EP5:その傘、入れてください


 場所は梅田。

 駅前の大通りにはネオンが瞬き、人の波は夜になっても途切れない。

 そんな雑踏のなか、いつも通り仕事帰りにふたりで飲んで、店を出た瞬間だった。


 パラパラと降り出した雨に、思わず足を止める。


「……雨かよ」


 ビル街の足元を濡らす水たまりに、街灯の光が揺れている。

 天気予報では何も言っていなかったはずだ。

 仕方なく、カバンから折りたたみ傘を取り出す。


 と、悩ましげな顔を向けてくる久遠ひさとおに気づいた。


「……先輩、傘忘れちゃいました」


「いつも用意周到なお前にしちゃ珍しいな」


「朝は持って来てたんですけど、夕方からは雨が降らないっていう予報だったので。会社に置いてきちゃったんですよ」


「なるほどな。ほら、これ使えよ」


「え? 先輩は?」


「小雨だし、俺は走るからいい」


「ダメですよっ。もし先輩が風邪を引いたら、結局私が看病するハメになるんですから」


「お前なぁ、そこは“看病します”でいいだろう?」


 そこでふと思いつく。

 のぞき込むように久遠の顔を見る。


「……とかなんとか言って、まさか。お前、それを口実にウチへ上がり込みたいだけなんじゃないのか?」


「……あ、バレました? って、そんなわけないじゃないですか!? 誰が病人を看病しながら一杯ひっかけるんです」


 ──こいつならやりかねない気がする。いや、さすがにそれはないか。

 逆に過剰なまでに看病されそうで怖い。


「まあそれはともかくとして。せっかく今いい感じでほろ酔いなんですし、ここは素直に相合傘しましょうよぉ」


「どんな理屈だよ」


 ツッコミを入れつつも、迷っていた。

 その間にも、街のざわめきに紛れて雨脚はじわじわと強まっていく。

 ビルの壁を叩く雨音が、さっきよりはっきりと耳に届く。


 くそ、ここまで強いともう走るのは無理だ。

 地下に降りるにも、コンビニに逃げ込むにも微妙に距離がある。


 どちらかがずぶ濡れで電車に乗ることになるのは確実。

 だったら、同じ傘に入って少し肩が濡れるくらいは仕方ない。

 久遠が濡れないようにしてやればいいだけの話だ。


 ──残る問題は、この状況で直属の後輩と相合傘なんて、どこで誰に見られているかわからないってことか。


「……とはいえ。まあ、さすがにこの雨じゃ仕方ないよな」


 そう腹を括った俺に、久遠がじとっとした目を向けてくる。


「どれだけ私との相合傘が嫌なんですか先輩は。さすがの私でも傷つくんですけど?」


「違うんだ。迷ってたのはそういう意味じゃなくてだな」


「冗談ですよ。じゃあ、覚悟は決めましたね?」


 にこっと笑った久遠が、俺の胸にぴたっと身体を寄せてくる。

 そのまま両腕で、俺の腕をがっちりホールド?!


「おいおいおいおい!? ちょ、ちょっと待て! って、お前……当たって……!」


「だって、これくらい密着しないと、どっちかが濡れちゃいますし。仕方ないじゃないですか」


「いや、仕方なくはないだろっ……」


 たしかにこれなら肩も濡れない。

 だけど、柔らかい感触やら至近距離の顔やら……酔いも手伝って心拍数の上がりがハンパない。


 じわじわと顔が熱くなる──自分でもわかる。


「じゃあ先輩、行きますよ!」


「クソ……もうヤケクソだ……」


 心の準備が追いつかないまま、久遠の体温をすぐ隣に感じながら踏み出す。

 ほのかに甘い香りまでふわりと漂ってきて、こんなのが続いたら冷静でいられる自信がまったくなかった。


 ──はずが。


 軒下から一歩出たその瞬間、ピタリと雨が止んだ。


「……は?」


「え?」


 俺も久遠も、ぽかんと空を見上げる。

 さっきまで厚く垂れ込めていた雲が切れ、わずかに月が顔を覗かせている。

 雨に濡れたアスファルトが、夜の街の灯りをきらきらと映していた。


「……おいおい、ウソだろ」


「え、でも、ついさっきまで本気で降ってましたよね!?」


 タイミング悪すぎだろこれ。いや、逆か?


 呆然としていると、背後から聞き慣れた声。


「おっ、永瀬ちゃんやないか!」


 振り返ると、会社の先輩・今橋さんが傘を差して歩いてくる。

 夜風がビルの隙間を抜け、彼の傘を軽く揺らした。


 ──ヤバい。


 そう思った時、すでに久遠はスッ……と俺から一歩分、きれいに距離を取っていた。

 そして、何事もなかったように涼しい顔で一礼している。なんて出来る後輩なんだお前は。


「こんばんは、今橋さん。お疲れさまです」


「ああ、お疲れ。……ってお前らも飲んでたんか。……それにしても永瀬ちゃん、珍しく顔真っ赤にして、酔っぱらっとるんかいな?」


 ぐいっと俺の顔を覗き込んでくる今橋さん。


「えっ、あ、いや……これは、別に……」


 もちろん、そこまで酔ってなどいない。

 赤くなってるのは、さっきまで久遠こいつに抱きつかれてたせいだ。


 ──そんなこと、言えるわけもないが。


「まあええわ。ほな、また月曜な」


 何も気づかないまま、今橋さんはそのまま去っていく。


 と、背後を見ると、にやにやと笑う久遠。


「なんだよ?」


「先輩ってば、珍しく顔なんて赤くしちゃって。……もしかして、何かありました?」


「……お前なぁ」


 呆れながらも、ふと気づく。

 久遠の耳の先が、わずかに赤い。


 ──まさかこいつ、顔を見られないよう今橋さんに礼をしてたんじゃないだろうな?!


 でもそれを指摘したら、どうせこっちがやりこめられるのは目に見えてる。


 加えて、また次に同じようなシチュエーションになったら、今度こそ俺の心臓がもちそうにない。……いろんな意味で。




 ……とまあ、そんなわけで。


 それ以降、俺が鞄に折りたたみ傘を二本忍ばせているというのは、ちょっとした秘密だ。

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