第3話 沢明美は歌手だったが、カトリックの信者でもあった 

 沢明美は東京から横浜を経て神戸から京都にやって来た歌手だったが、彼女はカトリック教会の信者の一人でもあった。幼い頃に洗礼を受けたらしいが、何日、どうして、洗礼を受けたのかは定かではなかった。

 明美はジャズを唄った。クラシックやポピュラーや歌謡曲では彼女の心は痺れなかったし、全身を激しく揺さぶられることも無かった。ジャズだけが彼女の心に響いたのだった。明美は痺れて震えた自分の心の思いを、否、心そのものを、聴く人々に届けたいと思った。それが聴く人たちを癒し救うのだと信じていた。カトリックの教理は良く解らなかったが「救済」や「救い」は理解出来ていると考えていた。従って、彼女自身が自ら歌手を志した訳ではなかったし、ましてや、有名な歌手になろうなどとは全く思いもしなかった。

 明美の声は擦れるようにハスキーだったが、よく伸びる良い声だった。

だが、何処のステージでも求められたのは「誰よりも君を愛す」や「伊勢佐木町ブルース」或は「池袋の夜」といったムード歌謡だった。

「極く僅かのマニアしか知らないジャズなんか、うちの店には要らないよ!」

十曲歌っても一、二曲程しかジャズを唄わせて貰えなかった。

 明美は心の震えるジャズが唄える店を探して転々とした。ジャズを唄って痺れる心を届けることが聴く人への「救い」だとの彼女の思いは揺るがなかった。明美は何時しか東京から横浜へ、横浜から神戸へ、そして京都へと流れていた。気が付けば、波止場と礼拝堂と酒場とジャズが彼女の人生の必需品になっていた。

かくして、明美が全身全霊で打ち込んで来たのは、ジャズを聴いてくれる人々の「救済」であった。そして、とりわけ、今は、自分も自分の人生も信じなくなっている土門英の救済が第一だった。

彼女は或る晩、こう言った。

「こんな世の中なんて救いたくも何ともないわよ。土門英だけでも救えればそれで良いのよ」

それから暫くして土門英と沢明美は五条大橋の安マンションの一室で一緒に棲み始めた。

時々、未だ昼前に、「神」と「復活」について説いている明美と、上着のポケットに両手を突っ込んで黙々と聴いている土門英の姿が人々の眼についた。然し、彼にしろ明美にしろ、昼間とはあまり縁の無い人間だった。彼等の生活は街のネオンが灯る夕暮れと共に始まった。仕事を終えた人々が家路を急いで最寄りの私鉄駅に向かう頃になると、大抵、通りを隔てた向い側の橋の袂に、店へ出る前の土門英と沢明美が立っていた。

 

 ところがある夜、土門英は「祇園」に現れなかった。次の夜にも、そのまた次の夜にも現れなかった。彼は一月経っても姿を現さなかった。土門英が用心棒稼業に見切りをつけたことは明らかだった。その間の事情は誰も知らなかった。

 或る晩、「レッド・ハート」のカウンターの端に明美がたった一人、しょんぼりした顔で座っていた。

「彼は如何したんだ?」

常連客が訊くと彼女は言った。

「いっちまったのよ」

「死んだのか?」

「さあね、或る日、出て行ったきり、帰って来ないのよ」

もう二か月が経つ、と言う。

警察を初め心当たりの処を当たってみたが、何処へ行ったのか、まるで手掛かりが無い、とのことだった。

彼女は言った。

「家に帰ったんだと思うわ、どこか遠い所に」

彼女は何杯かのグラスを傾けた後に付け加えた。

「彼の身は神様が気遣ってくれる筈だから、それほど心配はしていないわよ」

だが、その口調は何処と無く自信無げだった。

「彼が姿を消す前に聴いたことがあったの、あんたは神様を信じる?って。そしたら、判らねえ、って言ったのよ。神様がどんなものか解らねえんだ、って。でもね、それにしちゃ妙だと思わない?あの人の両手は真実に・・・」

終いまで言わずに明美は口をつぐんだ。そして、静かにサックスを吹き始めた。まるで土門英の心をそれで度々癒したごとく、この世を癒そうとするかのように・・・

夜空には月が出ていた。土門英の両手が捏ね上げたような冴え冴えとした満月だった。

 

 一年後のある晩、土門英が数人の地回りと一緒に「祇園」に入って来た。

彼等は揃ってラップアラウンド・ジャケットに鋲打ちしたズボン姿で、ジンジェレラ・ハットを被っていた。中の一人に「悪魔」と言う通称の、性質の悪い男が居たが、彼は数年後、京都の刑務所にぶち込まれた。

土門英は誰彼と無く声をかけて、奥へ進んで行った。

「おう、調子はどうだ?」

「上々だぁな。あんたは最近何をやっているんだ?」

「俺か?俺はあれやこれやで、ぼちぼちとだ」

ニヤッと笑うと彼は「悪魔」達と一緒にカウンターの奥に消えた。

 その晩、「祇園」にはあまり良い女が居なかった。で、地回り達も引き上げることにしたが、連中はその前に、勘定の支払いのことでいちゃもんをつけた。

「俺たちは四人で一杯ずつしか飲んで無ぇのに、何故、十杯もの酒代が付いているんだ?あん?」

「いえ、確かにお客様はお一人二杯ずつお飲みになりましたし、ホステスにも二杯お奢りになりましたが・・・」

「そうかえ。それじゃ、摘みのピーナツとチョコがこんなに高いのも俺たちが袋ごと喰っちまったと言うことか?あん?」

「それは当店の格別に安い料金でご提供致して居ります、はい」

「悪魔」がカウンター越しにスツールを放り投げた。次いで、別のならず者がバーテンに灰皿を投げつけた。更に別の一人がハイネケン・ビールの看板を壊した。その間、土門英は両手をポケットに突っ込んで、涼しい貌で壁に凭れかかっていた。

身体を動かして気分が爽快になった地回りたちは店を出て行った。

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