オッドアイズ

春斗瀬

1. 全てが狂った日 

「タイシ!」


 痛み。


 炙られているみたいな、筆舌に尽くしがたい激痛。

 

 それから、声。

 

 絶叫に近い声量が、耳元で連続的に聞こえていた。

 

 ……覚えているのはこれくらい。それから後のことは、正直思い出せない。気付けばそこは病院のベッドの上で、泣き腫らした幼い顔があった。直前まで見ていたはずの、薄桃色が映えるフリルが施されたワンピースは、見覚えのない緑色のTシャツへと変わっていた。胸元に書かれていた英字は、今でも分からない。


「タイシ、タイシ!」


「うっ」


 喧しさに肩をすぼめた。


 泣き腫らした跡をなぞるように、大粒の涙が流れ落ちる。活発な……活発だった彼女に似合わない、頬を伝う水滴を凝視していた時、ようやく違和感に気付いた。


 視界が狭い。


 狭いというよりも、暗い。


 次いで、頭部を締め付けられている圧迫感。ヘルメットを被っている感じに似ていた。


 ベッドの上に身を乗り出して泣いている幼馴染にぶつからないよう、後ろに手を引くような形で違和感の正体に触れる。


 包帯だった。


 左目を覆い隠すように、幾重にも巻かれている白い布。微かに香る消毒液の香りが鼻を突く。指の腹を撫でる、ざらざらした感触が新鮮だった。

 

 遠近感を失った視界の端——幼馴染の後ろに、一回り大きな影が伸びていることに気付いた。それはまるで、幼馴染の体を呑み込んでしまいそうな、巨竜をイメージさせる佇まいだった。


「泰史(たいし)君……」


 落ち着きのある声。ただしそこには、深い遠慮と後悔が滲んでいた。その声が僕に対して向けられているということに、下の裏側で苦味を覚えた。


「ごめんなさい、ウチの子が——」


 幼馴染の母親が、目を伏せながら謝罪してくる。平面的なその景色を見ながら、ようやく僕は混乱から抜け出した。


 



 場所は確か、車で十五分ほどに位置する自然公園。


 取り立てて観光地があるわけでもない、平々凡々な街の外れにある一角。過去にテレビで紹介されたことがきっかけで、一時期は蟻の大群よろしく、子供連れがこぞって訪れていたらしい。


 自然公園と謳っているだけあって、人工物が少ない。所々に孤立している水飲み場とベンチ、木製で景観と調和している遊具があるくらいだ。澄んだ渓流を覗き込めば、名前も知らない小魚が泳いでいるし、夏であればカブトムシや蝉がうじゃうじゃいる。言わずもがなそれ以外の虫だって大量だ。百足や蜂もいるから、自然の素晴らしさと危険性を、身をもって体感できる。


 とまあ、俺と幼馴染はその自然公園に来ていた。

互いの母親が同伴していたものの、そちらはベンチで座り込んで何やら話をしていた。まるで興味が湧かなかったので、会話の内容は一切覚えていない。楽しそうな雰囲気だけは感じ取っていた。


 保護者がそんな様子なので、俺と幼馴染も勝手に遊んでいた。


 子供にとって、世界は未知で溢れ返っているものだ。太陽を見ると残像が目に焼き付く理由も、足元に転がっている木の実の名称も、川を泳ぐ魚の種類も、何もかも。目に映るすべてのものが輝かしい光を放っているようで、まだ背丈の低い子供にとっては、どんな場所であっても大冒険に等しいのだ。


「タイシー! こっちこっち!」


 幼馴染は元気溌剌、天真爛漫だ。

絵に描いたような満面の笑みを咲かせて、僕を引っ張るように前を歩いていた。実際に手を引っ掴まれて走らされた記憶もある。


「はぁっ、はぁっ……。ま、待てって」


 渇いて若干の痛みを伴う喉に、唾を流し込みながら僕は追いかける。


 樹幹の隙間を縫うように、ひらひらと軽快なステップで走っていく幼馴染の背中に、離されないよう食らいつくのが精一杯だった。景色を楽しむ余裕なんてものは無い。我ながら貧弱だ。


 急停止した幼馴染に、息も絶え絶え追いついた。隣に立って横顔を見ると、目を見開いて感嘆の息を漏らしていた。


「わぁ……」「おぉ……」


 声が重なる。


 視線の先には、幅二十メートルほどの川が流れていた。澄んだ水質と陽光を反射するその様子は、さながら宝石箱を開けた時のような、胸がざわつく高揚感を浮かび上がらせるものだった。


 川の中州が二つの孤島のようになっていた。幼馴染は、足元に落ちていた棒きれを一本拾い上げて、分かたれた中州の一方へずかずかと進んでいく。靴も履いたままだというのに。


「あーあー……」


 濡れることを厭わず遊び心に忠実な幼馴染に対して、軽い呆れと敬意を抱いた。


「タイシも来てよぉー」


 遠目でも声音と身振りで膨れていることが、なんとなく察せられる。そのくらい僕たちは付き合いが長かった。


「がんりゅーじまのたいけつ!」


 歳の割にはやや舌っ足らずの感じが否めない。


 巌流島……宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を繰り広げたとされる地名。確かにシチュエーションとしては間違いない。互いが中州に立てばそれらしく見える。だから棒切れを拾って、川を突っ切って行ったということを、その当時の僕は気にも留めていなかった。というかそもそも、僕は巌流島での決闘を知らなかった。

見よう見まねで丁度良い棒切れを拾って、濡れると嫌だからしっかりと靴は脱いで、空いている方の中州に立つ。


「やー!」


 可愛らしい掛け声で、偽物の刀を振るう。男勝りな部分があった幼馴染だが、相手は女だ。幼心にもそういうことを気にして、こちらから攻めることはなく守りに徹していた。万が一にでも傷を負わせたくないと思っていたから。


 木刀よりも粗末な、互いの刀がぶつかり合う音が微かに聞こえる。カンカン、というよりもペチペチが似合う感じの、軽い音。

楽しい時間を過ごすことへの喜びで、自然と笑顔を浮かべる幼馴染。そして僕は、そんな幼馴染の様子を見て、喜びに相好を崩す。


 ——そんな決闘は、一分も続かなかった。


「わっ」


 間抜けな声と共に、幼馴染の体が後方へ傾く。


 ……中州と言っても、大した広さはない。子供一人が寝そべると頭がはみ出すくらいのものだ。足元に突き出していた岩の先端に足を取られたのだろう、あっけないほど水面へと接近していく。


「ッ」


 棒切れを投げ捨てる。


 咄嗟に体が動く。


 僕たちが渡って来られるくらいには浅い川だが、生憎と幼馴染が立っていた中州は奥の方にあった。つまり、水深が判然としない。渡って来た側と同様に浅い可能性もあれば、足が着かないほど深い可能性だってある。


 半ば飛びつくような形で、右腕の中に幼馴染の体を抱き留める。浸食で角を削られた丸石の群れに体を打ち付けられるより早く、空中で体を捻る。自分自身を下敷きにするような体勢で、余った左腕を後方へ伸ばし勢いを殺す。



 そしてまぁ、幼馴染は傷一つどころか水一つ付着しなかったわけだが。

 ——幼馴染が持っていた棒きれが、俺の左眼窩を引き裂いた。





 思い出して、まず初めに考えたことは、幼馴染が無事でよかったということ。


 ……後で知ったが、僕たちが遊んでいたあの川は、水位が急激に深くなる箇所があるそうだ。それはつまり、もし僕が咄嗟に動けていなかったなら、一人の命が無くなっていたかもしれないということだった。


 安堵が全身を駆けていく。

 

 じんわりと滲む温かさが、自然と手のひらを動かす。

 

 俯いて泣きじゃくっている幼馴染の頭に軽く手を置く。


「……っ」


 小さな肩が跳ねた。呼応するように瞼が降りてきて、ぎゅっと目を瞑る。


「無事でよかったよ」


「うぅっ……うあぁぁぁ」


 泣き止ませるつもりだったのに、逆効果だった。


 あたふたしている俺を見ながら、幼馴染の母親は苦虫を噛み潰したような表情で言葉を零す。


「どうかこの子を許してあげて」


 許す。


 ……一体何を許せばいいのだろう?


 僕にはよく分からなかった。自分が負った傷のことよりも、幼馴染が無事であることの方がよっぽど重要な事実だった。自己犠牲の精神というべきものが、高々十二歳の子供に宿っているというのは、何とも気味の悪いものだが。……あるいは大切な人を守り抜こうという高貴な決意だったのかもしれない。何はともあれ、少なくとも俺は、嘘偽りなく本心からそう思っていた。

 

 だから、許してやってほしいなんて言われても、どうすればいいか分からなかった。

 

 困惑が渦巻く。巻かれた包帯の裏側を這い回るようだった。

 

 五秒ほどの沈黙を経て、これまた本心からの言葉を告げる。


「じゃあ……これからも仲良くしてほしいな」



 当たり障りのない、そういう言葉を掛けたつもりだった。


 それが、呪いと同等の効力を発揮する、危ういものだと知らずに。



 果たしてベッドのシーツを握り締めながら涙を零していた幼馴染は、大きく何度も頷いた。


「うん、うん、うん、うん!」


 最後の方は唸り声というか、濁点塗れの声だった。


 結局、幼馴染を泣き止ますことは出来ずじまいだった。




 運び込まれた際に緊急手術をしていたので、後は退院するだけだった。麻酔で眠っている間に眼球の縫合手術を受けていたと思うと、目の奥の方が疼くような感覚がある。眼窩を斜めに走っていた裂傷の方も縫合されていて、医療技術の凄さを認識させられた。何針縫ったのかは覚えていないが、傷が塞がっているのだから大して気にならなかった。


 十日ほど経ち、登校する。左隣には幼馴染がいた。いつもは左右など気にしていなかったが、左隣を歩くというのが何を意味しているのか、僕には分かった。


 六年目になる通学路は、片方の視力が眼帯で封じられていようが、慣れたものだった。ただ、ふざけて縁石の上に乗るなんてことはできそうにないと、少しだけ退屈な気持ちがあった。いつもは蝉より喧しい隣の人物が、借りてきた猫のように大人しいという違和感が、なんとも落ち着かない。


 幼馴染は、率先して荷物を持とうとしてくれた。何かあれば……何もない時でも、いつも声を掛けて頼ってほしいと言われた。気遣いは有り難かったが、その手助けを素直に受けることに抵抗があった。僕の考えでは、これからも変わらず仲良くしてくれるだけで十分だったし、その『これから』には一生涯という意味を含めたつもりはなかった。つまり当時の僕は、あの言葉には傷のことで気後れせずに、今まで通りの気兼ねない幼馴染として一緒に楽しく過ごせたらいいな、という意味で口にしたのだ。


 もちろん事はそう単純に運ぶわけではない。


 言葉は不器用で法螺吹きだ。そこに込められた心情や思考を正確に伝えることは、至難の業だ。つまるところそういうことで、僕は幼馴染とすれ違いを起こした。


 ……僕が日常と視力を取り戻していくにつれて、幼馴染は変貌していった。


 一ヶ月もすれば、若干のぼやけが残りはするものの、大体のものは立体的に見ることができるようになった。眼球の傷は思いのほか軽傷だったが、眼窩の裂傷は痕が残った。早めの中二病を発症していた僕は、これはこれでカッコいいなと気に入っていた。


 そして、小学校入学当時から変わらず隣を歩いている幼馴染は、溌溂さを失っていた。


 いつも下を向いて歩くようになった。心なしか痩せたようにも見えた。元気な声を聞くことも滅多になく、こちらに注がれる視線は不安と気後れを含んでいて、水膨れみたいな感じがした。会話の隙を埋めるように「ごめんね」と謝るし、ふと横を見ると、涙を溜めた目元が視界の端に映ることも少なくなかった。


 ——非常に嫌な言い方をすれば。


 人間が壊れていく様子を、間近で見ていたんだ。


 僕が知っていた幼馴染が、鍍金を剥がすように……あるいは別の色の鍍金を重ね塗りするように。幼い頃から目の当たりにしてきた陽気な性格も、真っ直ぐな物言いも、屈託のない笑顔も、ボールが弾むような声音も、何もかも。


 削れていく。


 崩れていく。


 見る影もなく変貌していくその悲惨を、直視していられなかった。例年よりも蝉の鳴き声が煩かった。隣から聞こえていた喧しくも晴れやかな声が無いだけで、世界は無意味な騒音に充ちていく。



 そうやって時は過ぎて、ある冬の日のこと。


 よく思い出せないが、僕は虫の居所が悪かった。親父にゲーム機を没収されたか、友達とサッカーボールの取り合いになったか、そんな理由だと思う。


 あの出来事以来別人と成り果てた幼馴染だが、髪だけは順当に伸びていた。肩を流れて二の腕まで到達していたツインテールは、首に巻き付ければマフラー代わりになるんじゃないかと想像した。


 四か月は経つというのに、幼馴染は後悔を引き摺って隣を歩いていた。どうせ明日になれば、怒りなんてすっかり忘れる性格だと自認しているにも関わらず、散逸できずに溜まっていたそれが当て付けという形で、僕の口から放たれた。


「あのさぁ、いつもグズグズしてるの、見ててイヤなんだけど」


 棘を纏った言葉。否定のみを目的とした、氷の如き冷ややかな声音。みっともない行為だと分かっていながら、隣にぶつける。

その言葉を聞いた幼馴染は——



「えへへっ」



 心底嬉しそうに微笑んだ。


 ……これが決定打だったと、今でも思っている。

 

 俺は確かに、一人の人間を破壊した。


 偽らざる、心からの笑みだと感じ取れてしまう。なぜなら、俺が怪我を負う前——まだ幼馴染が太陽のように明るく活発だった頃と、寸分違わない笑顔だったから。


 目を剥いて驚愕する。


 胸中に湧き出るのは、理解が及ばないものへの純粋な恐怖。鼓動が耳元で響いていた。心臓の柔らかいところにナイフが刺さって、血流と共に何かが流れ出す。


 叫び出したくなった。


 その衝動を、理性で以て統御する。


 それでも、歯軋りまでは抑えられなかった。ぎりぎりと、音を立てて擦れる。まるで全身の骨が悲鳴を上げているような感覚だった。……いいや、きっと骨だけじゃない。皮膚も、その下にある肉も、内臓も、心さえも。僕という存在がバラバラになっていくような錯覚があった。


「な、んで、笑ってんだよ」


 痞えながらも声を出す。目の前に認めている異常性を、見過ごすことはできそうになかったからだ。未だ心緒を支配している恐怖を、喉元でやり過ごす。


 戦々恐々といった状態の僕を見て、彼女は微笑を湛えている。いつかの日、一緒に外で走り回っていた時の、純粋な笑顔。


 時間にして二、三秒。向かい合って視線を絡ませていた間に覗き込んだ、黒くて円らな瞳を、今も覚えている。場違いな笑顔と共に脳裏に焼き付いていて、まるで努々忘れること勿れと言うように、夢に出てくる。


 ……澱が見えたんだ。


 酷く濁っていた。掻き分けても掻き分けても、決して底に辿り着くことはない、分厚く不透明な澱。マイナスな感情が沈殿していて、複雑に絡み合っていた。


 明らかな兆候が見えていたというのに、僕は何もしなかった。


 段々と狂っていく幼馴染を、ただ傍で見ていただけ。


 あの時。


 彼女を守りたいと思って、体が勝手に動いたはずだった。その理屈は今でも信じているし疑っていない。少なくとも僕にとって、幼馴染の存在は大きかった。人生の指針になっていた。幼いながらもずっと彼女の隣を歩いていくのだろうと、そう思っていた相手だ。


 なのに、こんな状態になるまで、放置した。


 いつか壊れてしまうと、悟っていながら。


「なんで笑うんだよ! 八つ当たりされてるって、分かってるだろ⁉」


「うん、うん」


「だったら怒るだろ普通! なんでそんなに——」


 ——そんなに、楽しそうに笑うんだよ。


「嬉しくて……」


 その笑顔は、桜のように綺麗だった。


 それ故に、この世で最も残酷だった。


「ごめんね、タイシ。わたしは悪い子だから——」


 満ち足りているのだと、態度が示していた。スカートの前で、祈るように手を重ねている仕草は、僕の心に無数の罅を入れていく。


 夢が叶った子供のように。


「——だから、もっと叱って?」


 狂気の花を咲かせている。




 やがて、僕が俺になって。


 けれど変わらず、彼女は傍にいた。


 それは、言葉の呪いが掛かったままだという、歴然たる事実だった。



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