三、赤い真珠の新食感

 数週間後、明は図書館でエントリーシートを書いていた。

 あの晩、一人で覚悟を決めた。コピーライターはもちろん死ぬ気で目指す。それがダメでも、就職はする。つまり、コピーライター以外の職も視野に入れるということだ。それが、ふたつのものを同時に追うずるい決断だとしても、来年の春は絶対に訪れる。

「ライター一本、受からなかったら就職しません!」。そう言えたらどんなに楽だろう。実際、高校卒業のあとはそうした。だけど、結局大学に逃げた。今度はもう逃げない。再び夢を追うこともしない。受かった会社で父のように、うまく楽しみを探していこう。

 しかし、そう覚悟を決めても、できないことがある。それがエントリーシートだ。トクナビから紹介メールが来た人材派遣会社の営業職を志望して、シートの記入をしていたのだが、動機が書けない。

 下書き用のノートに、いくつか生協で買った「志望動機の書き方」から使えそうな言葉を抜粋してみても、しっくりこない。当たり前だ。コピー&ペーストでエントリーシートを埋めたって、そこに心がなければ意味がない。大体、他人の使いまわした文章を書いても、採用担当に見破られるのがオチだ。

 一応、その会社の説明会に参加し、具体的な事業内容を聞いたり、同業他社と比較してみたりはした。人と人とを繋げる仕事。商品と人を結びつける広告と似ているかもしれない。そう思って応募を決意したのだが、気持ちを文章にするのは難儀なことだった。

 図書館はガラス張りになっていて、一階のロビーがよく見える。自動ドアから入ってきた学生たちは、すっかり六月らしい装いだ。季節は徐々に移り変わっていく。来年の春。想像するだけで恐い。このまま時が止まってくれればいいのに。ぼーっと人の動きを観察し始めたとき、肩に手が触れた。

 振り向いても、誰もいない。ゆっくりと視線を下に落とすと、稲森がしゃがんでいた。松木がいるときくらいしか話さない彼が、自分に何の用だ。声を出そうとしたら、目の前の男は人さし指を唇に当て、ごそごそと机の下にもぐった。

 彼の行動が読めず、顔をしかめると、稲森は携帯のメール作成画面に文字を打った。


『助けてマジで』


 何が起こったかわからない。自分も携帯を出して、同じように文章を作った。


『どうしたんだ?』

『サエコが来たら教えて』


 サエコ。河野サエコ。同じゼミの女子だ。茶色いロングのストレートヘアに、流行のアイテムをいつもひとつ取り入れている、いまどきの女子大生。彼女がなんだというのだ。

 ともかく、言われた通り彼女が来るのを待つ。しばらくすると、本当に来た。どうやら誰かを探しているようだ。きょろきょろとフロアを見ている。自分のわきを通って、フロアを一周すると、彼女は一階におりていった。

「ふう……やっと行ったか」

「稲森、彼女がどうかしたのか?」

 机の下から出てきた稲森に明がたずねると、本人は驚いて声を上げた。

「え、お前、知らなかったの? 俺とサエコ、付き合ってるって」

「全然」

 稲森はまるで珍しい動物を見るような目で、明を見た。少しの間、奇妙な沈黙が流れると、稲森は何かに気づいたらしく、目を輝かせた。

「田口って、ゼミでも浮いてるもんな! 松木がいるからどうにかなってるようなもんだしSNSもFBも無料通話も一人だけ繋がってないよな!」

「はあ?」

 確かに自分でも浮いていると自覚しているが、こうも堂々と口に出されると、気分はよくない。ましてやSNSで自分だけ繋がっていないなんて、初めて知った。不快感が混じった声で返事をすると、稲森は手を合わせて頭を下げた。

「そこを見込んで頼む! しばらくお前の家に匿ってくれないか?」

「ああ?」

 接点は同じ大学、同じゼミ。親密さは知り合いレベルの稲森が、なんでわざわざ自分を選ぶのだ。梅雨の憂鬱が、一気に明をおそった。



「俺、実家なんだけど」

「そこを頼む! お前だけなんだよ。他の知り合いは、どっかしらサエコとも関わりあいがあるからさ。SNSとかつぶやきとかでバレる可能性がある。何がきっかけで居場所をつきとめられるかわからない」

「で、誰とも繋がってなさそうな俺に頼むと」

 不快な感情と呆れた気持ちで稲森を見ると、彼は必死な形相だった。二人揃って最寄りの駅に向う途中、明は大きく溜息をついた。インターネットって、便利なものだったのに、いつから人を縛りつける道具になったのか。稲森は、明にとって特殊な状況に陥っているように見えたが、今やこれが普通になりつつあるのだろう。

「ネットに書きこんだ些細なことが、いつの間にかゼミ中、いや世界中に知られちまうんだから。恐い世の中だぜ」

「だけど、一体何したんだ。まさか、河野に殺されそうにでもなったのか?」

 適当に口に出した言葉に、稲森は震えた。まさか。

「……朝起きたら、枕元に包丁が刺さってた。浮気がバレたんだ」

 明は目を剥いた。これは脅迫だ。女、恐い。もちろん、浮気をした稲森が一番悪いのだが、確かにそんな出来事があったら誰かに匿ってもらいたくなる。しかも、友人、知人は信用できるようで、できない。ネット上で発した一言に様々な推測が混じって、居場所を特定される可能性がある。

 何度も懇願する稲森に、駅に着く頃にはすっかり同情してしまった。もし自分が匿わなかったら、本当に彼が殺されるかもしれない。女の嫉妬は恐ろしい。河野が人殺しをするようには見えないが、万が一ということもある。助けを求める人間を放置するほど自分は鬼じゃない。「鬼の息子」だが、心は毒されていないと自分自身を信じたい。

「父親がいいって言えば、匿ってやるよ」

 引きつった笑顔を見せると、稲森の表情にいつもの活気が戻った。



 いつも一人で乗る快速が、今日は二人だ。女性二人なら話しは弾むかもしれないが、こっちはあまり親しくない男二人。自然と黙って電車に揺られていると、停車駅でドアが開き、人が大勢入ってきた。ドアが閉まったところで、稲森が口火を切った。

「そういや俺、電車でこっちに来るのは初めてかもしれない」

 明の家は、新宿から一時間半。埼玉と群馬の県境に近い。稲森は学校の近所にアパートを借りているらしい。友達と遊ぶときは大体都内。夏や冬の長期休暇の際は、遠出することもあるが、車で移動することが多いとのことだ。

「実家は関東じゃないの?」

「新潟で、曾祖父さんの代からずっと酒屋やってる」

 ドアの上に付けられた電光掲示板に、次の停車駅名が流れる。それを確認すると、明は稲森に小さい声でたずねた。

「酒屋は継がないんだ?」

「儲からないからな。それに、俺だって東京で働きたいし」

 稲森は真っ直ぐ前を見据えた。

二人の座席の前にいたサラリーマンは、つり革にぶら下がったまま寝息を立てていた。電車が停止信号を受けて、急ブレーキをかけると、サラリーマンは大きく体を揺らす。それでも彼は目を開けようとはしなかった。視界を遮断して、情報をできるだけ取り入れないようにしている様子は、痛ましかった。

 ストレス社会、日本。そのストレスの多くは、人と人との擦れ合いで生ずるものだ。狭い空間に入った二人がいたとする。その中で、一人が大きく伸びをすると、片方が身を縮めなくてはならない。両方がリラックスした状態を保てる方法は、今の世の中にないのだろうか。



 駅からの帰り道、偶然父と一緒になった。稲森を紹介すると、父は緑のメガネをかけた彼をまじまじと見つめた。

「君、背小さいけど、女の子だったりしない?」

「しないッス」

「……稲森、これ多分父さんの冗談だから」

 会って早々、稲森は、知則のカウンター攻撃を食らった。明はすでにフォローすらしたくなかった。自分も父が真顔で繰り出す冗談がわからない。うちで匿う以上は、慣れてもらうしかないのだ。

「父さん、しばらく稲森を家においてもいい?」

「なんで?」

 質問に質問で返された。父の視線は稲森に向いている。彼の口から理由を聞きたがっている。稲森は、媚びた笑いを浮かべながら言った。

「田口くんと卒論のテーマが重なってるんで、一緒に調べようと思いまして」

 答えを聞いた知則は、あからさまに残念な顔をした。これは違う。嘘を見抜いているのかどうかは知らないが、父が期待していた答えとは確実に違う。明は稲森に耳打ちした。

「とりあえず、この人には本当のこと言ったほうがいいから。っていうか、できるだけ面白……いや、今の状況でいい。そのまま言え」

 稲森は気を取り直して、さっき見せた必死な顔つきで知則に懇願した。

「すいません! 本当は彼女に四度目の浮気がバレて、逃げて来たんです! 少しの間、匿ってください!」

 四度目。そりゃ、彼女も怒るだろう。心の中で、稲森を軽蔑する。少なくても、彼女がいるなら浮気はするなよ。そう言いたいところだが、正式に婚約をしたわけではない、ただの大学生同士の恋愛だ。

 足を止めて頭を下げると、父はロボットのように口元を数ミリ単位で動かし、笑った。

「それはスリリングだな」

 正解だ。人の不幸は蜜の味と言うけれども、父の場合は蜜よりも甘美らしい。性格が悪いといえばそれまでだが、「現代社会に適応した鬼」なのでどうしようもない。知則は「彼女が冷静になるまで、うちにいればいいよ」と稲森の滞在を簡単に許可した。

「あ、その代わり、自分の食事は自分でまかなって。生活費は別徴収。それと、家事は家にいる人がやる決まりだから」

 実の息子である明とほとんど同じ条件を提示すると、自分は早足で家に向った。稲森を見ると、ぽかんと口を開けている。彼の肩を軽く叩くと、稲森は正気に戻った。

「あの人、いつも何考えてるかわかんないから。それだけは覚悟してな」

 目の前のファッションメガネは、黙ってうなずいた。



 今日も夕飯は自炊だ。幸い、冷蔵庫の中身は生活費から差し引かれているので、いくらでも使っていいことになっている。今日は天津飯にでもしようか。卵を取り出すと、父と一緒にテーブルについていた稲森が寄ってきた。

「なあ、俺が作ってやろうか? 今日、何にも買ってこなかったからさ」

「料理、得意なのか?」

 訊くと、稲森は「一人暮らし、舐めるなよ」と、コンロの前にいた明を追い出した。彼に任せることにして、自分はコンビニ弁当を食べている父の横に座る。

 それでも、稲森が気になってしょうがない。ひやひやしながら眺めていると、彼は、冷蔵庫からニラと、イクラの瓶、それと下に置いてあった鯖の缶詰を取り出した。卵とニラとイクラと鯖。ニラ卵でも作るつもりだろうか。そうしたら、イクラと鯖は何に使うんだろう? 不安に思い、何を作るかたずねても、「できあがるまでのお楽しみ」と取り合ってくれない。そのうち異臭が漂ってきた。父も箸を止めて、出窓を開ける。

「できたぞ!」

 満面の笑みで、稲森は玉子焼きらしきものと味噌汁をよそって明の前に出した。玉子焼きは、普通に見える。が、味噌汁は未知の世界が広がっていた。味噌の海に浮かぶ、鯖。それに、海藻のようにまとわりついているニラ。漂っている浮きは、イクラだ。果たしてこれはうまいのだろうか。

 稲森も自分の分を運んでテーブルに着く。不安だが、「いただきます」と手を合わせて箸をつけた。

 まずい。予想通りだった。鯖はまだいいのだが、イクラとニラの相性が悪すぎる。口の中に広がった生臭さを消すために、玉子焼きを口にする。ゆっくりと噛みしめると、ふわふわな卵の中に、ぷちっとした感触がする。何かがはじけて、どろりとした液体が口内に流れた。箸で口の中に残った薄皮のようなものを取り出すと、その感触の正体がわかった。イクラだ。卵にもイクラが混入されている。新食感なのかもしれないが、どうしようもなくしょっぱい。

 ちらりと料理を作った張本人を見ると、おいしそうに食べている。自分の味覚が悪いのだろうか。もう一度、確かめるように味噌汁を口に含んだが、やはりまずかった。コンビニ弁当を食べ終えた父は、明の様子に今にも笑い出しそうだ。

「なあ、稲森」

「ん?」

「これは、郷土料理のようなものか?」

「何言ってんだ。普通の玉子焼きと味噌汁だろうが。うまいだろ?」

 ああ、そうか。稲森の味覚は、人より大分ずれているのだ。

 玉子焼きを全部無理やり口に押しこみ、生臭い味噌汁で流しこんだ。丸飲みしたら、一気に吐き気をもよおす。しょっぱさが限界値を超えると、口の中が耐えきれない。それをなみだ目で堪えると、「ごちそうさま」と稲森に告げて、キッチンを出た。



 冷蔵庫のイクラは、ご近所からいただいたものだった。鮭フレークとイクラをご飯にかけて食べようと思っていたのに、残念ながら稲森の手料理で全て消費されてしまった。

 胃腸薬を飲み、空になったイクラの瓶をがっかりしながら洗うと、稲森を二階の和室へ連れて行った。

「とりあえず、ここの部屋使っていいから。布団もテレビもあるし。パソコン使うときは言って。他、なんかある?」

「おお、大丈夫。悪いな」

「じゃ、俺、自分の部屋にいるから」

 引き戸を閉めようとしたとき、稲森はなぜか明を追って立ち上がった。

「な、何?」

「暇だから」

 暇と言われても困る。テレビもあるじゃないか。稲森は何を考えているのか、明の部屋までついてきた。結局、明のベッドに寝そべって、マンガを読んでいる。更なる問題の発生だ。エントリーシートをやろうと思っていたのに、これじゃあ集中できない。よく知った友達ならまだしも、稲森とは微妙な関係だ。のんきにくつろいでいる稲森が大物なのか。 

 だからといって、一人の領域を侵されるのも嫌だ。不快感を露わにしても、口で言わないと伝わらない。わかってはいるが、言い出しづらかった。それは、明の持つ劣等感が関係していた。さっき言われた通り、自分はゼミで浮いている。稲森のような明るくて、できるやつに文句を言える立場じゃない。

 実家なのに、なんでこんなに悩んでいるのだろう。あまりにもくだらないことを考える自分が、心底嫌になった。

「あのさ、よかったらマンガ持って行っていいよ」

「気にするなよ。俺、ここで読みたいから」

 やんわりと追い出そうとしても、稲森には通じない。最早わかってやっているようにも見える。溜息をつくと、やっと稲森は明の表情に気づいた。

「田口、前から思ってたんだけど」

 そう前置きすると、稲森は明をにらんだ。鋭い目つきに心がざわつく。今度は何を言われるのか。稲森は身を起こして、明の本質をずばり見抜いた。

「はっきり言わないで、態度にだけ出すのって、一番むかつくぜ? お前、それで大分嫌われてるの、わかってる?」

 はっきり言われ、明は頭を殴られたような衝撃を受けた。自分が我慢すれば、全てが丸く収まる。そう思っていたのに、稲森は否定した。年下に、自分の間違いを正される屈辱。怒りは沸点に達したが、それは一瞬のことで、すぐに頭は冷めた。――こんなに自分の欠点をストレートに言ってくれるやつ、今まで身近にいたっけ? もしかしたら、こいつはいいやつかもしれない。正直に自分の否を指摘してくれた。松木もいいやつだが、稲森とは違い、控えめな自分を察してくれる優しさを持っている。稲森は、間違いを物怖じしないで訂正してくれる。これも一種の優しさではないだろうか。ゼミの中で、自分の態度に文句を言ってくれる人間はいなかった。バイト先でも、仕事ができれば問題ないと、何も言われなかった。要するに、他人に無関心なのだ。それをあえて言ってくれた稲森は、自分にとって貴重な存在かもしれない。

 明は、彼に思い切ってたずねた。

「なあ、稲森って、いつもそうやって他人のダメなところを指摘するのか?」

 再び寝そべり、マンガに視線を戻すと、稲森は答えた。

「いや、普段は言わねえよ。そういうこと言うと嫌われるじゃん。だけど、しばらくは同じ屋根の下で暮らすんだから、ちゃんとコミュニケーション取ったほうがいいと思って」

 コミュニケーション。「空気を読む」というものじゃない、自分の言いたいことを相手にうまく伝えるという、ストレートな意味でのコミュニケーション能力。

胸がどきりとする。鼓動がどんどん早くなって、呼吸が追いつかない。目の前が真っ暗になりそうだった。ダイレクトに稲森から伝えられた言葉。それを受け取った自分。一番大事なものじゃないか。

『広告は一方通行じゃない。商品を売るための双方向なシステムだ』。通っていた講座の講師陣も言っていた。高校卒業後、面接を受けた会社がなぜ『面白いコピーが書けない人間』と自分を判断したのか。答えは明確だった。目の前の夢に踊らされ、そのためだけの勉強をしていて、友人を作ることを怠っていたからだ。自分さえよければいい。自分の夢だけ叶えばいい。人と交わることなく、自分勝手にもくもくと努力したって、得るものは少ない。安易に『友達を百人作れ』というわけでもない。人を知り、学び、吸収すること。それができなかったから、自分は――。

 ぐっとこぶしを握ると、横になっている稲森を見据えて、言った。

「稲森、ひとつお願いしてもいいか?」

「なんだ?」

「エントリーシートを書くコツ、教えてくれ」

 題目はエントリーシートの書き方だが、本当に教えてもらいたいものは違う。コミュニケーションの取り方だ。

 稲森が意図を察したのかは謎だが、メガネをくいとあげると、勉強机に向う明の横に立った。



 稲森が家に来て、二回目の日曜日。なかなか起きない明の代わりに、稲森が郵便受けから新聞を取り出す。彼が外に出た音で、ようやく明はベッドから起き上がった。

 稲森はもうすっかり田口家に慣れ、堂々と居候していた。ネットでのつぶやきを確認すると、逃げたことがかえって河野の気持ちを逆なでしてしまったようで、なおのこと帰れなくなった。

「父さんは?」

「シロの散歩に行くって」

「そう」

 稲森はすでに食事を終えたようだった。皿に食べた跡が残っている。といっても、何を食べたのかは見当つかない。あのまずい手料理を食べたあと、明ははっきりと稲森に「まずい」と伝えた。すると、稲森は「そうなのか?」と初めて指摘されたらしく、ひどく驚いていた。どうやら同棲していた河野は言わなかったらしい。ただ、稲森が作る前に「私が作るから!」と、キッチンを追い出されることが多かったようだ。彼は極度の味覚オンチなのだ。ご飯にラー油と酢、わさび、砂糖をつけて食べる。辛い、すっぱい、甘いのどの味に該当するのか予想できない。かといって、それを確認したいとも思えなかった。

 それ以来、食事は自分の分だけ用意するようになった。それは、田口家のルールなので、問題はない。明も、自分の食事の支度をする。今日は午後からバイトなので、洗濯は稲森がやってくれるそうだ。

「そういや、明宛に封書が何通かきてるぞ。多分『お祈りメール』だろうけど」

「わかっても、嫌なこと言うなよ」

フライパンの火を止めると、新聞を読んでいた稲森の側に寄った。わきには、履歴書やエントリーシートを送った二社の名前が入った封書が置いてある。手で、乱暴に開けると、稲森の予想通り『今後のご健闘をお祈りします』という内容の紙が入っていた。まとめてごみ箱に突っこむと、平然とコンロの前に戻った。

「落ちこまねえの? 結構頑張って書いてたじゃん」

 できあがった目玉焼きをマフィンに挟むと、稲森の向かいのイスに腰かける。テーブルの上に飾ってある造花に目をやった。

「落ちこんでもしょうがないだろ。ネットで応募したのだって六社落ちてるし、もう慣れた。でも、ひとつ納得いかないことがある」

「なんだよ」

 新聞から顔を上げると、難しそうな顔をする明が稲森の視界に入った。

「ここの人材派遣会社、『人は財産です。何よりも人を大事にします』って、説明会のときに言ってたのに、って思って」

 人は会社の財産である。それは間違いのないことだろう。そのくせ、応募した学生に出すお祈りメールは、淡々と結果だけを示すものだった。しかも、宛名の部分だけを差し換えて、同じものを大量に送っている。本当に人を大切にする会社ならば、なぜ落としたのか理由を加えてくれてもよいのではないだろうか。会社がそこまで学生のフォローをする義務はない。けれども、学生が自分の欠点を改め、他の会社に再チャレンジし、就職率を高めるきっかけを作ることは、結果的に社会貢献に繋がる。

「それって、甘えかな」

「そうだな。採用する側は、そんな時間もコストもかけたくないだろうし。会社って、採用するのが仕事じゃないからな」

 答えて、コーヒーカップで口をふさいだ。明も黙ってマフィンにかじりついた。七月初旬で八社不採用。書類作成中や、説明会の申し込みをした会社を含めても計二十社。まだ少なすぎる方だ。五月下旬にようやく重たい腰を上げ、六月にエントリーシートや履歴書を書き始めた。いまだ一次面接にすらたどり着いていないなんて、情けないの一言だ。

 自己PRが「日記を十四年間続けています」とか「弁当販売のバイトを四年間やっています」とか少々ありきたりなのも問題かもしれないが、実際その二つ以外、明は大学時代何もしてきていなかった。ただ、黙々と講義を受け、レポートを提出する。友達づきあいもほとんどなく、サークルや部活にも入っていない。勉強はしてきたが、正直何の役にも立ちそうにない。卒論にだって、真剣に取り組んでいない。その前に就活だ。

 全てが中途半端な自分に腹が立つ。食事が終わるとさっさと出かけてしまおうと思った。このままだと、すでに内定がある稲森に八つ当たりしそうだ。

 キッチンを出ようとしたところ、その彼に止められた。

「そうだ、これ『マイ・ベイビー&ダーリンへ』って」

 瞬時に振り返り、稲森が中指と人さし指に挟んでいたポストカードをふんだくった。

「……読んだ?」

「いやあ……悪い、つい目に入って」

 明はこめかみの部分を押さえ、大きく息を吐くと、ともかく手に持っているカードに目をやった。


『マイ・ベイビー&ダーリンへ 

今、ママはコーチンにいます。乗船しているメンバーが食中毒になったときも、ママだけ平気でした! 船はぼろぼろだけど、充実した毎日を送っています。二人もママが帰るまで、元気でいてね!』


 母さんには、食中毒ですら脅威にならないのか。恐ろしき、モンスター。やっぱり、この人は大丈夫だ。カードをひとまずカレンダーの画鋲に突き刺した。あとで父に見せるためだ。

「うちの母さん、今世界一周中なんだ」

 手短に説明する。あとはこの忌々しそうな表情で察してくれ。しかし、稲森には伝わっていなかった。

「マジで? すげえな! お前んち、もしかしてすごい金持ちなのか? それに、妻を一人で世界一周させるなんて、おじさんも度量が広いな!」

 金持ちでは決してない。ただの中流家庭だ。父のボーナスや給与の大半は、母の旅行代に使われてしまう。母は無論、家に金を入れない。三人しかいない田口家で、この人だけは特別らしい。わずかばかりの年金も、どこで稼いだのかわからない金も、全て母親のものだ。それでも借金なしで生活できるのは、父が倹約家で無趣味だからでもある。ただ最近無趣味だと思っていた父の趣味が、ようやくわかってきた。「人の不幸話を聞いてにやりとすること」だ。ひどい話である。この性格は、一体誰から受け継いだというのだろうか。それとも、周囲の環境のせい? どちらにせよ、鬼のような男である。

 興味深そうに目を輝かせる稲森に、深く語ることはしなかった。自分の就活が、この親たちとの決別のためであることも、明の胸にだけしまっておくことにした。

「あ、それともうひとつ」

「なんだ」

 再びキッチンを出ようとしたところ、稲森が引きとめた。

「この間、携帯でつぶやき見てたんだけど、うちのサークルの後輩でさ、広告業界志望の女の子がいるらしいんだよね。会う?」

 突然の話に目を丸くする明を、やらしい笑顔で見つめる。そういえば、彼女なんてできなかったな、と自分の大学四年間を振り返ってみる。

 高校時代「つきあってください!」と告白されたおかげで、彼女はいた。違うクラスで、共通点もなかった子だったので、三日間考えたのちに、OKした。告白されるときのあまりにも真剣な表情に、ときめいてしまったのだ。ラブラブな高校生活だった。しかし、佐伯の特別授業を転機に、二人の関係は変わってしまった。

 ある日、「コピーライターの勉強と私、どっちが大事?」と彼女から訊かれた。冗談だと思って「勉強」と答えてしまったのが間違いだった。彼女は明の返事を聞くと、股間を蹴り、思いっきりびんたを食らわせ、終いには「死ね!」と暴言を吐いて、彼の元から去っていった。

 それ以来、多少の女性不信も重なり、恋愛からずいぶんかけはなれた生活を送っていた。高卒後、コピーライターへの夢が破れてからは、ただの廃人だ。大学生活で、自分は何を得たのだろう。本当に、社会に出るための猶予期間としか考えていなかった自分を責めた。

「学生生活最後なんだしさ、楽しい思い出があってもいいだろ」

 今は女性不信もない。出会いを求めていないというのは嘘なのに、「とりあえず、会うだけなら」と、曖昧な返事。明のプライドの高さに、稲森は笑った。

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