洛中楽Guys ー若き絵師たちの肝魂ー

林海

第一章 まずは、我らのことなどを

第1話 まずは前口上でございます


 手前が覚えておりまする、絵師としての最初の記憶は、三歳みっつのときのことでございます。


 たわむれに筆をり遊びに描き散らしたものを見て、祖父はにんまりと笑い、「これを」と三歳児の手にちょうどよい細い筆を握らせてくれたのでございます。

 家業のためか、幼き子の戯れにもほど良き筆がうちには数多くありました。そして庭には、長年踏まれたことで磨かれたようになった大きな白い踏石があり申しました。そこに水で濡らした筆を滑らすと黒く筆跡が残り、墨を摺らずとも、また高価な紙を使わずとも絵を描き続けることができたのでございます。

 ただ、あまりに晴れた日は、描くそばから白石が乾いてしまい、小さな絵しか描けなかったというのも懐かしい思い出でございます。


 五歳いつつになったときでございましょうか。

 父が絵の手本を集めた粉本ふんぽんなるものを手前に手渡し、「寸分違わぬものを描け」と課したのでございます。これが、手前の画業修業の始まりでございました。


 これは、苦行でございました。

 好きなように筆を遊ばせていた花鳥風月も、ただただ粉本ふんぽんと寸分違わぬように描くことしか許されなくなったのでございます。


 手前がもう嫌だと泣いたとき、祖父はふたたびにんまりと笑ったものでございました。

 そして、「その筆を寄越せ」と申したのでございます。


 祖父は手前を従えて庭に出ると、白石に向かい許す限りの大きな円を一気に描いたのでございます。

 工房に入ることを許されていなかった手前は、そのとき初めて祖父の描く姿を見申しました。その姿は美しいものでございました。

 そして、描かれた円は、どこまでもなめらかで歪みなく、それでいながら五歳いつつの手前にもわかるほど、香気と色気に満ちたものであったのでございます。四半刻しはんとき(30分ほど)もたず跡形もなく消え失せたその円は、幼心にも、いいや、今をもってすら手前の心に焼き付いておりまする。


「さ、これを描けるか?」

 祖父は大きな手で手前の頭を撫でながら目を覗き込み、そう問うたのでございます。その目は優しく笑んでおり、その問いにこくりと頷いた自分を手前は憶えており申します。


 手前にとって、粉本ふんぽんと変わらず描くということの意味が変わったのは、そのときからでございました。

 その日、もう描くのは嫌だと泣いた涙も乾かぬうちから暗くなるまで、手前はひたすらに円を描き続けました。

 描いても描いてもむことはなく、どれほど描いても祖父の円には遠く、手前にとって初めて描くということが道に、いやごうとでも申すべきものになったのでございます。


 手前がひたすらに円を描き続けて、いつの間にやら四年の歳月が流れました。暑い日も、筆を持つ手が凍るような寒い日も、ひたすら白石に円を描き続ける日々でございました。


 手前も家業でございますから、家紋を描くときの円の描き方は知っておりました。中心を決め、そこから糸を伸ばし筆に結べば正確な円は描けるのでございます。ですが、そういった方法で描いた円に香気と色気を感じることはなく、結局は再び白石に向かうしかないのでございます。

 手前は、数えで十歳になっておりました。


 風のない冬のある朝、ついに手前の描く円が、記憶にある祖父の円と重なったのでございます。

 手前、その時の寒さも感じぬほどの嬉しさ、背中を温める陽の光、そしてその円を描くときの手足と心根の自然さを未だ忘れてはおりませぬ。

 それから三日、繰り返し描いた円の姿は、ついに何度描こうとも揺るぎないものになっておりました。


 祖父は、手前の顔色から悟るものがあったのでございましょう。

 いつの間にか円を描く私の後ろに立ち、描かれた円を見てにんまりと満面で笑ったのでございます。

 その日から手前、工房への出入りを許されたのでございます。


 それから間もないことでございました。天文二十一年(1552年)の春のことでございます。手前は祖父に連れられて向かった先は、なんと十三代足利将軍様の元でございました。


 その頃、将軍様は三好様と和解され、今出川御所にお戻りになられたばかりでまだ身辺も落ち着かず、長く続いた騒乱の余波も未だ落ち着ききってはおりませなんだ。

 それはともかく、将軍様がそのような状況にもかかわらず、祖父は手前を自らの後継者として拝謁をさせたのでございます。


 手前の脳裏に残っているそのときの将軍様は若々しく凛々しく、「もし手前にこのような兄がいたら」と夢想したのを憶えておりまする。

 「すでに絵師としての技を身に付けている」と祖父がお伝えし、また将軍様も手前の元服の時期を祖父にお聞きになったりされ、終始和やかな表情であらせられました。

 最後には、もったいないことに「源四郎げんしろう」と手前の名をお呼びくだされ、「励めよ」とのお言葉を手前は賜ったのでございます。


 今にして思えば、このお目見えこそ、手前が御用絵師として生きる運命を決定づけられた出来事だったのでございます。


 もちろん、「すでに絵師としての技を身に付けている」と祖父が話したのはさすがに無理があり、それからも修行の日々は続いたのでございます。

 ですが、円を描き続けたことで、いつの間にやら極意とでも言うべきものを手前は身につけていたのでございましょう。手前が粉本にしたがって寸分違わぬものを描いたとしても、それは手前の絵となっていたのでございます。


 更なる修行の続く中、いつの間にやら我が狩野の家は世から「狩野派かのうは」と呼ばれる集団になり、祖父の、父のたくさんの弟子が出入りするようになっておりました。

 その中には名を成したものも多くいましたし、手前も懇意にさせていただいた方たちも多くおります。


 しかしながら、祖父から父に受け継がれた「粉本」の習得が、弟子たちにとっては大きな壁となったのでございます。

 狩野の家に出入りする弟子たちは、上洛する前からひな(※1)で名を成しており、このような修練はもはや必要ないと思ったのでしょう。


 ですが、祖父も父も、一歩も譲りませなんだ。

 狩野の家で狩野の名のもとに絵を描く以上、「粉本」は習得すべし。

 その姿勢は、最後まで変わることはなかったのでございます。


 手前、狩野の家を継いだ身になって、その重みを日々実感しております。

 我が狩野の家は、襖絵を始めとする大きな絵を、それも数多く下命されるのでございます。

 どれほど才に恵まれようとも、どれほど芸を極めようとも、独りの絵師の力は知れたもの。質はともかく量には限界があるのでございます。


 上洛する前からひなで名を成した者の中には、それを理解する者もあり、理解できぬ者もあり、さらには超越した者すらおりました。



 これよりは、手前とそのような者たちとの関わりの思い出語りにございます。

 この関わりは、足利将軍様から「洛中洛外図らくちゅうらくがいず」を描けとの下命をいただくに至って結実いたしたものにございます。

 京の町並みを描き、その暮らしぶりを詳細に描くは、独りの人間ではできかねることも多々あったがゆえにございます。


 残念ながら下命くだされた足利将軍様は、この絵の完成を見ることなく永禄の変(※2)にて奮戦虚しくお隠れになられました。今にして思えば、まことにお可哀そうなお方でございました。それゆえ、二度と日の目を見ないと思うておりましたこの「洛中洛外図」でございますが、織田権大納言様にすくい上げていただきました。


 これを機に、懐かしく語らせていただきとうございます。



※1 鄙 ・・・ いなか

※2 永禄の変 ・・・ 室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって殺害された事件

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