため、歌音があらかじめDJとして音を用意して本番前に合わせると言う苦労が必要だ。

当然他にメンバーを用意しようという案は前々からあったが、事情が事情故に結局初ライブまで二人だけで突き進んできた。

「お金があるからっていきなりあそこでやる?」

「にひひ。使ってないんだからいいじゃん」

初ライブの会場は円谷学園体育館となっている。そこは父親である甲斐廉が学生時代に所属していたエスカレータ式の学園にある大きな体育館で、1000人は入る大きな建物だ。かつてのテロの影響で学園自体がほぼ閉鎖に近い状態となってはや数年。故にそこそこ大きな額を支払ってライブで利用したいと申し出れば反対される理由はほとんどない。

小規模なデモや死傷者の出ないテロは今でも数年に一度のペースで発生してしまっているが、14年前のあの大きなテロ以来日本国内でも武装化して大組織化した警備会社が力を入れて毎日警備をしているからか、かつてほどテロは警戒されなくなった。

「円谷学園か」

「警備用のロボットもたくさん用意するから大丈夫だよ」

「……正直もう日本国内であのレベルのテロは起きないと思うからちょっと過剰な気もするけど」

「テロはなくてもデモはあるかも知れないよ?」

「……私達の事は知ってる人はかなり限られてるから必要ないと思うけどね」

怜悧がギターをケースにしまう。

「あれ?まだちょっと時間あるよ?」

「いや、今日特別ダイヤでしょ?夏祭りとかで。各停ばかりになるじゃん」

「え!?あれ今日だっけ!?やば!」

歌音がスマホを出してダイヤの確認をする。

「うう~。次の急行に間に合わないと結構遅い時間になっちゃうな」

「……ねえ、歌音。もしよかったらなんだけど……」


黒主家。既に赤羽とアリスが夕食の準備をしている中。

「それで歌音さんまで来たのか」

リビング。筋トレしている正輝が立ち上がり、怜悧と歌音を迎える。

「そ。弟君よろしくね!」

「いや、姉さん。いくら姉さんの友人だからって異性のクラスメイトがいる家に友達連れてくるか?」

「何か問題でもある?」

「何か間違いとかあったらどうするんだって話!」

「間違い?」

怜悧が歌音と正輝を見比べる。一瞬難しい表情をしたが、

「いや、ないでしょ。そこまでじゃないってお姉ちゃん信じてるから」

「……どういう根拠なんだよ」

「あ、じゃあ弟君一緒にお風呂入る?」

「人の話を聞いてくれ」

正輝が嘆息。

「おー、メイドさんがいる!」

「ふえ?」

歌音が料理中のアリスに背後から抱きつく。

「わ、わ、」

「可愛い!中学生くらい?」

「歌音。アリスは今料理中だから」

怜悧が歌音を引っぺがす。

「あ、あの……?」

「アリス。悪いけどこの子の分まで用意してあげて。……あ、美咲さん。ただいま戻りました」

「いえ。お帰りなさい。怜悧さん。それに……」

赤羽が歌音の方を見た。ちょうど左目の死角になったため歌音は気配で赤羽を追い、右目で彼女を見やった。

「馬場歌音寺です」

「赤羽美咲です。あまりおもてなしできないかも知れませんが、遠慮なくお過ごしください」

「はーい」

「ほら、まずは着替えるわよ。私の服でサイズ合うかな……?」

怜悧が片手で歌音を担ぎ上げたまま自室まで向かっていった。

「正輝様、あの方は?」

「姉さんのバンド仲間で俺のクラスメイト。今日夏祭りで電車のダイヤが乱れてるみたいだから泊まるってさ」

「お泊まりですか……」

「どうした?」

「いえ、せつな様にお伝えしなくていいのかなって」

「……確かに。言っておいた方がいいかもしれない」

そう言って正輝が怜悧達の後を追う。

その追いかけている先。怜悧達の部屋がある離れの廊下。怜悧と歌音が歩いていると、怜悧の部屋の奥の部屋が開いた。

「せつな」

「姉さん、おかえ……」

出てきたせつなと歌音の目が合った。

「…………あ、これ?私のバンド仲間。気にしないで」

「もう怜悧ってば。歌音ちゃんをもの扱いして。……で、この子は?」

歌音がせつなに歩み寄る。その距離だけせつなは後ろに下がる。ついにはせつなの背中が壁にぶつかった。

「妹だよ。せつなって言うの」

「へえ、妹ちゃん」

「………………ぁ、」

青い顔で怯えるせつな。歌音はそっとその耳に口を近づけ、

「"じゃなかった子同士"、仲良くしようね」

と、呟いた。

「…………っ!!」

「歌音。少しやり過ぎ。せつな、おいで」

歌音の頭をどつき、逃げるようにやってきたせつなを胸に抱き寄せる怜悧。

「もう、痛いな」

「歌音、ここ私の部屋だから先に着替えてなよ。好きな服着てていいから」

「怜悧は?」

「せつなとお話」

「ちぇっ、後で僕ともお話ししようね。妹ちゃん」

怜悧が自分の部屋を開けると、歌音は手を振りながら中に入った。

「…………姉さん、」

「大丈夫、せつなはちゃんとお姉ちゃんの妹だよ。……ん、」

怜悧が背後からの気配に気付いて振り向く。

「遅かったか」

正輝が走ってきていた。

「いや、私がいたから」

「姉さんだって忘れてたくせに」

言って正輝がせつなに近づく。

「せつな。悪い。あれ俺のクラスメイトでもあるんだ。今日泊まるみたいなんだけど……」

「…………子供扱いしないで」

怜悧の胸に顔を埋めたまませつなが小さく呟いた。


それは、今から何年か前。恐らく物心がついてすぐの頃だろう。

その少女は両親の用意したリモート通話に紛れ込み、自分と同じ名前の少女と会った。

「おとうさん。おかあさん。このこは?」

「……この子は、」

言いよどむ両親。対して画面の少女が名乗りを上げた。

「甲斐怜悧って言うの」

「かいれいり……?それってぼくもおなじなまえ……」

少女の疑問に両親は答えなかった。

その日はそれで終わった。が、隙を見ては少女は自分と同じ名前で少しだけ年上の少女と通話をすることにした。

「怜悧は、日本の学校に行ってるんだ!?」

「そうだよ。怜悧は違うの?」

「うん。僕は今えっと、何とかって国にいるの!」

「怜悧は外国人なの?」

「がいこくじん?よく分からないけど僕は僕だよ!」

「僕って……怜悧は女の子だよね?」

「そうだよ!怜悧は違うの?」

「いや、私も女の子だけど……」

「……僕、何かおかしい?」

「…………ううん。そんなことない。怜悧は怜悧だよ」

そんな日々が続いて数年が過ぎた。少女が年齢で言えば中学生になる時期。初めて両親に連れられて日本にやってきた。

「怜悧!」

空港では15歳になった怜悧が待っていた。隣には矢尻達真や赤羽美咲もいたがまだ知らない人だ。

「怜悧、やっとちゃんと会えたね」

二人の同じ名前の少女が初めて触れ合い、抱き合う。

「……納得しているのか?」

達真が小さく甲斐に問うた。

「……いや、単純に同じ名前だと思っているらしい」

「少しはごまかすなりしたらどうですか?」

赤羽がより小さな声で言う。

「火咲ちゃんがそれ言うのかな~?」

杏奈がわざとらしく笑う。

「……今は赤羽美咲だから」

「それより、日本にはいつまで?」

「数日と見ている。向こうに置いてきた影武者ロボットがどこまで持つか」

「……もういっそ、ロボットに任せて帰国したらどうだ?それか死んだってことにするとか」

「それは出来ない。ここで止めたら何のためにあいつらは死んだんだ」

「……」

「……」

押し黙る大人達。対して、

「お父さん!早く行こうよ!」

娘達が声をかけた。

甲斐は黒主家ではなく、あらかじめ予約しておいたホテルへとタクシーを使って向かう。

人数が少し多いため2台用意した。ちなみに甲斐と杏奈は変装しているためよほど鋭い人間でもない限りは正体に気付くことはないだろう。

「ところでこの人は?怜悧のお父さんとお母さん?」

ホテルに着いてから初めて達真と赤羽に興味を持って質問した。

「……違うよ。こっちは空手の師範」

怜悧が達真を指す。

「へえ、怜悧も空手やってるんだ。僕もお父さん達から少し習ってるよ!」

「へえ、じゃあ少しやってみる?」

そうして二人の少女は軽い組み手などをするようになった。実力はほぼ同じ。ますます仲良くなった。

「……どれ、少し見てやろう」

達真も何故か気になって稽古をつけてやることにした。

やがて、甲斐の帰国も4日目にして終了し、3人は再び海外へと旅立つことになった。今度は親が用意したビデオ通話などではなく、お互いにスマホを用意して連絡先を交換した。

親さえ一見しただけでは気付かないレベルの精巧な影武者ロボットを用意して一人で来日することもあった。

たった一人の友人で親友。そのはずだった。

しかし、2040年3月。仕事で忙しく、隠れ住んでいたホテルに一人残された夜が爆発した。

気付いた時には視界が半分になっていて、首から下がとにかく痛い。燃えるように痛いと感じていたが、実際に体が燃えていた。

「いやああああああああああああ!!!!」

「怜悧!!怜悧!!」

やがて、杏奈が来てすぐに水をかけられて消火。そして後から続いてきた救急隊に運ばれていった。

数日以上にも及ぶ手術の末、聞かされた言葉は

「全身にひどい火傷を負っています。爆発そのものは受けていないため骨折などは見られませんでしたが、左目が視神経ごと蒸発。それに、内臓と皮膚、筋肉、神経にひどい損傷が見られます」

「……何とかならないんですか?」

「……医学では厳しいものと思われます。が、全身義体化手術を行えば或いは……」

「……全身義体、か」

主治医の言葉に甲斐は言葉を濁す。少年時代から何度か聞かされてきて直面してきた未知の技術は既に他の誰でもない、甲斐自身が一番精通した技術となっていた。

甲斐は少女の目が覚ますまでの間、杏奈と話し合った。全身義体化をしなければどの道一緒に生活することは出来ないだろう。だが、そこまでするならかつて計画していたものを使って自由にしてあげるのがいいのではないのか。そのために真実を話すのがいいのではないか。

「あなたは、どうしたいの?」

「……この前日本に行ってせつなの事を話したら子供達にも矢尻にもすごく怒られた。俺自身も父親失格かも知れないって思った。矢尻が娘に血筋について話したなら問題ないだろう、せつなも受け入れられるだろう、そう思った。だが、結果としてまだせつなは……だから怖いんだ。あの子に本当のことを伝えてしまっていいのだろうかって。けど、治してまた甲斐怜悧として生きててもらうのもどうなんだって思ってる。……どうすればいいんだ」

甲斐が頭を抱えていると、

「失礼する」

そこへ、ライルがやってきた。

「ライル……」

「甲斐怜悧が目を覚ました。少しだけなら会話も可能だ」

「……分かった。すぐに向かう。車を出してくれ」

「ああ」

ライルの車に乗って二人は娘の病室へと向かう。

「……おと……さ……おかあ……さ」

首から下を特殊な装置で覆われ、顔面の左半分を眼帯で覆い、右目だけで自分たちを見る娘の姿がそこにはあった。

「怜悧……」

「お……と……か……」

恐らく手を伸ばしたいのだろう。少しだけ肩が動いた気がした。だが、そこにあるのはただの虚空。今この少女には差し伸べる手も指もなく、ただ弱々しく途切れ途切れに言葉を落とす事しか出来ない。

「…………」

甲斐は作り笑顔のまま、娘の頭を優しく撫でてやった。安心したのか娘は右目から少しだけ涙を流し、眠りに落ちた。

「……杏奈、ライル」

振り向いた甲斐。何かを決めた顔だった。

「……やるんだな」

「ああ。準備をしてくれ。ここももしかしたら長くは持たないかも知れない。24時間以内に全身義体化を行う。そして、杏奈」

「はい」

「例の奴を頼む」

「……はい」

この決断が間違っていたとしても、甲斐には他に手段はなかった。

やがて、19時間後に少女は意識を取り戻した。ベッドから起き上がればまるで自分の体が燃えていたのが嘘か夢だったかのように今まで通りに動く自分の体。知らない部屋だったがすぐ近くに鏡があった。

「…………え、」

そこにあったのは自分じゃない少女の姿だった。左半分が眼帯に覆われているとは言え、自分の顔を見間違うわけがない。なのに、鏡に映る顔は自分のそれではなかった。

「あ、」

やがて、杏奈が部屋に入ってきた。

「お母さん!!これ……僕じゃないよ……?」

「……怜悧」

杏奈は動揺する娘を抱き寄せた。力の限り抱きしめているのにその圧力が全く伝わらなかった。

感覚はあるのに自分の体ではなく、その上に着ていた服だけを抱きしめているかのように。

「怜悧、これから多分ひどい話が待ってると思うの。でも、悪い話じゃないから……ごめんね」

「?」

やがて、父親がやってきた。だが、父親だけじゃなかった。

「入るぞ」

「お父さん……それは……」

甲斐の後ろにいたのは一人の少女。それこそがそれまでの自分の姿。見間違えるはずもない己の顔だった。

「いいか、今から大事な話をする。怜悧、怜悧はお父さんとお母さんの間に生まれた実の子供じゃないんだ。本当の名前は馬場歌音寺。本当の甲斐怜悧は、お前と仲がいいあの甲斐怜悧なんだ」

「…………どういうこと……」

「父さん達が日本で暮らしていた頃に大きな事件があった。爆弾テロだ。それでお父さんは、本当のじゃないけどお父さんを失った。義理の弟も死んだ。……お前の本当のお母さんも死んだんだ」

「……」

「だからお父さんは本当の家族を守るためにお前のお母さんからお前を預かって外国で仕事をすることにしたんだ」

「…………どういう」

「いきなり言われても受け入れられないことは分かっている。けど、言わせてくれ。お父さんはお前を愛していた。ずっとずっと娘として愛している。けど、だからこそもう一緒には過ごせない。この、お前そっくりのロボットを影武者ロボットとして連れて行くことにした。お前は、馬場歌音寺として日本で暮らすんだ」

「…………どういう」

「ごめんね……!!」

杏奈がこらえきれずに娘を抱きしめた。

「本当のお母さんじゃなくてごめんなさい……!!偽物でごめんなさい……!!」

「…………にせもの、」

「矢尻や赤羽にお前のことを託す。またお父さん達の顔が見たければいつでも言ってくれ」

「……お父さん」

「何だ?」

「僕を呼んで……僕の名前は……」

「……歌音、だ」

「……そ……っか。歌音ちゃんって言うんだ……怜悧は……怜悧……」

「……本当にすまない……っ!!!」

甲斐は娘を抱きしめた。だが、その熱量は義体となった娘には届かなかった。

それから数日、両親だった人達との最後の生活を終えて歌音となった少女は日本へと渡ってきた。

「……怜悧、」

空港。達真と怜悧が待っていた。

「怜悧……その、」

「歌音ちゃん」

「え……?」

「僕は歌音ちゃんって言うんだって……馬場歌音寺。歌音ちゃんと友達になってよ、怜悧」

「……歌音……!!」

再び出会った少女はそこから違う名前となった。二人の怜悧だった少女。解き放たれた少女。故にレリーズ。


「ってな感じだから」

正輝の部屋。怜悧は正輝とせつなに歌音の事を説明した。

「………………い、いや、そんな事急に言われても……」

狼狽する二人。

「血は半分しか繋がってないけど、甲斐廉の被害者同士仲間に出来ないかな?」

怜悧が二人を見た。その目はどこか震えていた。怜悧自身もまだ受け止め切れていないのだろう。

「……だからさっき……」

せつながまた表情を青くした。

「……けど、」

「うん?」

「…………あ、いや、」

正輝は言葉を飲み込んだ。今脳裏に生まれたその言葉は本人がいなくても決して出してはいけない言葉だった。「な、何でもない……。で、でも、じゃああいつはどうしてここに住んでないんだ?そもそも今はどこに?」「プライベートな事だから……。あの子もまだ、3ヶ月くらいしか経ってない訳だし。一人で考える時間も必要だよ。もちろん歌音が望むならここにいてもらうつもり。美咲さんも当然知ってる」

「……」

正輝は一瞬だけせつなを見た。せつなもその気配に気付く。

「……わたしは、」

「私はあの子のこともせつなの事も家族だと思ってる。正輝だってアリスだってもちろん同じ。これから先何があってもお姉ちゃんが守り抜くから。……もし、もしも、今まで通りが難しいとしても、お姉ちゃんは何があっても見捨てたりなんてしないからね……」

怜悧は再びせつなを抱きしめる。途中から鼻声になっていた理由を正輝もせつなも敢えて追求しなかった。

「……」

扉の向こうにいたその少女も。


やがて、食事の時間。

「それでは、召し上がりましょうか」

赤羽が手を合わせる。視線の先の顔は今日は一つ多い。そして一つ以外が全てどこか陰りがある。

「えっと、私、どこか味付け間違えちゃったりしました……?」

アリスが敢えておどける。その意図には誰もが気付いていた。だから、

「いつも通り美味しそうだよ、アリス」

怜悧と正輝がその頭を撫でてやった。

「ほら、歌音も。アリスの料理は美味しいんだから」

「そうだね。メイドちゃんが作ってくれた料理だもん。期待しちゃうな~!」

「……」

歌音の対面にいるせつなはまだ隣の怜悧の裾を掴んでいる。しかしやがて、箸を動かし始めた。


「そうか、話したのか」

食後。食器の片付けを終えてそれぞれが部屋に戻った後。赤羽は達真に連絡を入れていた。

「直接聞いたわけではないけどね。状況証拠よ」

「これで歌音の奴も少しは落ち着けたらいいんだがな」

「難しい話よ。怜悧と正輝が健気にフォローしてるけど、もしかしたらあの二人こそが一番つらいかも知れないんだから」

「……そうだな。このままそこで一緒に暮らせればいいんだがな。歌音やせつなにはまだ時間が必要だ」

「そうね。長く一緒にいた人達が家族じゃなかったなんて簡単に受け止められるものではないわ」

「……お前もそうだったのか?」

「え?」

「赤羽美咲として最初に生まれ、次には最上火咲。そして今はまた赤羽美咲になっている」

「……関係ないわよ。私は私。どんな時空を経ても。どの道親は屑だったわ」

「……あの赤羽美咲もいつかお前のようになると思うと少し思うところがあるな」

「……どういう意味よ」

「さてな。それより、気になることがある。権現堂からの情報だ」

「また何かあるの?」

「14年前に封印されたはずの甲斐機関本社マスターサーバに何者かが侵入した後があったらしい。しかも管理者権限で」

「どういうこと?」

「社長と同じ権限で日本中のロボットを自由に動かせる奴がいると言うことだ」

「……それって……かなりの大事件なんじゃ……」

「そうだ。正輝が合宿から帰ってきた時に言っていたな?合宿先でロボットが自爆したと」

「ええ。確かに自爆して何人も死んだはずなのに気付けば元に戻っていた。まるで時間が戻ったみたいだったって」

「それ自体は恐らくあの赤羽美咲案件なんだろうが、そのロボットといい、正輝が遭遇した剣道着の不審者と言い、もしかしたらがあり得るぞ」

「……犯人はロボットを利用しているクラッカーってこと……?」

「そっち方面の可能性が高い。権現堂もIT系は取り扱っていないから詳しいことは分かっていないそうだ」

「……なら、あんたの先輩に聞いてみたらどう?」

「……は?」

「ライル=ヴァルニッセよ」

「……確かに連絡先は知ってるが……」

「事は一刻を争うかも知れない。変態師匠相手はともかく本家の方に知らせておいた方がいいかもしれないわ」

「……そうだな」


夜が更けていく。

正輝はいつものゲームをやるが、Kはいなかった。なので適当にクエストを進めて適当に眠気を誘う。

ただ、先ほど姉から聞いた話がどうしても頭をよぎる。

(馬場歌音寺が俺達の義理の兄妹……と言っていいのか?この関係は。せつなといい、アリスといい、一体何がどうなってるんだ……)

いつもの相手とは連携できなさそうな集中できていないプレイング。気晴らしも出来ない夜にわずかな気配。「ん……」

「ばあ!」

ふと暗闇を見れば、そこに歌音の姿があった。

「お、おま……」

「はい静かに。妹ちゃんとかが起きちゃうかも知れないからさ」

当たり前のように歌音が横になったままの正輝へと歩み寄る。

「お前、何考えてる。一応俺達はクラスメイトだぞ……?男子と女子の高校生だぞ?」

「弟君はそう言う関係になりたい?」

「……いや、まずいだろ」

「……」

歌音は小さく笑い、正輝の画面を見た。

「へえ、弟君もこれやってるんだ」

「何普通に会話続けてるんだ。姉さんに見つかったら殺されるぞ」

「怜悧なら大丈夫だよ。さっきKOしてきたから」

「は?」

「歌音ちゃんと怜悧は~、女子と女子の関係だから♪」

「………………は?」

(女子と女子の関係?どういう関係?……え、そう言う関係?え、最近姉さんがこいつに対して言い淀んでたのってそう言う事……?)

「いろいろ考えてるねー、流石男の子」

歌音が正輝の布団をめくる。まるで一緒の布団に入るかのように。

「ま、待って待て!!流石にこれ以上は……!」

しかし、言葉は唇で塞がれた。

「……お前、」

「歌音ちゃんだよ♪」

再び唇を重ねる。そこに恋慕があるようには感じられなかった。ただ、何かしらの強い情念は感じられた。

「俺の次はせつなのところにも行くつもりか?どこの国にそんな伝統があるのか知らないが、ここは日本なんだがな」

「別に儀式じみた海外の文化とかじゃないよ」

「じゃあ夜のテンションか?とにかくこれ以上はいろいろとまずい」

「ほれ」

突然歌音が胸元をはだけた。豊満な胸だが正輝はそれが作り物だと知っている。

「あれ?全然動揺しないね。もしかして経験済みだったり?」

「……お前は何がしたいんだ?」

「え?弟君とせっくす」

「言うな馬鹿!……お前、ちゃんと意味理解していっているのか……!?日本語でどういう意味になるか分かっているのか?」

「流石に歌音ちゃんを馬鹿にしてるんじゃないかな?歌音ちゃんは日本人だよ?怜悧とだって物心ついた頃から日本語で会話してたんだし」

「なら、何が目的なんだお前は……!そもそも……!!」

正輝は再び言葉を飲み込んだ。禁忌と倫理が脳と喉を交互する。時を刻む時計の音が時折ノイズに走る。

「そもそも、何?いいじゃん。クラスメイト同士なんだし。さかり盛りの高校生だよ?」

「……俺は疲れてるんだ。早く寝たい」

「じゃあ、手早くすませちゃおー♪」

正輝の服に歌音の指が入る。手首が動き、肘が動き、正輝の肌があらわになりかける。その体で最も熱い部分が外気に触れた瞬間、

「作り物となんて出来ないって言ってるんだ!!」

「っ……!!」

手が止まる。目にしたものと耳にしたものが理解できない。やや遅れて正輝自身の焦燥がその心臓をわしづかみにした。

「……お前の首から下が作り物だって事は聞いてるんだ。やっても意味なんてないだろ……」

「……」

「今日のことはクラスメイトの異性の家に来てしまったが故の事故って事でお互いにわすれ」

「られないよ……」

「ん、」

空気が変わる。同時に歌音はついに服を脱いで自らを晒す。可憐な下着の下から見える極めて自然に近く見える人工の肌。興奮に震えるその仕草は、プログラミングされた電子の反応には見えなかった。

「何が作り物か……教えてあげるよ……弟君……」


数時間が過ぎた。

「……くっ、」

正輝はうごめく。体を動かそうとしても思い通りに動かない。今まで経験したことがない疲労が全身を襲う。「ふう、」

服を着た歌音が下腹部を押さえる。

「分かるよ……弟君の熱量……ちゃんと僕の中にある」

「……それは、」

「まだ弟君は僕の中にあるフラスコとかビーカーがどうとか言うのかな?言っておくけど僕はまだ生理来るんだよ?……もしかしたら来月からは来ないかも知れないけどね」

「……くっ、」

起き上がろうとしても正輝の腰が全然立たない。まるで毒でも盛られたかのように。

「まだ動けないんだ。……僕の体は一部、作り物かも知れないけど、君の場合君の気持ちの方が作り物かも知れないね」

「……ううう、」

「その言葉、ちゃんと本物なの?怜悧はいつだって感情をそのままぶつけてくれる。弟君だから期待したんだけどね」

「……ま、まて……」

「さっき言ったように今度は妹ちゃんをって思ったけど今日は何だか怯えてるみたいだし。仕方ないか」

「ま……て、」

「残念だよ。…………甲斐正輝」

「!」

やがて、歌音は暗闇の中に消えた。ドアの音が響き、その足音は遠く消えていく。

正輝はその手も声も、暗闇にさえ届かなかった。


・ライブハウス。二人の少女が楽器などの最終確認を行う。つまり、今夜例の体育館でライブを行う。

「……」

怜悧はギターの弦の具合を確かめながら背後の相方に注意を配る。

「どうしたの?怜悧」

対して歌音は音量のつまみを回しながら実際に出る音との差異を確認する。お互い視線は交わさぬまま。

「あ、いや、その……」

怜悧は言い淀む。先日、自分の部屋で寝ていたはずの歌音が数時間ほどどこにいたのか。翌朝明らか調子がおかしかった正輝と何があったのか。どうして今日学校に来なかったのか。聞きたい筈なのに聞きたくない。

「もう、怜悧?今日本番だよ?いっぱい人が来るかも知れないのにそんな顔でいいの?」

「……うん。そうだね、」

怜悧が顔を上げる。多少の無理はあるがいつもの表情で相棒を見やる。

「いよいよ今日が本番なんだ。一緒に頑張ろう、歌音」

「……そうだね、怜悧」

二人が手を合わせた。


・学校から帰ってから正輝が目にしたのはテーブルの上にあるチケット。当然姉たちのライブの入場チケットだ。5人分ある。

「俺と、せつなと、アリスと美咲さんと、……翼の分か?」

チケットを手に取りつつ、正輝は夕焼け空を見やる。

(この前……俺はあいつにひどいことを言ってしまった。あれから初めて顔を合わせるが、時を見て謝ろう。それに、責任も取る必要があるかも知れない。状況的に襲われたのは俺の方だけど)

「正輝様?」

すると、アリスが来た。背後にはせつなもいる。

「お帰りなさいませ」

「ああ、ただいま。アリス、せつな。これ」

「それは、怜悧様と歌音さんのライブチケットですね」

「ああ。多分姉さんが置いてくれたんだろう。時間を考えるとあまりゆっくり出来ない。俺は行こうと思うんだけど、どうだ?」

視線は二人に。少しだけせつなの方へ。

「私は大丈夫ですけれど……」

アリスもまたせつなを振り向く。

「……」

「せつな、無理はしなくていいんだぞ?」

「……わたしは、正直あの人のこと怖い」

「……」

「でも、あの人が私に言ったことは理解できるから……」

"じゃなかった子同士"。その言葉を正輝は後から聞いた。先に意味を知りながら。

「私も、このままじゃいけないって気がして……」

「……無理はするなよ?」

「……うん」

「……あとは翼と……ん、美咲さんは?」

「今日は用があるからと聞いています」

「ってことはライブも見に行けないって事か……」

言いながら正輝は思い出す。

(そう言えば、美咲さんって円谷学園の卒業生だっけ?今日の会場そこみたいだし、もしかしたら過去のことはあまり思い出したくないって事なのか?歌音がセッティングしただろうから、あいつにはあいつで何か思うことがあるんだろうな。あいつと美咲さんはそんなに接点ないし、仕方ないことか)

正輝はスマホで翼を誘う。数分してから返事が来た。

「じゃあ行こうか」

制服から私服に着替え、正輝とせつなとアリスが家を出た。駅前で翼と合流し、ライブの舞台へと向かう。

「正輝、今日稽古じゃなかったっけ?」

「師匠が代わってくれた。師匠もあいつのことは知ってるからな」

「……そーなんだ」

翼は小さく告げる。その仕草に正輝が一瞬怯える。

「どーしたの?」

「い、いや、なんでもない」

(別に今の会話に翼の逆鱗に触れる要素はなかったはずだ。何で俺は今怯えた?いや、待てよ。翼は歌音の事知ってるのか?師匠は知ってそうだが……)

「せっちゃんお久~。大丈夫?」

「……あまり大丈夫じゃないけど、でも今日のライブ。いろいろと見ておきたいって思ったから……」

「……そっかー」

「……せつな、電車でいいか?それともタクシー使うか?」

詰まるところ、正輝はせつなの恐怖を深くは知らない。正輝も無意識に歌音と接するところを見ることでそれが何かを探ろうとしているのかも知れない。

「わたしは、」

「乗っていきますか?」

声。その声を聞いて正輝、せつな、アリスの背筋に電流が走った。

「あ、」

正輝が振り向く。高級車。窓から結羽が顔を出していた。

「結羽……さん」

「結羽でいいですそれでお願いします。……あ」

結羽がせつな、アリスと顔を合わせる。

「みさ……せつなさんとアリスちゃんですね。初めまして、結羽と申します」

「ど、どうも……」

「正輝様……この方は……」

「……父の知り合いらしい」

正輝は嘘をつく。あの謎の事象で忘れかけていたが、合宿の夜に結羽と雷歌から聞いた話をまだ反芻できていない。当然赤羽や達真にも話せていない。家の事情ならともかく前世がどうとかまで話せられるものでもないし、何ならあの時起きたロボの自爆含めて夢か何かではないかと疑っている自分もいた。どうやらしっかりと現実の出来事だったらしい。

「今日何があるか知っているのか?」

正輝が車に乗りながら結羽に問う。

「はい。あのお二方のライブですね」

「お二方?」

「実は、」

「結羽。余計なことは言わなくていい」

運転席から雷歌の声。車に乗ろうとしたせつながそれを聞いて一瞬止まる。

「どうしたせつな?気分悪くなったのか?」

「…………ううん。何でもない」

「あの、僕も一緒でいいですか?」

「はい。もちろんですよ」

アリス、翼も車に乗る。

「目的地は円谷学園だな?」

「あ、ああ……」

雷歌がカーナビを設定して車が走り出す。正輝は助手席に座る。隣には雷歌が。

「……何でここに?」

夕暮れから夜に変わりつつある空の下。正輝は小声で問うた。

「……上役からの指示だ。お前達に協力して欲しいと」

「……上役って……」

「詳細は明かせない。だがお前がさっき言ったようにお前の父親を題目にするのは構わない」

「……よく分からないな」

「知る必要がない話だ」

しかし、雷歌の視線はどこか後ろにいるせつなに逸れていた。

せつなもまた女子同士の会話の中で雷歌へと視線を向けていた。

(……俺に対してもそうだが明らかせつなとも関係ありそうだな)

正輝は視線に気付きながらも今は指摘しないことにした。


車で走ること2時間弱。正輝達は円谷学園の校門前に到着した。

「……ここが、」

正輝達は感慨深くその校舎を見る。既に学校としては使われていない施設。父達が若い頃にいた場所。

「……ん、」

「どうかしたか?」

雷歌が小さくうめく。

「……何でもない」

「私達は後から向かうので正輝さん達はお先にどうぞ」

「そ、そうか。じゃあ、」

正輝達が一礼すると車が出た。

「……雷歌、」

「……ああ」

車内。うっすらと見える金と銀の翼。

「メナージュ・ゼロの気配がした」

「……もうほとんど力が残っていないのに」

「会わせてやりたいが、今日はもしかしたらまずいかも知れない」

「……そうだね」

やがて車は地平線へと消えていった。


「体育館ってここか」

歩くこと数分。正輝達は目的の場所に到着した。1000人入るとのことだが、会場にいたのは100人いるかどうかだった。同世代の女子が多いのはあの二人のコミュニティ故だろうか。

「ん、」

正輝がスマホを見る。少し前に怜悧からメッセージが届いていた。

「どうしたのー?」

「ああ。姉さんが控え室に来て欲しいって」

「それは正輝様だけに?」

「いや、皆で行こう」

正輝は一度せつなに視線を送る。せつなも問題はないようだ。

「……でも控え室ってどこ?」

「……えっと……?」

周囲を見る。今は使われていないとは言えここは学校。ステージが体育館なら控え室は館内用放送室かどこかだろう。

「とりあえず回ってみるか」

「……ん、」

正輝達が歩き始めた時。翼がスマホの画面に凍り付く。

「…………これって、」

「どうした翼?何かあったか?」

「…………ううん。いまいくー」

スマホをポケットに入れて翼は先行した正輝達へと急いだ。

「へえ、よく分かったね」

控え室。怜悧が呼んだそこは体育館裏にある体育倉庫だった。とは言え今回のライブ用かは不明だが改築されており、内装だけを見れば番組に出演する芸能人などが利用する控え室と言って差し支えないものだった。

そしてそこには怜悧と歌音がいた。

「……」

「う、」

歌音の氷のような右目の視線が正輝を射貫く。一晩経っても歌音のテンションは元に戻っていないようだ。謝ろうと思ったが流石にこの場ではいろいろまずい。しかしこのままライブに臨まれても困る可能性がある。

「ね、姉さん」

「うん。今日は来てくれてありがとうね!美咲さんが来れなかったのは残念だけど」

「ん、知ってるのか?」

「さっき電話掛かってきたよ。でも正輝、せつな、アリス。それに翼も来てくれてありがとうね!」

「怜悧様、可愛い衣装ですね!」

「本当……」

「お姉ちゃんひょっとしてアイドルになったとかー?」

「いやいやライブ用だよ」

怜悧達が話している間に正輝は歌音へと歩み寄る。

「あの、」

「何かな?」

「……昨夜の事なんだけど、」

「弟君が気にすることは何もなかったと思うけど?」

冷え切った笑顔。狼狽の顔。

「……悪かった」

「……何が?」

「……ひどいことを言った。本当にすまないと思ってる……」

「…………」

歌音の表情は変わらない。正輝の表情はどんどん青くなっていく。

「正輝?」

背後から声。一瞬姉のものか妹のものか幼馴染みのものか分からなかった。

「……歌音、そろそろ出番だよ」

「……そうだね、怜悧」

「……正輝様、私達は、」

「ああ、そうだな」

その場にいた全員が立ち上がり、そして言葉を交わさぬままその場を後にする。もしかしたら、と言う可能性は一切考えていなかった。


再び体育館の客席にやってきた正輝達。

「結羽さん達はどうしたんでしょうか?」

アリスが周囲を見渡す。さっきより客の人数が増えたこともあり、背の低い彼女では見えづらそうだ。しかし正輝が見渡してもあの二人の姿は見当たらない。

「中に入るのに苦労しているのかそれとも……」

「それとも?」

「いや、そもそもチケットないとか……」

「……いや、流石にそれは……」

「……」

正輝とアリスが小さな心配をしている間、翼はスマホを見ていた。

「……翼?」

隣りにいたせつなが顔を覗かせる。

「う、ん?どうしたの、せっちゃん」

スマホをスリープにさせて笑顔の翼。

「……何見てるのか知らないけど、そろそろ電源切っておいた方がいいよ?」

「う、うん、そうだね」

せつなの言葉でその場にいた全員がスマホの電源を切る。万一にも録音などしてしまった場合には身内とは言え罰せられかねない。

(……でも、大丈夫だよね……?悪戯か何かだよね……?)

鼓動に不安を乗せながら翼が胸を押さえると、照明が消える。そして、メタルの重低音が響き渡り始めた。

体育館のステージにだけ照明がつき、怜悧と歌音の姿が映し出される。沸き立つ客席。それを受けながら歌音がその手で持ったスティックでドラムを叩きまくる。憎悪の類いは一切見えない完璧な演奏に正輝は視線と心を奪われた。

(完璧な体幹だ。全身義体がどういうものか分からないけど、あそこまで完璧に扱うとなるとかなりの努力が必要なはずだ。あいつ、本当にすごいんだな)

正輝の目はまっすぐ歌音にだけ注がれていた。

やがて、怜悧がギターをかき鳴らしながら歌い始める。日常生活において軽い鼻歌とかなら正輝でも聞いたことがあるがちゃんとした歌となると昔小学生くらいの時に家族でカラオケに行った時以来かも知れない。

(姉さん、いつの間にこんなに歌がうまくなったんだ……?家ではガサツぽいけど、こうしてみると……いやいや、昨日の今日で少し頭がおかしくなってるな)

しかし、いつしか正輝達の心は二人が奏でる曲に鷲づかみにされていた。怜悧と歌音、そして正輝達の間は今間違いなく繋がっていた。

ここが怜悧が魂を燃やす場所なんだと、誰もが思っていた。

だから、その瞬間が来るとは欠片たりとも思っていなかった。

一曲目が終わり、

「みんなー!!盛り上がってるー!?」

怜悧が自己紹介のマイクパフォーマンスを始めた瞬間。

「あれが甲斐怜悧か!」

「本当に日本に戻ってきていたのか!」

「いつの間に日本に!?」

たくさんのカメラの音、この場に似つかわしくない男達の声。振り向けば体育館のドアから多くのマスコミが押し寄せてきた。

まだ、その来襲に気付いていないものも多い。

「スクープだ!あの甲斐機関の娘が日本に来ていたなんて!」

「今すぐ生放送だ!」

「いや、情報は裏ギルドに売るぞ!」

やがて、下卑た声に気付く客席が多くなり、

「……え?」

ステージの上にいる怜悧とマスコミ達の視線が合った。

「甲斐廉の娘がいるぞ!!」

「テロリストの娘だ!!」

「バンドごっこに似せた会合だな!?ゲスめ!!」

「くたばれ魔女が!」

やがて、空き缶などがステージに向かって放たれ、怜悧の頬をかすめる。

「……っ!」

頬に刻まれた赤い一線。しかしやがて視界の全てが赤く染まった。

「え……?」

怜悧が見たのは客席の中央。そこに座っていた帽子を目深に被った人影が、突然炎に弾けた。やがて、鼓膜が破れんばかりの爆音が轟き、視界が炎に潰される。


「な、何が起きた……!?」

正輝が起き上がる。分かるのは突然の爆音……と言うか爆発だ。一瞬だけだが粉々に消し飛ぶ人の形も見えた。演出じゃない。これは、記憶の奥底のどこかでいつか見た爆発テロの瞬間に一致していた。

「て、テロ……!?」

周囲を見渡す。体育館の天井が吹っ飛び、夜空が見える。月のない夜故に体育館内の景色は薄暗いままよく分からない。

「皆!大丈夫か!?」

「……な、なにが……」

「う、ううう……」

「せ、せっちゃん……!」

「わ、わたしは……大丈夫……」

「アリス、せつな、翼、全員無事か!?」

「私は、アリスは大丈夫です!」

「わ、わたしも大丈夫……」

「僕も平気、正輝は!?」

「俺も何とか……」

痛む腰を押さえながら正輝はせつな達の傍に寄る。

「何があったんだ……!?」

「分かりません……まだ目もよく見えませんし……」

「……姉さんは……!?」

せつながステージの方を見るが、暗闇でよく見えない。正輝も見るが、人影は見えなかった。何より周囲のざわめきで気配がよく分からない。

「正輝……」

「どうした翼!?」

「……実はさっき、SNSで……」

「……何があった?」

「……か、甲斐廉の娘がここでライブをやる噂が流れてたの……!」

「何だって!?」

正輝も先ほどわずかに聞こえた。マスコミのような輩の下卑た声。

「まさか嗅ぎつけたマスコミによるテロ……!?」

「どうしよう……正輝……」

「お、落ち着け……!今は混乱した方がまずい……!」

正輝は言うが、既に暗闇の客席では混乱が渦巻いている。

「痛いよ!!助けてくれええええ!!」

「足が……足がないんだよおおおお!!!」

「血が……血が止まらない……っ!」

「何かが降ってきて……ぎゃあああああああああああ!!」

大きな音。それは天井についていた照明だった。先ほどの爆発でも辛うじて落ちずに止まっていた照明が客席に落ちたのだ。ちょうど真下にいた客は頭から直撃を受けて……。

「……み、見るな!!」

少しだけ暗闇に目が慣れてきた正輝はせつな達の前に立った。

「ま、正輝様……!?」

「……早くここを離れよう……」

「けど、正輝……姉さん達は……」

「そ、それは……」

「……僕が見てくる!」

「翼!?ま、待て!」

正輝の制止を無視して翼が走り出す。混乱の直中に蠢く人々の合間をうまい具合にすり抜けてあっという間に翼は暗闇の中に消えていった。

「翼!!」

正輝は追いかけようとして、しかしその裾をせつなに捕まれていることに気付いた。

「ま、まさき……」

「せつな……!」

(ど、どうする……!?せつなを置いて翼を追うのか……!?けど、俺の直感が言ってる……この夜はまだ安全に終わってくれない……!!)

「正輝様、せつな様は私が……!」

「……分かった。なるだけ安全にいてくれ!!」

「正輝……!!」

正輝はせつなの手を振りほどいて暗闇の中に消えていった。せつながわずかに見えた正輝の背中は既になくなっていた。


(僕のせいだ……!)

翼は走る。体育館ステージまでの道は何となく覚えている。人混みの中で暗くてもまっすぐたどり着けるはずだ。

(僕のせいだ……。さっき本当は見ていたのに……控え室でお姉ちゃん達に言えばよかったのに……勝手に悪戯かもって判断して……お姉ちゃん……お姉ちゃん……お姉ちゃん……!!)

客席からステージ内部に通じる狭い出入り口にたどり着いた翼が手探りで中を進んでいく。ここから先は完全に未知の領域だ。が、外から見た感じではあまり複雑ではないだろう。たとえほとんど見えない暗闇の中でも人の気配があればまっすぐそこに行けるはず。

「……っ!」

しかし翼はそこで足を止めた。軽く風を通す程度しか開けない小さな窓があった。たまたま近くの街灯からのわずかな明かりが窓から注ぐそこに、首のない少女の肉体が転がっていた。

「……あ……あ……」

見覚えのある体にこみ上げてくる何か。否定したいのに否定できない何かが激しく脳を揺さぶる。

「おごぼええええ!!!」

思わずその場に崩れ落ちて嘔吐した。暗闇の中、生臭い匂いが生まれる。

「はあ……はあ……はあ……!!」

荒く鳴り続ける呼吸を押さえようとして加速する胸の痛みに翼がふと正面を見た時だ。

「……」

窓から漏れるわずかな明かりに照らされて2メートルほどの巨体がそこにはあった。人ならざる姿。ロボットというのも烏滸がましい異形。

「あ……あ……」

逃げようとする翼は、しかし腰が抜けている事実に気付かない。ただ先ほど聞いた歌音の重低音のごとき足音で迫り来る巨体をその瞳に入れることしか出来ない。

「……見たな」

「!」

野太い声。やがて太い腕が翼の頭を鷲づかみにして彼女の体を持ち上げる。

「うううううううううう!!!」

体験したことのない尋常ではない力が頭から翼を蹂躙する。いつ頭が砕けてもおかしくない力。

「……ちょうどいい。月のない夜にこの国の姫が死ぬ」

「!」

「誰かも分からない、暗闇の地獄の中で……!!」

翼を掴む手により強い力が込められ、頭蓋骨が変形し掛かった時。

「そこまでだ!!」

「!」

正輝の跳び蹴りが巨体の左側頭部にたたき込まれ、翼が地面に落ちる。

「ま、正輝!!」

「翼!大丈夫か!?」

震える翼の体を抱きしめ、正輝は倒れた巨体を見る。

「この感覚……あの時の剣道着か……!!」

「…………」

巨体は何も言わずに立ち上がる。足の感覚から実際に相手が素顔を晒しているわけではなく何かを装着していることは分かった。そして、たとえ見えない状態でも対峙すればただでは済まない実力差も感じている。

(こいつ、何でここにいる……!?何か仕組まれたのか……!?にしても状況が悪すぎる……!!)

正輝が翼を庇いながら身構え、見えない敵との距離を測る。

「……!!」

やがて、巨体が動く気配がした。同時に正輝の体が宙を舞う。

「ごばああっ!!」

「正輝!!」

壁に勢いよく叩き付けられ、吐血する正輝の姿をわずかに翼は見た。

(……ま、まずい……肺に来た……)

視界が歪むのは暗闇のせいではないだろう。手足に力が入らないのは昨夜のせいではないだろう。

(こ、こいつ……今度は本気だ……本気で俺を殺しに来ている……)

恐怖と激痛とが正輝を襲う。冷たい床に倒れたまま正輝の体は動かない。視線だけはと、巨体を見据える正輝だが、やがてそれが小さな背中に塞がれた。

「正輝は殺させない……!!」

「つ……ば……さ、」

「殺すなら僕も殺せ!!」

「に、にげろ……つ、翼……!!」

手足に力を込める。恐怖を怒りで塗りつぶす。痛みをそのままに正輝がゆっくりと立ち上がろうとして、

「!」

眼前の翼が宙を舞った。

「翼!!!!」

「!」

跳躍は一瞬だった。正輝は今まで経験したことのない速度で相手の左側面に回り込み、その顔面に全体重をかけた両足で跳び蹴りをたたき込む。

「っ!!」

その顔面を足場に再び跳躍し、暗闇の中宙を舞う翼へと手を伸ばす。

「翼!」

その腕に翼を抱き留めた。だが、

「……」

「つば、さ……?」

唇を重ねるほど近づいた距離の中で正輝は翼の瞳に自分が映っていない事に気付いた。

同時にフラッシュバックするあの時の明美の顔。その手を伸ばし、胸に抱き留めることが間に合わなかった近しい少女の最後の顔。

「翼……」

着地。暗闇に目が慣れた正輝はその顔から目を離せなかった。よく見たら彼女の頭からは血が流れていた。

「あああ、ううううう、あああああああああああああああ!!!!!」

目の前の景色と脳裏の景色が重なり、点滅する。

自分の心臓を分け合おうとするかの如く、冷たくなっていく体を全力で抱きしめる。体を重ねる。それでも動いたのは背後の巨体だった。

「お前……!!」

かつてない憎悪の表情で正輝は暗闇の中を見やった。わずかに零れた明かりの中で、異形の素顔を見た。

「…………」

「……おま、え……」

「君がいけないんだよ、弟君」

直後、人間の限界を遙かに超えた一撃が正輝を貫いた。


やがて、救急隊と警察が駆けつけた。規模が規模だけに人数も人数だった。

「既に死亡が確認された者、約17名。重傷者は約50名。軽傷は無数!また、爆発の痕跡があり、少なくとも4名は遺体の一部のみ発見……!!」

ある程度状況が進み、現場の責任者が無線に対して報告を済ませた。

「……」

その地獄のような光景を瑠璃色の空の下で結羽と雷歌が見ていた。

「……どうして、私達はいつも間に合わないんだろう……」

「……」

「天使なのに、どうして……どうして誰も救えないのかな……」

「……」

「誰か……教えてよ……」

結羽の涙に雷歌は最後まで何も言えなかった。


明け方。病院。手術を終えた何名かが病室に運ばれていく。

「…………う、」

正輝が目を開けると、知らない天井だった。

「正輝……!!」

すぐにせつなの顔が見える。

「せつな……」

「正輝……よかった……よかった……!!」

「せ、せつな様。今は押さえてください、正輝様が危ないです……!」

「アリスもいるのか……」

上体を起こそうとして、しかしほとんど体が動かない。痛みはなく、どうやら固定されているようだ。

「俺は……」

「ひどい衝撃で内臓のいくつかが破裂してたり、骨が折れていたりで何時間も手術してたんですよ……!!一命を取り留めたのが奇跡だって先生が……!!」

「…………つ、」

「正輝様?」

「…………翼は?」

「…………翼様は、」

「無事だよ」

「姉さん……」

新たな声。それは紛れもなく姉のもの。

「一度心肺停止していたけど、奇跡的に息を吹き返したって。まだ手術は続いてるけど、生きてる」

「…………よかった……」

「正輝。あんた、何を見たの?何を知ってるの?」

「……歌音は?」

「…………行方が分からない。爆発があってすぐにステージは崩落。私は地下のマット置き場の上に落ちたから気絶だけで済んだけど。歌音は見つからなかったって……」

「……」

「……正輝、まさか……」

「どこまでがそうかは分からない……けど、俺と翼をやったのは歌音だった……」

「…………!」

「いつかの剣道着の不審者もあいつだったんだ……あいつは、首をロボットに差し替えられる……!!本気で俺や翼を殺そうとしていた……けど、泣いていた……」

「…………」

「姉さん…………あいつを頼む」

そこで正輝の意識は再び途絶えた。

「正輝!」

せつなが震えながらその手を掴む。アリスはせつなと怜悧の顔を見比べるばかり。

「正輝さん!!」

病室へ赤羽がやってきた。

「怜悧さん、正輝さんは……!?」

「……さっき目が覚めました。けど、今はまた寝ています」

「だ、大丈夫なんですか……!?」

「療養していれば……すぐによくなりますよ」

「……怜悧さん……?」

「美咲さん。後はよろしくお願いします」

「……どちらへ?」

「……わたしは、私は家族のために闘ってきます」

赤羽に振り向いた怜悧の表情はひどく険しかった。


朝陽が上り始めた。とある一軒家。表札には馬場の文字。

「……」

歌音は少しだけ仮眠を取り、彼女の来訪を気配で悟り、目を覚ます。

「……来たんだ」

寝室を出ると同時、玄関のドアが吹き飛ばされ、壁に突き刺さるのを目にした。

「……近所迷惑だよ、怜悧」

「大丈夫だよ。今からこの家、事故物件になるから」

朝陽を背に、怜悧が立っていた。

「……怖いな」

歌音が小さく笑う。次の瞬間、怜悧の拳が歌音の左顔面にぶち込まれる。

「っ!」

前歯は砕け、その細い体は宙を舞い、壁に叩き付けられる。

「どうしたの?歌音、本気の用意をしたらどうなの?私の弟や妹を殺そうとした時みたいに」

流血でその顔は見えなかった。

「……そっか。翼ちゃんも生きてるんだ……」

赤く染まる視界の中、歌音は立ち上がり、再び左の頭を拳でぶん殴られる。

「くっ!!」

「痛みを感じる振りがうまいね。首を差し替えられるみたいだし、まるでおもちゃみたい」

蹴足が左膝の関節を一撃で粉砕する。

「ぐううっ!!」

「今のでもう立てなくなるの?へえ、人間の真似がうまくなったんだね」

「れ、いり……」

声を出すその喉を片手で掴みあげてその体を再び壁に叩き付ける。

「ごぶふっ!!!」

吐血。わずかな生身の血液が吐き出されて足下を染める。

「何このオイル、本物の血液みたい……そんなわけないのにね」

拳。蹴り。投げ。絞め。吐血吐血吐血吐血。

「私ね、自分が甲斐怜悧じゃなくてもいいって思ってた時があるの」

指をちぎり、頬を引きちぎり、舌を引きちぎり、耳を裂く。

「お父さん達が私達を守るため。そこに愛情は感じられたから。最初はすごく悔しかった。お父さん達に捨てられたと思ったから。そして、私じゃない甲斐怜悧があの人達の傍にいたから」

膝から下を蹴り飛ばし、大腿骨を引き抜いて掌に突き刺す。肩から骨の一部が突き抜ける。

「でも、画面越しに見るあの人達の顔が本当に申し訳なさそうにしてて、そして、そこに映る甲斐怜悧がすごく幸せそうで、いつしか私は私になるために甲斐怜悧との対話を始めたの」

腹筋を指で貫き、肋骨を掴んでへし折っては剥ぎ取る。剥ぎ取る。剥ぎ取る。握り砕く。

「分かるよ?怜悧のこと。本当は甲斐怜悧じゃなくて、あの人達の傍にいられなくなって、捨てられたんじゃないかって。……だから、私のところに来た。でも、あなたは長い間甲斐怜悧だった。今更馬場歌音寺になんてなれないよね?だから正輝やせつな、翼に近づいた。他人になろうとしている人をいつも見ている家族に近づいて学習しようとしたんだ。唯一残ったこの右目で見て」

涙と血液と理解できない何かで汚れた右目に怜悧の顔が映る。

「昨日……もう一昨日かな?正輝に興味を持ったんでしょ?あの子が見る甲斐怜悧になりたくて。あの子は真実を知りながらあなたを最初から最後まで馬場歌音寺としてしか見ていなかったのにね」

左乳房をつかみ、引きちぎる。外気に心臓が触れる。恐怖と歓喜に鼓動が波打つ。

「でももうあなたは甲斐怜悧にも馬場歌音寺にもなれない。……なりたい?でももう駄目。あなたはあなた自身の手でもう誰にもなりすませなくなっちゃったんだから」

へそを貫き、引き裂き、わずかに膨らむ子宮が外気に触れる。

「……やっぱり強制着床薬を使ってる。それに急速成長薬も使ってるのかな?このままだと一ヶ月くらいで生まれるね。この世の誰でもない女の子供が」

心臓と子宮を舌でなめる。恐怖とエトセトラに震えるそれぞれが舌の上と歯の下に挟まれて悶える。

「私、甲斐怜悧じゃなくてもいいって思ってた。どうせ私の情熱なんて孤独なんてくだらない。お父さん達のやりたいことの方が正しいし、画面に映る甲斐怜悧が笑ってくれているなら、弟や妹達がそこにいてくれるならそれでいいと思ってた。うん。本当にそれでいいんだよ。誰になれなくてもいい。私の行為は全て偽善未満の独善。勝手に誰かに私を変えてくれって期待して勝手に失望して周りに愛情を振りまくようなことしちゃってさ。それで何がお姉ちゃんって感じだよね。ただ先に生まれたって言うだけでお姉ちゃんだなんて。もしかしたら私だけがおかしいのかなって、もし私じゃなくて正輝やせつなが先に生まれてたらこんなことにはならなかったのかも知れない。あの二人ならちゃんと正しく生きて正しく育つ。私なんかの背中を負うことなくちゃんと自分だけの人生を歩んでくれる。そう思うのもお姉ちゃんって名前の勝手な期待なのかもね。私が知ってる甲斐怜悧って女はそう言う汚らしい女のことを言うんだ。勝手に期待して失望して絶望して暴力で周囲を不快にして、優しい振りをして興味ある振りをして心を持ってる振りをしていろんな趣味に情熱を注いでる振りをして、人間の振りをして……そう、人間の振り、人間の振り、人間の振りをしているんだよ。この人はいいなって他の人間を汚らわしく眺めて真似してみて、誰かになりすます……それが私の知る甲斐怜悧。この世で最も憎いと思ってる悪魔の名前。……ふふ、でも私に出来ないことをしたんだね。えらいよ、あなたは。ほら、見て。あなたの子宮。ちゃんと命を持ってる。私にはとても真似できない。私が誰かの親になるなんて夢でさえ見た事なんてないもの。しかもあの正輝とだなんてね。近親相姦以前に私には敷居が高すぎるよ。喜んでいいんだよ?人間の振りをして無様に喜んでいい。あなたは、甲斐怜悧に出来ないことが出来た。それだけで、ほら?わーいわーいって喜んでいいんだよ。……ふふふ、心臓が喜んで震えてるね。ごめんね、気がつかなくて。子宮も嬉しくって震えてるね。あ、そっか。もう右目しかないんだっけ。思い切り殴っちゃったもんね。蹴っちゃったもんね。ごめんね、どこかの誰かさん」


やがて、月日が経った。

進化した技術により正輝も翼もすぐに元の元気な姿に戻り、復学した。何も変わらない学生生活の中へと戻る。「あ、弟君、翼ちゃんもおはよう!」

その中には馬場歌音寺の姿もあった。正輝達より先に学生生活に戻っていた。ほとんどの生徒が彼女は転校生であることを忘れていた。それだけ既にこの学校に溶け込んでいた。

正輝も翼も知らない間に文化祭の出し物を選出するリーダー格となってクラスの皆を引っ張っていた。正輝がいない間に代わりに学級委員長として皆をまとめていた。来年度の生徒会会長も十分狙える最良の生徒として誰もが彼女の顔を思い描いていた。

「……」

正輝と翼がその中にはいない。この二人だけがこの馬場歌音寺は偽物であると、本人の姿と記憶だけを引き継いだロボットであると知っていたからだ。そして、このロボットである馬場歌音寺が見た景色は全て本物の歌音にリアルタイムで送信されている。

「姉さん、やり過ぎじゃないのか?」

ある日の放課後。たまたま帰り道で一緒になった怜悧に恐る恐る問うてみた。

「でもあの子の場合、警察じゃ対処できないでしょ?私達のことも話さないといけなくなるかもだし」

「だからってこんな私刑にも程があるような仕打ち……」

「大丈夫だよ。私の知ってる甲斐怜悧はこんな程度じゃ挫けたりしないから」

「は、はあ?」

「それに流石にそろそろ可哀想だから戻してあげようとも思ってる。あのロボットからは歌音の情報は送られてこないけど、あのロボットにはデータとして歌音が日々どんな感情を思っているかが分かるようになってるから。限界になる少し後くらいで戻してあげようって思ってたの。今度の休みの日にでも助けてあげるよ」

怜悧はニコリと笑った。

同時刻。紅葉舞う公園で、一台の廃品回収車が一仕事を終えていた。妊娠が可能な悪趣味なダッチワイフが不法投棄されていると言う連絡を受けてその回収をしていたのだ。

「人間かと思ったら人形か。げっ、妊娠してる……いや、そういう風に見せてるだけか。気持ち悪いな」

業者はその人形を回収し、工場へと戻ると無造作にその人形をプレス機に投げ込んだ。粉々になった金属達の中で確かな命だった肉片がわずかな間蠢いていた。

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