プロローグ

ハルの誕生

 明けゆく空が金色こんじきに染まり、エルリア王国は新たな朝を迎えた。

 春の息吹を告げる陽光がエルリア国土を覆い、冷えた大地を柔らかく包み込むように温めていく。

 山並みの向こうから光が差し込むと、穏やかな風が大地を撫で、春特有の甘い香りが漂い始める。


 エルリア王国の象徴ともいえる「ハルンの木」には、淡い桃色の花が咲き乱れ、その花びらは風に舞いながら空を彩っていく。

 花びらはさながら小さな精霊たちの踊りのように、空高く舞い上がったかと思えば、ふわりと地面へと降り注ぐ。その様子を見つめる者たちは誰もが春の訪れに心躍らせる。


 野に目を向ければ、数え切れないほどの花々が一斉に顔を出している。

 赤、黄、紫――それぞれが春の日差しを浴びて鮮やかに輝き、生きとし生けるものすべてが、この季節の始まりを祝うように息づいた。

 草花の間を駆け回る小動物たちの姿も見え、鳥たちのさえずりが清らかな調べを奏で始める。


 今日という日は、エルリア暦において春の幕開けを告げる特別な日。王国中の人々が、春を迎える準備をしてきたかのように、この日を待ち望んでいた。冬の厳しさから解放された人々と自然は、温かな陽気に包まれながら、新たな季節の始まりを祝う。


 気温もまた、春の到来を祝福するかのように徐々に上昇していた。大地は凍てついた記憶を忘れ、生物たちは一斉にその目を覚ます。

 川沿いでは、解けた雪解け水が清流となって流れ、生命の息吹をたたえた大地の鼓動を次々と下流へ伝えていく。


 この季節の始まりは、ただの暦の上での移ろいではない。それは、この王国に生きるすべての者にとって新たな希望と再生の瞬間であり、大自然の壮大な星の交響曲が奏でられる始まりの合図だった。


 春の訪れとともに、無数の虫たちが地上での活動を再開する。あるものは繁殖のために羽を広げ、あるものは鳥や小動物の餌となる。

 それを喰らう鳥たちもまた、さらなる捕食者に狙われ、こうした食物連鎖は建国以来、いやそれ以前から何万年にもわたり普遍的に続いてきた。

 この小さな命の営みこそが、大自然を支える見えざる歯車の一つであり、その循環の中で世界は絶えず形を変えていく。


 人間もまた、遥かなる歴史の中でその一部として生き続けてきた。長きにわたる経験を積み重ね、それを代々受け継いできた人々の歩みは、エルリア王国の文化や風土の根幹を成している。


 そして、この王国には、古くから伝えられる伝説が存在する。人間の営みに欠かせない農業に深く結びついたその伝説は、かつてこの土地を守るために語り継がれてきたものであり、王国の成立にも大きな影響を与えたと言われる。


 だが、長きにわたり平和が続くエルリア王国において、その伝説はもはや歴史書の片隅に埋もれ、語る者も少なくなった。強大な政権による安定した統治の中では、その伝説が持つ象徴的な意味すら必要とされなくなり、今や知る者は百歳を超える老人たちのみとなっている。それでも、かつてこの土地に刻まれたその物語は、王国の土壌と共に眠りながら、ひっそりと命の営みを見守っているのかもしれない。


 自然界では、生と死の連鎖が絶え間なく繰り返されている。虫たちが土を肥やし、その土が育む作物を人々が収穫し、その命が再び大地へと還る。この循環は、物理学、天文学、生物学といった普遍の理に根差しており、古の神々が紡いだ秩序の一端とも言えるだろう。


 そして、この長い歴史の中で失われる命がある一方、新たな命もまた絶えず生まれ続ける。

 生と死が織りなすこの世界の調和。その中で人間たちは、それぞれの営みを重ね、未来へと歩みを進める。風化した伝説の残響がどれほど薄れても、王国の地に芽吹く新たな命たちは、いつかその伝説を再び蘇らせるかもしれない。時が進む限り、この世界は新しい物語を生み出し続ける。

 そしてここにも・・・・・・


「おお、可愛いなぁ」


「ええ、この子が私たちの子よ」


「ありがとな、よく頑張ったな・・・・・・」


「ええ・・・・・・元気に育ってほしいわ」


「ああ・・・・・・」


 こうして、新たな命がこの世に誕生した。


「名前は決めてあるのか?」


「ええ、今日は、暦上の新春の日よね」


「ああ」


「そして、ハルンの花も咲いてるし」


「ああ、てことは?」


「名前はハルにしようと思うの」


「ハルかぁ・・・・・・ああ、いい名前だ」


 新たな春の始まりの日。


 その日、ハルが産声を上げた病院からアルズベ川を隔てた、さほど遠くないキシウの森に、不思議な音が響き渡った。

 中低音の金管楽器を思わせる音色は、鋭さと鈍さが入り混じりながらもどこか美しい響きを持ち、森の深部から湧き出るように空気を震わせた。


 風に乗って拡がるその音は、自然そのものが奏でる祝福の調べのようで、鳥たちが一斉に羽ばたき、木々が騒めき始める。

 森に隠された何かが目覚めたかのような、特別な一瞬だった。


「ああ、ルーシェだ」


「ええ、そうね」

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