第2話 課題の答え
「ねえ、助手さん達、ストライキ起こしたらしいね。」
深夜勤の相手、
「そうなの!」
奈江はびっくりして、広川の顔を見た。
「師長への当てつけらしいよ。助手は看護師の下請けではないって、この前松川さん達が怒ってた。」
「助手さん達、そんな話しになってたんだ。」
「そう。うちの師長はきついからね。私もそのうちこうなるかと、思ってた。」
「明日はくるのかなぁ、助手さん達。」
「さぁ、どうかな。朝の早出はいないって、思った方がいいかもね。」
「そうかぁ、困ったね。」
奈江はため息をついた。
「2人で朝の分担もしておこうか。」
「そうだね。」
記録を友だち読み終えた後、奈江は大きな欠伸をした。
「あっ、ごめん、だらしなかったね。」
奈江はそう言って目を擦った。
「だって松下さん、前の日は準夜勤で、今日はバリバリ日勤やってたんでしょう?」
「そう。」
「違反じゃない?それって。」
「違反にはならないのよ。勤務と勤務の間は、6時間以上、空いているからね。」
「だって松下さんが帰ったのは、何時?」
「21時。残業は私の都合だから仕方ないよ。」
「このままなら死んじゃうよ。」
「アハハ、そう簡単には死なないよ。」
「あの師長になってから、ここの退職者が続いているね。」
「なんでだろう。偶然なのかな。」
「違うよ。みんなやりきれないないんだって。」
「頑張るしかないか。私はわがまま言って、ここに拾ってもらったんだし。」
「松下さんは、なんで前の病院を辞めたの?」
「職場の仲間とうまくいかなくてね。」
「だから、ここへ?」
「そう。今、転職サイトなんかたくさんあるでしょう?初めは派遣でいいかなって思ったんだけど、すごくいい条件だったから、それで。」
「環境が良くて働きやすい職場って言葉に、みんな騙されるのよね。本当にいい職場なら、人なんて自然集まってくるんだし、わざわざそんな事を書くって事は、実はヤバい職場なのよ。だいたいそういう職場だからこそ、人材会社の力を借りなきゃならないんし。ここの外来なんて、派遣だらけ。それだってみんなすぐに辞めるから、ある意味、本物のブラック企業。」
「裏と表があるのよね。」
奈江は時計を見ると、懐中電灯を持った。
「見回りに行ってくる。」
初めて就職した職場は、元旦那と出会った場所だった。足を骨折して入院してきた元旦那は、夜勤をしている時に、新人の奈江に手紙を渡した。
今思えば、そんな自分を見て結婚を申し込んだのは、看護師は誰の前でも白衣の天使でいると思ったのだろう。
就職して9年目。
昇格と別の部所への異動というタイミングで、元旦那は、2人でいる時間をあまり作らなくなった。
近くにいても、触れることさえない夜がくる度、寂しさという夢にうなされる。職場の人間関係の悪化と、張り詰めた責任感が重なり、とうとう眠れなくなった奈江は、精神科へ通院した。
離婚を切り出される1年前。
思い切って転職し、少しでも気持ちの余裕ができれば、やり直せるかもしれないと願った。こんな事をしなくても、元旦那の結論なんて、とっくに決まっていたっていうのに。
転職も離婚、誰も私を責めたりはしなかった。悪いのは、気持ちが途切れた自分の方だって、元旦那も言っているくらいだから。だけど、相手が引けば引くほどに、自分が惨めになっていく。
奈江は真っ暗な廊下を静かに歩いていく。そっと病室の扉を開け、寝ている患者の足元を照らす。
布団が少し動くのを確認すると、ああ、まだ生きてる、そう思い、今度は点滴に懐中電灯の灯りを向ける。
機械がジーッとなる音と、頼りなくポタポタと落ちる雫を見ると、奈江は部屋を後にしようとドアに向かった。
「ちょっと、あんた。」
眠っていると思っていた患者から呼び止められた。
「まだ起きてたんですか?」
「あんたが来たから起きたんだ。」
「そうですか、すみませんでした。もう寝てくださいね。」
奈江は布団をかけ直し、おやすみなさい、と老人に言った。
「あんたの顔、腐ってるよ。」
「また、その話しですか。」
「俺はもうすぐ死ぬ。ここ数日、死んだ兄貴がよく夢に出てくるんでね。」
老人は暗闇の中で奈江に話し始めた。
「思い込みですよ。」
奈江は白く光る老人の目を見た。
「いいや、兄貴は死んだ時のままで現れるから。」
老人が奈江の方をギロッと見ると、一瞬で緊迫した空気に変わった。
「お兄さんどうして亡くなったんですか?」
「南方で死んだ事になっている。それしか知らないし、写真でしか会った事もない。」
「それなら、夢に出てくるのは、想像の人なんじゃないですか?」
「いいや、間違なく兄貴だよ。母さんが死んだ後、遺品を整理していたら、兄貴の写真と手紙が出てきてな、どうか幸せになってほしいと書いてあったよ。そんな兄貴は、ずっと俺達家族を恨んでいたのかな、俺は家族を持つ事ができなかった。」
老人の目は天井をむいた。
「わかりましたよ、もう寝ましょう。」
奈江は老人の話しを終わらせるように、布団から出ている腕を掴んで、中に戻そうとした。
「幸せなんか、どこにもないんだよ。あんたにはそれがわかるだろう。」
「私は腐ってますからね。」
奈江は老人の腕を布団にしまった。
「みんな、生まれた時から腐り始めてる。」
「ずいぶん怖い事言いますね。何かあったら、これで呼んでください。」
奈江は老人の枕元にナースコールを置いた。
老人は奈江に気づかれないように、スクラブのポケットに何かを入れた。
「幸せなんかその気になって貰っちゃいけない。不幸を映して、笑って暮らしなさい。」
「はい、はい。もう寝てください。おやすみなさい。」
詰所に戻る途中、奈江は腕時計を見た。
午前2時か。
患者の状態は皆落ち着いているはずの見回りなのに、ずいぶんと時間が掛かってしまった。
そう言えばあの人、検査で造影剤を使ったんだっけ。奈江は排尿の回数を確認し忘れたと、もう一度、老人の部屋に向かった。
懐中電灯で足元を照らすと、さっき布団にしまったはずの左手が、だらりと布団からはみ出ていた。
奈江は老人に近づくと、突き刺さってくるように奈江を見ていた白い目は、力なく閉じていた。淡々と話していた唇が、不気味に少し開いている。
奈江は老人の顔をバチバチと叩いたが、反応がない。慌ててナースコールを押して広川を呼ぶと、当直の医者と広川が、血相を変えてやってきた。
朝方。
亡くなった男性の処置をしていると、男性の妹と名乗る女性が3人でやってきた。
3人の妹達は、今まで一度も見舞いに来た事はなかったくせに、どこで聞いたのか、男性が残した数千万円のお金があるはずだと床頭台にある荷物を広げ始めた。
「お金はお寺に寄付したそうですよ。時々、そのお寺の住職さんがお見舞いにきていましたから。」
見兼ねた広川が、女性達にそう言うと、
「荷物を整理していただけよ。」
妹の1人がバツの悪い顔をした。
「家にあるのかしらね。」
「家の金庫は空っぽよ。」
別の妹が耳打ちしている。
「看護師さん、兄は本当に偏屈な人だったでしょう?誰か他に面会に来てた人とかっていなかった?」
一番年上だという妹が、広川にそう言った。
「どうでしょうかね。」
広川はそう言うと、
「裸にしますので、廊下でお待ちください。」
3人の女性を病室の外に出した。
「この人には悪いけど、早くやってしまおうか。今朝は助手さんが来ないんだから。」
広川はそう言って、温かいタオルを奈江に渡した。
朝早く、技師長と師長がミーティングルームに入っていった。
「昨日、検査について行ったのは、松下さん?」
老人を担当していた医師が、奈江にそう聞いてきた。
「そうですけど。」
「昨日、何番に入ったの?」
「10番です。」
「技師長は8番って言ってるけど、本当に10番?」
「8番は、前の人が出てきたばっかりでしたから。」
奈江は高校生と話していた技師長を思い出した。
「そうか、ありがとう。夜勤、お疲れ様だったね。」
医師はそう言ってミーティングルームに入って行った。
申し送りを終え、広川と更衣室へ向かう。
「疲れたね~。」
奈江がそう言うと、
「橋本さんに使う造影剤、間違って用意されてたみたいよ。」
広川が神妙な顔で言った。
「さっき、上川先生に聞かれた。」
「橋本さんの家族が騒がなくて良かったよね。とりあえず、現金の五百万円はすぐに手に入ったんだし、あとはどうでもいいってわけか。」
「五百万円?」
「そう。紙袋に入って、着替えの間に隠してあったんだって。それで入院費を払おうとしてたのかな。お寺に寄付した数千万円は貰えないだろうけど、あの妹さん達にしたらそれだけでも、ずいぶんな収穫だよね。」
「橋本さんって、何をしてた人?」
「昔は税理士をしてたって聞いたよ。」
「へぇ~。」
「松下さん、なんか落としたよ。」
奈江は足元に落ちている鏡を拾った。
「これ、私のじゃないよ。」
「だって、松下さんのポケットから落ちてきたし。」
奈江は銀色に縁取られ、裏が漆塗りになっている鏡を手に取った。
2匹の蝶々が描かれている裏をひっくり返すと、目の下にクマができた、ひどく疲れた自分が映った。
幸せなんかその気になって貰っちゃいけない。不幸を映して、笑って暮らしなさい。
奈江は老人の言葉を思い出した。
「ねえ、あの妹さん達って、これで良かったって思ってるのかな。」
奈江がそう言うと、
「残念だったんじゃない?もっと大きなお金が手に入るはずだったんだから。」
広川はそう言って少し笑った。
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