神宮 or 環

「久しぶりだな、那生」

 奈良崎が他へ席を移ったタイミングで、神宮が声をかけてきた。

 唐揚げを頬張ったばかりだった那生は、不意打ちでかけられた声のせいで喉を詰まらせてしまい、ケホケホと咳き込んだ。

 咽せていると大きな手が背中に触れ、「大丈夫か」と撫でてくれる。

 そんなことされると別の意味で苦しくなるというのに、人の気も知らないで。

 顔を見て、声を聞いて、触れられてしまうと思い知らされる、まだ神宮が好きなんだ……と。

 大学から今日までの年月を以ってしても、この男のことを忘れられなかった。だからこの気持ちを悟られないよう、今日を乗り切らなければならない。

 背中に伝わる手の温もりを恨めしく感じながら、自分を奮い立たせた。


「高校の卒業式依頼か、こうしてちゃんと会うのは」

 背中越しに問われても振り返ることができず、「そ、そう……だな」と、ひと言だけ返した。

 俯いておしぼりをくるくる丸めては解く、意味不明な行動をしながら。

「同じ附属病院の大学って言っても、キャンパスが別だと、全然お前と会えなかったもんな」

「……だな」

 なんとか顔を上げると、いつの間にか横に戻っていた神宮と目が合った。ウェーヴのかかった髪が頬にかかるほど顔を傾け、ジッとこっちを見つめてくる。

 そんな風に見られると、押さえていた気持ちが逆行してくるじゃないか。

 心の中で叫んでも、無視することも立ち去ることもできない。せめてこれ以上惨めな思いを気取られないよう、那生は自分を鼓舞して必死で耐えた。



 同じ大学へ進学したものの、那生は医学部、神宮は薬学部でキャンパスは別の場所にあった。顔を見たのは入学式の時と卒業式の時だけ。それもチラッと那生だけが盗み見た程度のもの。

 卒業までの六年間、那生は一度も神宮に会おうとはしなかった。

 神宮だけじゃなく、晃平や友弥から誘われても、勉強や実習を口実に会うことを避けた。彼らに会ってしまうと、きっとそのことは神宮の耳にも入る。

 卑怯だとは思った。寂しさも味わった。けれどそこまでしなければ、蓄積された思慕は消えてくれない。

 医学部を卒業すれば、それだけの年月が経てば、親友に抱く厄介な想いも萎んでくれるはず。

 会わなければ、声を聞かなければ、きっとこの恋は忘れられる。

 ノンケに恋をしても、報われないことは当たり前の世界なのだから。

 友情を引き換えに実行した一世一代の計画だった。

 なのに、ひと目見ただけで、封印していた気持ちは振り出しに戻ってしまった。


 グラスの中の琥珀色に顔を落とし込んでいると、不意に細い指が目の前に現れ、前髪の砦を指でかき分けられた。

 驚いて背中を仰け反らせながら、「な、なにっ」と、睥睨を向けてその長い指を払いのけてしまった。

「いいや、何でもない」

 行き場の無くした手を見つめる姿に同情しても、気軽に触れられたらこっちが困る。必死で保っている平常心が水の泡だ。

 高校の時も平静を装うことに随分時間を費やした、まるで滝行でもするかの如く。

 大学と違って四六時中、好きな相手が側にいるのだ。いきなり肩を組まれたり、ペットボトルを共有しても、平然といられるように強固な精神を習得した──つもり……だった。

 結果、十年のブランクはあっけなくリセットされてしまったが。



「でさ、三年の学祭の後、神宮が何人に告られたか知ってっか、那生?」

 自分の感情に翻弄されていると、いつの間にか向かいの席から移動してきた晃平が、思い出話に花を咲かせようと神宮を標的にして会話を進めていた。

「さ、さあ。百人くらい?」

「ブッ! お前、いい加減過ぎだろ。スルメばっか嚙んな、もっと俺の話に関心持てよ」

 グラスを空にしてはどんどん注がれるビールの力を借り、那生は適当な返事でこの話を乗り切ろうとしていた。

「無駄だ、晃平。那生はそんな話に興味はない」

 頬杖をつく神宮に半ば呆れながら言われても、那生の気持ちは正反対だった。興味あるに決まっている。


「四人だろ? ……告ってきたの」

 思ったことと異なる言葉を口にし、やるせない思いになった。

「お、よく知ってんな。さすが親友同士っ」

「ぐ、偶然告られてるとこ見たんだよ、後はマネージャーから聞いたし」

 学祭のあとだけじゃない。何でもない昼休みや放課後も、神宮に告白する生徒は何人もいた。中には男子も……。その瞬間を目撃する度、神宮がいつか首を縦に振るのではと気が気じゃなかった。

 断ってくれると胸を撫で下ろし、そんな自分を浅ましくも思った。


 体育館裏にばっか呼び出されてたもんな。嫌でも目にするってーの。


 体育館のドアの向こう側で告白を受ける神宮。そんなシュチュエーションを目にする度、バスケに集中なんてできるわけなく、ヘマばかりしていた。

「あの、一個下のかわいいバスケマネな。あの子も神宮狙いだったんだろ」

「さあ、どうだろ」

「那生は部活が一緒なんだからわかるだろ? あの子が神宮を見る目を」

 知っている。当然気づいていた。だからこそ告白現場を見つけると、わざわざあの子は那生まで報告しに来るのだから。親友だから仲を取り持ってほしいとも言われたことがある。勿論、さりげなく断ったが……。


「神宮は上級生や他校の生徒にもモテてもんな。那生は那生で、バスケ部の可愛い先輩って騒がれてたし。俺なんか野球部主将って肩書きも、ただのむさ苦しさをアピールしてたようなもんだったわ」

 唇を尖らせて不貞腐れる晃平を見兼ね、刈り上げたフェードスタイルの坊主頭を大袈裟に撫でてやった。

「ひがまない、ひがまない。神宮がモテるのは入学した時点で分かってたろ? それに俺のはマスコット的に騒がれてただけだし。俺はこーへー好きだかんな」

 同窓会に参加しつつ、店長としての仕事をこなす晃平を慰めると、「やっぱ那生だわ。俺の唯一の癒し」と、抱きつかれた。

 自分勝手な理由で連絡さえまともにしなかったのに、まるでそんな過去などなかったように自分を受け入れてくれる晃平に、心の中で頭を下げた。そして参加してよかったんだと、しみじみ思った。やっぱり、気心知れる友達と過ごすのは楽しい。


「けど、そんな難攻不落な神宮環を落とした女子いたよな。生徒会副会長の才女。あれは意外だったな」

 そう……。神宮が唯一、交際した相手。彼女とどんな経緯で付き合うことになったのか、知りたくもなかったからその話題には一切触れなかったけど。

 晃平伝てにそのことを知った時は、胸が抉られたような痛みを味わったのを今でも覚えている。

 教室から眺めた校舎の隅、部活のランニングの途中、色んな場所で彼女と一緒にいる神宮を見た。そんな二人を見て、那生は腹を括った。

 卒業するまで耐える、そして大学に行ってキレイすっぱり神宮のことは忘れると。けれどそんな決意も虚しく、いつまでも叶わない恋を引きずっている。


 ヤケになるよう、ビールを一気に呷った。

 色白な肌が首筋まで一気に赤く染まり、頭がぐわんと揺れる。弱いくせに今日はかなり飲んでしまった。

 神宮の恋バナを聞くと飲まずにはいられないし、酔っている方が色々と言い訳もできる。

 グラスが空くと、晃平がまたビールを注ごうとし、那生は無意識にグラスを持った。すると手の中がふと軽くなり、変わりに烏龍茶のグラスを握らされていた。


「ちょ、ちょっとたま──神宮、何すんだよ。俺まだ飲みたい」

「いいからやめとけ、お前、酒弱いんだろ」

 涼しい表情から一変し、真面目な顔をする神宮に見据えられた。その眸に抗えなかった那生は「……分かった」と、渋々烏龍茶で唇を湿らせる。

 汗を掻いているグラスを火照った頬にあて、油断すると丸裸にされそうな気持ちに蓋をすると、那生はやっぱり酔った方が都合がいいなと思った。


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