五、コピーライティング・ウォークラリー

 法哲学ゼミの教室をのぞくと、松木がいた。彼もスーツ姿だ。うずくまって、何か書いている。それがエントリーシートだと、すぐに察しがついた。

「よう、お前も今日、何かあるの?」

 驚かせないように、ノックしてから教室に入ると、松木はげっそりした顔を上げた。ふくよかだった体型も、少し痩せたように見える。

「ゼミ終わったら説明会。これはあさってしめきりのエントリーシート。明もか?」

「まあな」

 隣の席に座ると、松木は机に突っ伏した。

「選り好みしてる場合じゃないのに、なんでだろう。もうやる前からダメな気がするんだ。いい会社じゃなくても就職しないと、って思うと、それがプレッシャーになる」

 トクナビから来る企業からのスカウトメールは、大手の企業からではなく、名前も知らない会社が多い。それが、悪いと言うわけではないし、知らないだけで、国民の生活を支える立派な会社なのかもしれないということも理解しているが、最初から他の企業にチャレンジすることさえもできないように思えてしまう。大学フィルターからなのだろうか、断言はできないし、知るすべはないが、待っているだけでは何も解決しない。かといって、「就職する」ことだけが目標だと、モチベーションを維持できない。就活が成功しました。来年から○○会社で働きます。それで完結できないのが人間だ。やりがいは、入社してから見つけていけばいいと就職課の人は言う。それは、大学の就職率を上げたいだけの言葉としか受け取れない。入社したあと、やりがいが見つからず、挫折していった人間はどれほどいるのだろうか。

『入社できた人間は、落ちた人間のことを考えろ』。確かに、自分が入ったなら、落ちた人間がいるのは当然だ。しかし、そう言うなら、受験で受かった大学生は、他の受験に失敗した学生の分まで青春を犠牲にして勉強しなければならないのか。無論、就職は学生時代の試験とは全く違う、一生を左右するものかもしれない。背負うものも、その重さも違う。けれども、一生落ちた人を背負って、いい仕事ができるのだろうか。いくら大手でも、入ってみて初めて「自分の考えと違う」、「こんなはずじゃなかった」と思っている若手はいるはずだ。長年勤めてきた人間からは、「違うと思うなら考えを改めろ」、「適応しろ」、「甘えだ」と切り捨てられるだろう。結局、冷たい言葉が苦手な若手社員の離職に繋がってしまう。

 下積みに耐えられず、辞めてしまう社員がいることは否めないが、それ以外の考えを持って、会社を辞める社員もいる世の中になってきたのではないだろうか。会社から給与やボーナスを与えられて、好きなものを買えるようになっても、昇進しても、それがモチベーションアップに繋がらない人間が増えてきているようにも見える。

 『就職は一生を左右する』。もしかしたら、この言葉は、人を洗脳する呪文のようなものなのかもしれない。就職で一生を左右されてしまうのなら、途中で道を外してしまった人間はどうなる? 敗者復活戦すら行なわれずに、一生を負け犬として終えろというのか。

「やってみて、初めて視野が広がることもある。やるだけやってみろよ。なんだかんだ言ったって、新卒で就活できるのは最初で最後だ。がちがちに不安がってちゃ、面白いことが見つからないだろ?」

「就活が面白いわけないだろ!」

 松木は叫んだ。

「お前、真剣に就活してるのか? こっちは毎日胃がきりきりしてる。不安で仕方ないんだ」

「だから、面白いことを探すんじゃないか」

 松木にネクタイを締め上げられた明は、その手を離しながら言った。自分だって、不安でしょうがない。自分の夢が、行く末がかかっている。だけど、恐がっていては、何も始めることはできない。どんなに頑張っても、一生懸命になっても、落ちるときは落ちるんだ。まだ自分はそこまで熱心に就活に打ち込んでいないかもしれない。でも、これだけは知った。「やるだけやってみる」と気合を入れると、なぜだか見方ががらっと変わった。

 エントリーシートやさっき注文した冊子を送りつけて、採用担当者はどう思うか。その反応が楽しみでしょうがない。ゴミ箱直行だろうが、それもまたひとつの反応。

 明は松木に、真面目な表情で言った。

「不安じゃない人間なんて、いるか? 就活を『面白い』と思うのは、一種の自己暗示かもしれない。でもな、これが案外効くんだよ。無理してポジティブに考えてるわけじゃない。けど、俺の場合はそうなんだ。笑っちゃうだろ?」

 最後に笑みを見せると、松木は呆れた顔をした。

「お前みたいに、楽観的な考え方ができるやつがうらやましいよ」

 ばかにされたような言い方でも、言われた本人はあっけらかんと笑みを浮かべたままだった。

 偶然ドアを開けた河野が、明と松木の姿を見て、少しだけ驚いている。

 ようやく、二人の就活が始まったのだ。



 ゼミが終わると、地元にある県民会館で説明会だ。二十分前に到着すると、入り口で自分の学校と名前を告げて小さな会議室へ入った。

 何回かに説明会を分けているせいか、座席は十二人分しか用意されていなかった。明は五番目に来た学生のようだった。前の四席が埋まっている。汗だくでリクルートスーツを着込んでいる男女は、緊張した面持ちで机の上に置かれていた会社案内やリーフレットを凝視していた。

 自分のすぐ後ろから来た女子学生が、隣の席に座ろうとした。机についていたキャスターがしっかり固定されていなかったらしく、カバンを上に置くと、床を滑った。イスに座ろうとした明も、机に手をついていたため、一緒にバランスを崩す。

「あ、すいません」

「大丈夫ですよ」

 女子学生は頭を軽く下げて、机を元の位置に戻す。それでもまだ床を滑るので、彼女は困惑していた。

「ここ、ストッパーになってるみたいですよ」

 明が教えると、「ありがとうございます」とほっとした表情で、足元のキャスターをしっかり固定した。

「何だか私、すごく緊張してて、焦ってました」

 ハンドタオルで軽く首を拭うと、彼女は笑った。

「はは、僕も緊張してますよ。お互い頑張りましょうね」

 特に内容ある話はしていない。ただ、自分よりおっちょこちょいそうな学生を見ることで、若干緊張を解くことができた。人を見下しているのだろうか。だとしたら、罪悪感がわいてくる。いや、このくらいいいだろう? 誰に言うでもなく、明は心の中で言い訳した。

 五分前になると、席は全て埋まった。会議室に入ってくる企業側の人間が数人、プロジェクターの確認をしていた。定刻になると、社員が前に出てきてマイクを持った。



「――と、言うわけで、弊社では内定式が終わったあと、研修旅行と題しまして、オーストラリアへ行っていただきます。畜産を理解していただくには、この旅行が手っ取りばやいので。今年入社した社員からも、この研修旅行は好評でした。また、夏にはバーベキュー大会、冬には温泉旅行など、イベントが盛りだくさんなのも、弊社の自慢ですね」

 説明してくれた部長は、ずいぶん若くて明を驚かせた。正直、胡散臭い。事業内容や、入社後の配属先は細かく説明を受けた。どうやら精肉部門、鮮魚部門、青果部門の三つに分かれ、うまくいけば二年で店長になれるという話だった。それが胡散臭いのだ。二年で店を任される。そんなにうまくいくものなのか? 自分にそれができるのかも不安だ。

 それに、やたら強調される海外旅行やイベント。これは無論強制参加なのだろう。旅行を楽しむ、というよりは、休日返上で会社の人間と関わらなくてはいけないイメージだ。 

 でも、よく言えば、アットホームな雰囲気で仕事ができるのかもしれない。悪い会社ではないかもしれないが、自分に合うかどうかはわからない。

質疑応答で、隣の女子学生が産休制度などについて質問をしていたが、どうもあまり制度自体が整っていないようだった。

 複雑な気持ちで五分間の休憩を挟み、筆記試験を受けた。この企業オリジナルの問題らしく、手書きのものをプリントアウトしていた。アナログすぎるのも気になった。算数、漢字、英単語をクリアすると、自己PR欄。これはやっぱり弁当屋のアルバイトのことを書いた。

 最後に見直しが終わると、退室することにした。もう、やり残すことはない。出口に解答用紙を持って「ありがとうございました」と一礼し、その場を離れると、明はネクタイ緩めた。試験が終われば、まだ学生でいられる。スーツなんて、脱いでしまえ。外は真夏の日差しがアスファルトを照りつけている。



「あ、お疲れ様」

 県民会館を出てしばらく歩いたところで、後ろから声をかけられた。さっきの女子学生だ。

「お疲れさま。どうでした?」

 なにげなくたずねると、女子学生が肩を並べた。彼女も上着を脱いでいる。汗が、頬を伝って首筋に流れた。

「自己PRはわかりませんけど、どうにか。あ、よかったら、お茶していきませんか? 他の大学の人の就活状態も気になるんで、教えてください!」

明自身、周りを気にしている余裕がなかったが、同じ会社を受けた学生だ。何か縁があるのかもしれない。汗を拭う彼女に、「いいですよ」と返した。



 彼女は、大塚桜子おおつか・さくらこと言った。和布蕪めかぶ大学法学部に在籍しているらしい。酒田の母校、若芽大と一、二を争う名門私立大の名を聞き、明は溜息をついた。そんな彼女が、なぜ地元のスーパーの説明会に来ているのだろう。

「大学名って、見る企業はきっちり見ますけど、見ないところは本当に見ないんですよね」

 大塚はアイスコーヒーを口に含んだ。

「大塚さん、和布蕪だったら、もっといい会社に入れるでしょ。いや、今日受けたヤマベスーパーが悪いってわけじゃないけど」

 明も自分のアイスティーを飲む。ガムシロップもミルクもなしのストレートだ。大塚は、視線をコーヒーの中の氷に落とした。

「私、不安だったんです。大学を卒業したら、就職する。当たり前のことが、すごく恐くて。『就活だけは失敗しちゃいけない!』って、大学二年から三・四年対象のセミナーにもぐりこんでたりして。今から考えると、ばかみたいなんですけどね」

「それくらいから準備してたなら、尚更じゃないですか?」

 ストローで氷を転がして呟くと、彼女の口から「そんな簡単にはいかないんです」と、消え入りそうな声が聞こえた。

「確かに、書類選考もSPIも問題ありませんでした。でも、最終面接で何回も落とされて。何が悪いか探しても、よくわからないんですよ。その前の面接が受かってるから。もう、全てが嫌になっちゃって。こうなったら、地元で就職しようかな、って思ったんです」

 もったいないな。明は思った。彼女の中では『もう七月』でも、明の中では『まだ七月』なのだ。就活で、最終面接で何回も落とされ、精神的にまいってしまったのは同情するが、それで就活全てをあきらめてしまうのは時期尚早ではないだろうか。しかし、口に出すことはしなかった。これは大塚の問題だ。

「でも、今日のヤマベスーパー、どう思いました?」

「どう、って……試験は受けたけど、正直俺には合わないかもしれないと思いました」

 アットホームな会社。それが心地いい人もいるだろうが、自分はそれに合わせることが果たしてできるだろうか。筆記試験を受けているとき、頭の隅でずっと考えていた。

トクナビ経由で説明会の申し込みをするとき、三百字で志望動機を書いた。「アルバイトで身につけた接客の経験が生かせそう、店内のレイアウトなども考えられる点が興味深い」。そのようなことを書いたと思う。実際説明会では、接客や店内レイアウトの話は二の次で、イベントと、二年で大きな肩書がつくことばかりがクローズアップされていた。

「大塚さんは?」と聞き返すと、彼女も眉毛を八の次にして、唸りながら氷を転がした。

「実は『楽しい就活サイト』っていうところで、色々調べたんですけど、どうも一族経営らしくて、社長もワンマンみたいですよ。今日の説明会も、なんだか悪い部分を見せないように、新卒を集めようとしているのが見て取れた、って感じで……」

 『楽しい就活サイト』は、稲森から教えてもらって見たことがあった。でも、結局、色んな学生からの企業の評価や、優れたエントリーシートや合格者の体験記が載せてあるだけだ。参考にはなるのだが、明は軽くのぞく程度に留めていた。

 体験だって、自分がしたわけじゃない。エントリーシートだって、自分で書いたわけじゃない。よく言えば、自分主体。悪く言えば、他人の意見に耳を貸さない頑固者。でも、それでもいいと思った。他人が体験したことのない就活を、自分はしてやろう。スタートは出遅れた。もうゴールにたどりついた者もいる。それだったら、ゴールの方向に進みつつ、楽しんで完走してやる。明の意地だった。

「ヤマベスーパー、悪い会社ではないと思うんですけど、学生から人気ないんだろうな、って思えちゃうんですよね。人気ある企業や業種には学生が殺到するのに。ここの会社、第一志望にしてる人って、いるのかな」

「それはわからないんじゃないの? 地元で就職したいって、大塚さんみたいな人が入るかもしれないし」

 大塚の目が鋭くなった。明はそれに気づかないふりをして、アイスティーをすすった。

「田口さんだって、制作会社が第一志望なんでしょ? それが全部落ちて、ヤマベさんだけ残ったら、行きます?」

 明は答えに迷った。その様子を見ると、大塚は「やっぱりね」と言いたげな顔をした。

「じゃあ、大塚さんはどうするの?」

 逆に質問すると、彼女は冷たく言い放った。

「採用する側だって、行く気のない人間を採りたくはないでしょう? 丁重に断るかもしれませんね……。でも、結局受かったところしかいけないんだから、断れないか」

 大塚は、再びストローに口をつけた。彼女の言葉から、明は本音を見出して、頭を垂れた。彼女の考えがわかる気がして、嫌だった。自分と合ってなさそうな会社でも、いずれはどこかの企業に勤めなくてはならない、背水の陣。今は、内定をもらうことさえ難しいのだから、企業を選ぶ余裕はない。

 本来、事前に仕入れた情報に重きをおいているのなら、説明会自体、出なくてもよかったのだ。彼女の発言は、企業側にとって失礼以外の何ものでもない。それでも、彼女を完全に否定できるほど、自分はまともではなかった。

 制作会社や他の企業のどこにも受からず、ヤマベスーパーだけ内定が出たら、その事実を受け止めよう。明は氷の穴にストローを刺し、思った。世の中きれい事だけじゃ、生きていけない。日和見だろうが、どこかに入りこまなくてはならないのだ。



「はじめまして。増崎美鈴です」

 自分も自己紹介をすると、軽く頭を下げ、座った。

 今日は、稲森の紹介で文学部の三年、増崎と就活談義をする予定になっていた。稲森が彼女にメールを送ったら、明に直接会って話を聞きたいとのことだった。どうやら彼女もコピーライター志望で、たびたびその話題をつぶやいていたらしい。本当はOB、OGを探していたらしいが、大学の就職課にたずねたら「個人情報保護のため、教えることはできません」と言われたらしい。それが事実かどうかはわからないが。

 カフェテリア入り口の自販機で買った冷たい缶コーヒーを渡すと、増崎は喜んだ。とはいえ、後輩の女子と何を話せばいいんだ。明は自分のコーヒーを飲むと、彼女が話を切り出すのを待った。話を聞きたいといわれても、自分が話せることなんて、ほとんどない。稲森は、女っ気のない明に後輩を紹介したつもりでいるようで、明自身もそれは正直嬉しかった。が、結局会っても何も話すことなんかない。緩く巻いた長い茶髪に、ロングのふわりとしたスカート、大きな黒い瞳の彼女は、どこか不思議な森に住んでいる妖精のようだ。

「あの、田口先輩は、どんな会社を受けてるんですか?」

 少し怯えた様子で上目遣い。腕組みをして強張った顔をしていた明は、彼女を恐がらせてしまったのではないかと焦った。

「俺は就活始めたのが遅かったから、SP会社と制作会社が一社ずつ、書類合格して、次に面接。もう一つの制作会社は次にクリエイティブ課題の提出。あと、広告以外は地元のスーパーが今度、面接。コピーライターになりたいけど、それがダメでもどこか就職しなきゃいけないからさ」

 自分で言って、意気消沈した。就活を始めるのが、もう一ヶ月早かったら。制作会社もあと数社受けることができた。欲をいうなら去年から始めていればよかった。それなら大手代理店だって受験することができたというのに。

 増崎は、目に見えてがっかりした態度を示した。顔は笑っているが、口元は引きつって、肩は落ちている。よっぽど期待はずれの先輩が来てしまったからだろう。

「あ、でも、高校卒業したあとにも制作会社受けたこともあるから、それを含めて話はできるかな」

 適当な言葉を並べて愛想笑いを浮かべると、彼女は府に落ちない点もあったようではあるが、気を取り直してくれた。

「増崎さんもコピーライター志望なんだよね? じゃあ、制作会社と代理店との違いとか、仕事内容はもう調べたの?」

「一通り、業界の本を読んだり、ネットで調べました。ただ、書類選考でどんな内容のがウケるのかなって知りたくて」

「俺もわかってないけどね」

 苦笑いを浮かべると、彼女は困った顔をした。ちょっと大人気ないことをしてしまったかな、と後悔すると、カバンから神奈川沖浪裏のクリアファイルを取り出した。

 中には、明がいくつかの会社に提出した、履歴書のコピー、小さな絵本のようなもの、先日作ったキャッチコピーの冊子と、手作りのオリジナル冊子が入っていた。

「履歴書はわかりますけど、他のは?」

 増崎は怪訝そうな顔をした。明はそれをテーブルに広げると、「どうぞ」と手にとって見ることを勧めた。

 増崎は、まず小さい絵本のようなものから手にした。どうやら色画用紙を切って、本にしているようだ。裏面に「送付状」と書かれている。

「え、これが送付状ですか?」

「うん」

 明はちょっと顔を赤らめた。めくると、二十代の男が書いたと思えないほどメルヘンな動物のイラストとともに、「ご指示いただきました通り、履歴書を同封いたしましたのでご確認くださいますようお願い申しあげます」と形式的な文章が色鉛筆で書かれていた。 二ページ目には、「その他、私が以前に制作しましたキャッチコピー集と自己PR冊子も同封させていただきます。よろしければぜひご覧下さい」と続いている。若干、押しつけがましく不気味だ。

 コーヒーを飲んでいる目の前の中背の男を見ると、目が合った。増崎は苦笑いして、手作り感満載の冊子に手を伸ばす。こちらはB5サイズのコピー紙でできている。表紙には何も書かれていない。ごくりとつばを飲み込み、開く。一ページ目から衝撃的だった。

『犬に襲われても常に冷静な男』

 謎のキャッチコピーの下に、左腕を包帯でぐるぐる巻きにしてガッツポーズを決めている目の前の男の写真が貼られている。

「あ、あの、なんですか、このイタイ……いえ、痛々しい写真とキャッチコピーは」

「ちょうど犬連れて散歩してたら、近所から脱走してきた犬に襲われてさ。保険関係で証拠があった方がいいって言うから、撮った写真なんだけど、ただ痛い思いしただけだともったいないじゃん? だから就活で使ってみようと思って」

 明の話を無視して、二ページ目をめくる。今度は文章だけだが、内容はぶっとんだものだった。

「なんで自己PRで『全身タイツ』とか『うんこ』って言葉が出てくるんですか? 理解できません! これじゃ、企業側が怒りますよ! 来年度のうちの学校の新卒枠に影響したらどうするんですか!」

 勢いこんでテーブルにコピー冊子を叩きつけ、立ち上がる。カフェテリアにいた生徒たちの視線が、二人に集中した。それに気がついた増崎は、顔を赤らめながら静かに着席した。

 後輩の女子に怒鳴られた明は、身を縮こまらせて謝った。

「すいません……、来年度のことまでは考えていませんでした」

 低姿勢な先輩を見て、赤ら顔の元・妖精は、余計鼻息を荒くした。

「何社に送ったんですか。大体、こんなふざけたもの受けつけてくれる企業なんてありませんよ!」

 甲高い声が響き、また注目が集まる。明は彼女とは反対に、小声で言った。

「SP会社と、制作二社、計三社です」

「三社も? もう来年からそこ、うちの学生は取らないんじゃないですか? なんて会社ですか」

「SPは『テビローク』、制作は『ピアニカクラフト』と『オルガンジョーズ』だけど、まだ来年のことはわからないんじゃ……」

 話し終える前に、また増崎がテーブルを叩いた。やはり、女、恐い。

「なんでそんなことが言えんのよ!」

 完全にキレて、敬語が吹っ飛ぶ。ストレートに投げつけられた問いに、明は消え入りそうな声で答えた。

「……三社とも、書類は受かったから」

 元・妖精が固まった。思考が停止したようだ。「あの」と声を出すと、はっとしたように目を見開いた。こほん、と咳払いをする。仕切り直ししたいらしい。明は彼女のノリに合わせることにした。女を怒らせたら何が起こるかわからない。

「この青い表紙のものはなんですか?」

 うるうるとした目で見つめられ、思いっきりカワイイ声でたずねられても、こちらは恐怖しか感じられない。「昔作ったコピー集だよ」と小さく言って、すぐに目線をそらせた。

 印刷屋できれいに仕上げられた冊子の一ページ目は、今までのもののように奇をてらったものではなく、普通に目次として、書いたコピーの商品名とページ番号が表示されていた。

 次ページからは、イメージ画像とキャッチコピー、商品名、媒体、企画内容が丁寧に書いてあった。最後まで目を通すと、増崎はほっと息をついた。まともな内容に安堵したようだ。

「ところで、『クリエイティブ課題』ってなんですか? 先輩、次はそれなんですよね」

 緊張のしすぎでのどが渇いた明は、不自然な甘さのコーヒーを全部飲み干してから、口を開いた。

「『ピアニカクラフト』で出された課題なんだけど、十円チョコとミスミホーム、車のヨンダのコピーを考えてこいって言われてるんだよ」

 コピーと言っても、どこまで書いていけばよいのか不安だった。キャッチコピーと企画内容、媒体だけでいいのか。それとも数が多い方がいいのか。ボディーコピーは必要なのか。全てを見て、企業は判断する。どこまで頑張っていいのかは、明の裁量に任せられていた。

 チャイムが鳴った。夏休み中だから関係はないが、いつもなら三時限目が始まる合図だ。しかし、それに驚いた顔をして、増崎が勢いこんで席を立った。

「あ、私、この後、友達と会う予定なんです! すいません。先輩、今日はありがとうございました!」

「うん、こっちも楽しかったよ」

 喉に張り付いた声を無理やりはがすのを待たずして、増崎はカフェテリアの外に出ていってしまった。



「お疲れー。どうだったよ、増崎は」

「女は恐いよ、やっぱ」

 帰宅すると、稲森が明の部屋でパソコンを開いていた。荷物を置いて、画面をのぞきこむと、SNSのサイトだった。マイページに今日あった出来事を書いている途中である。明は、それを見て焦った。

「おい、大丈夫なのか? 河野は。SNS経由でバレるんじゃないか?」

「情報発信しても、写真とか貼ってないし、大丈夫でしょ。それに俺、今じゃほとんど引きこもり状態だぜ? 埼玉じゃ友達にも会えないしさあ。命がけで学校行って、テストが終わったら、やることなくなった。だからパソコンいじってるんじゃん」

「卒論は?」

「一週間で終わらせるよ」

 大学で研究したことの総まとめである卒論も、彼の手にかかれば一週間で終わるらしい。いっそのこと、彼ではなくパソコンに学士の資格を与えてしまえばいいのに。そんなことを考えている明も、卒論はほとんど手についていない。人のことを嘲笑う資格などないのだ。

 画面に向ってカチカチと文字を打ち込む稲森を横目に、明はメモ帳と手書きの地図をカバンに入れ、でかける準備をした。

「それならついてくるか? 今からクリエイティブ課題の取材に行くけど」

「は、『取材』? 何仕事人ぶってんだよ」

「言ってみたかっただけ。行かないならいい」

 カバンを肩にかけ、稲森を背にドアへ向おうとすると、「待った」がかかった。

「俺も行く」

 稲森はすばやくパソコンをシャットダウンさせた。



「で、どこ行くんだ?」

「まずは小学校裏の駄菓子屋に行って、ミスミホームがある住宅展示場、ヨンダのショールーム。最後にコンビニ三店舗かな」

 明は手書きの地図を見ながら答えた。道順と閉まる時間を考えての最良のルートだった。現在、午後二時半。夏の一番暑い時間帯だ。太陽の熱がアスファルトに反射して、気温がぐっと高くなる。二人は、明の家からそんなに遠くない、駄菓子屋へ足を運んだ。店は夏休みということもあり、子供たちで溢れかえっていた。それを見る、大学生の男が二人。

 子供からも奇異な目で見られる。

「この狭い店内に、俺たちも入るのか?」

「お前はいいよ。俺だけ行く」

 明は子供たちの間をぬって、店内へと進んでいく。稲森はただそれを見守るしかなかった。

 意外だった。ここの駄菓子屋は、明が小学生の頃、よくおやつを買いに来た場所だった。

当時は小上がりになっていて、靴を脱いで入らねばならなかった。店番のおばあちゃんもなかなか厳しい人で、万引きしようとする悪がきがいれば、容赦なく頭を叩いていた。だが、今は違う。ずいぶん若い女性が店番をしていて、店内はそのまま靴で入れるようになっている。菓子は全てラックに置かれ、そこから自由に選べる。昔は、狭い中で駄菓子を選ぶ楽しさもあったのだが、今は利便性と売上を重視した店舗設計になっているように思えた。

 明が入ると、周りの子供たちが一斉ににらんできた。「ここは大人が入る場所じゃない」と、心の中で叫んでいるようだった。気持ちは痛いほどわかるが、ちょっとだけ勘弁してくれ。子供ひとりひとりに頭を下げていくつもりで、明は十円チョコの棚に近寄った。

 十円チョコには様々な種類がある。定番のアーモンド、ミルク、コーヒーはもちろん、季節ごとの限定商品やご当地物など、挙げればキリがない。

 置いてある棚に何味のチョコがあるのかをチェックする。どうやら、定番のアーモンドとミルクの二種類しかここにはないらしい。四粒小さいカゴに入れ、会計の女性の前に並ぶ。列はスムースに動き、すぐに明の番になった。

「はい、四十円ね」

 一瞬、大人が子供の列に混ざっていたことに違和感があったらしく顔を上げたが、すぐに元の調子に戻った。お金を渡すと、明は女性に声をかけた。

「お忙しいところすいません。僕、今就職活動で、キャッチコピーの課題を出されてるんですが、お話をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「はあ?」

 明は、お願いをすると、仕事の邪魔にならないように女性の横に立った。しばらくして、子供の列が途絶えると、十円チョコについて質問を始めようとした。すると、女性の方から話しかけてきた。

「キャッチコピーの課題なんて、面白いわね。何を聞きたいの?」

「あの、このチョコって、もっと種類があるじゃないですか。何で二種類しか置かないんですか?」

 明の不躾な問いに、苦笑いしながらも、女性は丁寧に答えてくれた。

「今、夏でしょ。チョコは溶けちゃうのよ。ここは扇風機しかないからね。溶けちゃったら売れないじゃない?」

「確かに」

 明は納得して、自分のチョコを確認した。すでに柔らかくなっている。紙をはがしたらどろどろになってしまうかな。家に帰って、固めなおした方がいいのだろうか。

「子供は、アーモンドとミルク、どちらを買ってます?」

「うーん、せっかく十円チョコのことを聞きにきてもらって悪いんだけど、うちで一番売れてるのって、この黄金バーなのよね」

 そう言って、彼女は棚の一番上にある、金色の箱に入ったお菓子を指さした。現物を持って、十円チョコの三倍の値段である三十円を払い、箱を開けてみる。中にはチョコレートとくじが入っていた。くじはハズレだ。

「チョコの大きさはこっちの方が大きいですけど、フレーバーの種類と価格は十円チョコの方がいいと思うんですが」

 開けたチョコを口に入れて、味を確かめる。普通のチョコレートだ。何が違うのか、わからないという顔をすると、女性は明が手にしていたくじに目をやった。明もつられてくじを見る。

「くじ……ですか?」

「そう。当たりは現金千円がもらえるの」

 少し悲しげな顔で、女性は笑った。千円。自分が小学生の頃にも、くじ付きの菓子はあった。でも、最高金額は五百円。それがいまや千円と二倍になったのか。自分が子供の頃と違って、最近の子供は打算的になった。子供までもが金が大事だと言う。信じたくなかった。

 お礼を言って店を出ると、稲森が所在なさげに立っていた。子供たちも彼をいぶかしんでいる。

「おい、明! 遅いって」

「ごめん。これ、お土産」

 十円チョコを二つ渡し、残りの二つはビニールに包んだまま、カバンに入れた。稲森がさっそく包み紙を開けると、柔らかくなったチョコが顔を出した。お構い無しに口に入れると、明を見た。

「クリエイティブ課題って、キャッチコピーを書くやつだったっけ。駄菓子屋にわざわざ聞くことなんて、あるのか?」

 口をもごもごと動かす黄色のTシャツを着ている彼に、明はうなずいた。稲森の服は、全て明のものだ。下着はさすがに買ってきてもらったが、服は貸している。それもこれも家にずっと戻れていないからなので、仕方ない。

「他の競合商品もわかったし、駄菓子屋でチョコがあまり置かれない理由も聞けた」

「それがコピー書くのと、どう関係あるんだよ」

 次の目的地までは徒歩でかなりある。電車で行けば二駅だが、時間があることだし、歩いて初めて気づく点もあるので、明は歩こうと思っていた。稲森にはまだ言っていないので、彼はハイペースでどんどん前へと進んでいく。道も知らないのに。

「それは書きながら気づいたりすると思う。ともかく情報は多いほうがいいんだよ、俺は」

 途中の自販機でスポーツウォーターを二本買うと、ひとつを稲森に渡した。



 ミスミホームに着いたのは四時半だった。稲森は住宅展示場の入り口に着くと、その場にへたりこんだ。

「お前、異常だって。熊谷の今日の気温、知ってるか? 三十八度を超えてるんだぜ? そんな暑い中、四キロも歩くなんて、いかれてる」

 デオドラントシートで首の回りを拭くと、さっぱりした。シートを稲森にも貸すと、彼は顔面をごしごしと拭き、清涼感を味わっていた。

「ここは熊谷じゃないし、一番暑い時間は過ぎてる。スポーツウォーターも飲んでるし、休み休み歩いてるから問題ないよ」

「ある! 熱中症になるだろ! それに、ここは熊谷にも近い!」

 勢いをつけて立ち上がると、稲森の足元が揺れた。さすがにこの様子じゃ連れまわすわけにはいかない。明は家の鍵を渡すと「先帰っていいから」と稲森に告げた。

 しかし、意外にも稲森はそれを断った。

「せっかく出てきたんだから、最後まで見たいんだって」

 明が仕方なく笑ってうなずくと、二人は様々な家が立ち並ぶ中、ミスミホームの物件を探した。

 稲森が明の右肩を叩いた。彼の視線の先には、「ミスミホーム」の文字があった。さっそくインターホンを鳴らして、ミスミの女性社員に事情を話してパンフレットをもらった。

「よろしかったら、見学していきませんか?」

 帰ろうとしたところ、嬉しい申し出。明はそれをありがたく受けることにした。家の中はクーラーが効いていて涼しい。稲森も休むのにちょうどいいはずだ。

「でも、いいんですか? 俺、家買える状態じゃないですよ」

 その質問は、女性社員に苦笑いでごまかされた。

 住宅を見学するのは数十年ぶりだった。と言っても、その数十年前、明はまだ五歳。当時の記憶はあやふやだ。小さい頃、住宅展示場に行くと言われても、嬉しくなかった。明の住む家は、数十年前にここの住宅展示場で様々な打ち合わせをしたのちに建てられたものだ。しかも、同じミスミホーム。今は、キャッチコピーを書くためにお邪魔している。何だか変な気分だ。

 今日訪れたこの住宅の売りは、家に『蔵』がついている、という点だった。蔵といえば、昔の大きな屋敷の中に立ててあるイメージだが、それを一軒の家の中に、『蔵スペース』として取ってある。

 そこも見学させてもらったが、天井が他の部屋より低く、少し頭を下げなくてはいけない難点はあったが、これなら趣味のものや、手製の梅酒、梅干の保管場所にも困らない。

 こちらも一通り見学させてもらい、お暇しようとしたのだが、そこを女性に引き止められた。

「最後にアンケートをお願いしてもいいですか?」

 住宅見学に来た人間へお願いする決まりになっているのだろう。お礼を込めて、しっかりと記入する。今後、自宅にパンフレットが郵送されるのは仕方がないことだった。



 住宅展示場からヨンダのショールームへは十分も歩かずについた。そこではあまり話しを聞けそうになかったので、パンフレットだけをいただいたが、男性社員に「何かわからないけど、頑張ってね」と笑顔で言われ、明の心は軽くなった。

 そこから帰りは、稲森の体調もあり、電車を使った。駅前のコンビニ三店舗で、十円チョコの売上を調べる。十円チョコは、レジわきに置かれていた。しかも種類が違う。普通の十円のものではなく、大きさが違う三十円のものだった。味も、ミルクやコーヒーではなく、きなこ味と塩バニラだ。駄菓子屋のように定番商品を置いていないところが、さすがコンビニ。他の二店のコンビニも、味やパッケージにばらつきがあったが、三十円と大きいチョコを置いていたのは変わりなかった。



 家に帰ると、明は食事もとらずに部屋に引きこもった。

「そんなに本気になるもんかね」

 稲森は明の部屋の前で、首を捻った。その手には、『マイベイビー&ダーリンへ』と書かれた、ピラミッドのポストカードがあった。

 玄関が開く音が聞こえた。一階に下りると、知則の姿が見えた。

「おお、孝浩。偶然、越乃寒梅が手に入ったんだが、飲むか?」

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