夜雀の籠

相良平一

夜雀の籠

夜の帳の奥から女の声がした。

 少女とでも形容するべきその声は、如何やら私を呼び止めている様だった。

「あの。」

 不鮮明だった呼び声が、俄かに輪郭を持った。私は足を止めて、恐る恐る声のする方へ向き直った。懐中電灯の光を投げかける気には、何故かなれなかった。

「どうかなさいましたか?」

 喉の奥から絞り出された私の声は、あまり反響せずに夜空の底へ霧散していった。それでも、彼女はその弱弱しい声を聞き取ったのか、くすくすと笑みを漏らした。

「いえ、そんなに怖がる必要はありませんよ。私は唯、貴方にお礼を言いに来ただけなのです。」

 彼女が、こちらに笑いかける気配がした。私は、困惑するしかなかった。私はこの声の主を知らないし、第一、礼を言われる様な事をした覚えも無いのだから。

「人違いでは、ないのですか?」

 恐る恐る口にした言葉に、彼女は頭を振った。

「いえ、麦羽さん。貴方に間違いありません。」

「ですが――いや、それより貴女は何故、こんな夜遅くに、此処にいるのです? そもそも、私が此処に居る事を、どうやって知ったのですか?」

 また、くすくすという笑い声が聞こえた。足元を、数枚の落ち葉と十二月の風が撫でていく。

「そんな事どうだっていいじゃありませんか。」

「どうでも良くはないんだけど。」

 私は、さっきまで無意識に敬語を使っていた事に気付いた。気付いてしまうと、その滑稽さに乾いた笑いが出そうになる。大の大人が、見ず知らずの少女にへりくだっているのだから。しかし、驚いてしまうのも無理は無い筈だ。夜中、しかも山の中で、いきなり年端も行かぬ少女の声が聞こえたのだから、狐狸妖怪の類かと些か前時代的な思いに囚われるのも、仕方のない事だろう。

「そうでしょうか。まあ、こんな事語っていても、それこそどうだっていいですね。」

「そうだな。」

 分かりやすすぎる程のはぐらかし方に、私は彼女と同じ様に笑みを浮かべて、追従するしかなかった。こうまで事情を話したくないという事であれば、恐らくこのまま追及を続けても無意味だろう。この件については保留する事にした。

「ところで、君の両親は? 此処には居ない様だけど。」

「両親……、ですか?」

 少女の声は、そんな質問をされるなど考えてもみなかった、という言外の主張がやけに強かった。

「実は、此処に来ている事は、両親には内緒でして。」

 瞠目する。えへへ、と口で言って、嫌悪感を抱かせない人間を、私は初めて見た。

「そりゃあ不味いな。もう夜も更けて来たし、親御さんも心配しているだろう。早く帰った方が良い。……此処にはどうやって?」

「徒歩で。」

 耳を疑った。この少女は、車でさえ結構かかる山道を、歩いて此処まで来たと言う。『若い』の一言では済まされない、凄まじい意志と行動力だ。

「夜道を歩かせる訳にもいかないしなあ……。もし良ければ、帰るついでに送っていこうか?」

「いえ、何もせずに帰る訳にはいきません。何か、おもてなしをさせて下さい。例えば……料理とか。」

「そんな大層な事、してもらう訳にはいかないよ。実際、俺は何故君に感謝されているのかさえ、さっぱりわからない訳だし。それに……」

「それに?」

「家で、彼女が待っているだろうからな。テレビでも見ながら。」

 また、風鈴の様な笑い声が鼓膜を刺激した。茉莉奈の笑う顔を思い出す。風間茉莉奈というのが、私の彼女の名だった。

それにしても、『箸が転んでも可笑しい年頃』とはよく言うものの、何か、自分の魂の薄汚れている部分を手探りされているかの様な雰囲気に、少し居心地が悪くなる。

「そうですか。それは、失礼致しました。では、恐縮なのですが、一旦家に寄らせて貰ってもよろしいでしょうか。渡そうと思っていた品を、取りに行かなければならないので。」

 はは、と乾いた笑いが漏れた。さては彼女、最初から私の車に乗るつもりだったのか。

「それぐらいお安いご用だ。じゃ、家の場所を教えてくれないか?」

 足を再び車に向けて動かすと、落ち葉を踏み締める音が二つ重なった。


 私の車一台しか無い駐車場は、軽石の様な寂しさを抱いていた。寂れたキャンプ場である。恐らく、この光景は時節の所為ではないのだろう。

ポケットに突っ込んだ、少し悴んだ右手の指先が、車のキーを探り当てた。キーホルダーの輪っかに人差し指を引っ掛けてポケットから取り出し、本体を握り込んでボタンを押すと、風情も重みも無い電子音と共に扉のロックが外れる。

 荷物を放り込んだ後、運転席のドアを引く。南極探検隊の装備にありそうな、分厚いコートを脱ぎ捨て、マフラーを解いて腰を下ろし、エンジンをかけると同時に、少女が助手席に滑り込んだ。

 さっきまでは、暗くてよく見えなかったが、少女の装いは今時珍しい和服だった。枯れ草の様な美しい茶色に、帯の白がよく映えている。その服装も相俟って、雛人形の様に見えるすらっとした顔立ちで、肩口まで届くかどうか、という具合の黒髪をおかっぱにしている。執拗なまでの和風な出立なだけに、足に履いた黒のスニーカーが恐ろしくミスマッチだった。下駄で山登りは危険だろうとは思うが、それにしても。

「後ろの席。」

 急に、彼女が口を開いた。

「何。」

「積んであるのは寝袋ですか?」

 そう言いながら、彼女が振り返った先には、言われた通り寝袋があった。袋の色は蛍光グリーンである。もう少し、色を考えて買うべきだったか、というのは、これを見る度に思う事だ。

「そう。キャンプが趣味なんだけどさ、家は狭いから、ずっと車に置いているんだよね。」

 へえ、と言いながら、少女はしげしげとそれを見つめる。そんなに珍しいだろうか。

「シートベルトは締めろよ。事故るつもりは毛頭無いが、用心に越した事は無い。」

 そう声をかけると、助手席で、頭が微かに動き、続いてカチッという音。私も自分の後ろから黒い帯を手繰り寄せ、金具に留める。マスクを外し、シートの脇から、VRゴーグルみたいな眼鏡を取り出した。鼻の頭が急に重くなった。

 ヘッドライトをハイビームにすると、目の前の闇が白く切り抜かれた。


 ヘッドライトに照らし出された樹木の影が、まるで屏風の中の鬼神の様に見えた。とは言え、恐ろしいなあとぼんやり思う余裕は無かった。雪は降っていないとは言え、山道は平野よりも事故が起こりやすい。況してや夜ともなると尚更だ。黒いバンのスピードは、いつもの大体八割だった。ガードレールの白が、四角い視界の中に現れる度に、ハンドルを握る掌に冷や汗が浮かぶ。

「わあ、あれは狸でしょうか。」

 目の前を黒い塊が走り去り、私は反射的にブレーキを踏み込んだ。急ブレーキ音と停止しかけた私の心臓の拍動、隣の気楽な歓声が即席の和音を奏でる。聞きたいと望んだ訳ではない、と私は呪った。

「ああびっくりした。」

 自分でも情けないと思う溜息が、思わず口をついた。スポットライトを一身に浴びて、渾身の死んだフリを披露していた狸が、ホモサピエンスを小馬鹿にする様に走り去っていった。

「轢かれてしまわなくて良かったですね。次から、気をつけるんですよー!」

狭い車内で、精一杯体を反らして、隣の少女が狸に話しかける。親戚の子供のごっこ遊びを目撃した時の様な微笑ましさを感じた。

「ごめんね。何処かぶつけたりしなかった?」

「はい。」

 真っ直ぐな返事に胸を撫で下ろす。怪我でもされてしまっては大変だ。

「それなら良かった。それにしても、あんな事あるんだな。」

「街からそう離れた訳ではないとは言え、山の中ですからね。それに、狸達は適応能力が高くて、割と何処にでも居ますから。」

「そうなのかい? それにしては、俺家の周りで狸なんて見た事ないけど。」

 会話する口は軽いが、右足の下はさっきよりもずっと重い。肩の力を抜く為に、大きく息を吐いた音が、意外と車内に響いてしまった。

「そうなんですか? 結構街中にも居るもんですよ、狸。」

「そうなのか……。自分の中じゃあ、狸は山の生き物だってイメージが強いから、ちょっと意外だな。」

 彼女の口に手を当てる仕草には、隠し切れない気品を感じた。

「まあ、そうでもあるのですが、人里はどんどん拡大していきますからね。唯、なまじ人の近くに暮らしているものですから、さっきの様に、道に飛び出して車に撥ねられたりしてしまう事も多いとか。」

「それは何とも、やり切れない話だな。」

「ええ。そういう話は結構あるのですよ。絶滅危惧種のヤンバルクイナとかも、交通事故の被害は甚大らしくて、沖縄では、道路に生き物が入り込まない様に、道路の脇にフェンスを作ったり、道の下にトンネルを作ったりしているらしいですよ。」

 一度口を閉じてしまうと、耳に入ってくるのは単調な走行音だけになってしまう。かと言って、車窓の外を見ても、木の影の百鬼夜行を除いては見えるものも無かろう。見ず知らずの相手とは言え、会話が増えるのは必然だった。

「そう言えば君、名前は?」

「……あれ、名乗っておりませんでしたか。私は、田ノ口美鈴と申します。」

「田ノ口……珍しい名字だね。」

「ですね。珍しい名字の一つだという自認はあります。そう言う貴方も、結構珍しい名字ですよね。」

 確かに。この日本に、麦羽という名字を持つ人はどれほどいるだろうか。

「あ、ここを左に曲がって下さい。」

そう言って彼女が指差した先には、この道を最後に人が通ったのはいつの事か、と聞きたくなる程の山道だった。対して、此処を真っ直ぐ進んだ道は、少なくとも五十分前に人が通った、割合に大きな道。通ったのは私である。

「左?」

 だから、私が分岐点で車を止めて、聞き返したのは仕方ない事だろう。

「はい。此処で曲がって下さい。」

 彼女は自信満々に答えた。となると、残念ながら間違いではないのだろう。事故っても知らないぞ、という呟きは心の中に押し留めて、私は無言でハンドルを切った。


 その後も、分かれ道に差し掛かる度に、助手席から「右に」や「左に」という声がして、最早口を開く余裕も無い私が、それに従ってハンドルを切る毎に、車窓の木の影がその密度を増した。それでも不思議な事に、三十分もそうやって車を進めると、私達を囲む木々が、聳え立つコンクリートの壁に変わった。

 とは言え、東京のビル街の様な派手さは無い。地方都市の中でも、割と小さな部類に入る、そんな町を黒いワゴン車が走る。運転する男は、髪を肩口まで伸ばしていて、助手席には、雛壇の一番右上に座っていてもおかしくない様な少女を乗せ、更に彼女の靴は黒のスニーカーである。傍から見たら、まるで熱帯雨林でホッキョクグマがフォークダンスを踊っている様な光景だろう。

「暫く、この道を真っ直ぐ進んで下さい。」

 ハンバーガーチェーンの、全国民が一度は見た事がある様なネオンサインを目で追いながら、美鈴は平板に言った。人工の光の氾濫の渦中にあって、多少は静かな道であった。ビル一つ挟んだ向こう側から、車の走行音が響く。

「はいよ」

 文明の領域に帰って来た安堵で、返す声も自然と微笑混じりになる。体の傾いている感覚が消え、アクセルペダルが軽い。

 ラジオも音楽も流さないので、脳に流れてくる情報は、夜の街に溢れる看板の光だけだった。興味関心の無い者にとっては、網膜の上を空しく滑っていくだけである。

 目の前の信号が黄色から赤に変わったのを見て、ゆっくり減速して停止する。普段は何の感傷も齎さない光も、人生初の夜の山道の後では親しみさえ覚える。車を買ってから早二年、初めての感情だった。

「あの、」

「ん?」

「ちょっと、車を停めて頂けますか?」

「あ、家着いた?」

「いえ、あの、そういう訳ではなくて……」

 美鈴は、少し俯いて口篭った。

「なくて?」

「あの、厠に……」

 ハバカリという単語と、トイレとを結びつけるのに数秒かかった。セクハラに抵るだろうか、と反省した。

「了解。ええと、コンビニは……」

 カーナビの画面を操作しようとして、持ち上げた右手をドアにぶつけた。慌てて左手を伸ばすと、信号が青に変わった。仕方なく車を走らせながら、目で地図を追うと、脇道に外れた所にファミリーマートのロゴが見えた。

「オーケー、見つけた。ちょっと道外れるよ。」

 彼女は首を微かに縦に振った。こくり、という音が本当に聞こえてきそうな頷き方だった。

 

 地方都市なので、大抵のコンビニには駐車場がある。これが都心部だったら、駐車場を探して右往左往する事になっただろう。

「じゃ、多分此処にトイレあるから。」

「ありがとうございます。」

扉が開いて、静かに閉められた。そこまで静かに閉める人はいないだろう、と思い、よく見てみると半ドアである。余程急いでいたのだろう、と思いつつ、私は運転席から身を乗り出して、助手席のドアを閉め直した。

 少しの間逡巡したが、私も車を降りる事にした。眼鏡を外して、紙マスクをつけ、マフラーと手袋、先程脱ぎ捨てたコートを手早く身につける。

 店内に入ると、馴染みの音楽が馴染みの白い空間に響いた。やる気無さそうに、レジの向こうに突き刺さっている二人の制服以外に、人影は見当たらない。

 私は、迷わずガラス棚の方に向かい、缶ビールを尻目にガラス戸を開けた。ずらりと並んでいる缶コーヒーの群れから、無糖のものを一つ引き抜く。どの会社のどの製品が良い、という拘りは、少なくとも缶コーヒーに対しては一切無い。唯、存在を思い出すと飲みたくなる。それだけのものだ。少なくとも、私にとっては。

 レジの横に、無造作に缶を置くと、店員は無言でバーコードを読み取った。

「レジ袋はご入用でしょうか。」

 首を振ると、「百三十二円でぇす」という店員の間延びした声がした。小銭入れの口を開けて、小銭を取り出そうとするも、手袋のせいで指先が滑る。苛々したが、何とか丁度の額をトレーの上に転がした。

「有難うございましたぁ。」

 店員の間延びした声に、今度は欠伸まで混じっている。この僅かな間で、急激に悪化した態度に抱いた微かな不快感を黙殺し、外に出ようとした瞬間に、美鈴と目が合った。何とはなしに気まずさを覚え、私は足早に店を後にした。


 つけっぱなしにしていた暖房のお陰で、車内は暖かさを保っていた。エンジンはこまめに切らなければ、環境に悪いという話はよく聞くが、車を離れた時間は精々数分なので大目に見て欲しい、と心の中で言い訳した。そして、誰に言っているんだ、と苦笑。

「あ、鴉だ。」

 シートベルトを締めていると、そんな呟きが聞こえた。

「え?」

「ほら、あそこ。一塊になって寝ていますよ。」

 そう言われて、指差された方をよく見てみたが、夜の暗がりに紛れて、その輪郭を捉える事は出来なかった。

「鴉か……。鴉と言えば、最近騒ぎになっていましたよね。エアガンか何かで撃たれて、絞殺されていたとか。」

「ああ、その話なら、家の近所だ。そのせいかどうかは知らんが、最近、とんと鴉を見ないんだよな。」

 そう。最近、近所では野生動物が殺害される事件が後を絶たない。

 最初は、鳩だったろうか。エアガンで眼玉を抉られた後、突き殺されていた。その後、同一の方法で殺された、雀やら鴉やらが、十指に余る程見つかり、大騒ぎになっていた。

「鴉も賢いですからね。自分達の傍に危険な生き物が居る、となれば逃げるでしょう。まあ、どの人間もそういう事をする訳ではないのですから、その内に戻って来るのではないですか?」

 人間の中には、隣の少女の様に、無邪気に小動物を慈しむ者もいるし、対極に毛嫌いする者もいる。そして、唯の獲物としか考えない者もいる。それだけの話だ。

 大通りとは言え、この時間に走る車はほぼ無い。酔って終電を逃した客を、なんとか拾わんとするタクシーがちらほら見えるばかりだ。普段はそれなりに混み合った道を、ほぼ独占している状況に、中学生の頃、部活終わりに、忘れ物の為、校舎に忍び込んだ時の事を思い出す。

 そんな時間帯でも、機械に定時という概念は無い。一直線に並んだ信号機が、一斉に青から黄色になった。

「この交差点を左に曲がって下さい。」

 隣の全手動カーナビのアナウンスが入った。信号が赤に変わる前に曲がってしまおう、と思った矢先に赤になる。急停止はギリギリ間に合った。

「間に合わなかったか。」

「そうですね。」

 目の前を、我々が今乗っている車と同じ様な形のタクシーが通り過ぎる。あちらは駅の方角だろうか。ああいった形のタクシーの運用が開始された当初は、物珍しさを感じたものだが、今となっては日常の一部である。こんな所で、時の流れを感じたくはなかったな、という考えが頭をよぎった。

「このシール、何ですか?」

 美鈴の声に釣られて、フロントガラスの左上を見ると、装飾としては百点満点中二点のステッカーが目に入る。その日付は、既に後三ヶ月まで迫っていた。

「車検のお知らせだな。」

 前の車検の記憶は、もう霞がかかっている。

 信号が再び青になるまで、体感で一分ほどかかった。時刻は既に十一時を過ぎている。先程摂取したカフェインのお陰か、脳はしっかりしているが、年若い美鈴はそうはいかない様で、頻りに欠伸を嚙み殺している。

 左に曲がると、車はビルとビルの隙間に潜り込んだ。


 暫くすると、車は住宅街に入り込んだ。エンジン音が五月蝿い、と苦情を言われないだろうか、と少し不安になる。

此処です、と言われて車を停めたのは、城か何かかと思う位、厳しい木の門の前だった。その向こうに見えるシルエットは、一体私の部屋の何倍大きいのだろうか。

「送って頂き、有難うございました。」

 車を降りて、美鈴は両の手を合わせて一礼した。近所への配慮だろうか、声は絞られている。

「良いよ、帰るついでだし。」

 私も、合わせて声を落とす。

「いえいえ。……さて、それでは、お礼を渡したいので、すみませんがついて来てくれませんか?」

そう言って、美鈴は左の方に歩いていく。つられて歩き出した後で、そう言えば路上駐車だな、と後ろを振り返る。黒のバックドアは、街灯の影に輪郭を失いつつあった。此処に車が来たら大層邪魔だろうが、エンジンの音は聞こえない。大丈夫かな、と思い、振り返ると、ありふれたスポットライトの中で美鈴が立っていた。

「ごめん、今行く。」

 早歩きで十分間に合う距離だった。美鈴は後ろに向き直り、再び歩き出す。枯れ草色の背中が、黒の中で一点目立っていた。

 美鈴が、簡素な柵の戸を開けた。ぎい、と軋む音が谺する。街灯の灯りも、家々の灯火も此処までは届かない。

 何かの角に足を引っ掛けでもして、転んでしまっては示しがつかない。私は、左手に握る懐中電灯のスイッチを入れた。丁寧に刈られた草と、飛び石が光で丸く切り抜かれる。

飛び石を十数個踏むと、如何にもな裏口にぶつかった。レトロな、磨りガラスの引き戸を、美鈴はゆっくりと開けた。

「では、少し此処で待っていて下さい。出来るだけ静かに……両親が起き出さない様にして下さいね。」

 そう、囁き声で言い残して、美鈴の姿は扉の向こうに消えた。

 言い残しはしたが、流石に私にも解る。

 美鈴は嘘を吐いている。


 彼女は、『両親を起こさない様に』と言った。何故、両親に気付かれて都合が悪いのか、そもそも家を抜け出して気付かれないものか、という点については、人には人の事情があるものだ、この際置いておくとして、確かに彼女は、家の前に着くなり声を落とし、家に入る時も、出来るだけ音は出さない様にしていた。そこだけ見たら、言動に矛盾は見当たらない様に思える。

 だが、それなら何故、美鈴は私が懐中電灯をつけた事に注意しなかったのだろうか。

 庭で、ちらちらと光が揺れている、となれば、異様な気配に目を覚ましてもおかしくはない。

 まあ、その点はいくらでも解釈出来る。ご両親の寝室が道路側なので、裏庭で光をつけても気付かれないとか、灯りも無しで転ばずに歩くのは難しいからとか。

 しかし、もっと大きな矛盾がある。私が、車を停めてくれと頼まれたのは、家の正門の前である。これは、車のエンジン音やブレーキ音、ヘッドランプ等の強い光を、屋敷に近づけるのと同義だ。此処は閑静な住宅街、些細な物音でもよく響く。況してやガソリン車ともなると尚更だ。

 本当に親を起こしたくないのならば、車はもっと手前で停めさせるべきだ。

 つまり、親を起こしたくないというのは嘘だ、となる。

 そもそも、美鈴は最初から胡散臭かった。自分も分からない事へのお礼の為に、私の動向を探り、遠い距離を何故か歩いて来て、何についてのお礼なのか、未だに教えてくれない。その上、山道を登るのに、何故か和装だ。スニーカーを履いているのだから、洋装をもっていないという訳でもあるまい。

 では何の為に?

 私は、そこではたと立ち止まった。こんな嘘を吐いて、彼女に一体何のメリットがある?

 美鈴の要請は、静かに此処で待て、というものだった。その理由に嘘がある、という事は、別の理由があるという事。しかも、嘘まで吐いて隠さなければならない理由が。

 もしかして、サプライズか何かだろうか。どんなサプライズがあるのか、という事は置いておいて、もしそうなら、余計な事を考える必要は無い。唯待っていればいいという事になる。

 問題は、そうでない可能性も有る事だ。彼女のこれまでの言動を鑑みると、何かしらの裏の意図が有ってもおかしくない。

 最悪の可能性は、その狙いが私の命である場合だ。

 そう考えると、あの不自然な道案内にも合点がいく。彼女は、執拗に大きな道を避けていた。もしかすると、あれは防犯カメラを避けていたのではないだろうか。美鈴が、私の車に乗っていたという記録を、残したくないが為に……。

 そう考えたところで、私は頭を振った。いやいや、彼女は態々、私をコンビニに寄らせたではないか。コンビニには当然、防犯カメラがある。つまり足がつくのだ。この考えは見当違いだ。

 やはり、彼女に直接訊く必要があるだろう、と思った時、先程閉まったガラス戸が再び開いた。


 美鈴は両手に葛籠を抱えていた。肩幅位の大きさであるそれは、かなり重いのか、支えている美鈴の華奢な両手を震わせていた。それを二つも抱えている様は、かなりアンバランスだ。

「すみません。待たせてしまいましたね。」

 美鈴は丁寧に葛籠を降ろした。

「いや、気にしないで。それより、気になる事があるんだ。」

「気になる事?」

「うん。」

「……何でしょうか?」

「家族を起こしたくない、って、言ってたけど。嘘だよね。何で、俺を静かにさせていたの?」

 彼女の狼狽える気配がした。

「……バレてましたか。」

「そうだな。」

 はあ、と微かな溜息。自分のものだと気付くのに、然程時間はかからなかった。

「それで、何故そんな嘘を? 真逆、何かサプライズでも企んでいた訳ではないでしょう?」

「ええ。出来る事なら隠し通したかったですけどね。やっぱり無理でしたか。」

「だから何を。」

 美鈴は暫く口篭っていた。震えるその影が、必死で枯葉になりすます小魚の様だ。

「あんな事を言ったのは……私に『両親』がいる、と思わせたかったからなんです。」

 言ってしまった、と美鈴が縮こまる。その小動物然とした佇まいに、僅かに罪悪感を覚える。

「ごめん。言いたくない事なら、無理に聞き出さなきゃよかった。気が回らなかったよ。」

「いえ、親が居ない件については、私が憶えている限りずっとなので、今更何だという感じなのですが。」

「でも、多分それで色々苦労して来ただろうし……」

「あの……何か勘違いしてません?」

「勘違い?」

「はい。」

 そう答えてから、美鈴はしまったという表情になった。頭を抱える手が強張る。

「別に言わなくていいんだよ? もう無理に訊かないから。」

「いえ、もう、こうなってしまったら、言ってしまった方が良い気がします。じゃあ、言いますね。」

 そう言って、美鈴はラジオ体操第二の最後の様に、大袈裟な深呼吸を一つした。

「実は私……」

 そこまで言ってしまって、何故そこで躊躇うのか、と、気の抜けた印象が去来する。

「人間じゃないんです。」

 言っちゃった、と美鈴は小声で付け加えた。


 普通なら、まず間違いなく冗談だと断ずるべきだろうが、私は何故か、そうだろうな、と思うばかりだった。

「人間でないなら、じゃあ君は一体何なの?」

「雀です。」

 即答だった。

「……疑わないのですか?」

 そう言って、首を傾げる仕草。確かに、雀と言われれば雀らしい。

「疑った方がいいのか?」

「いえ、そういう訳ではないのですが。」

 美鈴の目は、珍獣を見るそれだった。人に化ける雀の方が、余程珍獣だと思うが、それはそれとして彼女の心情も分かる。人ではない、と、初対面の少女に言われ、それをすんなり信じている自分に、私自身、疑問を抱いているのだから。

「矢鱈と動物に詳しかったのは、親近感故だったのか。」

「そうですね。分類上では結構な隔絶があるのですけれど、同じ人の側に居るもの同士なので。ああ、そう言えば。」

 すみませんでした、と言って、美鈴は枝が折れる様に頭を下げた。

「あの、強い光が如何も苦手で……。大きい道を避けてもらって、無駄に遠回りさせてしまいました。ごめんなさい。」

「いや、別に気にしてないけど。」

「……そうですか?」

 美鈴は、首だけで無理に上を向いたせいで、何とも珍妙な姿勢になっていた。

「うん。だから、体戻して。」

「あ、はい。」

 美鈴が体を起こす。Ⅽ‐3POみたいな動きで、少し面白かったが、言わないでおいた。親しき仲にも礼儀あり、いわんや初対面においてをや。

「それよりもさ、一つ訊きたい事があるんだけど。」

「何でしょうか?」

「やっぱりさ、鳥目だったりするの? 俺と同じで。」

「いや、鳥が夜盲症だ、というのは俗説ですね。梟とか、夜飛ぶ鳥も沢山います。」

 穴があったら入りたい。冷静に考えたら、まったくその通りである。

 しかし、人ならざるものとも、この苦しみを共有出来ないとは。山中で声を掛けられた時と同様、薄ぼんやりとしたシルエットしか見えない美鈴を見て、私は肩を落とした。何かのSF映画に出て来そうな眼鏡をかけなければ、夜道を走る事すら出来ない人間を、私は自分の他に見た事が無い。

「そもそも、夜なのに貴方を識別出来たのだから、夜目が効くのは明らかなのでは?」

「いや、そこは不可思議な妖怪パワーか何かで。」

「普通に視覚ですよ。」

 美鈴の笑い声も、確かに雀の囀りに似ていた。

 それで、という声が口から漏れる。思いの外大きかった自分の声に、一瞬びくりとした。

「結局、俺があの時間に彼処にいた事を、君は如何やって知ったの?」

「それこそ、不可思議な妖怪パワーですよ。ああ、無駄話をして、引き留めてしまってすみません。」

 美鈴が葛籠を持ち上げた。余りにも重そうなので、手伝おうかとも思ったが、それは彼女の声に遮られた。

「では、麦羽さん。同胞の仇を討ってくれて、有難うございました。」

 彼女は、心の底から感謝を込めていた。それが、私を戦慄させた。

 先程の質問は無駄だったか。

 私が、茉莉奈を殺してしまった事は、とうに知られてしまっていた。


 茉莉奈とは、コピーライターの仕事を始めてから二年目のときに出会った。

 初めて出会ったのは、特に何かを求めた訳ではなく、ただ単に友達付き合いで行った合コンだった。

 何処にでもある様な居酒屋のカウンターで、彼女だけが、誰の目から見ても異彩を放っていたのは、偏にフィンランド人の血が入っている故の、彼女の初雪の様な白さと、金髪によってだった。

 だから、その時の記憶は、彼女が大ジョッキを一気飲みする姿しか残っていない。酒精による頬の赤に、青空の色をした瞳が映えて、大変に美しかった。

 二度目の邂逅は、それから二週間後、ファミレスで偶然にも相席したときだった。

 その奇縁から、話しかけたのが付き合いの起点だった。そこで、名前と、出版社で働いている事、彼女がハーフである事も知った。

 同僚との関わり合いは気苦労が多い、と漏らしたら意気投合して、その後も度々顔を合わせて話をした。大学も学部も同じ所を出ていたので、話題は専ら、当時の思い出話や同級生達の動静だった。とは言え、彼女は卒業と同時に知り合いとも縁が切れたらしく、話すのは私だけだったが。

 特にきっかけは無かったが、気が付いたら付き合っていた。二人とも、能天気なところがあったので、変に鹿爪らしい告白というのが、性に合わなかったというのが大きい、と私は分析している。

 仕事は、十時まで持ち越す事は有り得ないぐらいの量だったが、辛くも、収入は平均ぐらいを維持していた。付き合い始めてから一年程経った頃、親戚から相続した一軒家に引っ越したのだが、その時、当然のように、茉莉奈もそこに荷物を持って来た。私も、それを当然の事として受け入れていた。

 茉莉奈は働いていなかったが、彼女の両親が遺した遺産は相当の額だったので、彼女の一日中ゲームをする生活にも文句は無かった。棚に並ぶ馴染みのないタイトルに、寧ろ誰かと共にいるという幸せを、しみじみと感じていた。

 結婚のヴィジョンはある程度あったが、まだ身を固めてはいなかった。もしかすると、籍を入れる必要はまだ無い、と思っていたのは私だけだったのかも知れないが、今となっては、もう知る由もない。

 自分のエアガンが触られている事に気付いたのは、同棲が始まってから半年後だった。

 大学時代、特に何も考えずに購入した後、一回も触られる事なく戸棚の底で眠っていたものだった。本来だったら、私の死後、百年経って人知れず付喪神になっていたかも知れない。

 それが、いつの間にか、動かされていた。

 戸棚の配置が変わっていたので、中身を検めてみたところ、最早その存在すら忘れかけていたエアガンが出てきた。

 自分はこれを、もっと奥の方に、しかも箱に入れて仕舞った筈だ。戸棚の奥を手探りで探すと、やはり箱はあった。色々な物に潰されたりして、ほぼ原型を留めていなかったが。

 このエアガンを、茉莉奈が触ったのではないか。そう言えばこの前、これが話の端に登った様な。手探りで探したので、エアガンがもっと奥にあった事も、箱に入っていた事も知らなかった、とすれば辻褄が合う。

 エアガンを触ったのか、と、茉莉奈に質す事が出来たら、私は手を汚さずに済んだのかもしれない。だが、その質問を口にする事は遂に出来なかった。動物が何者かに惨殺された、その手口を、既に耳にしていたから。そう言えば、人付き合いを煩わしく思っている筈の茉莉奈が、何故か遅く帰って来る事が偶にある。浮気とも疑ったが、真逆とも思って放置していた。

 こんな物の用途など限られている。茉莉奈が銃口を向けた先が、もしあの殺された鳩だったら……。その可能性が、自分の中で否定し切れていなかったのだろう。

 私は結局、何も見なかった事にしてエアガンを戻した。


 一昨日の夜、私は公園の中を歩いていた。

 近所にある、大きな公園である。

 その日は、レンタサイクル事業のキャッチコピーを考えていた。中々候補を挙げられず、気付いたら残業していた。普段は、安全の為に、もっと明るい街中を通って帰るのだが、その日の私は、無性に帰りたかった。公園の中を突っ切ると、十分は早く帰れるのだ。

 そう言えば、茉莉奈も今日は帰りが遅れると言っていたな、と思いながら、遊歩道を、転ばぬ様に慎重に歩いていた時だった。

 金切り声が聞こえた。驚いた拍子に、木の根に躓いてしまう。

 今のは何だ? 明らかに、人のそれではないが。

 視覚支援グラスをかけ直しながら、私は無意識に辺りを見回した。

 左の方から、落ち葉の鳴る音がした。断続的なその音も、妙に軽い様に思えた。

歩み寄ってしまったのは好奇心のせいだろうか。だが、そこまで強い訳でもない私の好奇心が、何故その時に限って発揮されてしまったのか、それは、後から何度考えても、よく分からなかった。

 木立の中で、茉莉奈が両手を地に向けていた。何かを押さえつける仕草だ。その白い顔に冷たい色を湛える様は、さながら幽鬼の様で。金髪は、日本式の死装束には似合わないだろうな、と思った。

 その手の中で、鴉が一羽、震えていた。

 彼女の手の中にあるのは黒い小さな錐。突き立てる深さが増す毎に、紅い色が飛び散った。彼女が、一際大きくそれを突き立てると、鴉の両脚が、びくり、と跳ね、それが最後の運動となった。

 彼女は徐に立ち上がり、ふらりと去っていく。その動作は静かだったが、私は確かに吊り上がった唇の端を見た。

 なで肩の影が完全に見えなくなって、私は溜息を吐いた。

 同じ屋根の下にいる女の、猟奇的な裏の顔への衝撃も、その残酷な行動に対する義憤も、私は一切感じなかった。

 ただ、眼が。

 手の中で命が潰えるのを眺めていた、その青い双眸が、

 只管に恐ろしかった。


 私は、恐怖に打ち震える心臓を必死に制御しながら、ふらふらと家に舞い戻った。

 あれは夢だろうか。否、自分の眼は疑えない。

 見てしまったあれは、確かに現実なのだ。私の恋人は、恐ろしい怪物だったらしい。

 どうすればいいのだろうか、と私は思案した。警察に通報するべき、というのは分かっている。それでも、私には、三桁の数字をスマホに入力するだけの気力が残っていなかった。

 玄関の方で、不意に物音がした。鍵は掛けた筈だから、これは茉里奈の音だ。泥棒か何かであって欲しい、と考えたのは、後にも先にもこの時だけだった。

 出迎えると、彼女は既に、凶器も返り血も始末していた様で、平然とした瞳の中に、少しばかりの驚愕を、実に上手く隠していた。

 ただいま、と言いかけ、彼女は私の握る物を見て、目を見開いた。ああ、私は彼女を殺すつもりだったのか、と、その時初めて実感した。

 気付いたら、狭いリビングを死体が占領していた。元から白かった肌を、断ち切るかの様に刻まれた延長コードの跡は、何度擦っても消える事は無かった。それがまるで、罪人の証として彫り込まれた刺青の様に見えて、少し絶望した。

 死体を何時迄もここに置いておく訳にはいかない、と、誰もいない方を睨みつける眼を見て思った。気温は低いとはいえ、放っておけば、死臭はこの薄っぺらな壁などいとも容易く貫通してしまうだろう。死臭はまずい。突発的な殺人だ、死体が発見されてしまえば、私は、両手首に悪趣味な鉄の輪を嵌める事になるだろう。

 そういう訳で、死体は隠す事にした。場所のあてはあった。先ずは、職場で同僚に、『彼女に逃げられた』という噂を流した。以前、浮気をされているかもと話した事が、偶然にも功を奏した。

 次に、近所のホームセンターで鋸とペンチを買った。人一人の体を、見られる事なく迅速に運び出す術を思いつかなかったからだ。

 家に着いた後、車からキャンプ用のブルーシートを取り出す。死体を風呂桶に横たえて、鋸で解体した後、歯形を照合されない様に、歯を全て抜いて、キャリーケースと鞄に分けて詰めた。歯は袋に入れた後、金槌で砕いてベランダの花壇に埋め、ブルーシートは血が垂れない様に丸めて、凶器と一緒に袋に入れた。

 彼女が家を出る際、持って行くであろう物品を、入るだけ彼女の旅行鞄に入れた。茉莉奈には身寄りも職場も無い。『茉莉奈は家出した』というストーリーを作れば、当分は誰からも探される事は無いだろう。これは後で、凶器などと一緒に海にでも沈めておく。

 諸々終わった後、レンタカーを借りた。トランクに死体を詰めると、スペースが無くなってしまったので、寝袋やテントは後部座席に置く。

 場所にはあてがあった。寂れたキャンプ場である。管理人もやる気がないのか、ほぼ顔を見せる事が無い。安全管理とか諸々心配になる所だが、今回ばかりは好都合だった。

 テントを張るなどして時間を潰し、日没と共に遺体を運び出す。二時間程、獣道を進んだ所で、スコップを使い死体を埋めた。目撃者がいるかも知れないので、念の為に分厚いコートで体の線を、マフラーで喉を、マスクで口元を隠した。男にしては長い髪も相俟って、傍目には自分は女性に見えないこともないだろう。この季節なので、男でもこんな格好をしていて違和感は無い筈だ。

 そして、寂しい埋葬を終えて戻る所で、美鈴に出会ったのだ。


 美鈴は葛籠を置いた。置いたり持ち上げたり、随分とせわしない事だ。

「それで、二つ持って来たのですが、どちらにしますか?」

「何を?」

「こちらの大きめの籠には、取り敢えずお金を入れておきました。結構な量だと思います。こちらには、眼を。」

「眼?」

「夜でも見えるようにする、という事です。」

 舌切り雀にしては、随分と優しい。箱の中身を教えてくれるとは。

「何か、凄いな。」

 そう呟くと、美鈴は少しはにかんだ。

「それで、どちらにするか、という事は、俺はこの片方しか手に入れられない、という事か?」

「そうですね。どちらもという訳にはいかないですね。」

「そうか。」

 改めて思案する。確かに金は、幾らあっても困るという事は無い。無いのだが、急に資産が湧いて出てきて、怪しまれない程の身分では、残念ながらない。

「じゃ、眼にして貰おうかな。」

「いいんですか?」

「生活には困ってないしね。」

 やっぱり変な『人』だ、と美鈴は呟いた。君こそ、と言いかけたが、彼女は人間ではない。妖怪として考えたら、彼女は寧ろスタンダードなのかもしれない、と思い直した。

「それじゃあ、鳥目を治すので、目を閉じて下さい。」

 促されるままに、私は目を閉じた。元々少ししか見えていなかったので、目を閉じた所で視界にはほぼ変化が無い。

「そのまま、じっとしていて下さい。」

 葛籠の蓋が開く音がした。続いて、美鈴の服が擦れる音。顔の前に、何かの気配がして、咄嗟にのけぞりそうになったが、じっとしていてくれ、と言われていたのを思い出して、踏みとどまった。

 瞼の上に、何か柔らかいものが触れた。私は、悲鳴をあげそうになるのを辛うじて抑えた。瞼を貫通して、何かが入ってくるのを感じる。痛みは無いが、何かとても冷たい感触が、私の眼球を浸していた。

 体感では一分ぐらいの時間だったが、実際にはもう少し短いに違いない。瞼の感触が消えて、私は目を開いた。

「どうですか?」

 少し不安そうに、首を傾げてこちらを覗く美鈴の顔は、先程と同じ様にしか見えなかった。

「あんまり、変わっていない様に思えるのだが。」

「ああ、それは暗順応がまだだからですかね。もう少しすれば、目が暗がりに慣れて、はっきりと見える筈ですよ。」

 彼女は、自信満々にそう言い切った。

「それで、これからどうします? 家に帰り辛いのであれば、今晩は此処の一室をお貸ししますけれど。」

「いや、帰るよ。そっちの方が自然だし。」

「……口止めとか、なさらないんですね。」

 背を向けて、懐中電灯をつけた私に、美鈴は小さい、けれども凛とした声で言い放った。

「茉莉奈の事か。別に言ってもらっても構わないよ。自分のしでかした事は、人倫に悖る事だってのは、よく分かっている。」

「ですが、貴方は死体を密かに隠した。それは、捕まりたくないからでは?」

「捕まりたくはない。だけどね、口止めした所で、如何にかなる話でもないと思うんだ。そんな事しても、俺は君がそれを無視して口外する可能性に、ずっと怯えなきゃいけない。かと言って、君を手にかける程、道を踏み外してはいないつもりだ。だから、君に任せる。君が口外しても、しなくても、それが天命だ。」

「大袈裟ですね。」

 美鈴は笑わなかった。

「ありがとう、この眼。」

「いえ、お礼なので。ああ、この葛籠は持っていて下さい。」

 彼女に渡されたそれは、確かにずっしりと重かった。

「どうして?」

「もう、会う事も無いでしょうから。」

 振り返ると、彼女の姿はもう消えていた。

 彼女だけではない、さっきまで目の前にあった屋敷も、自分の家に変わっていた。

 十二月の風が、私の頬を撫でた。


 玄関の前に、紙が落ちていた。そこら辺の小石を重石にしてある。拾ってみると、それは手紙だった。

『レンタカーは駐車場に戻してあります。 美鈴』

 丸みを帯びてはいるが、軸がしっかりとしている文字は、確かに美鈴らしかった。

 駐車場を見てみると、確かにその通りである事が分かった。紙を畳んで、取り敢えずポケットの中にでも入れておこうとした時、ある事に気付いて私は手を止めた。

 読めている。私は今、ゴーグルをつけていないのに。

 これが暗順応か、と私は惚けた感想を抱いた。ガラリと視界が切り替わる訳ではないのだな、と感動。

 家の鍵を開ける。葛籠を、取り敢えず玄関先に置くと、大きめの音がして驚いた。振動で、扉に吊り下げてある御守が揺れた。

 天井が見える。扉が見える。それを開けると、部屋の間取りも見える。床の木目の、一本一本も見える。

 私は、暫く家の中を野放図に歩き回った。ただ『見える』という事が、こんなに私を高揚させるとは、思ってもみなかった。

 テーブルが見える。テーブルの上に置いてある、文庫本の表紙が見える。

 電気をつけていないので、足元が疎かになっていたらしい。座椅子に躓いてしまった。咄嗟に、テーブルに手をつく。大分無理な体制をしたせいか、肩に軽く痛みが走った。

 誰も居ないにしては大きすぎる家に、私の溜息がやけに響く。私は、フローリングの上に座り込み、天井の蛍光灯を眺めていた。

 どの位、そんな時間を過ごしただろうか。気持ちが落ち着いてくると、体に寒さがこたえ始めてきた。

 のろのろと立ち上がり、風呂場に行く。熱い湯船に入って寝れば、冷たい土の感触も、疲れと一緒に流れて消えてしまうだろう。

 急に夜盲症が治って、周りはどう思うだろう。流石に、経緯をそのまま話しても、信じて貰えないに違いない。ならばいっその事、周りには伏せておこうか。それなら、面倒事も起こるまい。

 扉を開けると、目の前に鏡があった。

 大きな音がした。背中に痛みが走っている、という事は、自分は壁に背中をぶつけたのだろう。しかし、そんな事は瑣事だった。自分の目にしたものに対し、私はただ、慄然と打ち震えていた。

 ではあれは何だったんだ? あの葛籠の中身は?

 私は、美鈴に何をされた?

 玄関のスペースを、彼女の着物の色にも似た葛籠が占領している。その蓋を開けようとするが、焦っているせいか、縁で何度も手が滑った。

 やっとの思いで、葛籠を開ける。

 茉莉奈の、土に汚れた生首が、もう瞬かない黒い瞳で、私をじっと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜雀の籠 相良平一 @Lieblingstag

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画