青春の終わりと何かの始まり
よんにーにー
青春の終わりと何かの始まり
見慣れない教室。
普段の教室で使っている机とは違い、隣の人とくっついた長机。椅子はいつものと似ているが、やっぱり少し作りが違う。
それが何となく普段の高校のそれよりも機能的に見えて、大学っぽさを感じてしまう。
教室の前には大きなホワイトボードがある。そこには紙が何枚か貼ってあり、横に大きく開始時刻が書かれている。
机の上の腕時計を見ると、あと一分を切っていた。
集中しないといけない。しかし昨晩は遅くまで勉強していたせいで、どこかぼんやりしてしまっている。
前日に詰め込むなんてダメだと分かっていても、どうしてもやめられない。
適度な緊張が教室に漂っている。
着席している高校生達の前には、マークシートと問題冊子が置かれていた。
「始め」
やがて声と同時に、皆が一斉にその冊子を開いた。
季節は夏。
この模擬試験の会場に来るまでにかいた汗が、服の内側でじっとりしていて気持ちが悪い。
現在は受験生にとって天王山などと言われる夏休みの真っ最中だ。
もっとも理系の私は、天王山が何なのかあまりよく知らない。
◇
バスを降りると、むわっと暑い空気が全身を包んだ。
模擬試験の手応えはあまり良くなく、ただでさえ落ち込んでいたところにこの暑さ。ぐったりしてしまう。
「はぁ……」
歩きながらため息を漏らす。
もう夕方なのだが、夏らしくまだ日は高い。
首筋をジリジリと太陽が焼く。連日の勉強で疲れの溜まったこの身体は、その熱で思わず蒸発してしまいそうだった。
「あ!」
声が聞こえた。
「
「……
よく知った女の子がやってくる。
近づくに連れ、自然と私の顔は上がっていった。
出会った頃から一千奈は背が高く、背の順で並ぶと常に最後尾になる。対して私はいつも先頭だ。
話をするにはどうしても首が痛いほど見上げる必要が出てくる。
「今日も制服ってことは、夏休みなのに授業があったの? 進学校は大変だねぇ」
「いや、今日は模擬試験で授業じゃない」
「そうなの? それより、ちょっと寄っていこうよ」
私の返答を聞き流しながら、ちょうど目の前にあった喫茶店を指さした。日本中に展開している有名チェーン店の一つだ。
一千奈は背が高く、勉強が苦手で、そしてちょっとふわふわした性格の女子高生だ。
私とは真逆な気がするが、それでも私にとって親友とも言える存在だった。
◇
「受験生は大変だねぇ」
フライドポテトを咥えながら、一千奈が言う。
「……いっつもそう言うけど、就職だって大変でしょ?」
「いや、私はもうほとんど決まってるから大丈夫」
「そうなんだ……」
私の周りでは皆、大学受験のための勉強にてんやわんやしている。
進学校ではそんな日々が当たり前のため、商業高校の全く違う話を聞くとぽかんとしてしまう。
中学生の頃に、一千奈はすぐ近所に引っ越してきた。
性格はだいぶ違ったが、何となく仲良くなっていった。
私は人付き合いが得意ではなかったが、なぜか彼女とはうまくいっていた。相性がいいんだろうと思う。
しかし、勉強があまり苦ではない私に対し、彼女は勉強が大嫌いだ。高校進学のタイミングで彼女と離れてしまうのは仕方のないことだった。
別の高校に通いながらも、こうしてたまに交流は続いている。
高校生になっても人付き合いは苦手なままで、友達もほとんどできていない私にとって、それはとてもありがたいことだった。
「そういえば、冬乃ちゃんの志望校ってどこだっけ? 頭が良いし、やっぱ凄いところに行くの?」
「私の志望校は――」
ほんの僅かな迷いと躊躇いを振り払い、言った。
「東大」
「そっかぁ。やっぱ冬乃ちゃんだもんねぇ。それくらいじゃないとね」
うんうん、と納得したように頷く一千奈に、私は肩の力が抜けた。
東大。つまり、東京大学。
恐らく日本で最も有名な大学で、受験の難易度は言うまでもなく最難関だ。
そこを志望していると言うと、だいたいの場合は変な目で見られたりする。
現在の担任教師ですら(そんなに無理をしなくても……)みたいな顔をしたりする。
私の通う高校はそれなりに偏差値も高く、毎年一人か二人は東大の合格者が出ている進学校のはずなのだが、その辺りの扱いは他の高校とあまり変わらない気がする。
とにかく、そうして変な目で見られるのが嫌で、できるだけ志望校の話はしないようにしていた。
しかし一千奈には関係なかったようだ。
「冬乃ちゃんは頭いいからなぁ。きっと合格するよ」
「そんな簡単に言われてもね……」
呆れながら、そのゆるさに自然と笑ってしまう。
一千奈のこういうところが、私は好きだった。
「――話は変わるけど、私も最近ちょっと勉強しててね」
「え? 一千奈が勉強?」
「ほら。これ見て!」
言いながら一冊の教科書を取り出した。
表紙には「学科教本」とだけ書かれている。見慣れない教科名に戸惑いながら、私は予想して言った。
「……運転免許?」
「そう! この夏休みの間に免許を取るの!」
にこにこと楽しそうに言う。
「でね、車の運転って思ったより大変なんだよ。アクセルはすぐに踏みすぎちゃうし、ハンドルどれくらい回せばいいか分からないし、何よりバックする時なんて――」
そうして一千奈は楽しげに自動車学校での話をした。
彼女はあまり論理的なタイプではなく、話をしている間にも、運転の話から先生の話、さらには設置されてる自販機の話まで、どんどん跳んでいく。
結果としてほとんどの話が断片的にしか分からないが、それはそれで楽しいのだ。
それにしても、車の運転なんて、すごく大人だ。
私達は高校三年生。あと一年もすれば、それぞれの進路に分かれていく。
日々、私達は変わっていく。
それを自覚すると、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような気がした。
◇
高校の特別授業と塾の夏期講習を往復していると、あっという間に夏休みは終わった。
入学した時から受験を意識した進学校であるため、一年生の頃からそれなりの時間を勉強に費やしていたが、ここに来て本当に、日常全てが勉強に染まりつつあった。
読書とかゲームとか、娯楽が入り込む隙間がどんどん減っていく。
そうした日々を送っていると、どうしても色々と考えてしまう。
私達は今、高校生最後の日々を過ごしている。それはきっとすごく大事な時期だ。
それを、100%勉強に注ぎ込んでも大丈夫なの?
もっと他に、すごく価値のある、勉強して良い大学に行くよりも重要なことがあるんじゃないの?
多かれ少なかれ、だいたいの受験生達はそんなことを思っているはずだ。
大学に行って、その後どうするのか、明確に決まっている人のほうが少ないだろう。
質問された時のために答えは用意していても、それはひどく漠然としていて、曖昧で不確かなものだ。
偏差値の高い大学に行って、その後どうするの?
私は人生で何がしたくて、そのためにどうすればいいの?
何もかも分からないまま、私は勉強を続けている。
足を止めて、そういう将来の問題を考えるだけの余裕は、どこにも無かった。
私はただ、勉強が苦手ではないという消極的な理由だけで、東京大学なんていう最難関を志望していた。
この勉強に満ちた時間が将来どういう意味を持つか分からなくても、今はただそれを積み上げていくしかない。
様々な悩みをわきに置いたまま、日々追い立てられていく。
正直なところ、ちょっとつらかった。
◇
「ほら見て、この写真! 撮り直しできないんだよ!」
いつもの喫茶店。
「撮影するところにちっちゃい鏡があるんだけど、それを見て整えてる時間が無いの! だからほら、前髪のここすごく変になっちゃって」
「どこ?」
「ここ!」
指差すが、よく分からない。
表情こそ硬めだが、髪型も含め、割といつも通りのように見える。
「大丈夫。かわいく撮れてるよ」
「え?」
「かわいい」
「そ、そう……? えへへ……」
一千奈という女の子は、とても単純なのであった。
「まぁ、それでさ、免許をとったんだよ」
「うん」
「お父さんも車乗っても良いよって言ってくれてるし、
「ドライブってやつ?」
「ほら、二年くらい前になんか水族館ができたじゃない。あれどこだっけ。ほら、あの、動画がちょっとバズってた――」
一千奈はスマートフォンを取り出し、調べ始める。
彼女と水族館に行くというのは、とても楽しそうだった。
ちょっと前までの私だったら、即答で次の休みに行こうとしていただろうと思う。
でも。
「行きたいけど、勉強しないといけないし、すぐには無理かな」
平日はもちろん高校があり、かといって土日祝日はだいたい塾に行かなくてはならない。
どちらも無い日に関しては、高校と塾の宿題をしたり、それ以外の自分の勉強をしないといけない。自分の弱点を補強するためにも、与えられた勉強以外の自習時間も絶対必要なのだ。
もちろん、リフレッシュにもなるし一日くらい遊んだほうが良い、という考えもある。
だけど、私の志望校は他でもない東京大学。そして、私は昔から勉強は「できる方」だが、「めちゃくちゃできる方」では無いのだ。
少しの油断すら怖かった。
「んー、そっか。仕方ないね」
一千奈は残念そうに、しかしすぐに引き下がった。
それが凄くいたたまれなく感じて、取り繕うように、私はつい言っていた。
「それに、ほら、彼氏とか作って行ってきなよ」
言ってしまってから、その違和感に怖くなった。
私と一千奈の間で、恋愛についての話をしたことは全くと言って良いほど無かった。
私はなんとなく恋愛に対する興味を持てていなかったし、彼女の方もまた、自分からそんな話題をふることはなかった。
そんな、私達にとって少し不自然な発言だったが、彼女は笑って答えた。
「彼氏なんてそう簡単に作れないよ」
「そう? 一千奈ってモテそうだけど」
「ないない。高身長で、女の子っぽくないし」
「モデルの人達だって背が高いじゃない」
「冬乃ちゃんみたいに小さいほうがモテるんじゃない? かわいいし」
「でも一千奈は胸も大きいよ」
「えっ、急に胸の話?」
そうして話は間の抜けた方に進み、やがて別の話題に切り替わっていった。
話し方からすると、一千奈もまた私と同じで、積極的に恋愛をしようという感じではなさそうだった。
私にはそれが少し意外だった。
私達は恋愛について話すことは全く無かった。
それでもなんとなく、一千奈はきっと恋愛に興味があるんだと思っていた。それどころか、今まさに誰かに恋をしている真っ最中だと言われても驚かないくらいだ。
根拠はないが、何となく、私にはそういうふうに見えていた。
◇
夏の終わりに、文化祭と体育祭があった。
高校生最後の大きなイベントだ。
が、受験に力を入れている進学校ということもあり、三年生がそこまで本気で取り組むという雰囲気はあまり無かった。
ちょっとした演劇の出し物をして、それなりに楽しく、最後の文化祭は終わった。
ちなみに体育祭に関しては私は完全にサボった。勉強とは違い、運動はとにかく嫌いなのだ。
高校の大きなイベントはもう何も残っていない。いよいよ後は受験勉強だけ、という空気が高まりつつあった。
それにともない、模擬試験を受ける頻度がかなり増えていた。
もともと一年生の頃から受験を意識した試験を受けることはあったが、三年生になってその量は増え、現在はもう常に何かの試験を受けていると言っても良いくらいになっていた。
試験を受ければ、もちろんその結果が返ってくる。
自分がどこが得意でどこが苦手なのかが分かれば、これからの学習に活かすことができる。試験結果は非常に重要だ。
しかし何よりもやっぱり気になるのは、合格判定、というやつだ。
三年生になるまでは、東京大学でもよくA判定を取っていた。
しかし最近はB判定ばかりになりつつある。
少しずつ、追い抜かれ始めている。
私は一年生の頃からずっと真面目に勉強をしてきた。
それが三年生になると、周りも部活などをやめて本格的に勉強を始めた。その結果がじわじわと現れているのだ。
このままじゃダメだと思っても、どうしようもない。
私はものすごく頭が良いわけではなく、ただ真面目に勉強するのが得意なだけ。
普通のやり方のまま、ただ愚直に勉強の量を増やすことしかできない。
……そういうわけで、ただでさえ追いやられていた読書などの娯楽の時間は、本当にほぼゼロになった。
そして更には、睡眠時間も削られていくことになった。
睡眠は減らすべきではないと、誰かに言われなくても分かっている。
だけど一日は二十四時間しかなく、計画通りに勉強を続けていくためには、別の何かを削らなくてはならない。そしてもう睡眠しか残っていないのだ。
そうして私は、自分の生活を本格的に受験勉強に最適化していった。
◇
徐々に寒くなってきた時期。
薄暗い道を、私は家に向かって歩いていた。
足の裏のざっざっという感触に意識を向け、頭を空っぽにする。今の私にとって移動時間は、勉強の休憩時間でもあった。
「冬乃ちゃん」
最近聞いてなかった声がし、振り向くと、予想通りの姿があった。
「なんだか久しぶりだね」
「……うん」
最近は勉強時間を確保することを第一に考えているため、唯一の親友である彼女と会うこともあまりできていなかった。
「……ちょっと痩せた? もともと細かったけど」
「そうかな?」
「うん。そうだよ。あとなんか顔色も悪い気がする。ちゃんと寝てる?」
心底私のことを心配している様子だった。
しかし私は、その言葉に強い苛立ちを覚えてしまった。
「寝る時間があるなら寝てるよ」
抑えようと思っても、どうしても声から感情が漏れてしまう。
睡眠不足のせいか、最近は感情のコントロールが難しくなりつつある。ちょっとしたことで泣きそうになったり、怒りたくなったりする。うまく制御ができない。
「冬乃ちゃんにとって凄く大事な時期なのは分かるよ。でも」
「分かってるって。うるさいな!」
妙に神経が敏感になっていて、全身がぞわぞわした。
「勉強する必要がない人はいいよね。たくさん寝たり、たくさん車で遊びに行ったりできる。でも私は無理だから。余計なこと言わないで」
ぎゅっと口を閉じ、同じように目を閉じた。
一千奈がどんな顔をしているか、見たくなかった。
「もう帰る」
彼女に背を向けて歩き出した。
後ろで聞こえた「ごめんね」という声が、強く心を締め付けた。
歩きながら、深く深く息を吐く。
ひどい自己嫌悪に目眩がした。
最近はとにかくずっと疲れていて、頭の奥がじんじんと熱い。
勉強のことも、将来のことも、一千奈のことも、どうするべきか分からない。分からないし、それについて考える余裕もない。
ただただ途方に暮れながら、私は家に向かって歩いていった。
◇
その日、予定していた勉強を全部終えて時計を見ると、とっくに日付は変わっていた。
静まり返った自室に、エアコンの風音だけが漂っている。
ふと急に、大声で何かを叫びたい衝動に駆られたが、そんな得体の知れない情動は一瞬で消えていった。
私は机の上の文房具などを片付けていく。
「――痛っ」
ペン類を乱雑につかむと、強い痛みが走った。見ると、シャープペンの先が指を傷つけていた。
指の先からじんわりと血が滲み始める。
血の赤い球が少しずつ膨らんでいくのを、ただぼうっと眺める。
静寂が広がっていく。
奇妙で、うるさいくらいの静けさが、脳の中を拡張していく。
強い疲労と、孤独。
指の傷をより広げて、この赤色をもっと見たいという衝動。
傷をほじくろうとシャープペンを再び手に取ったところで、私は我に返った。
「……何やってんだろ。私は……」
文房具を投げ出し、ティッシュで血を拭い、そのまま傷を押さえた。この程度の傷なら少し押さえていれば落ち着くはずだ。
「弱いなぁ、私……」
すでに正常とは言えない頭でも分かる。私の限界は近づいている。
受験本番まで、あと三ヶ月くらい。
それが終われば、今の生活も終わる。
そう自分に言い聞かせながら、なんとか一日一日をやり過ごしていくことしか、今の私にはできなかった。
◇
ある日の夕暮れ。
ホームルームにて、前に受けた模擬試験の結果が返された。
最近は試験を受けてばかりいるため、いつの結果なのか、分からなくなりつつある。
用紙を開き、真っ先に確認するのは、やはり合格判定。
「――あ」
思わず声が漏れた。
C判定。
ついこの前までは、なんとかB判定を保っていた。
しかし、本番までもう間もなくといったこの時期に、それが崩れてしまった。
合格判定というのは、あくまで目安に過ぎない。
そもそも模擬試験というのは受験生が全員受けるわけではないし、問題の傾向も、主催している塾などによって違う。そのため本番の試験と重ねることはできない。
なので、直前の結果が散々でも合格する人もいるし、A判定で不合格の人もいる。
そう分かっていても、ダメだった。
私は自分でも不思議なくらい強いショックを受けていて、頭の中は真っ白になり、何も考えられなくなった。
全体の順位や合格判定が下がるのを見て、私は勉強量を増やし続けてきた。
単に量を増やしているだけではなく、弱点分野を強化するのもサボっているわけではない。全部、最大限うまく対応しているつもりだった。
周りも全員努力している以上、そう簡単に結果を出すことはできない。でもせいぜい、現状維持くらいはできていると思っていた。
それが、全くの勘違いだったわけだ。
ぼうっとしている間にホームルームは終わり、放課後になり、高校を出た。
全身がひどく疲れていて、歩きながら思わず道の脇に座り込んでしまいそうだ。
日没は早く、外は既に薄暗い。
これから家に帰った後、荷物を入れ替えて塾に向かわなくてはならない。それを思うと、私の歩みはどんどん鈍っていった。
◇
よく
何度も座ったことのある窓際のテーブル席に、今は一人でいた。
何をやってるんだろう。私は……。
時計を見ると、塾の授業が始まる頃だった。
私は塾に行くどころか、家に帰ることすらできず、ただここに座り込んでいた。
どうして、自分がこんなに追い詰められているのか分からなかった。
受験なんて言うのは、誰だってやることじゃない?
勉強をして、試験を受けて、大学に行こうとするだけ。ただ、それだけ。
それだけのことに、これほどまでに追い詰められてしまっている状況が、私にはよく分からなかった。
この苦しみの本質がどこにあるのか、全く分からなかった。分からないから、対応することもできず、ただ途方に暮れることしかできない。
塾をサボったのは、もう仕方ない。じゃあせめて、この時間に参考書をちょっとでも眺めるとか、それくらいはしたほうが良いと思う。
しかし今は、その程度のことすらできない。
ぼうっと、見慣れた店内を見渡す。
初めてこの喫茶店に来た時、私は一千奈と一緒だった。
中学生だった。子供だけでこういう店に入るというのが、ただそれだけでワクワクしていた。
自分たちが成長してちょっと大人になった気がして、私と一千奈は頻繁にここを訪れた。
中学生の頃のお小遣いなんて、何回かここに来ればあっという間に無くなってしまう。でも、それも含めて楽しい思い出だった。
そうして過去のことを思い出していると、自然と目の奥が熱くなってくる。
泣いていしまいそうだった。
助けて、と口の中だけで呟いた。
「
声の方を向くと、そこには私の親友がいた。
「一人でいるのが窓から見えたから、つい来ちゃった、けど、良かった? 勉強とかしてた?」
「…………ううん。勉強はしてない」
彼女は私の対面に座り、店員に注文する。
一番安いコーヒーとフライドポテト。いつも通りの一千奈だった。
彼女がそばに来ると、なんだか本当に泣いてしまいそうになる。
私の顔を見て、彼女は心配そうに言った。
「冬乃ちゃん、大丈夫? なんだか、すごく怖い顔をしてるよ」
「……そうかな」
「うん」
「もともと愛想が悪い顔だから」
「そんなことない。冬乃ちゃんが想像してるよりずっと、顔に感情が出るタイプだよ」
一千奈が笑いながら言った。
彼女は凄い。
先程まで私の意識に漂っていた、キンキンに冷えた気配が、彼女と話をしているとあっという間に霧散していく。
ずっと張り詰めていた緊張がほどけ、肩から力が抜けた。
私の様子がおかしくて、一千奈が心配しているのが分かる。しかしどう声をかければいいか考えあぐねているようで、ただ沈黙が漂った。
私は口を開いた。
「そういえば前に、ドライブに行こうって話をしたよね」
「うん」
「あれ、明日とかに行けない?」
「え? 明日? 休日だし私は全然大丈夫だけど……冬乃ちゃんはいいの?」
「いいよ。遊びに行きたいし」
明日は土曜日で、もちろん塾の予定がある。日曜日にもだ。
それが終わればまた平日の高校があり、その後の土日も同様で……とにかく、そんな状態に、今の私は心底うんざりしていた。
「塾もたまにはサボるよ」
「そっか。サボるの、いいね!」
◇
目的地は、前に話に出た水族館だった。
一応同じ県内ではあるのだが、まぁまぁ距離があり、片道二時間程度といったところのようだ。
一千奈は父親の車に乗って迎えに来た。
「良い車だね。これ、なんて車なの?」
「わかんない」
「……そっか。ナンバーが黄色ってことは、軽自動車ってこと?」
「そうなの?」
「多分そう……かな……?」
「それで、軽自動車とそうじゃないやつって何が違うの?」
「……さぁ。軽いんじゃない?」
「そっかぁ」
私も一千奈も、車に関する知識は皆無だった。
一千奈は数ヶ月前に免許を取ったばかりだし、それに私は彼女の性格のふわふわした部分も知っている。正直、一千奈の運転する車に乗るのはちょっと不安だった。
しかし実際には、その運転は凄く安定したものだった。
「たまに練習してるんだよ。あちこちウロウロしたりしてさ」
「そっか。……運転してるのを見ると、なんか凄い大人みたいだ」
「そうかな? そう?」
この冬が終われば、彼女は会社に入って働くことになる。本当にもう大人だ。
受験勉強なんかに四苦八苦している私を置いて、どんどん先に進んでいってしまう。
スムーズに運転する彼女を見ていると、強い孤独を感じた。
◇
「……何だか、思ったより」
「うん……思ったより……」
水族館を出て、私と一千奈は顔を見合わせた。
「思ったより、しょぼかったねぇ」
「うん。狭いし、生き物の数も少ないし」
「冬だからってこと?」
「いや、関係ないらしいよ」
話をしながら、駐車場へと歩いていく。
一人で来てたら、本当にがっかりしていたかもしれない。しかし二人でなら、水族館が思っていたよりもしょぼかったことくらい、むしろ楽しめてしまう。
休日だというのに駐車場は閑散としていた。
水族館を見回った後の今は、その理由も分かる。
「はい、ブラック」
「ん。ありがと」
自動販売機の前で、缶コーヒーを飲みながら佇む。
冷たく乾いた風が吹き、私は身を縮こまらせる。
何となく話題が無く、無言のまま私達はコーヒーを飲み終えた。缶をゴミ箱に放り込む。
そして。
「あ、あれ? 一千奈?」
「……うん」
「な、何してるの?」
「何って……見ての通りだけど……」
何となく、私は彼女に抱きついていた。
小柄な私にとって、一千奈はとても大きく、柔らかく、そして温かい。
「い、一千奈、いつまでやってるの……?」
「…………」
「一千奈?」
「……あとちょっとね」
何だか、凄く大きな猫に抱きついているような気になってくる。
それとも、こたつに入っているような感覚だろうか。一度入ってしまうとなかなか出ることができない。気づけば、だんだんと眠くなってくる。
一千奈の方は珍しくうろたえていて、あたふたした気配が伝わってくる。
「……一千奈は、大きくていいね」
「え、え?」
「何だかすごく、抱きつきがいがあるよ」
「そ、そう? それってどういう意味? 褒め言葉? 太ってるってこと?」
気にせず抱きつき続けていると、彼女も段々と落ち着いてきて、やがては抱きしめ返してきた。
「……ねぇ、冬乃ちゃん」
「何……?」
「冬乃ちゃんのこと、好きだよ」
一千奈の抱きしめ方は、私のこれとは違う。相手を労り、慈しむような、穏やかな包容。
「……うん」
「あ、あの、好きって言っても、そういう、その、友達とかのじゃなくて、えっと……」
「うん。分かるよ」
その力具合から、彼女の「好き」の意味は伝わっていた。
「……それに前から、もしかしたらそうかなって、思ってたし」
「そ、そうなの?」
「うん……。一千奈も、結構顔に感情が出るタイプだから」
そこで、沈黙。
私と一千奈の間の沈黙は、普段はそんなに気まずいものではない。が、流石にこれは例外だった。
今のは愛の告白で……多分、彼女は私の返事を待っている。
でも、どう答えればいいか分からない。
前に珍しく恋愛の話をした時に、ひょっとしたら、と思った。もしかすると、一千奈は私のことが好きなんじゃないか、と。
でもそれは何となくの想像で、実際にこういう事になる可能性までちゃんと考えてはいなかった。
一千奈のことはもちろん好きだが、それは親友としての話で、恋愛的な感情があるかと尋ねられても、それは分からない。
考え込む私に対し、一千奈は小さな声で話し始めた。
「……本当は、こんなこと、言うつもりじゃなかったんだよ」
「ん……?」
「だって冬乃ちゃんは、来年には東京に行っちゃうんでしょ?」
「……まぁ、合格すればだけど」
「私はこっちで働くことが決まってるから……何も言わない方が良いかなって、最近はずっと思ってた」
彼女との別れについては、私もよく考えていた。
でも、そのために彼女が本心を伏せ、全部隠したまま別れようとしているとまでは、思っていなかった。
一千奈に抱きついていた私の腕に、自然と力がこもる。
「大丈夫だよ。東京に行っても、ちゃんと帰って来るから」
「……本当に?」
「ほら、スマホでメッセージ送ったりとかなら、もっと頻繁にできるし」
「……でも冬乃ちゃん、そういうアプリ全然見ないじゃない」
「見るようにするから」
私は彼女から離れた。
温かな気配が消え、寒い現実に引き戻される。
「一千奈のことは好きだよ。でも、一千奈が思っているのとは違うかもしれない」
「……そう、だよね」
悲しげに目を伏せる彼女に、私は慌てて付け加えた。
「ごめん、違う! そうじゃなくて、改めて考えるってこと」
「え?」
「一千奈のことを、ちゃんと考えるから。今のままじゃ結論が出ないから、ちょっと待ってて」
「う、うん」
私達は高校三年生で、間もなく大きな終わりがやってくる。
時間の流れと共に、私達は変わらざるを得ない。
せめて、うまく変わることができたら良いな、と思う。
◇
帰る途中の車内の会話も、来る時と同じようにはいかなかった。
互いにどうしてもぎくしゃくしてしまい、ぎこちない沈黙が漂ったりする。
でもそれは仕方がないことだ……とか思っているうちに、気づけば、私は眠りに落ちていた。
そして目が覚める頃には、窓の外にはもう見慣れた町並みがあった。
「あ、冬乃ちゃん。起きた?」
「ん……」
「ぐっすりだったねぇ。よっぽど疲れてたんだ」
何か夢を見ていた気がする。だけど起きた途端に全部忘れてしまい、全く思い出すことができない。
でも、悪い夢では無かった気がする。
「着いたよ」
「……うん。お疲れ様。ありがとう」
「ううん。楽しかったから」
私達の間のぎこちなさは、だいぶ和らいでいた。
でもだからと言って、一千奈の言ったことを無かったことにはできない。私はしっかり考えないといけない。
「それじゃあ、またね」
「うん。また」
夕暮れの中、彼女と別れた。
足取りは普段よりも軽い。
車の中でよほど熟睡したのか、頭は妙にスッキリしていた。最近はずっと、鉛でも詰まっているみたいな重たさだったのに。
そうして私は、行く前よりも少しだけ元気になって、日常に戻っていった。
◇
年末年始。
もちろん休む余裕なんて無い私は、塾の志望校別の特別講習に参加していた。
慌ただしく課題をこなし、合間に自分の勉強も進めていく。
日々は相変わらず勉強に満たされていた。
慌ただしさに揉まれながら、私は頭の片隅でずっと一千奈のことを考えていた。
自分は彼女のことをどう思っていて、彼女の思いにどう答えるべきなのか。
卒業した後はどう関係を続けていけば良いのか。
そんな迷いの日々の中、やがて、最後に受けた模擬試験の結果が返ってきた。
恐る恐る取り出して確認する。
B判定。
ほぅ、と吐息が漏れた。
試験によってC判定にもなればB判定にもなる、というのが現在の私の実力というわけだ。
決して万全とは言えないが、合格可能性はそこそこあるといったくらいの位置。
今まで、結果が伴わずじたばたと藻掻いているだけだと思っていた。
でもそれは、結果が伴っていないと思い込んでいただけかもしれない。
◇
その日、私は普段通りに起き、午前中は予定通りの勉強をこなした。
やがて午後になると、私は一千奈に連絡してから、荷物を詰めた小さめのキャリーケースを引いて玄関に向かった。
「いってきます」
ちょっと心配げなお母さんにそう言って、家を出る。
道の端には、少し前に降った雪が溶け切らず残っていた。その間を、私はガラガラとキャリーケースの音を立てて歩いていく。
待ち合わせ場所で待っていると、すぐに一千奈が車でやってきた。
「一千奈、ありがとう」
「うん。荷物、一人で乗せれる? 二人で担ぐ?」
「大丈夫」
後部座席に荷物を乗せ、助手席に座ると、彼女は車を発進させた。
「いよいよだねぇ」
「うん」
「緊張してる?」
「ちょっとだけ、ね」
先月、大学入学共通テストが行われた。
東大志望の身からすると、点数割合の低い共通テストはそこまで重要ではない。とはいえ、失敗した時の滑り止めなどを考えれば、手を抜いて良い訳ではなかった。
その自己採点による結果は、過去の模擬試験などから予想していたよりも少し良かった。少なくとも、この結果が原因で不合格になることはないだろう。
ひとまずは安心……だが、もちろん、本番は二次試験だ。
東京大学の二次試験の難易度なんて、共通テストとは比較にならない。
そしてその試験こそ、明日から行われるのだった。地方に住んでいる私は、今日のうちに東京に入って一泊する予定だ。
「なんか大変そうだったけど、それももう終わるんだね」
「まだ完全に終わりではないよ。ダメだった時は後期試験を受けたりするから、勉強は続けないと」
「……なんかよく分からないけどホントに大変だねぇ」
窓の外の景色が流れていく。
一千奈には駅まで送ってもらうことになっていた。
ちらり、と一千奈の顔を盗み見る。
別段何の変哲もない、普段通りのちょっとどこかふわふわした表情。しかし彼女と会うのはあの水族館の日以来だ。色々と思うところもあるはず。
試験前の私に影響を出したくないと、色んな感情を全部隠しているのだろう。
当たり障りのない話をしているうちに、駅に到着した。
車を停める良い場所が無く、少し離れたコンビニに駐車した。
荷物を下ろす。
「忘れ物は無い?」
「大丈夫」
「じゃあ……頑張ってね」
「うん。だけど、その前に……」
私は一千奈に抱きついた。
「ど、どうしたの?」
「ちょっとだけ」
大きくて、柔らかくて、暖かくて。
頭の中でちらついていた試験本番への緊張や不安が、急速に落ち着いていく。
やっぱり一千奈には抱きつきがいがある。可能なら、一緒に東京にまで着いてきて欲しいくらいだ。
一緒に、東京に。
そんな都合の良い未来を想像するのも、たまには良いかも知れない
「一千奈」
「うん?」
「好きだよ」
「……え?」
「好き」
「えぇっ?」
「大好き」
「!?」
私は彼女から離れた。
強い名残惜しさを感じたが、再び抱きつくわけにはいかない。思わず「大好き」とまで言ってしまったせいで、恥ずかしくて一緒にはいられなかった。
「ふ、冬乃ちゃん……?」
「今日はありがとう。じゃあね!」
私は背を向け、早足で駅に向かっていった。
顔は熱く、きっと真っ赤になっている。とても一千奈の方を見ることはできない。
改札を抜け、階段を登り、ホームで電車を待つ。
やがて来た車両に乗り込む頃には、多少落ち着きを取り戻していた。
適当な座席に着き、動かない窓から外を眺める。
道の脇、民家のベランダ、公園の片隅……あちこちに雪が残っている。
大学入学共通テストの翌日に、大雪が降った。その日は日本全国で雪だったらしい。
テスト当日でなかったことは、私達受験生にとって幸運なことだった。
その日、街中を飲み込み真っ白に染め上げていた雪も、今では大部分が溶けている。町のあちこちの雪の名残も、あと一週間もすれば殆ど消えるだろう。
私達の青春も、もうすぐ終わる。
ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
雪が溶けて冬が終われば、春が始まる。
私達の青春が終わった時も、同じように何かが始まるだろう。
それが何なのかはまだ漠然として分からないが、その始まった何かには、うまくいって欲しいと思う。
いつかまた、青春と同じように、それが終わる時が来るまで。
明日こそ本当に大事な試験だ。
移動時間に少しでも参考書を開いたり、あるいは、少しでも目を閉じて休息を取るべきだ。
だけど私は何となく、そのどちらもやる気にならず、ただぼうっと流れていく景色を眺め続けた。
終
青春の終わりと何かの始まり よんにーにー @yonnini_422
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