2. 曖昧な境界線


予鈴が鳴る。


真面目に授業を受けていた者、内職をしていた者、睡眠学習をしていた者……それぞれ平等に自由が与えられる。クラス委員が授業終了の三拍子を唱えたが、四分の一ほどの生徒は椅子と尻がくっついていた。


「あー終わった終わった」


 永野ながのが、凝りをほぐすように肩をぐるぐる回転させている。危ないのでやめてほしい。


「この後どっか行くか」


「まぁ、いいけど」


 俺は教科書を鞄に突っ込みながら、素っ気なく返事をする。それとなく財布の中身を確認すると、正直心許ないなと思った。貯金は潤沢なので、後でコンビニに寄って引き出しておこう。


「金欠か?」


「お前と違って計画的なんだ」


 散財癖のある永野は、長期休暇の間にいろんなバイトを掛け持ちして貯金をしておかなければ直ぐに財力が底を尽きる。二ヶ月先の冬休みでもえっこら働いていることだろう。


 対する俺は、取り分け趣味があるわけでもなく、散財癖もない。友人たちに誘われた時困らないように、ある程度の貯金をしておこうと考えてバイトはしていた。部活にも参加していないので、平日休日暇だった。週二回、火曜と木曜のバイトのおかげで、メモ帳は入道雲ほど白くは無かった。


 今日は華の金曜日。全国の生徒が待ちに待った休日が目と鼻の先だ。


 亀よりも遅いスピードで、のろのろと帰り支度をしている永野を傍目に、教室の一角を見遣る。


「…………」


 六時間授業の疲れなど一切滲んでいない、澄ました横顔の幼馴染がいる。


 谷野愛実やのまなみ


 かつては天真爛漫で自由奔放、元気溌剌な少女だった。


 よく笑う少女だった。


 そして——俺が、壊してしまった少女だ。


 何の因果か、それとも神からの懲罰か。彼女とは中学三年間と高校二年間、累計五年間も——小学校も含めると実に十一年間も、同じクラスだ。例の一件で歪な人格へと変貌してしまった彼女を、やはり俺は今でも眺めているだけだった。……むしろ、より距離ができてしまった感じがする。


 愛実が昔のように笑うのは、俺が彼女にマイナスの感情を向けた時だけだ。


 満たされたように笑顔を浮かべて、言葉の端々から歓喜を滲ませる。砂漠に垂らされた一滴の水を掬い上げるみたいに、俺から向けられる否定の言葉を渇望していた。


 もちろん俺は、意図的に悪意を籠めた言葉を平然とぶつけられるような人間ではない。だから極力そういう言葉を掛けるのは控えている。それは彼女の笑みを見る機会が減るということでもあるが、擦り潰されそうな自己嫌悪に晒されるよりマシだった。


 昔からすれば考えられないほど大人しいその様子は、皆から「お人形さんみたいに可愛い」と評されていた。二本の毛束は一つに統合されても、絹を連想させる艶やかな髪は変わらず健在だ。容姿だって申し分ないほど整っている。


 ただ、俺からすれば気味が悪かった。


 本当に人形になってしまったのではないかと、何度も疑った。彼女の今の在り方は、俺から供給される負の感情でしか稼働することのない、糸繰り人形だと思わされる。……もちろん実際はそんなはずない。愛実にだって感情がある。友人たちと会話をしている今だって、少なくとも笑みを浮かべている。急拵えで貼り付けたような、粗雑な笑みだけど。


 本当に、心からの笑顔を浮かべるのは、俺が彼女を傷つけようとする時だけ。


 言葉のナイフを、心の柔らかいところへ差し込もうとする時だけだ。


「泰史くん」


 愛実と目が合って、それから声を掛けられる。


 席を立ちあがり、怯えるような歩調で近づいてくる。


「あのね」


「何だよ」


「友達と遊びに行くんだ」


「それで?」


「ごめんね、一緒に帰れない」


 この台詞が何を意味しているのか、俺には分かる。


 中学校に上がった頃から、こういうやり取りが増えてきた。やがて日常へと溶け込んで、疑問にすら感じなくなってしまった。


 ……彼女は、ナイフを欲している。


 心を抉る、言葉のナイフを。


「ンなもん、一々俺に言わなくていいんだよ」


 ぱぁ、っと笑顔になる愛実。


 奥歯が軋む。


「勝手に行けばいいじゃねぇか」


「うんっ」


 心底嬉しそうな、この笑顔だけは変わらない。


 幼い頃から少しも、変わっていない。


 まるで、彼女を救おうとしなかった俺への罰だと、そう思う。


 愛実の背中が遠ざかり、教室のドアを潜る辺りまで耐えていた舌打ちが、自然と零れてくる。何か言いたげな、微妙な表情の永野が俺を見据えていた。


「お前さぁ」


「ンだよ」


「あれで付き合ってないの、謎過ぎるだろ」


 至極真っ当な意見だ。傍から見れば、心優しく美麗な彼女と、やたら毒づく最低彼氏みたいな構図だろう。家が殆ど真向いということもあって、登校する時だって時間が合えば一緒だし。愛実のあの態度は、彼氏に断りを入れる彼女にしか見えないだろうなと思う。実際、入学当初はそう勘違いされていて、野次馬が煩く面倒で、辟易していた。


 ただし、現実は違う。


 言葉の呪いに蝕まれた関係だ。愛実にだって、やりたいことや行きたい場所があるはずで、それなのにいつまでも俺の傍を離れようとしない。あの言葉が贖罪の意味を持つと勘違いして、何年経っても赦しを乞うように傍を歩いていた。


 その真実に気付いた時には、もう俺と愛実の呪いの関係は盤石なものになっていた。


 セメントを流し込まれた道の下に、タイムカプセルを埋めていたことを思い出したような状態だった。俺はそんなつもりで口にしたわけではないというのに、すれ違いを起こした現実だけが目の前にあった。


 俺と愛実の関係性に、生産的なものは無いに等しい。


 それが時々、虚しく感じる。


「色々あんだよ」


「色々ねぇ」


 妙に納得した顔つきで、永野が鞄を引っ掴む。


 ……おそらく、俺の左眼窩に走る傷痕を見ていたのだろう。


 愛実との過去は、わざわざ口外しようと思っていないため、聞かれなければ話さないことに決めている。気分の良い話じゃないことは確かだし。


 彼と連れ立って教室を出る。駐輪場は昨日の雨で水溜まりができていて、肌を舐めるような湿気が頭皮まで侵入してきそうだった。錆びたチェーンを眺めながら、確実に冷えていく気温と心の芯を、嘲笑うように溜息を吐き出す。





 自転車で十五分(永野がちんたら漕いでいたので余計に時間が掛かった)ほど、駅前の商業施設の地下一階。全国で店舗を構えている有名カラオケ店に俺たちはいた。温度を感じさせない笑顔が彫られた猫の看板を見て、愛実の顔が浮かんだ。嫌なものが込み上げてきそうな気配を察して、頭をぶんぶんと振りイメージを散らせる。


 受付のタッチパネルで人数を入力していると、永野のスマホに着信が入る。作業の手を止めて通話を始めた。さっさと入力しろよと思ったが、催促するのも面倒なので、誰も座っていない順番待ちの長椅子に腰掛ける。


「おっすー。……今? 駅前のカラオケ。……オッケー了解」


 催促する必要もないほどあっさり通話が終わる。タッチパネルに入力されている人数が一つ増えていた。


「誰?」


長内おさない


「あぁ……部活は?」


「サボったってさ」


「なるほどな」


 サッカー部エースがサボって良いのだろうか。いや、良くないだろう。俺は推薦入学を貰うんだよ! とか何とか言っていた気がするが、俺はそこら辺の事情には無関係だ。無下に相手の事情へ首を突っ込むのはロクなことにならないと、相場が決まっている。


 永野が店員へ、十一番の部屋に遅れて一人来る旨を伝える。


 取引成立、とでも言うように、三人分のドリンクバーのグラスを受け取り、部屋へと赴く。


「畑野」


「ん?」


「長内にラインしといて、部屋番」


「なんで俺が……」


 そんな愚痴は鼻歌混じりに無視された。仕方なくポケットからスマホを取り出して連絡を入れる。二つ並んだ一等賞に、既読だけついて返信は無い。


 席に座ると、早速永野が選曲を開始した。忙しい奴というべきか、時間を無駄にしない勤勉なやつというべきか。


「やっぱこれっしょ」


 そう言うなり画面に表示された曲名は、かの有名なグローヴァー・ワシントン・ジュニアとビル・ウィザースが手掛けた、文句なしで王道の洋楽。琴線を撫でる、まさにクリスタルのような透明感を漂わせるメロディーが流れ出す。


 永野は洋楽ばかり歌う。


 以前気になって、それとなく理由を訊いてみたことがある。その時彼は、ひらひらと躱すように「色々あるんだよ」と口にした。なので、俺が教室で都合が悪い事を聞かれた際は、意趣返しをしている。今日のもそうだ。


 コイツに付き合わされているおかげで、俺も歌詞を覚えてしまった。マイクは持たずに口ずさむ。暖房が程よく効いた室内で、グラスに浮かんだ結露が音も気配もなく、ゆっくりと滑り落ちていく。



 そうして歌っていると、程なくして長内が入室してきた。


「よお!」


「お、サボりが来たぞ」


 仮にもサッカー部のエースでレギュラーの男が、悪びれる様子もなく、快活な笑みを浮かべながら腰掛ける。そのまま寂し気に置かれていたグラスの中のコーラを飲み干して、「飲みモン取ってくる」と再び席を立った。忙しない。


 一昔前のアニソンを歌い終わった俺は、それとなく永野に目配せする。案外空気を読むのが上手い彼は、俺が何を言いたいのか察して、タッチパネルを二人の間に置く。帰還者待ちの状況だ。


 並々と注いだコーラを片手に、サッカー部エースが帰ってくる。同時に視線を向けられて事情を察した長内は、苦笑いを浮かべていた。俳優顔負けと言ってもいいほど爽やかなその表情を見て、少し腹が立った。


「曲入れてくれてよかったんだぞ?」


「いいんだよ」


「そうかい。……じゃあ」


 素早くタッチパネルを操作する彼に、躊躇いや淀みは一切ない。見据えた一点にのみ意識を集中させていることが、動作のみで感じ取れる。


「コール——よろしく!」


 大々的に言い放って、マイクを掴む。堂に入っているというべきか、小指がピン、と上を向く。


 画面に表示されている曲名は、ハートマークが混じっているアイドルソング。


 ……長内は残念イケメンとして、校内で名が知れているのだ。爽やかで曇りなく、夏や熱血という言葉を擬人化したように煩く、整った目鼻立ちをしているにも拘らず、結構重度のドルオタで、その上シスコンでもある。残念過ぎて言葉が出ない。青春を文字通り捨てている男は誰かと問われれば、真っ先に長内の名を出す自信がある。


 そして残念度に拍車を掛けているのは、ドルオタ趣味が妹の影響であるということ。長内家の家系が美形なのだろう、妹の方も群を抜いて美人だが、重度のドルオタである。何事においても極めすぎると他人との関わりが薄くなる。周りに同じ趣味の同志がいないと愚痴を零されたこともあるそうだ。


 いつものことなので、面倒というか半ば呆れた雰囲気を隠すことなくコールを入れる。ハイ、ハイ、ハイハイハイ。フッフー。


 まぁ、これだけ打ち込めるものがあるというのも、幸せなことかもしれないが。





 二時間半に及ぶ歌合戦(半分ぐらいは長内のターンだった)を終え、外気に肌を晒す。暖房で火照ったからだから熱が抜けていく心許ない感覚が、血液中に滞りなく浸透していく。見上げた空は既に帳が降りていて、一番星は見つけられなかった。


 駐輪場から自転車を引っ張り出してきて、首元を撫でる薄ら寒い風を感じながらペダルを漕ぐ。街灯に照らされた歩道に歩行者の姿はなく、閑散としていた。頭上に広がる深い闇の中に、意識が吸い込まれていくように錯覚する。段々と魂が遊離して、自分自身を三人称の視点で眺めているように思えてくる。


 そんな気分を引き摺りながら、帰路の途中に構えているコンビニに立ち寄る。


 カラオケでダメージを負った財布に潤いを与え、ついでに店内を見て回る。漫画雑誌にもさして興味はない俺だが、コンビニスイーツは人並みに買う方だと思う。特にコンビニで売られているケーキ類は、ケーキ屋に立ち寄るハードルの高い男子高校生にとって便利なものだ。


 ……そんなことを考えながら美容品棚の角を曲がると、見慣れた姿が視界に入った。


「…………」


 愛実だった。


 実に淡々と、まるでそうと決められているみたいに、商品を選び取っている。長いこと見てきたから自然と覚えてしまった、彼女が選ぶコンビニの夕飯のバリエーションが頭に浮かび上がる。


 声を掛けようか、一瞬迷う。


 そう、一瞬だけ。


 次の瞬間には、彼女の肩に手を置いていた。


「愛実」


「……泰史くん」


 起伏を感じさせない、平べったい声音。でもそこには、確かに温もりがある。感情がなくなったわけではない、ただ上手く表現できなくなってしまったという現実が俺に伸し掛かる。罪の意識が、水に落としたインクのようにぶわぁっと広がる。鉄分みたいな苦味が舌の裏から滲み出てくる。


「今日、博恵ひろえさんいないのか?」


「う、うん」


「そっか」


 一拍の間を挟んで、声を出す。


「一緒に食うか、晩飯」


「——うん」


 微かに、俺でなければ見逃しているほどの変化が表情に出る。


 優しくされることへの、遠慮。あるいは、苦痛。


 やるせない思いが込み上げてくる。心臓が潰れるような息苦しさに、顔を顰めてしまいそうになった。


 コンビニ限定という誇大広告を掲げたミニモンブランケーキ二つをレジに持っていく。手早く会計を済ませて、律義に外で待っている愛実と合流する。


 二人で自転車を押して帰路を行く。


 風に吹かれていく雲は小さく、目を離した隙にどこかへ去ってしまった。星の光は頼りなく、俺たちを照らしてはくれない。通り過ぎる木々の隙間や、街灯の影、のっぺりと広がる暗い空から、何かの視線を感じた気がした。後ろを振り返っても誰一人いないと知っているから、ただ前を向いて進んでいく。



 五分もすれば、俺たちの家まで着く。煤けたレンガ色の、小さな庭に生えている柿の木が象徴的な畑野家と、その殆ど真向いに位置する、灰白色の壁面が夜闇に浮かぶ谷野家。


 その谷野家を一瞥すると、確かに自動車は停まっていなかった。


「自転車置いてきな」


「うん」


 自転車を押す背中を眺めながら、心の内側を蔓延る、薔薇の棘にも似た鋭利な痛みを意識して、内心舌打ちをする。


 自分の無力さを、今でも嘆いている。


 愛実が壊れてしまったあの日から。


 特に中学三年間は、何とかして元の明るく元気で、喧しいくらいの活発な少女に戻ってほしいと、あれこれ手を尽くした。その過程で精神医学を齧ったこともあり、中途半端な知識がこびり付いて離れてくれない。まるで、過失と無力の烙印を捺されている感じがして、ぞっとしないものがある。


 俯きがちにこちらへ戻ってくる愛実の姿を視認して、玄関の前に立ち鍵を開ける。


 外へ漏れ出る明かりを確認していたので、母親が既に帰ってきていることは分かっていた。狭いリビングの奥に向かって声を掛ける。


「母さん、愛実来たよ」


「はいよー」


智子さとこさん、お邪魔します」


 気の抜けた返事と「まずはただいまでしょ」という小言を聞き流して自室に向かう。


 愛実が制服のまま上がっているので、こちらも私服に着替えるのは後回しにする。通学鞄をベッドの上に放り投げると、小さく軋んで悲鳴を上げていた。


 リビングに戻ると、愛実と母親が談笑していた。……と言っても、一方は料理を作る手元から目を離していないし、もう一方はテーブルに視線を落としたままだ。


(歪だなぁ)


 そんなことを思う。人が人と向かい合って話をするときは、ある程度の節度があって、せめて体の向きでも向い合せるべきなんじゃないかと考える。堅苦しい思考に囚われているのは俺だけなのだろうか。


 気配で察したのか、母親が見向きもしないで声を掛けてくる。


「アンタさぁ」


 癪に障る声だ。溜息にも似た声音が神経を逆撫でする。


 周波数の問題なのか、どうしてこうも人を不快にさせる声を出せるのだろう。甚だ疑問だ。


「なに」


 微かな苛立ちを抑え込んで返事をする。冷蔵庫を開けると、乱雑に押し込まれた野菜やら何やらが目に付いた。それらを押し退けるように隙間を開けて、コンビニでの戦利品二つを仕舞い込む。


「進路、どうすんの?」


 進路。


 進路か……。


 大学へ進学するのか、就職するのか。大雑把に分類すればその二択。そしておそらくは周りに流されるように、大した目的もなく大学進学を決めるだろう、およそ意味を成さない二律背反を問われる。


「ま、進学するんじゃねぇかなぁ」


 今時は、大学卒業というステータスが無ければ社会で上手くやっていくのは厳しいらしい。去年社会人になった従兄からそう聞いている。年収にも如実に差が出るとか。何とも嫌な話だな、と思う。学歴だけが全てじゃない、なんて大口叩いたのはどこのどいつなのだろうか。


 母親は、俺の返答なんてさして気にしていないと言いたげに鼻を鳴らした。


「愛実ちゃんはどうするの?」


 そう問われた愛実は、いまだ机と睨めっこをしている。


 難しげな表情すら浮かべず、淡々と、おそらくそうなるであろう未来を語る。


「泰史くんが行くなら」


 まぁ、そうなるんだろうな。


 ずっと俺の傍を離れようとしない、その理由を俺は知っている。


 むしろ、俺がその理由を作ってしまった。幼心に、呪いをかけてしまった。



『じゃあ……これからも仲良くしてほしいな』



 他人の立場になるとか、他人の気持ちを想像するとか、そういうことがまだ上手くできない時期だった。何せ小学生だ。自分のことで精一杯で、他人のことなんて見ていられないのが普通だ。


 それでも、俺は俺なりに、愛実が気負わずにいてくれる選択をしたつもりだった。


 そう、『つもり』になっていただけ。現実は今、俺の目の前にいる愛実の変わり果てた人格だった。陽気さも、純粋さも、輝かしさや華やかさも、すべてが裏返った。

 彼女は、言葉の呪いに蝕まれている。贖罪の意識に支配されている。


 もし俺が、もっと直接的で分かりやすい贖罪を求めたり、あるいはあの言葉の意味をハッキリと伝えたりしていれば、違った未来があったのかもしれない。


 全てはすれ違いから始まって、責任感と赦されたいという気持ちの間で傷だらけになっていた彼女の心に、俺が不用意な刺激を——マイナスの感情をぶつけたことで、歯車は完全に噛み合ってしまった。愛実はきっと、心の柔らかいところを無造作に刺し貫くナイフの鋭さが無ければ、自分を赦せなくなっている。


「…………」


 黒く艶やかな髪が流れゆく、静謐な横顔を見る。


 葛藤や軋轢で摩耗していた感情が、水を得た魚のように浮上してくる。


 そして、莫大で痛みを伴うそれを掴もうとして、手を伸ばすと消えていく。雑多な感情のスクランブルへと、紛れて見失ってしまう。


 ——高校に入学し、小学校と中学校を共に過ごした友人たちは各々の希望を追いかけ、ひとつのライングループを残して散り散りになった。慣れない環境の中で、俺は変わらず愛実と登校し、一緒に過ごし、そして後悔ばかりが積み重なっていた。


 このまま、本当に一生、愛実は俺からの赦しを求め続けて死んでいく気がして、恐々とした。もともと贖罪の意味合いはなかったあの言葉に、彼女の良心の呵責は罪を見出したのだ。ただひたすら傍を離れず、罪を赦されるその時まで、謝り続けるのかもしれなかった。


 俺は彼女に呪いをかけて、そして解呪をする勇気が無くて、人生の道連れにしてしまうような、残酷極まりない終わりが見えていた。


 互いが互いに罪を感じて、すれ違ったまま——平行線のまま死んでいく。


 それは嫌だと、思っているのに。


「なぁ、愛実」


「なに?」


 火を見るより明らかな、微かに歪む表情を想起する。


 それでも俺は、言葉を紡ぐ。


「いつも、ありがとな」


 口の端が、強張る。涙を堪えるみたいに目を伏せる。


「わたしは——いい子じゃないよ」


 大きく重たい鎖が、背後に見えた。くすんだ鈍色が景色を曖昧に反射して、ぼやけた反転世界をそこに見る。俺の姿も彼女の姿も、確かにそこにはあった。首を引っ張られるみたいな虚しさが、指の先から侵入してくる。


 今度こそ、莫大で痛みを伴う恋慕の情が、バラバラに砕け散っていくのではないかと思えてしまった。ただでさえ曖昧になっていて、摩耗していて、霞んでいるその感情が、罪悪感とやるせなさによって否定されるのではないかと。


 ……俺が愛実に罪を科せず、罰を与えられずにいる理由。


 ひとつに、過去の清算をしても昔の彼女が帰ってこないのではないか、という漫然とした恐怖。


 ふたつに、過ちを今更正して、自分だけ救われた気になることへの憤り。


 そして最後に。


 結局のところ、俺は愛実が好きなのか、という疑念。


 幼い頃から俺の中にある、彼女を大切に思う気持ちはまだ、確かに存在している……そう言い切れなくなる程、日常に潜む色濃い影と罪の意識が、俺の心緒を蝕んでいた。究極的な解釈をすれば、人間不信や自己不信とすら。


「できたよー」


 言うが早いか、テーブルの上にどさどさと運ばれてくる料理の数々。いきなり一人分追加となったはずなのに、対応が早い。並べられている皿の上には、人参とキャベツと卵の野菜炒め、肉じゃがに味噌汁、そして白米。


 俺の茶碗によそられている白米だけ、やたらと四角形に見えるのは、おそらく。


「アンタはレンチンご飯」


「だよな」


 特に不満はない。むしろ愛実の方に炊き出しの白米を提供してくれたことに感謝すらある。やはり客人は誰であってももてなすべきだ。……そして俺個人の意見としては、愛実であればなおさらそうすべき、というところだが。



 ややもあって食事を摂っている最中、テレビ番組のコメンテータ―の声に紛れて、母親が軽い口調で尋ねてきた。


「そういえば」


 箸で俺を指差す。礼儀がなっていない。


「その傷、治さなくていいわけ?」


 俺の隣に座っていた愛実の肩が、僅かに跳ねる。


 その気配を感じながら、平然と言い放つ。


「いい」


「そう?」


 興味なさげに食器を流し台へもっていく母親の背中を見送って、それから隣に視線を向ける。他人を慮るということを知らないのか、愛実がいるというのに。


 左手の人差し指を、右手の親指と人差し指で、赤く変色するほど力を籠めて摘んでいる様子が目に入った。


 まるでこれから殴られることを予見してじっと身を縮めているような、その仕草に心が裂けていくようだった。


「ごめんね」


「お前は悪くない」


 あの出来事以来、何度も何度も何度も何度も繰り返してきたやり取り。


 それは今でも続いていて、愛実の口から聞かされるその四文字は、回数を重ねるごとに茨の鋭さが増していく。俺の心の柔らかいところにナイフが刺さる。辛苦に晒されるそれは、彼女にとって一番の悦びになっている。


 俺がそうさせたんだ。


 俺の罪は、裁かれるべきじゃないのか。


 そう考えて、踏ん切りがつかずに蹲っている俺にとっては意味のないことだと、鼻で笑ってやる。



 食後のデザートにと買った、ミニモンブランケーキを愛実に手渡す。お母様の分はないの? などと傲慢な台詞を吐いている五十代ワーカーホリックは、適当にあしらっておいた。


「わざわざごめんね」


「いいんだよ。俺がやりたくてやったことなんだ」


「何だったら智子さんに——」


「いいから、貰っとけって。気にするな」


 お前にために買ったんだよ、とは言えない。そういう度胸があれば、今頃こんなことにはなっていないのだから。


 愛実は歪な笑顔を浮かべた。半分は遠慮、もう半分は分からない。おそらく一括りにできるような単純な感情じゃない。


「じゃあ、帰って食べるね」


 そう言うが早いか、鞄を背負って玄関へ歩き始めた。引き留める理由を何も持ち得ない俺は、ただ黙ってその様子を見届ける。お邪魔しました、と声が聞こえて扉が閉まる音がする。


 彼女が傍にいない時間を虚しく感じる自分と、首元が軽くなるような安堵を覚える自分が混在している。何が本音で何が建前なのか、その境界線が滲んで消えていく。浜辺に立った時、海と空の境界線はどこにあるのか判然としない……そういう感覚だった。


 たった一つの傷跡で、数えきれないほどの物事が複雑化し、難解になっていく。どれもこれも曖昧で、自分のことすら分からなくなっていく。

 少なくとも、俺にとってはこれが日常だった。



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オッドアイズ 春斗瀬 @haruse_4090

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