N街ハザード

鷹山トシキ

第1話

 私立探偵の仕事が、どこか非現実的に感じられるのは、毎日が映画のワンシーンのように思えるからかもしれない。N街の西口にある小さな事務所は、駅から徒歩数分の距離にあり、通りの賑やかさと比べて、ひっそりとした雰囲気を持っている。外から見ると、看板一枚が風に揺れているだけで、目立つようなものは何もない。


「探偵事務所」と書かれたその看板も、どこか寂しげで、見る人によってはただの古びた店舗に見えるだろう。だが、私にとってはここが日々の戦場だ。


 今日は、窓際に置かれたカレンダーをぼんやりと眺めながら、椅子に座っていた。外は薄曇りで、通りを歩く人々の足音が微かに聞こえる。電話が鳴る音が、ひときわ耳に響く。


「探偵事務所、どういったご依頼でしょうか?」


 電話の向こうの声は、やけに冷静だった。私は電話を手に取り、依頼主の話を聞きながら、目の前に積まれた資料を整理し始める。依頼内容は、浮気調査のようだ。少し安易だと思いつつも、こうした依頼が何度も繰り返されているのが現実だ。


 依頼主は、地元の大手企業の社員だという。どうやら、妻が不倫している可能性があるということで、証拠を集めたいとのこと。しかし、こんな町で本当に浮気の証拠が見つかるだろうか、と思うと少し興味が湧く。


 私は手帳にメモを取りながら、考える。N街のような場所で秘密を守るのは、案外難しい。住民同士の結びつきが強く、うわさ話がすぐに広まってしまう。だが、それが逆に情報を手に入れる手がかりになることもある。


 しばらくして、電話が切れる。新たな案件が動き始めたことを感じつつ、私はさっそく準備を始める。


 依頼の内容は一見普通の浮気調査だったが、私の直感は何かが違うと告げていた。依頼主の語り口からは焦燥感が漂い、普段の冷静さが欠けていた。そして、彼が話す中で偶然にも「アウトブレイク」という言葉が漏れた瞬間、私はそれに強く引き寄せられた。病魔、それも誰もが恐れる伝染病のようなものが広がっている、という雰囲気が感じ取れたのだ。


「申し訳ありません、少し気になる点がありまして」と、私は電話の向こうに静かに言った。


「アウトブレイク? それが何か関係があるんですか?」と、依頼主は動揺したようだった。


 私は答えずに、しばらく黙っていた。どうしても、あの言葉に引っかかっていた。病魔、アウトブレイク、そして「首」。そのいくつかの言葉が絡み合って、何か大きな事が起きようとしている予感がする。


 その時、事務所のドアが開く音が聞こえ、外からの冷たい風が室内に流れ込んだ。私はすぐにドアに目を向けると、そこには一人の女性が立っていた。目元をマスクで隠し、全身を覆うコートを着ている。何か不安げな表情を浮かべていたが、すぐに私を見つけると、小さく頷いた。


「調査依頼ですか?」と、私は声をかけると、女性は軽く息をついてから、言った。


「ええ、ちょっと…でも、これは普通の依頼とは違います」


 彼女の言葉には重みがあり、その中に「クエスト」のような響きがあった。私はすぐに事務所のカーテンを引いて、外の様子を確認する。誰かが尾行している気配はない。しかし、確かに何かが始まろうとしている。


「あなた、逃亡してきたんですか?」と、私は静かに問いかけた。


 彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、それからゆっくりと頷いた。「そう、ここに来るまでに色んな場所を迂回しました。何者かに追われているんです」


 その瞬間、私は直感的に理解した。この事件は、ただの浮気調査などではない。もっと深刻で、もっと危険なものが絡んでいる。


「話を聞こう」と、私は彼女を奥の部屋に案内した。静まり返った部屋の中で、女性はマスクを外し、震える声で言った。


「私の夫が…彼、首を取られたんです」


 その言葉に私は凍りついた。首、それは単なる比喩ではない。文字通りの意味だ。首を取られた――つまり、命を奪われたのだ。だが、それがどうして、何のために、そして誰が?


 事務所の電話が再び鳴り、私はその音に一瞬気を取られたが、すぐに女性の目が私を捉えた。その目に映る恐怖は、単なる不安ではない。何か、言葉にできないほどの大きなものが潜んでいる。


「私はその病魔を追っているんです。あの病気は、ただの感染症じゃない。…人々の命を奪うだけでなく、もっと恐ろしい力を持っている」


 女性の言葉が私の頭の中で反響した。「病魔」を追っている、というそのフレーズに、私は何か深い闇を感じ取った。目の前の彼女が言っていることは、普通の事件の枠を超えている。しかし、今はそれを掘り下げる時間がない。彼女の語る内容が信じられないほど衝撃的だったからだ。


「遺体安置室で何か見たんですか?」私は問いかけた。


女性は少し黙った後、答えた。「はい。夫が死んだ場所。そこにはただの遺体安置室以上のものがありました。見たくはなかったけれど、見てしまった。そこには…何かが隠されていたんです。」


彼女の言葉に含まれた重みを感じ、私は思わず身を乗り出してしまう。死者が生きている者にメッセージを残すということは、ある意味で避けられない運命のようなものだろう。だが、それがどのような形で現れるのかはわからなかった。


「辻のような交差点、というか、私はそこで…死体が置かれていた場所で、偶然見つけたんです。夫がそこに連れて行かれる直前に言ったのは、「地雷に触れるな」という警告でした。」


「地雷?」私は反応した。「それは比喩的な意味ですか?」


女性は首を横に振り、深くため息をついた。「いいえ、物理的な地雷です。地雷、それも特殊なもの。夫が巻き込まれたのは、ただの偶然じゃない。彼は…ある実験の一環として利用されていたんです。」


私の目が鋭くなる。「実験?」


「はい。ある組織が関わっている…ロシアンルーレットのような実験。死を賭けたゲーム、彼が勝てば命は助かる、負ければ死ぬ。夫は、その「胃袋」に命をかけたんです。」


ロシアンルーレットか。まさに人間の命が物のように扱われる、まさに「ゲーム」のようなものだ。私は息を呑み、女性の言葉に耳を傾けた。


「そして、夫が最初に行った場所、それが遺体安置室だったんです。彼は、確かに死んでいました。しかし、その後不思議なことが起きました。彼の体が…動き出したんです。」


私は一瞬、言葉を失った。その話は普通ではない。それどころか、異常すぎる。だが、その異常が現実である可能性が、私の中で少しずつ確信に変わり始めていた。


「動き出した?」私はついに声を上げた。


女性は無表情に頷き、「はい。死んでいたはずの夫の遺体が、凍りつくように動いたんです。死蝋のように固まっていたのに、わずかに指が動いた。何かに引き寄せられるように。」


「凍死…?」私が問うと、彼女はゆっくりと首を縦に振った。「はい。冷凍庫のような部屋で彼が死んだのは間違いない。でも、それから時間が経つごとに、遺体は異変を見せ始めた。…まるで死者が再び生き返ろうとしているかのように。」


私の頭の中で、無数の疑問が渦を巻く。何が起こっているのか、どこから手を付けていいのか、まるで見当がつかない。しかし、今、この女性の言葉が本当であるなら、私の探偵としての人生は、大きな転機を迎えようとしているのだろう。


「つまり、あなたが言うのは、夫が死んだ後も生き返ろうとしているということか?」と、私は冷静に言った。


「いいえ。」女性は震える声で言った。「それだけではありません。夫の遺体に触れることができる者がいたからこそ、今もその病魔が広がり続けているんです。あの遺体、そしてその背後に潜んでいる者たちが…」


その瞬間、私はふと思い出す。あの病魔の「アウトブレイク」が、もし真実なら、この町に広がる災厄の源がここにあるのではないか。浮気調査などでは片づけられない、もっと大きな陰謀が。


 

私は一瞬、部屋の中に漂う緊張感を感じ取りながら、女性の言葉を噛み締めていた。彼女が言っていることが現実であれば、私の知っている世界が完全にひっくり返ることになる。病魔、死者の遺体、そして何よりも、その背後に潜む謎めいた組織がどんな影響を与えているのか、想像すらつかない。


「その者たちが…?」私は声を低くして尋ねた。


女性はその質問に答えることなく、ただ静かに頷いた。目の前に広がる暗い不安を感じ取るように、彼女の手が震えているのがわかる。その恐怖は単なる脅威を超え、深刻な危機を示しているようだった。


「彼の遺体…それを扱っている者たちは、ただの犯罪者じゃない。」女性が口を開いた。「彼らは何かを解き放っている。あるいは、遺体そのものが…ある力を持っているんです。」


その言葉を聞いて、私はさらに困惑した。遺体が持つ力? それは一体どういう意味だ? もしかして、あの「病魔」というのは、単なる感染症ではなく、何かもっと奇怪な、超常的な力のようなものなのか?


「彼の遺体が動いたのは、単なる偶然じゃない」と、女性は続けた。「あれは、誰かが意図的に何かを引き起こしている。私が調べた限りでは、あの遺体には、特殊な遺伝子操作が施されているような気がする。それが、この町で何かを引き起こす原因になっている。」


その時、私の脳内で一つの情報がつながった。依頼主が「アウトブレイク」という言葉を口にしたとき、私はそれが単なる比喩ではないことを感じ取った。病魔、感染症、そして遺体…。全てが何か巨大な陰謀に結びついている可能性がある。


「あなたが言っていることが本当だとしたら、この町は…」私は言葉を切りながら、再び彼女の目を見つめた。「危機的な状況にある。」


女性は黙って頷いた。「ええ。だから、私がここに来たんです。私はその背後に潜むものを暴かない限り、私自身も…終わりです。」


私の中で、ひとつの決意が固まった。これ以上は放っておけない。もし、この町に広がる危険が本物なら、私は調査を進めなければならない。そして、もしその調査が命をかけるものであるなら、それを受け入れる覚悟を決める必要がある。


「わかりました。」私は静かに言った。「私が調べます。あなたが言っていることが本当なら、この町の全てが危険に晒されている。まずは、あなたの言う『遺体安置室』に行く必要がある。」


女性は少し驚いた様子で私を見つめたが、すぐにその表情が変わり、何かを決心したように深く息をついた。


「ありがとうございます。遺体安置室には、私ももう一度行かねばならない。あの場所に、何か重要な証拠が隠されているかもしれません。」


私たちはすぐに事務所を出た。外は薄曇りで、冷たい風が頬を刺すように吹き抜けていた。歩道を歩きながら、私は心の中で次々に質問を並べていく。あの遺体、動き出した死者、そして病魔の正体…。何一つとして解明されていないことばかりだった。


遺体安置室へ向かう途中、女性は再び口を開いた。「あの遺体、夫だけでなく、他にも同じような状況で命を落とした人がいるかもしれません。彼らの遺体も、動き出すかもしれない。」


その言葉が私の胸を締め付ける。もし、複数の死者が動き出しているとしたら、それは単なる偶然ではない。何か、恐ろしい力がこの町に潜んでいるのは確かだ。


遺体安置室に到着すると、ひっそりとした冷たい空気が私たちを迎え入れた。室内は薄暗く、冷凍庫のような冷気が漂っている。私は女性を先に行かせ、後ろから静かに歩を進めた。


「ここです。」女性が指差した先には、金属製の遺体安置庫が並んでいる。その一つに、異様な空気を感じ取る。安置された遺体が、まるで生きているかのように、何かを訴えるかのように目に焼きついている。


「これが、あなたの夫の遺体ですか?」私は声を低くして尋ねた。


女性は無言で頷き、そして冷蔵庫の扉を開ける。中には、焼けただれた遺体が横たわっていた。焦げた肌と変形した体が、ひどく不自然に感じる。しかし、その目には、確かに何かが宿っているような気配があった。


突然、私はその目がほんの少しだけ動いたのを見た。凍りついたような遺体が、ほんの少しだけ動いた。


「見てください。」女性は震える声で言った。「やっぱり…動いた…!」


その瞬間、私は背筋に冷たいものが走った。この町の「病魔」は、もう止めることができないところまで来てしまっているのかもしれない。







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