隣の席の坂本くんが今日も私を笑わせてくる。
春永チセ
第1話「隣の席の坂本くん」
1
きみの笑う顔が、見てみたい。
☺︎
私には、現在進行形系で大きな悩みがあります。
家から歩いて20分の高校に入学して早一ヶ月半。
可もなく不可もない、至って平穏で筒がなく送っていた高校生活を脅かす存在。
“それ“は、唐突に襲来したのです。
☺︎
朝のホームルームが始まる二分前。
挨拶行き交う教室の窓側の席の、一番端っこが私の定位置です。読みかけの文庫本を広げて、先生がくるのをただ待つのみです。
ふと、隣を伺うと、まだ誰もいません。
いよいよ一分前になって、談笑していたクラスメイトたちが各々の席に戻り始めたその時、がらっと唐突に教室のドアが開きます。
私は本に熱中していて、クラスメイトたちのざわめきに全く気づいていませんでした。遅刻ギリギリで走ってきたのか、ぜーぜーと荒い呼吸を繰り返しながら、彼は空席だった隣の席に着席しました。
「倉橋さん、おはよう」
ここら辺では聞かない独特なイントネーションで、挨拶してきました。あいにく、このクラスで友人と呼べる人間は私にはいないので、こんなふうに気安く話しかけてくる人物は1人しかいません。
私は読んでいた本をパタンと閉じて、顔をあげました。
一応は挨拶を返すべきかと、口を開いた、私は固まりました。
馬でした。
見紛うことなく、馬でした。
私の隣に馬が着席していました。今にもヒヒンと聞こえてきそうです。
いえ、気が動転してしまいましたが、正確に言うならば馬の被り物を被った、隣の席の人です。しばらく馬と顔を付き合わせるという摩訶不思議体験の最中、ホームルーム始めるぞーと教室に入ってきた担任の声でハッと我に帰ります。先生の視線が、私の隣人に向けられます。一瞬ポカンとした顔になりますが、またかと言いたげにため息をつきます。
「坂本、今日は一段と視界が悪そうだな」
「息もし辛いです」
「……、そうか」
その後何も注意することなく点呼が始まりました。クラスメイトも慣れた様子でこちらに向いていた身体を向き直します。
隣人も一言も発せず馬のマスクを取りました。
乱れた髪を雑にバサバサ手で払う隣人へ、一言。
「よかったですね、通報されなくて」
「職質はされたで」
手遅れだった。
「二回」
……だから遅刻ギリギリだったんですね。
口に出すまいと言葉を飲み込みました。
彼こそが私の平穏な高校生活を脅かす存在。
それこそが、
☺︎
坂本くんは、高校一年生の5月中旬という微妙な時期に関西から転校してきました。
人好きのする柔い笑みに利発で活発そうな陽の雰囲気が全身から溢れ出す彼は、女子生徒からはもっぱらの評判で、転校初日から噂を聞きつけた別クラスの生徒がひっきりなしに来訪するほどでした。しかも初めは懐疑的だった男子生徒ともすぐに打ち解けてしまうのだから、彼は生粋の陽の者だったのでしょう。
入学して一ヶ月半、友人もできず教室の隅で暇さえあれば勉強か読書をする私こと、
たまたま空いていた隣の席に彼がやってこなければ、一年を通して話すことはなかったはずです。
「先生、教科書まだないっす」
「あー、じゃあ悪いけど、隣のー……、えっと、教科書見せてやれ」
ひらりと上げた手を下ろして、坂本くんは振り返りました。ぱちんと合わせた手のひらの横から顔を出して、眉を下げていました。
「倉橋さん、ごめん! 教科書届くん来週やねん。今週だけ一緒に見して?」
「……はい」
「ありがとう」
これが、坂本くんとのファーストコンタクトでした。
遠慮なく机をつっつけて移動する坂本くんを横目に、少しだけ動揺している自分がいることに気づきました。
一ヶ月半経っても未だに先生に覚えられていない私の名前を、転校初日の彼が呼んだのです。
彼と私の机の間にできた隙間に教科書の背表紙を差し込んで、ひとつの教科書を分け合います。
「あ、」
ふと、坂本くんが声をあげました。
声をひそめて、私にだけ聞こえるように。
坂本くんの指先が私のノートの表紙を、とんとん、と叩きました。
「倉橋さん、下の名前、侑子って言うん?」
「……はい(侑子って家族以外に初めて呼ばれた)」
「えっ、めっちゃ偶然」
「?」
「俺の下の名前、
坂本くんは、ふふん、と鼻を鳴らします。
「一緒やね、俺たち」
どうしてだか、私はとてもたじろぎました。
彼の純粋無垢な笑みが直視するにはあまりに眩しすぎたと思います。
「親しみを込めて侑くんって呼んでもええよ〜」
にこにこする坂本くんに影が差したことで、私は我に返りました。
「坂本くん」
「えっ、ガン無視ひどない?」
「坂本くん、後ろ」
「後ろ?」
「転校初日から口説くな坂本ォー!」
坂本くんの背後に立った先生が、手に持った教科書を容赦なく振りかざします。
小気味のいい音と共に、坂本くんがいだっと情けない声を上げると、わっと教室に笑い声が溢れました。
クラス中の視線がこちらに向けられる居心地の悪さを感じながら、私はああ、早く席替えしてくれないかな……とひっそり思うのでした。
☺︎
話が脱線してしまいました。
そうです、私の悩みについてです。
そんなこんなで、初日からの1週間、私は坂本くんと教科書を分け合うだけの関係でした。授業中以外で話しかけてくるのは、おはよう、とまた明日、くらいなもので、至って平穏な高校生活を送っていました。金曜日を最後に坂本くんとの会話もさらに減ることでしょう。何せ頼んだ教科書が届けば、私はお役御免です。やっと息が付けると、軽く考えていたのが、短絡的過ぎたのです。
彼が奇行に走り出したのが、転校してから2週目の月曜日のことでした。
その日、日直の当番が回ってきた私は、いつもより少し早く登校しました。
当番はふたりペアで、隣の席の人とやることになっていました。つまりは、坂本くんです。
日直といっても、仕事は多くありません。黒板を綺麗にして、花瓶の水の入れ替え、日誌を取りに行く、クラスに配るプリントの印刷くらいなものです。
坂本くんはプリントの印刷と日誌を取りに職員室へ。
残された私は、誰もいない教室で黒板を掃除して、黒板消しの粉を払うべく、窓側へ向かいました。両手に嵌めた黒板消しを合わせ、ぱんぱんと払っていると、教室のドアが開く音がしました。
おそらく、職員室から戻った坂本くんでしょう。
振り返ったら坂本くんと何かしら会話をしなくてはならないと思った私は、すでに粉の出なくなった黒板消しを何度も叩き合わせます。
話しかけるな話しかけるな、と唱えていた私の念はどうやら彼には伝わらなかったようです。
「倉橋さん、倉橋さん」
流石に無視するのは、良くありません。
私は諦めて、声のする方を振り返りました。
「なんで、」
すか、と続けようとして私は言葉を失いました。
その時、私は人生で初めて意味がわかならなさすぎて、恐怖を感じました。
なぜなら、彼は――全力で変顔をしていたからです。
俗に言うイッちゃってる顔です。
「えっ……な……」
怖ッ……。
動揺の余り、私は後退りしました。しかし、後ろは窓です。逃げ場がありません。
何ということでしょうか。私の人生ここで終わりかもしれません。
手から力が抜けて持っていた黒板消しの片方を、ぽとり、と落としてしまいました。それは、あろうことか彼の足元まで滑っていきます。
ただならぬ緊張感の中、坂本くんはスンっと表情筋を正しました。the真顔です。
意味が分かりません。怖すぎます。
足元の黒板消しを拾い上げると、私の方に差し出しました。
「落ちたで」
「……どうも」
いきなり変顔をかましてきた坂本くんは果たして同一人物なのか、疑いたくなるほどいつも通りの坂本くんです。
彼が何を考えそんな奇行に走ったのか、質問を投げかけようかとも思いましたが、タイミング良く(悪く?)、教室にクラスメイトが入ってきて、止めることにしました。
そして、改めて私は思ったのです。
怖いから関わらんとこ、と。
☺︎
翌日、登校した彼の机の上には一つのりんごが置かれていました。
幸い、彼は何かの用事でしょうか、机には着席しておらず、りんごが一つ取り残されていました。
今日の授業に美術は無かったはずです。デッサンで使用しない限り、丸ごとのりんごを学校に持ってくる理由が分かりません。私が知らないだけでこの高校では馬や牛でも飼っているのでしょうか。いえいえ、ここはそんな放牧的な立地ではありません。
もしかして……お供え物……?
私の知らぬうち、坂本くんはお亡くなりに……?
ですが、そういった不幸事の場合は、花を添えるのが一般的ではなかったでしょうか。
何故、りんごなのでしょうか。転校して数日にしてクラスメイトを掌握し新興宗教でも立ちあげ、教祖として祭り上げられならない限り、お供え物を差し出されることはない気がします。
だとすれば、坂本くんはアメリカンスタイルの朝食を嗜む方なのでしょう。アメリカの方はランチはりんごとサンドウィッチが定番だと英語の教科書に載っていましたし。
「倉橋さん、おはよう」
噂をすれば坂本くんです。
なるべく平静を装って、私ははい、とだけ返事をします。
いけません。昨日、彼とは極力関わらないようにと誓ったばかりです。たかだか机にりんごがひとつ置かれているくらいなんだというのでしょう。
ああ、ですが、気になってしまう自分がいるのも確かです。彼はりんごに対してどんな反応をするのか。
ばれないよう横目で、彼の動向を確認します。
「ふぁ〜ねむっ……」
大きなあくびをして目をこするその間にも、彼の前にはりんごが鎮座しています。
私はその様子を固唾をのんで見守ります。
そうして、おもむろにりんごを手にしました。
やはり、食べるつもりなのでしょうか?
学校でりんご丸ごとかぶりつくスタイルは些かお行儀が悪いような気もしますが、それは私には全く関係ないこと……などと私が考えている間に、彼は何を思ったか、手にしたりんごを口の中に──ではなく、鞄の中に仕舞い込んだのです。
そして、何事もなかったように私に問いかけます。
「一限なんやっけ?」
「……、現代文です」
「まぁじか〜、今日朝飯食ってへんからやばいわ。秒で寝てまう」
「……」
口を噤み、私は天を仰ぎました。
そして、心の底から思うのでした。
じゃありんご食えよ……、と。
☺︎
それから、彼の奇々怪界な行動は止まることを知りませんでした。
翌日、彼はゴーグルを装着して着席していました。
ええ、そうです。プールの際に使う、アレです。
ちなみに現在、6月初旬です。気が早いにも程があります。しかも我が校には水泳の授業はありません。
全く解せないのは、クラスメイトが彼の奇行に無反応なことです。ゴーグルを付けた彼の横顔をみて、視線を黒板に戻します。
ひょっとして、この教室で正気なのは私だけ……?
ひとりでに頭を抱えますが、この頭痛のタネが次第に大きくなることを誰が予想したでしょうか──
翌日、『よく分かるゲートボール』というタイトルの冊子を坂本くんは真剣な眼差しで読み耽っていました。
再三いいますが、我が校にゲートボール部はありません。
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