底辺からの頂点男
美里俊
第1話 現世よさらば
「このままじゃダメだ。なんとかしないと。本当になんとかしないとダメなんだ。」
毎日が夏休みのこの男は、中学校のころのいじめがきっかけで、そこから社会に出て、人と接することが苦手になり、かれこれ20年近く家に引きこもっている。
世の中には、社会に上手く適用したくともなじめず、そこで自信を失い、人と接することに不安や恐怖を抱いてしまう人は多い。この男も例外ではなく、ただ学校生活になじもうとしただけなのに、生来の内気な性格が人とのコミュニケーションを難しくし、それを欠点とみなした悪意ある人間たちに標的にされた。苦労や努力も必要だが、安心して成長できる学校という社会のセカンドステージを追いやられ、男は絶望し、再びファーストステージの家庭にとどまることになった。
男は、最初の頃はこのままではいけないと、再び通信制の学校に入学し、将来のために勉強を始めたが、基本1人で何もかもを考えるしかない日々が、男により一層不安感を植え付け、加えて、目的意識が漠然としていて、何のために勉強をしているのか分からないのだ。
1人でも大丈夫な人間などなかなかいない。いたとしても、それは先行きを考えない博打好きな性格で、根拠のない自信だけはとにかく持ち、人は1人では生きていけないという社会の存在意義を理解できていない痛い人間なのだ。
そういう点で、この男は社会の大海原に漂い、そこで新しい島や大陸を見つけ、新しい人間との出会いの大切さを知っているのだ。ただ、不運だったのが、突然海賊のような無慈悲な暴漢に襲われ、人間それ自体に不信感を抱いてしまったことだ。
そういう意味で、この男は決して怠惰だとか親のすねかじりの不孝者だとか一概に批判されるべきではない。ただ、人との出会いが悪く、そして、その出来事に対処できるほどの経験がなく、抵抗したり耐えたりする気持ちを育てる時間やきっかけがなかったのだ。
なので、この男が何年も引きこもりであるからといって無能であるわけではない。むしろ、先行きを考えてしまうなど、社会にいる人間と気持ちに関してはなんら変わらないのだ。
ただ、先述の通り、男は孤独に耐えうるほど強くはない。将来を現在から上手く想像ができない。そのことが、何をすべきかという目的意識を育めず、危険なことに、何をしても無駄という自己否定を助長しているのだ。
男はとりあえずベットから立ち上がる。そして、机に体を向ける。机には、高校の参考書や法律の本、哲学書、心理学の本なんかが置いてある。興味が赴くまま色々挑戦したが、どれも中途で、今や机の装飾の一部になっている。
ぼんやりと眠たそうに壁を見つめる。壁には「克己心」とか「落伍者、悔しかったら努力してみろ」とか「親不孝者」「毎日必ず勉強」とか自分を奮起させるための荒々しい手書きの言葉が貼られているが、書いた当初だけで、今は壁の模様の一つくらいにしか思えないり
ゆっくりと英語の本に手を伸ばし、適当なページを開き、そして、ぶつぶつと文章を読む。
「Everyone is more or less seeking one's only safty zone..
俺はなぁ。何をやってもダメなんだ。本当に、なんのために今生きてるんだろう。ズーンとしちゃよ、ズーンとさ。」
zoneという単語を、なんとなくズーンという読みをするものだと認識したのだろう。それくらいのちょっとした気づきが、やたら不安につながるほど、男は意識がそぞろで、集中が続かない。ぶつぶつと最近は独り言が無意識に出てしまう。分かっているから、外になど余計に出れないのだ。
「自分だけのセーフスペース。ここもそうなのかもしれないけど、でも、俺だけしかいない。孤独が安心には思えないよな。」
男は自分で呟きながら、ジワジワと涙が出てきた。社会に出たい。ちゃんと仕事をしたい。全く知らない新しい人と話したい。男は叶えられるはずなのに叶えられない夢に絶望した。
不安定な気持ちは、読んでいた本がいつのまにか手でくしゃくしゃにしていたことに如実に現れている。男の心も、皺を伸ばしようがないほどにくしゃくしゃになっているのかもしれない。
(もう、どうだっていいさ)
男は机の上に突っ伏した。そして、泣き疲れ、いつのまにか子供のように寝てしまった。
どれくらい経っただろうか。男は、久しぶりにいい夢を見た。
幼稚園の頃、隣家に仲のいい女の子がいたのだ。その子は、不器用な男の手を引っ張っていつも公園に連れて行ってくれた。
男は砂場の建築家で、お姫様のためにいつもお城を作った。お姫様は花柄のスコップや取手に肉球があしらわれたバケツ、それに兄のダンプカーのおもちゃを建築家に授けた。
「ここに、私たちのお城を作るの。その下には川があって、町の人が住んでるの。」
「うん、なんか、いいと思う。」
「でしょう!あなたなら作れるわ!お願い!」
女の子は手を汚したくなかったのだろう。建築家に仕事は任せ、黙々と作業に入る。お姫様は目の前のブランコに乗りながら作業の進捗を確認する。
「ねえ、あなたなんで幼稚園に来ないの?」
お姫様は不思議そうに聞いた。この頃から、家庭以外の社会の場に出ることが苦手だったのだ。
「だ、だって、僕、しゃべれないから…」
「今あたしとしゃべってるじゃない?」
「う、うん、そうだけど、そうじゃない人もいて…」
「そうじゃない人って?」
「その、僕がしゃべると、イライラする、そんな人。」
「まあ、ものすごく怒りん坊な子ね!なんて名前の子?」
「えっと、その…」
「はっきり言いなさいよ!あたしがふん捕まえてやるわ!」
「いっぱいいるんだ、そんな人が。それに僕、名前よく覚えられないから、誰って言っても、その、分からないんだ。」
お姫様はまた不思議そうに建築家を見た。
「名前が覚えられないの?頭が悪いのね。それとも、幼稚園にあまり来ないから覚えられないのかしら?」
「う、ぐぅ。ふ、ふん…」
建築家は泣きながらボソボソとスコップで城の形を整えている。
「まあ、そんなことで泣かないで。大丈夫よ。あたしもいつも忘れるから。ママがアイドル好きで、よくテレビを見てはあたしに色々話すんだけど、どの人も同じような顔っていうか、なんだかみんな似てる髪や顔、声をしてるの。そういう人たちの名前を覚えろって言われたら覚えられないし、むしろちょっと太ってて笑顔がかわいい人とか、声が低い人とか、なんだか他の人と変わってる人の方があたしは思い出しやすいの。
あなたなんか、幼稚園にあまり来ないし、話し方もなんだかゆっくりでなんだか変わってるから、他の人たちよりもあなたの方がよっぽど名前を覚えているわよ。」
キツいことをはっきりいう子だった。だけど、こうやって男のことを見てくれる人は、後にも先にもこの子だけだった。
「僕、覚えやすい?」
「もちろんよ!こんなに覚えやすい子はいないわ!幼稚園の他の子達が、あなたには同じに見えるみたいだけど、あたしもそうかもね。
みんななんだかあたしのことを気が強いとか口が悪いとか、仲間はずれにしようとするの。おんなじ事をみんながするの。だから、みんな同じにしか見えないの。あなたもきっとあたしと同じよ。」
なんだか、この世界で2人だけが同じなような気がした。そういえば、「わたしたちの城」なんて言っていた。この城は、あれこれ指示されて作ったけど、どうやら建築家は王子様でもあったのかもしれない。
あのお姫様の名前は、たしか、そう、テルちゃんだ!
「夢は見足りましたか?」
突然、知らない人の声が聞こえてきた。男は目を開けると、そこに机も椅子も本もなく、それどころか、さっきまでいた部屋がなくなっており、あるのはただどこまでも続くピンクとオレンジの混じり合った異空間だった。そして、目の前には虹色のシルクハットに仮面を被った紳士風の男が立っていた。
「な、なんだここは?さっきまで俺は部屋にいたはずなのに!」
男は現状を受け入れられず、当惑した。
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