北日本文学賞一次選考通過作

花鳥あすか

第1話

母からの贈り物は、葡萄紋の一輪挿しだった。父からの贈り物は、陶器の犬の置物。そして私からの贈り物は、紫の石がついたペーパーナイフ。両親は、このことを知らない。

今年の私の誕生日の晩餐は、極めて豪華に、とてもひそやかに行われた。

 生まれてきておめでとう。愛理という名前をありがとう。理を愛する。両親の期待を背負った体にお疲れさま。概念の数字に無理に喜んだ頭、おやすみなさい。

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私の心臓は、ストレッチャーのマットを揺らすほど、激しく鼓動した。脱力した虚ろな体に、救急隊員のおじさんが落ち着いた声で質問を重ねる。ぼーっという汽船のような音が響く耳は質問をうまく捉えなかったけれど、おじさんのトーンの定まった普段着みたいな声だけは、今もはっきりと覚えている。心電図は、異常をはっきりと示していた。去年から突然動悸が激しくなって、呼吸が苦しくなることが続いていたから、初めて病名を告げられたとき、私は大して驚きもしなかった。書類を見て、ああ、わかっていたわと思った。ただ少し、涙が出ただけ。私が治療の拒否を告げると、両親は泣き、医者は困っていた。治療を拒んだ理由はあえて言わない。両親が止めなかった理由も。あなたならきっと分かってくれるだろうから。

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 誕生日の贈り物には、両親の愛情が垣間見えた。私はお花を習っているから、母は一輪挿しをくれた。中でも葡萄紋を選んだのは、その意味に願いを込めているから。私は犬が大好きだから、父は陶器の犬のオブジェをくれた。それはアレルギーで犬を飼えない私のために、少しでもヒーリングをと考えてのこと。

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 私は恵まれた家に生まれた。父は若くして成功したいわゆる作家で、母は専業主婦。広い庭付きの大きな家、金銭的にも文化的にも豊かで幸福な少女時代を過ごした。かわいいお嬢さまと言われて、学校でも注目の真ん中にいて、誰からも愛された。素敵な年上の彼氏もできた。大切に大切に育てられた私は、蝶よりも花よりも美しく日々を楽しんだ。従兄弟と一緒に別荘の庭を走り回って、プールではしゃいで、私の幸福は無尽蔵だった。

 今は、私の体のたった一欠片、私に寄生するこの心臓に、すべてを邪魔されている。時には一日中私をベッドに縛り付けて、時には私の視界を暗くする。ただの臓器の分際で、と私は憤る。でも、寄生虫が宿主の言うことを聞く訳がなくて、私の怒りの音はいつも虚しく、部屋の壁に吸い込まれていく。

 だから私の贈り物は、ペーパーナイフにした。尊く麗しい私の体に巣食う虫を退治するために。高貴な紫の宝石が嵌め込まれた銀製のペーパーナイフは、それを見つめている間、私を夢の国へ誘う。そこでは私は儚く美しい存在で、ある高尚な理由によって自身の胸を宝剣で貫くヒロインになる。両親からの贈り物は高価で美しかったけれど、このペーパーナイフに敵う癒やしの力は持ち得ない。

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 私はペーパーナイフを牛革のケースにしまって、毎日登校する。私の通っている学園は校則や風紀が厳しいから、手荷物検査をされると厄介だけれど、私は優等生で通っていたし、先生に目をつけられることはなかった。これまでの私の生き方が、私の最期を決める布石になっている。そう思うと、弱って抒情的になった私の心は、人生の妙を感じずにはいられなかった。

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 教室から見る秋の校庭は、豊かな橙とおだやかにかわいた風に満たされて、涼しいけれど暖かい、矛盾した空気を纏っていた。私は教室から走り出でて、枯れた葉の絨毯に寝転びたい気分だった。そして、枝から落ちた可哀想な枯れ葉にこう語りかけたかった。分かるわ、その気持ち。でも、あなたは仲間が沢山いるし、何より潔い。私も出来るなら、あなたみたいになりたい。

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 空想に浸るうち、授業は終わりへと向かう。放課後になっても、話しかけてくるクラスメイトは、もういない。数週間前、私が自分で絆を絶ったから。理由は伝えなかった。ただ、もう私に構わないでと一方的に告げた。みんな良い子だから、怒りもせず心配してくれたけれど、私はその余裕ある思いやりさえも妬ましく感じて、飾ってあった花瓶を床に叩きつけた。するとみんなは私が変わってしまったことに傷ついた様子で、俯いて去っていった。その様子さえ、私は怒りを以て見つめた。清廉や希望の栄養を一杯に蓄えた胸をもっているから、わたしのことで傷つく余裕があるのでしょう。私の胸は、虫に食い荒らされてもう細り切って、傷だらけ、穴だらけだというのに。

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 灰色の道を独りで歩くと、当然家に着く。おとぎ話に出てくるみたいな赤い煉瓦造りの、芝と花が彩りを添える大きな家。私は大きなドアを開けて、両親にただいまの挨拶をする。両親はこれをよく思っていないみたいだった。車で送り迎えしてあげるから、と何度も言われたけれど、私が断ったから。歩きたいの。地面がちゃんと固くて、私の足が綺麗な線を描いて、その気になればどこまでも歩けるんだって思いたいの。私がそう言うと、両親は顔を見合わせて、悲しそうに頷いた。代わりに、学校から帰ってくるときは、必ず玄関で私を迎えるようになった。

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 とりかかっているピアノ曲の最初の音を鳴らす。ベートーヴェンの、テンペスト第三楽章。最初のラの音は、もの悲しい響きがあって、私の気分によく合った。そこから広がる、重厚で厳しい旋律。中盤の、幾何学模様の黒い迷路盤のような音の騙し合いは、私を不思議の国に連れていく。激しくて長い曲だから、弾き終えると私の心臓はドクドクと興奮して、私に美しいラストの余韻さえ感じさせてくれない。これじゃ、虫のために弾いているようなものじゃない。私はよくそう思うけれど、この曲には、耳を塞げない、指を止められない魔力がある。要するに私は、この曲を愛していて、虫が喜ぼうがなんだろうが、自分のためにこの曲を弾いているのだと思う。

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 夕食の時間になると、ちかちかとした人工の光が嫌いな私のために、ランタンに火が灯され、部屋の電気はすべて消える。薄闇の中で暖かく揺れる火は、私の虫を黙らせる。見えづらいだろうに、両親は文句の一つも言わない。むしろ、愛理ちゃんはやっぱりセンスがいいわねえ、なんだか毎日が特別な夜みたい、なんて笑って、幸せそうに料理を口に運ぶ。

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 夕食を終えて部屋に行くと、大抵はずっと横になって本を読む。中学生の頃は純文学が好きだったけれど、最近はもっぱらデカダン文学を読み漁っている。お気に入りはリラダンの『ヴェラ』。私の魂は、超自然的な物語に切実に救いを求めている。リラダンの文学はその意味において、重要な役割を果たす。私の同胞はそこかしこにいるのだという救い、最高のサンチマンタリスムを引き起こす、純然たる力を持っている。ポーも好きで、『アッシャー家の崩壊』には同胞への憐憫が溢れて止まらず、私の心はひどく癒される。

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 眠りにつくと、いつも必ず夢を見た。掠れた、優しいバリトンの声が私の名前を呼ぶ。「アイリー」。声の主は誰なのか分からない。でも私は、その声が好きだった。拍子を付けて、愉快そうに話すその声は、父のものとは違って心から楽しそうで、私はそこに安楽を見出すようになった。何もない部屋で、私はその声と思いのままに語らう。地獄に行ったことはある? じゃあ天国は? 私はどっちに行くのかな。私が声に聞くのは、いつも死後の世界のことばかり。

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 朝になって夢から醒めると、体はぐったりと疲れ、汗もかいている。意識は夢に帰りたいと駄々を捏ねて、ひどい時は学園を休まざるを得なかった。私の意識は段々と二つの形に分かれて、限りある現実の美しいものを見たい私と、無限の夢の海に浸りたい私とのせめぎ合いが始まっていて、その日は夢派の私が勝利した。

 夢にはまた、あの掠れたバリトンの声が現れる。アイリー、ここは好きかい? そう、なら、ずっとここにいたらいい。声の囁きに私の魂は絡め取られ、明るい奈落を目指して降りていく。気持ちがよかった。丸一日、夢に浸って今日は終わってしまった。

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 上から嗅ぎ慣れたハーブの香りがした。私は思わず夢から出て、私を見下ろしている父と目が合った。もうお昼になっているのに、父はおはよう、と微笑みながら、サイドテーブルに置いたハーブティーを私に差し出す。私が受け取って小さく啜っていると、父は愛おしそうに私を見つめる。愛理、お腹は空いているかい? 愛理の好きなライ麦パンの野菜サンドを作ってあるよ。その言葉に私のお腹はぐうっとなり、私はちょっと心からの笑顔でありがとう、と言った。

 一階のリビングに降りると、母はいなかった。お友達とランチだってさ、と父が教えてくれた。だからパパと二人きりだ。愛理のお願いは、全部叶えてあげるよ、と胸を張る。でもお父さん、原稿の締め切りは? 大丈夫、もう書き上げて、編集さんに渡したから。そう言って右手にできたペンだこをさする。父の仕事は異常に早い。父の仕草が嫌で、私はつっけんどんに、お願いは特にないと言って、ご飯だけ食べてさっさとベッドにくるまった。

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 父は今時珍しく紙とペンで執筆をしている。だから、父の書斎に入ると膨大な量の紙と沢山のインクが芳香を放っていて、そのなんとも言えないいい匂いが私は大好き。昨日はごめんね、今日はお父さんの書斎で過ごしたいな、そう私が言うと、父はいいよ、一緒に新しい万年筆をいじろう、と快諾してくれた。  

 父の書斎は、家の中で一番大きな部屋。ウォルナットの壁に、天井まで本がささった棚がぎっしり並んでいる。書き物机の奥には私の身長ほどもある縦長の出窓があって、父はそこから景色を眺めるのが好きらしい。書き物机の上は綺麗に整頓されていて、仕事道具の他に、三人で撮った家族写真が数枚飾られている。父らしく、どれも選りすぐった写真ばかりだ。父の仕事は、嘘をつくこと。そういう意味では、この写真の選択は、全くもって父を証明する最高の仕掛けだと思う。そんなふうに考えていると、父が出窓の片側を開けた。秋の風がひゅう、と入ってきて、木枯らしがかさかさと鳴り、父と私はうっとりとした。

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 母が買い物から帰ってきた。私の部屋を開けると、母は嬉しそうな顔で近づいてきて、私の肩にやわらかなカシミアのストールを掛けた。愛理ちゃんのために買ってきたの、とっても可愛いわ。似合ってる。やっぱり女の子はこうでなくちゃねぇ。黄色と黒のタータンチェックのストールは温かく、手触りもよかった。でもこれ、高かったでしょう、私がそう言うと、子供はそんなこと気にしなくていいの。ママからのプレゼントだから、大切にしてくれればいいのよ。母はそう言って、私の青白い頬を手のひらで包み込んだ。その時の私は、いったいどんな顔をしていたんだろう?

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 ご飯を食べた後、私はベッドであれこれと考えた。人間は、死の季節を前にすると頭が良く働くらしい。やり残したことをたくさん思いつく。私はむくりと立ち上がると、机から便箋を取り出し、想い人に手紙を書いた。これまで伝えられなかった思い、愛しているということ、そしてさようならの挨拶。手紙に丁寧に封をして、手紙をパジャマのポケットに仕舞い、眠りにつく。

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 今日の私は現実派だった。早く、この手紙を渡さなければならなかったから。はやる気持ちを両親に悟られないよう、いつも通りの顔で朝をやり過ごし、そそくさと家を出た。学校に着くと、私は一学年上のクラスに堂々と入っていき、目当ての男子生徒に手紙を渡した。周囲はひやかしの嵐だったけれど、そんな雑音は私には無関係で、私は男子生徒に、今日の帰りに、必ずお願いね。そう耳打ちして騒がしい教室を出た。

 ミッションを一つ達成した私は安堵して、保健室のベッドに横になった。そしてまた、あれこれと考えた。この手記は、どこまで書くべきだろう。死の間際まで記録したいけれど、それは普通に考えて無理な話。いつ終わりが来るか分からないというのは、不便なものだわ。とりあえず、この手記を隠す手間を考えると、あまり冗長にはやっていられない。残された不明瞭な運命の時間とたたかいながら、私は一世一代の企みを達成しようとしているのだから。

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 今日は父のハーブティーを断り、一人で書斎に篭らせて、と珍しくわがままを言った。父は驚きながらも承諾して、昼食ができたら呼ぶから、と言ってドアを閉めた。私は一番右の本棚にずらりと並んだ父の小説を眺めた。父はジャンルの幅を飛び越えて本を出す人で、器用な嘘つきだった。その器用さに絡め取られた作家志望は大勢いるだろう。その者たちのやるせない怨みは、きっとこの家を取り巻いているに違いない。立派な書斎を見渡すと、虚しい気持ちになる。思わず清涼な空気を求めて、出窓を開けた。季節は秋のまま、停滞している。一日一日が長く、一番好きな冬まで私は持つのだろうかと少し不安になる。ため息が出かけたとき、足音もなくノックの音が響いた。愛理、ご飯の時間だよ。驚いたことに、父はずっとそこにいたみたい。

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 ぼんやりと太宰の『女生徒』の一節を思い出す。私は、もう大人なのですよ。世の中のこと、なんでも、もう知っているのですよ……。その意味も心境も境遇も、全然違うけれど。こう思うと、私の脳というのは本というものに終始支配されているのだと分かる。望ましい理由と、望ましくない理由とで。

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 この頃の私の神経は病人特有の過敏に陥っていて、母が音を立てまいと努力してご飯を食べる姿に異様に腹が立った。一生懸命に頑張っているのに、口端からどうしようもなく漏れるくちゃくちゃという唾液の音が余計に下卑た印象を与えて、かなり不快だった。普通の育ちの人は、繕ったって上品にはなれないのに。私みたいに生まれながらにしてお嬢様じゃなければできないことはあるのよと意地の悪い笑みを浮かべてしまう。グラスをそっと置こうとする母の腕の筋肉の震えが哀れでおかしかった。思いきってくす、と笑ってみると、母は私が何に笑っているのかには気がついていない様子で、愛理ちゃんが笑ってくれると華やぐわねぇなんて言う。それがさらにおかしくて、私はその後はげらげらと下品な笑い方をしてしまった。

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 母は変な人だ。心に決めた要求があるくせに、それをしっかりと口に出すことをしない。大抵の場合、黙って相手をじっと見つめるか、褒めるか貶すかして自分の意志を伝える。父はそんな母の性格を面白がっていて、嫌な顔をすることはなかった。要するに、この夫婦はお似合いだ。

 今夜も母の口笛が聞こえる。今更のことだからもう何も言わないけれど、小さな頃、夜に口笛を吹くと悪いものが来るんだよ、と教えたときも、母はけろりとして、知ってるよ。そう言った。じゃあなんで吹くの、やめてと幼い私が訴えると、これはねえ、悪いものが私のところだけに来て、愛理ちゃんたちの所に行かないように、集めてるの。と真剣な顔で言った。私は呆気にとられてそれ以上何も言わなかったけれど、心では気味の悪い女だと思った。ずっと昔の記憶なのに、色がついて、やけにはっきりと思い出す嫌な話。

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 今日は休日だった。私は美容院に行き、腰まで伸びた栗毛をばっさりと顎のあたりで切り揃えた。髪というのは結構重いもので、切った後の頭は羽のように軽かった。切られた髪は丁寧に束ねられ、ヘアドネーション用のケースに仕舞われていった。また一つ、ミッションを達成した。私が生きた証がこの世に残る。髪には念がこもるというから、私も今のうちに念をこめておこう。新しい持ち主さん、どうか大切にしてね。声に出ていたようで、美容師は笑っていた。美容院は温かい笑いに包まれ、本当の幸福の渦の中心に私はいた。

 そうして爽やかな気持ちで美容院を出たけれど、母はなんと言うだろう。母は私のふわふわのロングヘアが好きだとことあるごとに言っていたし、女の子らしさにこだわるところがあった。母はがっかりするだろうか。母の悲しそうな顔を思うと、良いことをしたはずなのに、気持ちが悪くなり、道の途中で吐いてしまった。

 案の定、母は困惑の表情を見せた。愛理ちゃん、どうして? という短い言葉が、母の余裕のなさを露呈していて、私はごめんね、でも、私と同じ、何かに苦しんでいる人の役に立ちたかったのと言った。自分がなぜ言い訳をしているのかわからなかった。この年で、髪の長短で干渉される筋合いなんてないのに。これが呪縛というものなのだろうか。切ってしまいたい、こんなもの。心臓が、虫がドクドクと嗤い声を上げる。相変わらず、私はこの忌まわしい嗤い声を黙らせる方法を持たない。それで良しと病院を拒んだのだから、仕方がないけれど。すると突然、母に抱きしめられた。愛理ちゃんは本当に優しい子ね。ママ、愛理ちゃんを誇りに思う。母の抱擁は、一瞬で寄生虫を黙らせた。私は、ちょっと驚いた。

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 驚きは連続して起こった。今日は菜々子がお見舞いに来たのだ。あれだけひどいことをしたのに、まだ私を心配しているらしい。花かお菓子かぬいぐるみを持ってきたかったらしいけど、どれも私のこと病人扱いしてるみたいだからやめたって。菜々子は一番仲のよかった子。それだけに私のことをよく知っている。帰る時、勝手に来てごめんねと言われた。それが最後の挨拶になるって、わかってるだろうに。

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 広い家も、今の私にとっては移動が大変なだけ。工場みたいに乗り物があればいいのに。エレベーターはあるけど、狭い箱は嫌い。

 部屋の窓を開けてバルコニーに出た。バルコニーの下には母の庭があるだけ。流線を描いた芝に沿って白砂利。ガゼボでお茶をしている母が目に入った。母は私に気がつくと、笑顔で手招きする。私は手で大きくバツを作って引っ込んだ。誰が行くものか。

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 騒音にカーテンを開けると、ガレージの前に見知らぬワンボックスカーが停まっていた。家の前の道路工事をしているらしい。コンクリートを切る恐ろしげな騒音にもイライラしたけれど、何より家の敷地に勝手に車が停められていることに怒髪天、冷たい風に絶叫したい気分だった。きっと父が許可したのだろう。それでも私は許可してない。勝手に私のお城に入らないで! 体力が落ちて弱った私の肺から激しい音が出ることはなくて、風のびゅうびゅうという音に合わせてきゅうきゅう、ひゅうひゅうと慎ましく啼くことしかできなかった。悔しくて涙が出た。怒りが発露を諦めて湿度の高い悲しみに変化し、私の胸をじくじくと不快にさせた。それでも、もう乾いてしまったと思っていた目からまだ涙が出たことが新鮮で、不快感は数分のうちに消えた。その後はけろりとして、洋楽をイヤホンで爆音で聴いた。

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 秋の日々は私を焦らしながら、確実に過ぎてゆく。とうとう冬にさしかかってきた。このごろ、私は発作で倒れることが多くなった。春を迎えることはできないらしい。学園は辞めた。今日は久しぶりに文字が書けてとてもうれしい。

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 インスタグラムとラインのアカウントを消した。

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 暖炉の火は気持ちがいい。踊る。自由に踊る。かわいいダンサー。冬の醍醐味その一。私が夏が嫌いな理由。お芋を焼いて、マシュマロ焼いて、かわいいダンサー。いいよー。とろとろ踊る。ひゅらひゅら踊る。尖り耳の悪魔ちゃん。

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 犬を飼いたい。白いポメラニアンが好き。白いポメラニアンは遺伝学的に体が弱いらしい。でも、私が白ポメを好きな理由はそこじゃない。ただ、かわいいってだけ。

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 手紙の行方が気になる。あの時、彼はどんな気持ちだったんだろう? ごめんねが言えなくて、今更申し訳なくなる。

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 暇だったから、父の万年筆を一本くすねてきた。君は嘘つきの助手さんね。申し訳ないと思わないの? 丁寧に手入れまでされて。ああ、強制されているだけなのよね。君に意志なんてないもの。そこで会話終了。

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 私って嫌な子だと思う。間違ってもかわいそうな子じゃない。嫌な子の方がずっといい。もし私のことかわいそうなんて思ったら、あなたのこと絶対に許さないから。

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 スマホで、いろんな施設に寄付をした。もうすぐ死ぬからじゃない。昔からやってる、毎年のルーティーンだから。子供も犬も猫も、みんな大好き。お金で買える幸せがあるって、とてもいいことだと私は思う。平和な日常でしか成り立たない奇跡みたいなこと。

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 ろくでもない文章しか書けなくなっている。反省。前みたいにちゃんと書きたいのに、出てくるのはへんてこな言葉ばかり。こんなのじゃだめ。

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 東京は雪があまり降らない。あまりというのは私の感覚だから、そこを突いて意地悪を言うのは悪趣味というもの。雪が降るというのは、蓼科のような景色。小川に雪の塊が留まって、黒い岩石と白い雪塊のチェスゲームが始まること。真剣勝負の中で水は呑気にちゃらちゃらと流れて、寒さに朽ちた黒木に命を与えている。そういう景色がいい。そういう自由さがいい。春来ずとも、雪見が叶えばそれがいい。

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 文字を書くのが辛い。書きたいこと、まだたくさんある。

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 今日も無理。ごめんなさい。   

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 久しぶりに鏡を見た。顔色は質の悪いクリスタルみたいに青く濁ってた。唇もひどかった。でも歯磨きをしたら、歯ブラシの柄の部分が擦れて、濃い桜色になってた。見惚れた。でも時間が経つと色も水も飛んで、元のしぼんだ菫色に戻った。

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 自分だけが幸せの渦から弾き飛ばされた気分。他人の口は笑うのにどれだけ筋肉を使って疲れていることだろう。私の唇は力無く、重い。重力に引っ張られて顔中を巻き込もうとするものだから、私の頬や瞼はいつも垂れている。顔は地球の力で簡単に醜く変わる。それに負けないようにするには、いつだって真っ直ぐを見て、明るく笑っていなきゃいけないんだ。

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 雨の日は小気味がいい。みんな一斉に頭が痛くなるから。

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 今日は晴れた。風に揺れる髪は優しい。髪束が薄くばらけて、金の糸は光を透かしてきらきら輝く。垂れ下がった目に入る小さな喜びの一瞬。

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 最近、夢を見なくなった。そもそも眠れない。あの声をもう一度聞きたい。

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 熱が続いている。眠ると体が熱い。枕が臭い。気持ち悪い。暖炉の火もうっとおしくなってきた。私の中で暴れまわる火は何の火? 心当たりがありすぎて愚痴の一つもこぼせない。冷たい水を飲み過ぎてお腹を下した。ずっと同じことばかりしている気がする。

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 代わってあげたいだって。代わってよ。

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 死に向かう苦しさなんて誰が好き好んで体験するの 

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 戦争のニュースばかりで嫌になる。罪のない人たちがどうして犠牲にならなきゃいけない? 欲に脳を支配された奴ら、昨日の一文、声に出して読め。五千万回書き取りしろ。そうしたところでお前らは人間失格だけど。

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 私って本当にしぶといと思う。車に轢かれても病気になっても結局生きてる。こんな風に。熱はもう測るのをやめた。時間の無駄だから。

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 私が私に生まれてよかったと思う。他の誰もやりたがらない雑草取りみたいな人生。

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 怒ったりむなしくなったりで疲れる

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 『聞こえる』を聞いて泣いた。物心ついた時からずっとどこかに戦争や紛争がある。何もできないまま私は死んでいく。一昨日の私が恥ずかしい。私になりたい人は世界中にたくさんいるのに。ごめんなさい。渡せるなら渡したい。何もできなくてごめんなさい。

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 本当は何も諦めたくないのに、心も体も言うことを聞かない。私は間違えてしまったのかな。間違えてなんかない。

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 死に直面した時の最大の感情は恐怖と嫉妬の二つ

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 うつしくしぬなんてありえないからやめてね

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 たてしなにはいけないみたい 雪がみたい

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 すくわれますように

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 少し元気になった。そろそろ、この手記は終わりになると思う。あなたがいるからここまで頑張れた。ありがとう。もっと書きたいけれど、確実にこれを隠す時間が必要だから、そっちを優先することにする。父から私の物語を守って、世に出してくれた姉さんには感謝する。ありがとう。これは予言。

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 それじゃあ今夜もおやすみなさい。私、あなたとお友達になれると思う。私のこと、できるだけ書いた。辛い夜、私を読んで。悲しい夜、私を読んで。私はそのたびに目を覚ます。何度も何度も生き返る。東京を探しても意味はない。蓼科にももちろんいない。でもあなたの一番近く。あなたの心に私はいるよ。


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北日本文学賞一次選考通過作 花鳥あすか @unebelluna

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