九、楽観主義者が最後に笑う
大学を卒業して三ヶ月。なんとか明はロッキン・パンダでの仕事を続けていた。おとといの夜は、佐伯と有名漫画家との対談の立会いと、写真撮影。昨日の昼は、フリーペーパーに載せるコラムの作成。そして今は、会社の近くの喫茶店で百二十ページのカタログを十二ページのパンフレットにする作業の真っ最中だ。
稲森は結局内定を辞退して、実家に帰ってしまった。
「本当にやりたい仕事なんて、なかったんだ。だから、大事な家族の元に戻るよ」
卒業式の打ち上げのときにつぶやいた彼の言葉が、印象的だった。一番に内定が出ていたというのに、結局実家に戻ることが決まり、沢村先生は非常に驚いていた。
松木は、結局秋採用を全部蹴った。就職をしない進路を取ったのだ。大学院に進むわけでもなく、他大学で新たに勉強するわけでもない。今度は彼が世界一周をしたいと言っている。そのため、アルバイトをしながら費用を貯める毎日だ。最近会える時間は少ないが、先日はこんなことを喋っていた。
「やりたいことを先延ばしにはしないさ。気づかない振りして、年をとっていくのだけは嫌なんでね」
どこかで聞いたことのある台詞だったが、忘れた。
さてと……と、明はカタログに目を通す。確か自動車とそれを取り巻く環境についての話をメインにすると言っていたな、などと思いを巡らす。カタログをパンフレットにする作業は、読み込むだけでも難儀だ。百二十ページ。薄い本一冊程度になるだろうか? もちろんそれだけではなく、過去のCMなども見ないと会社の言いたい本質というのは見えてこない。パンフレットにする作業だけでもかなりの労力を有することは、きっとどの仕事でも一緒なのだろうけども。
はぁ、とため息をつくと、アイスコーヒーを口にする。一杯で粘るなんて、最悪の客だ。だが、やはり明石の言う通り、この会社は『福利厚生ちゃんとしていない』のである。給料なんて、仕事量に比べたら微々たるもの。これだったら大手代理店に行ったほうが正解だったと後からわかった。ーーと言っても、学歴足切りで面接まで漕ぎ着く場所なんてあまりなかっただろうが。
カタログから気になるワードを拾って、片っ端から仕事用のスマホで検索する。自分の普段の生活ととっつきにくい業種だと、出てくる用語すらわからないのだ。サステナブルだとか最近のカタカナ言葉はわかるのだが、ベアリングってなんだよ。心の中で愚痴る。ベアリングという言葉が何であろうと、ロッキン・パンダに勤めている限り、言葉からは逃れられない。
ああだこうだと視線を紙面で踊らせていると、仕事用のスマホがメッセージを受信した。なんだ? サムネをフリックすると、佐伯からだ。
『悪い! 俺が行く予定だった撮影、急遽代役で顔出し行ってくれ! ギター持って歩いてたら職質されて間に合わねー! 現場はお前のいる場所から近いから!』
ーーおい。社長が職質って、大丈夫か? この会社。警察もギターを持っているだけで職質はひどいとは言え……いやまぁあの人、怪しいと言えば怪しいか。一応テレビにも出るほどの著名人なんだが、テレビがオールドメディアと言われてもうだいぶ経つ。知らない人もいて当然だ。ましてや警察官は多忙だ。テレビなど見ないで、佐伯さんを知らない人だっているだろう。いくらSNSが発達しても、知らないことはいくらでもある。それは自分だってわかっている。この仕事に就いて、世の中知らないことのほうが多いのだと痛感しているところでもある。普通に生きていたら専門的な『ベアリング』なんて言葉にも無縁だったからな。
人生は日々勉強だと、誰が言ったのだろうか? 確かにその通りだ。自分がなりたかったのはコピーライターだったが、このコピーライターという職、意外と深い。佐伯に憧れたのは失敗だったか? ……いや、そうとも言い切れないだろう。何故なら今、『死ぬほど忙しいけど、結構楽しい』と思ってしまっているからだ。自分も重症だーー。
佐伯は自分のことを『台風の目のような人間』と言った。しかし、実際の自分はまだそんなものになんかなれていなくて。まだまだひよっこだからか、振り回されている周りの風のような存在なのではないかと思ってしまう。結局今のところ、まだ佐伯のほうが台風の目と言ったところではないかとすら思ってしまう。でもよく考えてみたら、台風の目の周りって、風も雨もないな? 平和ってことじゃないか?
「平和かぁ〜?」
ひとり伸びをしたら、つぶやきが出てしまった。おっと、危ない。喫茶店でこんな独り言を言っていたら不審者でこちらまで職質されるかもしれない。なんで広告業界の人間は、警察から胡散臭い扱いされやすいのかは永遠の謎ではあるけども。まぁ汚い金でも握ってるんだろうな。ロッキン・パンダは金に無縁とも言えるから、ある意味その点では平気だと思っていたんだがな。
とりあえず、スマホで指定された撮影場所を検索する。確かにこの場所からだったら徒歩で数分と言ったところだろう。佐伯がいなかったら、自分が行くしかない。またまた余計な仕事を増やされた。あとで明石さんに告げ口するか。職質は不可抗力とは言え、なんで撮影にギターを持っていこうとしていたんだよ。今日の案件は、確かオレンジジュースのポスター撮影じゃなかったっけ? ギターどこで使う予定だったんだ。そこがわからないと引き継ぎも何もない。
……まぁいいか。自分は自分のやり方もあることだし。そう切り替えると、明は喫茶店の席を立った。
撮影場所に行く前に、スーパーへ立ち寄る。ケータリングの品を買うためだ。確かポスター撮影の被写体はアイドルだっただろうか? こういうアイドルたちは、高級なものばっかり食っているという話は伝わってきている。協賛企業、スポンサーの見栄の張り合いのいいカモになるのだ。大抵、協賛企業やスポンサーは、高級で有名な菓子や軽食などを好んで持ち寄る。もちろんその事自体に文句はない。ただ、『ロッキン・パンダの趣旨に合っていない』ことだ。佐伯とこういうところは気が合うなとは思っている。そういった点で、ある意味広告代理店のように華やかでも高給取りでもないが、明の就活は成功だったと言えよう。高級菓子ばっかりだったら、芸能人だって気が抜けなくて疲れるだろうが。リラックスさせて、いい表情を撮らせるのがポスター撮影の醍醐味だ。
明はスーパーの惣菜売り場に行くと、とりあえず焼き鳥をかごに入れた。撮影場所にレンジはあっただろうか? いいや、なかったら自分の夜食にする。どうせ会社に帰ったところで徹夜決定の寝袋行きだろうし。どうせならカツサンドにしておくか? などと思案するが、カツサンドはケータリングで出されやすいものだからな。それを考えると意表を突いて焼き鳥だろう。
あとは菓子か。そう言えば、会社に入る前にチョコのキャッチコピーを書いたな……などと思い出す。落とされた会社だったが、今だといい思い出だ。ネットが発達した現代だが、アナログというか足で情報を得るという必要性もあるということに気づけた。自分はSNSを通じてこのロッキン・パンダに拾われた。だけども自分はSNSと足を両方使って就活を勝ち抜いたーー勝ち抜いたか? と疑問にもなる。いい会社に行って、金をたくさん稼ぐことが人生の目標だなんて、少々味気ない。それが自分にはわかっていたのか? わかっていたとしたら、なんてラッキーなやつだろう。明は軽く笑みをこぼした。
そんなことはともかく今日の菓子だが……どうしたものだろうか? ポスター撮影で広告塔になる人間の広告競合を調べなくては、などというのはどうでもいい。競合だろうがなんだろうが、『うまいもんはうまい』んだから、自分の感覚を信じよう。これだからロッキン・パンダは同業から疎まれるんだろうな。
明はスーパーのかごの中に、飲み物数本と自分がおいしいと思う菓子を入れる。これが他業種だったら話題になっているだとか、被写体芸能人の好みに合わせるのだろうが……どうなのだろうか。被写体芸能人は気を使って欲しいものだろうか? 甘やかされるだけ甘やかされて、世間一般の感覚とズレてしまう恐怖は感じないのだろうか。明は考えた。『ーーどちらも必要だ』。姿を撮影させてもらうのだから、ある程度相手に気を使うことは当然だ。気分を上げるために相手の好みに合わせることも必要だし、世間知らずにならないように……と思うのは少し欺瞞かもしれないが、こちらの好みの菓子を差し入れることで相手への要望も伝えやすくなるのではないだろうか。かといって、深読みされても困るので、『美味しいものやいいものを勧める』。それでいいじゃないか。
撮影のときは忙しいし、なにもケータリングを食べるのは被写体になる芸能人だけではない。その場にいるスタッフなら食べていいものがいい。ポッキーは食べやすいな。プリッツやポテチは塩味が効いていておいしいのだが、手が汚れてしまう。カメラマンが食べられないという欠点がある。まぁ、グミはありだが、砂糖がたくさんまぶしてあるのはなしだ。そう言えば、被写体のアイドルは栄養関係の資格を取ったと言っていたな。だとしたら、健康志向のものがいいのか。
うーむ、とあごに手を当てる。菓子コーナーでこんなに悩む成人男性がいるだろうか? 個人的にサラダせんべいはおいしいなと思う。袋から出さなければ手に触れないから、カメラマンでも食べられるし。塩味が効いていておいしいものは、それでクリアにするか。栄養士関係のお菓子という難題は難しいな。 急いでスマホで栄養士関係の資格について調べるが、一体何がいいのかはわからない。野菜チップスなどは栄養面ではいいのだが、手が汚れる問題がある。かと言って、栄養補助のお菓子を出すのは「栄養士関係の資格保持者」には逆に失礼に当たるだろう。
「お、いいこと考えた」
明は、スーパーのキッチン用品コーナーに行くと、ビニールの袋の箱を手にした。ビニール手袋はないだろうから、袋で代用だ。これがあるだけでだいぶ違う。このビニール袋を使えば、手を汚さずに手を使わないと食べられないおやつが食べられる。その足でもう一度菓子コーナーに戻ると、ポップコーンを手にした。確かポップコーンには食物繊維が入っていると聞いた。母からの受け売りだ。
旅行から帰ってきた明子は、日本に帰ってきたかと思ったら、今度は映画館に入り浸っている様子だった。朝早くから最寄りの映画館へ行っては、やれモーニングショーだのファーストデーだので忙しそうだ。まぁ、旅から帰ってきても元気なことはいいのだが。
父は相変わらず仕事に精を出しているし、シロも元気だ。休日は一緒に散歩している。気楽なサラリーマンなんて昔は言われていたが、実際の現場の仕事は過酷だ。自分は薄給で、正社員かどうかもわからないとかいうとんでもないブラック職場で働いているが、どの仕事も共通に『楽なものはない』のだろう。松木のように、新卒カードを蹴って旅行に行くというのもありだったのだろう。だけど、自分の選んだ道はこの道のない山なのだ。本来ならば誰もが「わざわざそんな苦難な、道を作るような真似をすることはないんじゃないか?」と言うのかもしれない。それでも選んでしまったものは仕方がないじゃないか。自分は社会をうまく渡れるくらいに器用な人間じゃないのだから。
「さてと。これと……あと、最後にアレだ」
かごの中の焼き鳥、ポッキーとグミ、サラダせんべいとポップコーン、そしてビニール袋の箱に最後の仲間。明が選んだのは塩飴とチョコレートだった。塩飴は何気なく選んだものだったが、撮影場所は照明をたくさん使って暑いのだ。暑さで熱中症になってしまってはいけない。スタッフの健康にも留意するのは当然だろう。たとえスタッフも演者も食べないようなものだろうが、置いてあるだけで違うのだ。
そしてチョコレート。これはただの明の好物だった。自分のためのものがひとつくらいあってもいいだろう? 小学生だっておやつは三百円までOKだ。佐伯さんの代理なんだから、このくらい経費で落としても問題ないはずだ。
買い物が済むと、明は撮影場所へと向かった。
撮影場所は、都内のビルの一室。ロケと違う。エントランスでインターフォンを押すと、スタッフにロッキン・パンダの人間だと告げ、開けてもらった。撮影状況は良好。場もいい感じに和んでいた。適当に挨拶すると、カメラマンの助手の女性に飲み物と菓子を渡す。
「あの……これ、佐伯さんから。水分摂取と塩分補給は忘れないように気をつけてください。あと、ポップコーンで手が汚れるんで、ビニール袋入れておきました」
「そこまでお気遣いしなくていいんですよ、新人さんですか?」
「いやぁ、まぁ……使いっ走りです」
「同じですね。私もです」
「では……僕は顔出し代理だったので」
「ちょっと待ってください! あの、皆さん、ロッキン・パンダの方です!」
女性が声を上げると、スタッフの方々が挨拶に来る。ああ、面倒くさい……。これだから佐伯さんの代役は嫌なんだ! と明は内心思った。本来ならば、新卒入社三ヶ月の自分が挨拶に回らなくてはいけないはずなのに、何故か上座扱いなのは気が重い。佐伯はやたら顔が広いため、色んな人間から挨拶されるのだ。広告業界では嫌われているというのに、こういう上辺だけのコミュニケーションはきちんとこなされる。無視されるよりは断然いいことなのではあるが。彼らもまた、社会常識をわきまえた一般のサラリー・ヒューマンなのである。
スーツの人はもちろんだが、こういう業界だと私服のスタッフが多い。ましてや夏だ。Tシャツの人もいる。何人かと名刺交換をする。Tシャツだけども名刺はきちんと持っているところはやっぱり日本だなと思ってしまう。日本以外でも名刺文化なんてあるのだろうか? ふと思ったが、今の目前の仕事とは関係がない。
「じゃ、私はこれで……」
「ロッキン・パンダの方、カメラマンの板村です」
大勢の場所はやっぱりなれないので立ち去ろうとしたところ、カメラマンに捕まってしまう。名刺交換をすると、ひと仕事頼まれてしまった。
「ちょっと手伝って! カメラテスト!」
「あ、はい」
関係者としてこの場にいるので拒否権はない。……厄介だが、しょうがない。これも仕事だ。だけど自分が撮影被写体になるなんて、聞いてはいないけどもな? 明は心の中でぶつくさ言ったが、これもチームワークというものか。いちばん苦手な言葉だ。
カメラの前に立つが、緊張する。異常なほどの真っ白な空間。観葉植物の緑が異様に映える、ポスター撮影にはうってつけな場所だ。壁も白ければ、反射板も白い。何人ものレフ板を持ったスタッフが、明を取り囲む。
「じゃ、撮りまーす! 三、二、一!」
カシャッ! と大きな音がする。就活のときのインスタント写真とは理由が違う。そもそも就活のときだってインスタントではなくきちんと写真館で撮る人も多いと言うのに、自分は。就活の際、インスタント写真だったから、今回まともに撮ってもらったとでも思えばプラマイゼロだろうか? そんなことを思っているうちに、カメラマンは助手の女性に声をかける。
「寺田、どう思う?」
「暗い気がします」
「そう、ちょっと調節して」
「はい」
カメラマンが、先程の助手ーー寺田に指示を出す。助手と言っても、年上のカメラマンと同等に意見を言っていて、女性ながらすごいと思った。寺田に比べて自分は佐伯の尻拭いばかりやってるような……? こういうことを諌めるのは、今のところ明石の役目だ。
寺田はカメラマンの足元の機材のツマミを操作する。フラッシュの強さを調整しているらしい。カメラのことには詳しくないし、現場経験もあまりない明だが、たった一枚のポスターの材料を撮影するだけでも、かなりの労力が注ぎ込まれることはわかった。
「もう一枚撮らせてください!」
「あっはい」
『あっはい』しか言っていないなと明は自分に呆れた。佐伯はともかく自分はカメラに関しては門外漢だ。だけども仕事が増えるにつれ、これも覚えなきゃいけないのかもしれないな、などと、今後の仕事の負担を考える。佐伯が言ったのは『なんでもこなす便利屋』だ。そのうちカメラもやらされるだろう。もっと社員を増やせばいいのでは……? 来年もSNSで募集するなら、募集人員を増やすように佐伯に口添えしよう。助手の寺田さんがカメラマンに対等に意見できていたんだから、自分も佐伯に少しくらい文句を言っても問題ないだろう。その点は明石が頑張っているほうであることは変わらないだろうし。
でも、多分問題は給料だろうな、など明は思った。こんな多数の仕事をやらされるブラック職場に就職しようというもの好きは、正直言って稀なのである。
自分はなぜ、『ロッキン・パンダ』に入社したのだろう? 佐伯への憧れ? コピーライターという夢? 憧れは目標に変わるというのだが……入社してからは佐伯を目標にしたいとあまり思っていない自分がいる。コピーライターという夢も、便利屋とはいいつつ叶ってしまった。今の自分には夢も目標もない? 日々の作業に忙殺されている? 明は少し思案の表情を浮かべたが、その瞬間「もう一枚いいですか!」と声をかけられた。
カメラテストが終わると、明はケータリング置き場からチョコを数粒もらい、寺田にこそっと「今日はこれで失礼します」と告げる。すると、「あとは任せてください!」と力強い言葉が返ってきた。よろしく言うと、早々と退散する。ーーなんだかんだみんな頑張っているとは言え、やはり撮影現場は苦手だ。対人コミュニケーションというのは、いくつになっても自分の課題かもしれないと痛感した。
『撮影行ってきました。差し入れは焼き鳥、ポッキー、グミ、サラダせんべい、ポップコーン、チョコと塩飴です。そちらは職質終わりましたか?』
現場の報連相は大切だ。撮影に顔を出したことを佐伯に報告すると、割とすぐに返信が来た。
『了解! 俺は会社に戻るから。いやぁ、つぶやきで就活なんてするべきじゃなかったのな? さっきの職質、SNSの闇バイトについての検挙方法の相談だったわー。そんなん最初からおとりでも紛れ込ませとけよ、何してんだって説教しといた! ま、俺はおとりになっていたわけだけどな!』
「え?」
佐伯の言葉にびっくりする。これって、闇バイトか……? 一瞬「ハマったか?」と思ったが、佐伯はそのあともっと驚くべきことを言っていたな。『俺はおとりになっていた』って……。どういう意味だ? 深く考えちゃダメだろうか。明は道端でまた「うーん」と唸り声を上げる。言葉の裏を考えたらきりがない。世の中知らなくてもいいことだってある。そのほうが平和だったりもする。母親と佐伯が知らないところでつながっていたらしいとか、そういうことは自分にとって知っていても知らなくてもいいことだ。
SNSとか、SNSがない時代にはそれ以外のいわゆるコネというものだったろうけども、明はそういうものがない人間だ。だからこそ、しがらみなく活動できている節もあるということに、明自身も薄々気付いてはいた。
さて、カタログからのパンフレット制作を再開するか。明はまた喫茶店に入る。本当は喫茶店で仕事をすることは内部情報流出だとかコンプライアンスの観点からよくないことなのだが、佐伯曰く「わざと外でやれ」ということだった。広告は「広く宣伝すること」だ。広告に携わっている人間が真面目に仕事に取り組んでいるさまを知らない人たちに見てもらい、それを口コミにするという寸法だから、本当にタチが悪い。だが、その点にも明は同調していた。広告は、キャッチコピーは、引きこもっていたら書けないものだから。
喫茶店に入ると、今度はブレンドを頼んだ。アイスコーヒーのよいところは、一杯で粘れるところだ。氷が溶けることで、水かさが増す。そんな裏技を考えるほどのドケチな自分に気がついて笑ったが、今度は温かいコーヒーだ。温かいコーヒーは猫舌で冷めるのを待たないと飲めないのだが、これもまた、長居する理由になる。やはり自分はドケチだ。また気づいてひとりにやりと笑う。
コーヒーがテーブルに届く前に、先程のカタログとノートを取り出し、まずはパンフレットの構成をざっくりと決める。それができたら、蛍光ペンで印をつけたワードにちなんだ表題案を考えていく。表題案というと難しいかもしれないが、これもある意味キャッチコピーと同じ役割を担っている。パンフレット内の文章というのは、ボディーコピーに当たるだろう。ボディーコピーに当たる文章を考えるのは、カタログの内容や会社の動画などを見た上で決めなくてはならないだろう。カタログのどの辺をパンフレットにまとめるかは大まかに決めてあるから、まずは表題。つまりキャッチコピーだ。
便利屋といいつつ、結局ちゃっかりコピーライターになれてるじゃん、俺。
明はそんなことを考えながら、ボールペンをノックする。感傷に浸っている場合じゃないほど、自分はともかく遮二無二走り出さなくてはいけないのだ。……ああ、面倒くさい。面倒くさいけど、最高に楽しい。人間関係やコミュニケーションやチームワークとか大変で苦手なものもある。だけども今は、結局叶えてしまった夢だ。自分で切り開いた道だ。
憧れは今や憧れではないし、夢も叶ったと言える。だけどもその先自分が敷いていくレールや、自分のあるべき姿、理想はまだまだ思い浮かべていかなくてはいけないのだろう。あるミュージシャンは「想像してごらん」と言った。就活が終わった今、自分はどんな自分になりたい? 難しい『自分への問いかけ』だ。毎日仕事に忙殺されることは楽だし、楽しみを見つけてそれを糧に進んでいくことは容易いだろう。だけどもそれでいいのか? 自分の新たな目標、理想の自分……。
ふと、会社用のスマホを見る。今は画面に触れていないので、真っ黒で自分の冴えない姿が映るだけだ。いっそのこと、イメチェンでもしてみるか? パーマにしてみるとか? そんなことを考えられる自分は、案外楽観的だな、なんて笑ってしまう。
コーヒーが運ばれてきたタイミングで、テーブルに置いていた携帯が騒がしく震える。急いで外へ移動して通話ボタンを押すと、電話の相手はまた佐伯だった。
「お疲れ様です。今、パンフやってますよ。ちょうどコーヒーが来たときで――えっ? それって、佐伯さんの仕事ですよね? 明石さんにばれたら、シャレになりませんって。あ、ちょ、ちょっと!」
切れた。さっきの代理を頼むメッセージとは違い、電話で直接ということは、『逆にオフレコ』ということかもしれない。またまた面倒くさいことになった。佐伯は面白いこと大好き人間だ。それはいい。いいのだが、たまに仕事中に私事までやりだしてしまう、厄介な人だ。今も、趣味でやっているバンドの詞がなかなか浮かばないから、自分のものだったはずの仕事を明に押しつけたところだ。
電話を閉じ、眉間を押さえてから、自分のノートの一番後ろのページを開く。
なんで面白いことが大好きなやつは、問題ごとも多く運んでくるのだろう。しかも本人は無自覚だし、全てのものごとを楽観的に考えている。そうして、周りに苦労させるのに、最後に笑っているのは当人だ。
くそう、こうなったら自分もなってやる。楽観主義者ってやつに。さっき、新たな目標だの自分の理想だのと難しいことを考えていたときにふと思いついたイメチェンのこと。あんなシリアスなことで悩んでいたのにも関わらず、思いついたことは『パーマにしてみようか?』とかいう適当この上ないアイデアだった。難しい、哲学的なことを考えることもときには必要だとは思う。だけども、そんなことばかりを考えていたら憂鬱になってしまうだろう。そんな場面でどうでもいい気楽なひとことがあるだけで、人というのは救われるし、笑顔になれるものなのだ。一息いれることの重要性。難しい場面でも、気楽でいられる心持ち。心の余裕とでも言うのだろうか? 将来の理想ーーとまでは行くかはわからないが、もっと心にゆとりを持って、のんびりと生きられたらそれはそれで最高なのではないだろうか。楽観主義というのは、忙しない毎日ほど必要なものなのかもしれない。のんびりと、余裕とゆとりを持って。そんな憧れを持ったら、きっとそれだけで自分の見る世界は広がるだろう。ここ一番、ギスギスしたところで清涼感を出せるような人間は、最高の楽観主義者だ。
明はノートに走り書きした。
『楽観主義者が最後に笑う』
楽観主義者が最後に笑う 浅野エミイ @e31_asano
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