親友……

「那生、仕事はの方はどうだ」

 宴も中盤に差しかかり、生徒一人ずつに声をかけていた奈良崎が、那生の横に腰を下ろし尋ねてきた。


「まあまあですよ。毎日こき使われてますけどね。先生こそ、まだ若いのに教師辞めるなんて勿体ないですよ」

 奈良崎にビールを注ぎながら、那生は心から残念そうに言った。

「相変わらず那生は素直だな。お前にそんな事言ってもらえるだけで十分だよ」

 以前よりシワの増えた手で頭を撫でられると、高校の頃を思い出し、月日が経っても変わらない恩師にくすぐったさを感じた。


「俺……ずっと先生にお礼言いたかったんです」

「何だ改まって」


 熱気が充満してきた部屋に耐えかね、ジャケットを脱ぐ奈良崎に、誠意を込めた視線を向けた後、崩していた足を折りたたんだ。

 長年募らせてきた感謝を改めて口にするのは、ちょっと照れる。


「高二の時……俺の親が死んだでしょ。あの時、自分には頼れる人が誰もいなくて、生き方すら分からなくなってました。あの日、屋上で先生が声をかけてくれなかったら俺は……。だから今の俺がこうして生きてるのは先生のおかげなんです。本当に……ありがとうございました」


 少しほろ酔いになった那生は、ずっと言えなかった言葉を、少しのアルコールに後押しされて口にした。


「お前はよくやったよ。元々頭が良かったけど、努力して医学部に合格し、医者にまでなったんだ。親御さんもさぞ喜んでることだろう」

 幼い子供をあやすよう、奈良崎に頭をくしゃりと撫でられると、十年前にもらった温もりが蘇って鼻の奥がツンとなる。


「もう子供扱いやめてくださいよ、俺もいい大人なんですから。それに先生が医者の道を進めてくれたんですよ。でも先生……、学校辞めたらどうするんですか? 隠居にはまだ早いですよ」

「ははは、隠居はまだ遠慮したいな。でもまあ、そういう事になるのか?」

「どう言う事です?」

「いや、娘がさ結婚して子供が出来たんだよ。まだ妊娠五ヶ月程なのに、あいつも働いてるから孫の面倒頼むって今から言われててね」


 シワを深く刻んで表情筋を緩ませる奈良崎を見ると、那生は自分のことのように嬉しく思った。

「おめでとうございます! 先生もとうとうおじいちゃんですね」

「はは、おじいちゃんか。何だか照れるね」 


「おじいちゃん、おめでとうー!」

 背後から聞き覚えのある声が突然降り注がれ、全身に電流が駆け巡った。

 背中に近付く気配、心地いい低音。それらを合わせ持つ存在に、体の内側に刻み込まれていた甘美な記憶が蘇ってくる。

「おっ、姿が見えなかったから来ないのかと思ったよ」

 奈良崎の言葉に答えるよう笑顔を返すその人物は、何の迷いもなく那生の隣に座ってきた。

 僅かな隙間を隔て、立ち込める懐かしい香り。それが鼻腔に届くと、熱された血流が猛スピードで静脈を流れてゆく。


「ようやく神宮環じんぐうたまきのお出ましか。お前、遅かったなー」


 新参者の来訪に気づいた晃平が、グラスを片手に那生の向かいに座ると、さっそく神宮にビール瓶を差し出している。


「悪い、遅れて。急に教授から仕事振られたんだ」


 晃平にビールを注がれながら、ゴムで束ねていた髪をほどき、手でほぐす姿をこっそり盗み見した。

 解放された髪からベルガモットが漂い、涼やかな目元には漆黒の睫毛が、墨をひいたようにエキゾチックな色香を放っている。グラスを持つ、あの長い指でもし触れられでもすれば、誰しもが簡単に蕩けてしまうだろう。

 大人になった神宮は更に完璧さを増し、いとも簡単に那生の心臓を脅かす存在になっていた。


「大学講師も大変だな、早く出世してお前もこき使う側になりたいだろ」

「そうでもない。俺は出世とかに興味はないし」

 グラスを一気に空にした神宮が、濡れた唇を手の甲で拭った。ちょっとした仕草にも艶っぽさが滲み、自分の視線が無意識に神宮を見ていたのを誤魔化すようビールを呷った。


「俺はこのポジションで充分。気楽だしな」

「相変わらず飄々としたやつだよ、お前は」

 友人として接する晃平を羨ましく思いながら、感情を複雑化させてしまう自分を疎んだ。


 どうか、このままあいつに話しかけられませんように──。


「神宮も変わってないな。何だかホッとするよ」

 安堵したような奈良崎の言葉に反応し、那生がチラリと二人に視線を向けると、なぜか神宮の目と絡まった。


「はい、変わらないですよ。俺はずっと……」


 奈良崎と杯を酌み交わしているのに、どうしてこっちを見てる。

 耳朶が熱くなり、頬が高揚するのを自覚すると、慌てて目を逸らしてしまった。そしてすぐあからさま過ぎた態度をとったと後悔をした。

「これで全員揃ったな! はい、カンパーイ」

 頭の上から大瀧の声が聞こえ、何度目かの乾杯が那生を救済するかのよう、座敷内に轟いた。

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