EP8:気づいてよ、先輩
タイピングの音って、案外、性格が出る。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「山下さんの打鍵音、ちょっと気になりませんか?」
お昼休み。
デスクで済ませるコンビニのおにぎりを片手に、声を潜めてそう言うと、先輩はふっと笑みを浮かべた。
「ああ、たまにな。カタカタっていうか、たまにドカドカだよな」
「ですよね。なんかこう、文字と戦ってる感があるというか」
「分かる分かる。ゲーセンの格ゲーみたいな感じっつうか」
先輩はそう言って、喉の奥で小さく笑った。
その表情は、いつもの真面目な顔つきとは少し違っていて、くしゃっと崩れた笑顔が、どこか愛らしい。
夜に飲んでる時もそうだけど、社内でこうしてふたり、ひそひそと笑い合う時間も――
私は、けっこう好きだったりする。
「けど、山下さんは成績優秀だからな。しかも日中はほとんど外回りだし、みんな、なかなか言い出せないんだろ」
「ほんと。もし先輩だったら、ビシッと言ってやるとこなんですけど。営業成績が優秀なのに、謙虚な打鍵音で助かってます」
「……打つのが遅くて悪かったな。って……まあ、どうしても気になるなら、また俺から言っとくけど?」
「いえ、大丈夫です。そこまでじゃないので。ありがとうございます」
こういうところが、先輩らしい。
四月に配属されたばかりの頃は、必要最低限のことしか喋らないし、恐い人かと思ったけど──
今となっては、あの頃の距離感すら懐かしく感じる。
ちなみに。
先輩の打鍵音は、静かでリズムもきれいだ。
聞いているだけで、「あ、今はメールだな」とか「たぶんExcelかな」なんて、なんとなくわかる。
もちろん、そんなふうに観察しているなんて、本人はきっと気づいてない。
もし知られたら、ちょっと気持ち悪いって思われちゃうかも……なんて思わなくもないけど。
でも、気づいたのは偶然だから。偶然。
──そのとき。
無意識に髪に触れている自分に気づき、慌てて手を下ろした。
「そういやお前って、癖ないよな」
その一言に、手に持っていたおにぎりがピタリと止まる。
「俺、無意識の癖とか、ちょっと気になる方なんだけどさ」
「……そうなんですね」
「お前って、仕事中は姿勢も話し方もきれいだし、飲んでる時だって──」
ふと、言葉を切る。
少しだけ真剣な目つきになった先輩が、じっとこちらを見てきた。
「……なんか、癖あったっけ?」
──やっぱり。
この人、気づいてないんだ。
たとえば、一緒に飲んでるとき。
先輩が、グラスの縁を指でなぞっているときとか。
酔いが少しだけまわると、笑うタイミングがほんのすこしだけ早くなるところとか。
私は、そういう細かいとこ、よく見てるのに。
「……たぶん、ないですね」
「だよな」
そうやって、あっさりと笑う先輩に、私もつられて笑ってしまったけれど。
本当は、あるんです。私にも。
自分でも気づいてる。
先輩のことを、ちょっと特別に思ってしまう瞬間──
たとえば、会社で女子社員と楽しそうに話しているときとか。
ふたりで飲んでいる時に、ふと距離が近づいたとき。
私は、右手で髪をさわる癖がある。
そんな癖が自分にあるなんて──気づいたときは、ちょっとだけ驚いたものだ。
……でも、それを先輩に言ったところで、たぶん「へえ」で終わっちゃうんだろうな。
そんなことを考えていると、ふいに、先輩が伸びをする。
私は、また髪に手を伸ばしかけ──その直後、ハッとなって、そっと手を引っ込めた。
……気づいてよ、先輩。
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