美しき哉、Art。文藝も又、美ぞ眞實也

しゔや りふかふ

第1話 朝

 あづま路(ぢ)の東(ひむがし)のはてよりなを奥つ北方(きたかた)、道奥の奥羽(あうう)の州(くに)に生(お)ひいでたりし痩(や)さし身なれども、いま東京都(あづまきゃうと)に住みゐる身なるを、幽かに霞みし朝まだき、半ばに開くる瞼(まなふた)のうち、双眸(ふたまなこ)の眞央(まなか)なる、燠(おき)の水底(みなそこ)たまゆらに、玄(くら)くあはれに髣髴す、蒼く欝たる昏(くら)き杜岡(もりをか)、藁葺く屋根の侘し納屋、奇しき磐膚白き山、嶮(けは)しき峡間(たにま)に岩迸(ばし)る水、羊歯の繁茂に苔生(む)す巖(いはお)、古厳樫(ふるいつかし)に翳されし風のさやけき貴人の古墳(おくつき)。 


 ふるさとの景色を追ふもあへなし、夢にしあれば。 

 ふつとおのが身に返り、羽のふとんを跳ねのけつ、髪乱れつつも上身(うはみ)を起こし、柔(やは)し褥(しとね)に沈みゐつ、胡坐せし。掛布や、シーツのシルクなる、なめらかにて鮮やなる艶、触ればすべる心地よさ、囁くやう、衣擦れの、音もよき。


「ふぁあ、ぁああ。すゎぁあってぇとぉー。起きなくっちゃあ~ぁぁぁ・・・ んー、・・・出たくなぁい」


 甘睡(うまい:甘眠、熟寝、味寝)の余韻、未だ朦朧の靄を纏ひ、夢と現世(うつしよ)の多重露出のさなかに在りてあまりに心地よろしく、え離れらえず。 

 さもありなむ。

 水鳥の羽毛、鳥の胸より摂るといふ、いとかろき、よきあたたかみに富み、くはしくは羽根毛といふべきものにて、稀なる逸品、ハンガリー(Magyarországマジャルオルサーグ)産なる鵞鳥gooseのみにて満つといふ上(じゃう)もの。正倉院宝物文なる文様の、淡きシルク生地のカバーにくるみ、かろらなる、あたたかきあじはひ、人をして耽らしむなり。

 天之韋眞子(あまのいさなこ)、女、廿三(にじうさん)歳、午前5時。奢りたるマンションに住まゐし、ベッドに目覺め、長く黒き髪ゆらしすべり出で、羊毛深きスリッパに足先差し込みぬ。

 その優しき感触(さわり)に陶然たるも、想ひは、欧州羊毛交易史を逝くまゝに駈け廻り、古き欧羅巴の風物、たとへば、ボッティチェッリSandro Botticelliの『春Primavera』の背景に画かれたりし装飾的なる森や、ガリアの地なる長き髪の荒き武者ガリア・コマータGallia Comata、ウェールズの地にあるなだらかなる緑色の丘、コッツウォルズCotswoldsの村などを、いざなはゆるまゝ、夢の翼広げ、馳せらしむ。

 コッツウォルズの村、イングランドの中央部(みなか)なる丘陵地帯に、「蜂蜜色なる石」「ライムストーン」とかやいふ石灰岩コッツウォルズストーンを用ひて積み建てむ、その味はひ、古ものかたり想ひ起こさしむるものなり。しばし陶酔恍惚す。

 夢遙かなる哉。我にかへりて、


「さ、急がなくっちゃ」


 されば一足歩む。

 古きレミントンRemington Rand 1927-1955なるタイプライターの傍らを過ぎぬ。文つくりに用ひはせねども、小説、映画に出づること頻りなるアイテムにしあれば夢想翔けらしませむとて敢へて持て囃し飾りたる。

 などか想ひ起こせるはペリー・メイスンPerry Masonなり。しかれども作者アール・スタンリー・ガードナー Erle Stanley Gardnerは口述筆記によりて文を著はせしこと遍(あまね)く知らゆれば、かく想起すゆゑを知らず。心かくも微妙(みめう)なり。

 ときにジョルジュ・シムノンGeorges Simenonを想起せし。タイプライターへ向かへば、汗にシャツ濡れける。アーネスト・ヘミングウェイErnest Miller Hemingway想ひ泛ぶも不可思議なり。彼愛用せるはコロナCORONA 3 (left shift)なると世に知らゆれば。

 二足歩む。壁面華やぎけるが眸(ひとみ)に入りぬ。

 眺む。

 金箔はがれ缼けたる古き額縁に収まりぬその油絵、パリParisの骨董屋(ふるものや)にて買ひ求めたる気に入りの、煤けしもあがひ難き風雅の趣あるなり。『聖アントニオスの誘惑』、聖なる大アントニオスΑντώνιος二五一年頃‐三五六年、エジプト生まれ、修道院の始祖、苦ぎゃう者。


 窓より街の早朝(つとめて=夙めて)を眺む。冬穹(そら)未だ昏(くら)し。甍(いらか)いならぶ静謐なり。遠くにありければ高層のビルディングは霞みて、車音時折かすか、自転車こぐ音ゆくり、ささめく囀りさやか、御社のいと小さくもいみじく深き杜(もり)。見ゆればやすし。


「さあさあ、こんなことしてる場合じゃないわ・・・・・・」


 とかや言ひつも、腕の時計を見遣れば、自ずと頬に微笑泛ぶなり。

 宝飾眩きカルティエ・タンク・フランセーズ、竜頭にサファイア燦めき、忌みじきものなる哉。

 大いなる満ち足りを覺え、周囲見廻し、眼(まなこ)転ずれば、昨晩読み耽りたる本(ふみ)ありて、小さき円き卓に開き乱れつも、シャンパーニュのグラス倦み疲れたる憂いの面持ちにて添ひ、偃月刀のかたちなる銀製しおり、頁はざまに挟み擱きてしあり。物影ゆがみ映る。

 角背の上製本、手にすればやはらかき革なり。紙は手揉和紙にて古拙感ある色使ひ、またよし。特注せし品なればかくもありき。

『失はれし時を求めてÀ la recherche du temps perdu』。といふはすなはちマルセル・プルーストValentin-Louis-Georges-Eugène-Marcel Proust 1987-1922著せる、言はずも世に知らゆる書なり。

 卓傍(たくかたはら)なるアームズチェアに坐す。眠気まとふ瞼ぬぐひて気怠くブルーレイ・レコーダーのリモートコントローラーをぞ手にする。指は打つ。苛立ちあり。


 昨晩放映されし映画、録画されたるやを確かめつ、スマートフォンを手に取りて着信確認す。履歴なし。メール受信確認す。さまざま着信あれども、友やら迷惑メールやら利用料金請求のお知らせやらメールマガジンなり。焦燥覺ゆ。PCのスリープ醒ましむ。メール・ソフトのアイコンをぞクリックする。なし。ポータルサイト立ち上げぬ。無料メールを開く。されどもなかりき。

 虚し。さぞな徒(いたずら)ならずや。


 昨日の問ひへの答へ未だ得られじ。彼の男の言葉なかりき。まゝにて遂に得られざるや。待つ道を選(え)みしこと、後悔するなり。あれなとき、刹那言ひければ、かやうな悔ひなし。いと口惜し。

 言ひたきを何ゆゑかのときに言はざりしや。唇を噛むも虚し。あだなり。重ね自らへ問ふ。機を失せば、そは意味を失ひ、言の葉の生命を喪ひける。さればなにゆゑあのとき問はざりしや。何ゆゑ。何ゆゑにや。あゝ、何ゆゑに。既に遅し。想ふも儚し。


 韋眞子、触るる指先を止めし。


「追いすがれば喪われてしまうのがわかっているから? いゝえ、そうじゃないわよ。あゝ、莫迦莫迦しい」


 ありまほしきメールのなき侘しさを殴り棄てつ、脳髄より情を剥がして心喪ひ、考へを引き裂きて思ふをせず。・・・・刹那の黙考。想ふ莫れ。いや、思ひを捨てよ。眠るがごとく、かつての露西亜の兵が雪中に、機を待ちてひたすら力を耗さずゐるかのやうに。されども堂々廻りとは言はずや。・・・いゝや、さに非ず。無爲なるものかは。人無為と知りても果敢すべきものにありせば。さりとても・・・・・否。かくは言へども・・・・・否や、否・・・・・・・あゝ、否とは言へども何かは。

 止まり立ちてよきものかは。いざ歩めやも。歩む。


 豪奢なるシルクの絨毯、ムストフ模様のカシャーン織敷かれたるを踏みしめぬ。

 シルクのパジャマにて懶惰。なをパジャマといふ言葉、インド、パンジャブ地方の民の衣に由来せり。女韋眞子、薔薇色の薔薇文様に包まれ艶やかなる生地、静かに輝く。晩に洗ひしローブを出だす。

 洗濯は日々の習ひにて帰宅するや欠かさず爲せるなり。清ら爽(さ)やかぞ眞の精髄たる正義(しょうぎ)、と伝う眞神地方の伝統かくにこそしあればかくあらめ。澄み明けくあるこそ尊しと伝へ統べられし地の民們。天之家古く眞神の地に住まう氏族にしありて韋眞子女逝(い)にしへの眞神の族(やから)の精神(こころ)をぞかく深く受け継ぐなり。


 洗面盤の台のまへに立てり。鏡に映るおのが姿に見(まみ)ゆ。

 凛々たる火のごとし。白く耀くもまた、蒼く冷たき氷のごとくにて、あたかも昇り立つ炎(かぎろひ)。冽たる眩き玉なり。されども眼を伏せぬ。

 多くを忘れむとするがごとく、眼のまへに燦めきいならべるさまざまなる化粧の品、香りの品、数多をゆくりと眺めむ。壜は黙せり。


 瞼を上げぬ。


 挑むかのやう、鏡に映じしおのがすがたを眺め遣りけり。烈しき焔の眼差し凛々たる双眸を縁取る暈がアイ・シャドウのやう、長きまつ毛も皐月の華のおしべのやう、あでやかに眼を縁取り飾り、奢美華麗ならざるものかは。過剰ならざるや。又細き鋭き顔立ち、猛禽のごとき眸、唇尖り、気性の猛きを表はす。

 廿三の若き女にしあれども、疲弊し、やつれしやう、頬やや削げたりとても皮膚に毛穴見えず、なめらなること、萌え始む芽より柔らかし。生(あ)れ初(そ)めの、ういういしき瑞々しさ、たへなること、言の葉も絶へ、言説及ばず。


 顔洗ひの蕚(うてな)、鍍金の細工を巧みに飾り、きらびやかなるなり。照明具も金華のごとく装ひ、惜しみなく奢られたる大理石、さまざまなる縞目のさまざまなる綾、あたかも帝国ローマのごとく贅尽くし豊穣なり。脱衣の小部屋へ赴く。

 パジャマ脱ぎても暖房能く働きて寒き覚えなし。すらりシルク滑るがごとく落つ。籐の籠に放りて裸身なりぬ。

 またも鏡に映えしおのが実像を眺むる。右方の口元をのみ上げ、微笑む。


「そして、わたしは、マラルメのエロディヤードのように、恍惚と自らにのみ、あくがれればいいのかしら。でも、何の解決にもならない。いずれ滅びて土や砂になってしまうのに・・・・。

 美しいものは心を満たし、昂らせ、気持ちを天上へ引き上げるけれども、それって一瞬のことで、すぐにまた地へ突き堕とされてしまうわ。そうよ、やり切れない。

 どうすればいいの? どこにも解決はないわ。・・・ま、いいか。さあってと」


 バスルーム隣は厠、金につやめく眞鍮ノブ附きたる明るき楓の木の扉あり。

 開けば書棚を備へたるなり。かつて文豪、谷崎潤一郎翁が記せしごとく、厠の清きは心鎮まらしめ慰め癒しむるものにしあれば、韋眞子、玩味に能う諸典籍をならべ置くなり。それら書物はよく吟味せるもののみなり。

 その坐に坐すれば、住まう街の風情、あまねく見渡せらゆるなり。窓ありて、見ゆればなり。得難きことにしあれば、此處を住處に選みしゆゑんの一つなり。朝昼暮晩四季に眺め、空想尽きることなし。衆諸々なるいとなみの跡、ゆかしからず、また面白からざるものかは。

 一切は歴史書のごとし。観照し、奥なる義を味読して哲学を鑑賞すなり。うましこと限り莫し。


 又音響機器も奢りて音樂を樂しむるなり。二つのチューナー、眞空管とデジタルを組みて合はせるの趣にあり。スイッチす。麗はしき、いにしへの欧州巨匠のクラシカル、時には歌舞伎、ボサノバ、能樂、ヒーリング、インド音樂、胡樂、雅樂、アジアの金打樂器、西域の弦樂器、オリエントの旋律、ギリシアの竪琴、または古きジャズなり。出でてシャワー室へ入りぬ。


 シャワーの口より熱き湯、ほとばしりて大理石なる湯浴み室、やがて湯気に満つ。白く霞みて膚より芯へ暖かさ伝はり、総身の毛穴も開きて、一切の細胞、一斉に目醒むるを覺ゆる。熱く血も廻る哉。かつて帝国もかくあらずや。

 幻想髣髴す。空想自ずとカラカラ大浴場やら数多古代ローマの公衆浴場をぞ駈け廻る。大理石づくりの巨大なる施設、蒸し風呂の湯気、レバノン杉のベンチに坐して絶へ間なく語り合ふローマ市民、皇帝の横顔のレリーフある硬貨、元老院の男、etc・・・・・眩(くる)めきをぞ覺ゆる。


「さぁてと」


 石鹸を右手にす。刻印もクラシカルなるサンタ・マリア・ノヴェッラSanta Maria Novellaのヴェルティーナソープ。フィレンツェより寄せたる愛でたきもの。手さぎゃうにて型抜きし、六十日といふ自然なる乾燥を経て、完成するは植物成分の石鹸。コラーゲンやココナッツオイルなどをゆたかあまたふくみ、洗ひ上がりはいとやはくしめやかなるなり。泡立ち天鵞絨なるかのやう、え喩えやうもなかりけり。きめ細かく粘り強く、手にて転がせば、つよく泡立ち、指離すとき角が立てり。フィレンツェの老舗なる最古の薬(くす)師(し)どころの調合にしありて、膚の汚れを洗ひ、かつ涵養す。

 熱き湯とミストとに包まれたる清潔(きよら)の快(け)楽(らく)、えも言はれじ。憙哉(あなうれしゑや)。


「あゝ、気持ちいい・・・・」


 午前四時半ば。

 出でてはベローラBelloraのバスタオルにてぬぐひ、一拭きのち、バスローブ羽織て、洗面盤の鏡のまへ、陶器にシェービングソープを入れ、G・ロレンツィG.Lorenziの穴熊の毛ブラシ用ひて泡立てり。イルチェポIl Ceppo のシェービングホルダーに替刃を装着、毛ブラシの官能を味はひてその後に、頬に剃刀を当つ。

 論ず迄もなく、剃る髭なし。

 これも快樂の一つなるなり。男なる自分を空想すなり。あたかもこの女の脳裏には、男装の麗人、ジョルジュ・サンドGeorge Sand 1804. 7. 1 - 1876 .6. 8 なる仏蘭西の女流作家泛ぶらし。


 或ひはテロワーニュ・ド・メリクールThéroigne de Méricourt、1762. 8. 13 - 1817. 6. 8(娼婦出身のフェミニズム運動家・女性革命家。革命に刺激され、パリを中心に政治活動に没頭、乗馬服に幅広帽子といふ男装に身を包みて闊歩し、革命のシンボル「自由のアマゾンヌ」と呼ばはれ、逮捕・釈放ののち絶頂を迎えるも、対立せし党派を支持す女性らによりて馬上より引きずり降ろされ、服引き裂かれて裸にされ、暴行を受く。一説によらば公衆の面前にて尻を丸出しにされ叩かゆるといふ辱め受くとかや。その後、発狂)か、又はフェルニッグ姉妹か、いやはやマネット・ボヌールなどいふをか・・・・・

 小さき吹き出物ありて血が白き肌に滲む。エモスターティコ石にてさらりと撫でて止血す。ドライヤーにて長く黒き髪乾かし。


 化粧室に入りてまたサンタ・マリア・ノヴェッラのハンドクリーム、アーモンドハンドペーストもまた良品(りゃうひん)のうちの良品なり。アーモンド油、鶏卵末、蜜蝋(みつらう)など往時偲ばしむ料(れう)を惜しみなく使ひ、存分に練られけり。他様々なるクリームの壜を手にし、頬に、瞼に、唇に、指に、爪に、それぞれに異なるを塗りき。みめかたちよき爪をパフにて磨き、ブラシにて黒髪梳く。北辰の星の燦々散るかのごときその御櫛(みぐし、髪のこと)を。

 化粧水を沁み渉らせ、美容液を指先にて頬や額に伸ばし、皮膚の栄養を与うなり。うへに乳液塗布し、水の気を艶の下に封じ、甦らしむ。パウダーファウンデーションを馴染ませ、アイシャドウやらマスカラやらにて描くやう、かたち為すアイメイク施す。


 パルミュラの女王الزباء بنت عمرو بن الظرب بن حسان ابن أذينة بن السميدع‎のごとく誇らかに眺む。満悦すなり。


 すなはちおのれの一々を飾りて荘厳せり。心昂らせ高らしむなり。

 獅子狩る猛々しきアッシュールの王族のやう、アッカドAkkadのサルゴンSargonを愛せし女神イナンナのごと、またイシュタルのやう。想へよ、バビロンの青きイシュタル門を。吾はさに劣らじ。見よ。

 ネブカドネザルもさやうべかんめるとぞ想ほゆる贅を爲す。野蛮なる強者にして高貴の一族の気風ぞ。砂漠の軍馬を従へ、青き門より入(い)らば空中(懸空)庭園、壮大なるひろき行列道路を歩み、市の中央なる七層の聖塔(ジグラット)の、天空に聳ゆるを見ゆ。偉容猛々し。おのれを聖と観ぜざるかは。

 午前五時。


「さあ、食事しなくっちゃ」 


 フレンチ・マラン鶏の茶の斑のある卵を茹でしこと、三分三十秒。濃紺に金の縁取りあるミントンMintonのエッグ・スタンドへ載せるなり。その半熟を銀のスプーンにて掬ひて食す。ミントン&ティファニーなるアンティーク、ロイヤルブルー金彩盛装飾アイボリー・プレートも又あり。

 ケトルに湯沸きぬ。ウェッジウッドWedgwood & Corporation Limitedのカップ&ソーサーを。ヨーロッパ最古のドイツ製焙煎機にて直火焙煎せられしジャマイカ・カフェの豆にて淹れ、珈琲をぞ啜りける。


 パルミジャーノ・レッジャーノのブロックから削り取り出し、頬張りし。協会の認定印あるチーズこれ味はひ深し。心は恍惚の天上の原を駈け廻るなりけり。

 次、プロシュート・クルード・パルマ。熟成せし芳醇なる香りの旨みある燻製肉。焼印附きたる塊を、薄く切り、ひとくちに頬張る。薄きがゆゑ、蕩けるかのやう触感ありて妙なることすべてを絶し越へて善(ゑ)けむ。

 人、侮る莫れ。韋眞子、食を疎かする日なし。喰らふといふは畢竟、生くるの義、生の大事なりと知りたればこそかくあらめ。


 午前六時。

 朝餉終へ、再び化粧室へ赴く。チーク、さうして唇にルージュ、ペンシルを使ひ、あざやかに輪郭せり。リップグロスを施せり。パフュームを選ぶには、諸々躊躇もせり。いかに自らを荘厳すべきか煩ふも、諸感覺に潜みたる天啓の侭に択(え)みし。

「あゝ、これが眞実という言葉の定義なのよ。美よ。美は神が精神の感覺に与える」

 美と善の永遠を望む。さにしあらば、すべての時は黄金の時ならずや。全生は肯定せらゆるに相違なし。善事なりと解すも、証する論なし。世に横溢せる無慈悲なる物象の羅列、物的法則のみぞ在る。只管(ひたすら)それしかあらざる絶空の、宇宙的なる深淵。


 上下左右前後中外の広大宇宙、一切空無にしあらば、自ら決し自己への肯定するは必定公理なり。すべての存在者は肯定へ赴かざるを得じ。空中にしあらば。


 なぜ肯定せらゆるを欣求すや。などか枯渇する喉のごとく妄執するや。何とならば肯定せらゆるとは生存の安立を意味すればなり。存在の安定なり。これ生命一個体の安全なり。以て種の存続へ繋がるなり。さすれば種の存続といふは宇宙の構成要素に缼如なきことを意味するなり。ビッグバン以降、絶へることなき永劫不滅の命題なり。ゆゑんを知らず。さもありなむ。

 方便にしあらば。

 韋眞子、心中に想ふ、


『わたしたち人間が譱(よ)きことへ、嚞(あき)らかなるものへ、歡(よろこ)びへと向かうのは、天然自然の摂理で、わたしたちの心のまゝに動かせられるものじゃない。宇宙萬象を主宰する大御神さまの御心なんだわ』


 とぞ。

 かくて静かに微笑む。贅に飽ひたる豊穣の神の、黄金なる高貴の微笑(みせう)を。


 午前七時。

 イヤホンを耳に差し、玄関扉を開け、颯爽と出勤す。長きコートを翻し。ワードローブとせし衣類はサヴィル・ロウSavile Rowにて年々作らせるが常なり。13番地ストアーズ・ビスポークStowers Bespokeを吾が気に入りと称す。

 海島綿のシャツにネクタイぞ紋織、靴はその日の心の侭に拠りてサントーニSantoniやチャーチChurch'sを、かはるがはる履く。靴ブラシや布、靴クリームにも凝りこだはり、毎週入念に塗り磨きたるを樂しみとす。タンの色合ひ、潤み深く底よりか柔らに輝けるも又よし。それゆゑ爪伸ばさじ。工匠の技を愛す。工人の手作業こそ大いなる知恵なれ。智慧といふは、棟梁の知恵にぞ源ある。人皆これに遵(したが)ふ善けむ。


 この虚しきうつしよの無明の激烈なる濁濫流に棹差すはただ睿智なり。

 さて、しずか荘重に廊下進みて昇降機のまへ止まりぬ。こまかくほそき細工の縁取る大理石製スイッチを押す。やはらかにゆくりと開く。静謐なりき。しずしずとやはらかに降り行く。


 2階にて降りけり。髪結ひに入る。マンション内にぞありける。韋眞子のため、いつも早朝より店開くる女主人、毛先整へ、梳り、メイクを仕上ぐる。これが常なり。髪まさぐる指の触感、官能的にもあるか。毛穴狭まり縮み、頭皮粟立つやも。

 手早くたくみに終はり、階下へ。


 マンションのエントランス、ギリシアより寄せたる天然の白き大理石を不断(ふんだん)に用ひてバロックの聖堂礼拝堂のごとし。イオニア風の円柱もあり。床に艶(つや)やに玉(ひか)りたる色大理石、滑らかなり。ペルシャより寄せたる絨毯敷き置きて歩むに深し。二重の自動ドアを出でれば、空気冷凛にて吐息白し。

 アールデコart déco風デザインなす屋根附きなるバス停に着く。透明板なる風避け壁あり。フレンチ・ブルーの広告大胆にぞ画くあり。ベンチは匠技凝らす寄木細工、イタリアン・アンティークなり。ウォッチを見む。


 午前八時なりき。

 革鞄より文を出(い)だす。皮革装丁なる冊子、『二十四の命題(Die 24 Satze)』一六九〇(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz 1646.7.1-1716.11.14 )なり。読みぬ。


「なぜ非存在ではなく、存在があるのか」


 誰もが「え答へずなり侍りつ」ならむや。問ひの解はlogosの絶え果てし處にありき。是非もなしとぞ知らゆる。在るといふは、畢竟、気遣ひなり。気遣ひの熾せる現象なり。

 すなはち将来への不安、自らの生存に対すゾルゲSorge(関心、配慮)、畢竟、意識といふべきものなり。ただ激流に差したる棹。架空なるにしあり。

 仮に客観的なる実在といふものあるとせば、思惟考概の枠の外にあるなれば、無味無臭にて無色透明、無音無触にて無意識なるべかんめり。

 それ畢竟、なしと言ふべきもの。しかれどもさやう言ふは易くも、思惟のスキィムに嵌まらずといふは矛盾なり。その思惟の枠に於ひて思惟の枠の爲す思惟の枠のかたちにしあればこそかくはあらめ。

 如何やうすべし。

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