天泣ーなにものにもなれないぼくらのうた
言ノ葉紡
第1話 ゼノ
晴天だけが続く世界、ハレルヤ。雨を降らす魔法を行使する皇族と水魔法の使い手が尊ばれる其処には、魔法使いを育てる教育機関により設立されたファルシア学園があった。
その学園の片隅に、三人の生徒がいた。皇帝の御息女であるミーティアと、童貞、と揶揄う遊び人ウェリタス、それから彼に揶揄われているゼノである。
猫が鼠を玩具にする光景を連想させる二人にミーティアが微笑んだ。
「二人はいつも仲良しなのね」
「そうでしょ~?」
ウェリタスが笑う。
違う、と反射的に噛み付こうとしたゼノは絶句した。
ウェリタスの声が優しい。先程までの嫌な奴ぶりが鳴りを潜めてまるで普通の少年のようである。
「ミーティアちゃんは何だか楽しそうだねぇ」
「だって二人が楽しそうだから」
「何それ~」
誰だこいつは。なんだこいつは。
あまりに穏やかに交わされる会話にゼノの頭が痛んだ。
さっきまであんなにもゼノに嫌がらせをしていたのに。デリカシーの欠片もなく自分の享楽だけを追い求めていたというのに。それがウェリタスなのだとずっと思わせていたくせに。
ミーティアとお喋りに興じるウェリタスは、どこにでもいそうな普通の学生だった。
「そう言えばミーティアちゃん、今日は店に来るの?」
「ええ。もしかしてダメだった?」
「ううん、ミーティアちゃんが来るなら新作メニューの感想聞きたいなぁって思っただけ。今回のはオレが考案したし」
「本当?なら絶対美味しいわ」
どこか気怠げにも響く柔らかな声のおねだりに、にこにことミーティアが笑う。目の前にいるウェリタスに向けるその笑顔は長期休暇前と変わらない。
まだ記憶にも新しいその休み期間に、皇女暗殺未遂騒動が起きた。たまたま学園に残っていた者たちによって解決されたそれは、瞬く間に噂となって休暇明けの校舎を駆け巡った。
曰く、ミーティアの従者であり騎士であり恋人であるファルサが彼女を裏切った、と。
俄かには信じがたかった。いつだってミーティアはファルサを第一に信頼していたし、ファルサはミーティアを愛していた。その目に、顔に、嫌悪が滲んでいたら気づけるはずだった。
だから、ゼノの目から見たミーティアとファルサは似合いの恋人だった。
けれど、ある者は鼻で笑い、ある者は眉を顰め、ある者は御せなかったかと呟いた。
誰も、驚いていなかった。
戸惑うゼノに、ウェリタスは胡散臭い愛想笑いを浮かべて言った。ゼノの意見も正しいのだと。彼は決して、彼女を愛したり護ったりすることを厭うて裏切ったのではないと。
噂が真実なのだと、そこでゼノは漸く理解した。
ファルサはミーティアを裏切ったのだ。人を疑うことを知らないふわふわした生き物の信頼を完膚なきまでに壊したのだ。
今、目の前で笑うミーティアは朗らかだ。傷一つついていないと言いたげにいつも通りだ。いつも通りすぎて、悪い夢を見ている気分になる。
ファルサに裏切られて目の覚めるような衝撃を受けたはずだ。恋人になれたのよ、と打ち明けてくれた日の彼女を覚えているからこそそう思う。
だと言うのに、何故目の前の少女はこんなにも朗らかなままでいるのだろう。何一つ奪われていない顔をして、笑えるのだろう。
「ミーティアちゃんはぁ、変!」
嬉しそうに弧を描くアーモンド型の瞳と口元。突拍子もない罵倒にミーティアが一瞬目を大きく見開いて、次の瞬間、大輪の花を咲かせた。
「変じゃないわ、普通よ?」
「えー?絶対変だって」
「そうかしら?初めて言われたわ」
ゼノもそう思う?と水を向けられて、言葉に詰まる。動揺が顔に出た。
「ゼノくんさぁ……バカ?」
呆れたようにウェリタスに指摘され、ぐうっと呻く。ミーティアがまた一つ花を咲かせた。
「平気よ。ファルサのこと、訊いていいわ」
真っ直ぐ促され、覚悟を決める。
「恨んでないのかい?」
「ええ」
「恋人だったのに?」
「もう違うわ」
「……君にとっては、敵ではなく、友達だと?」
「そうよ」
迷いなく頷いて、ふとミーティアが首を捻る。大きな瞳が不思議そうに瞬くものだから、ゼノも首を傾げた。
「違うのかい?」
「違わないわ。でも、そうね」
うろうろとさまよった視線が何か閃いたのか柔らかく綻んだ。
「たぶん、本当は何だっていいの。友達でも、家族でも、恋人でも、そうではなくても。どんな名前だって構わないの。同じ目線で一緒に笑えたなら、それで十分だわ」
でも、とミーティアが笑う。いつも通り天真爛漫に、悩みとは無縁の太陽の如き笑みをその顔に広げる。
ああ、なんて眩しい。焼かれてしまいそうだ。
「ファルサはわたしが嫌いだから、きっとそれだけが難しいって言うから。冷めた顔をして、そんなことありえないってお腹の底から呆れるから。それでも、願いは捨てられないから。だからわたしは、そのままでいるって決めたのよ。彼が毛嫌いした帝国の皇女様でいるの」
「……賢明だね」
例えばの話。身分が上の者が貴方は特別だと笑うのは、それほど難しいことではないのだろう。基本的に相手に対して卑屈さがない。劣等感がない。無垢で素直なミーティアであればなおさらだ。きらきらと目を輝かせて屈託なく口にする。
だが。身分が下の者はそう簡単にはいかない。恐らく身に染み付いた意識は特権階級の者よりも強いのだ。敬うように、従うように教育されて生きてきた者が、友だ恋人だ特別だと呼ばれたとして、果たしておいそれと是と答えることが出来るのか。
無理だ、とゼノは即断する。
無理なのだ。どれほどミーティアが望んでも。
実際に手を振り払われて痛い目を見たはずだ。
「そうでしょう?」
わかっていて、笑うのか。わかっていて、言い続けるのか。
大切だと。好きだと。友達だと。切り捨てられた過去に確かにあった想いを秘めたまま、彼の心に届くまで。
途方もない祈りだ。言葉に宿る力などまやかしかもしれないのに、聞き届ける神様など信仰上の建前でしか存在していないかもしれないのに、願い続けるなんて。
ああ、と震える息が零れた。
なんて、眩しい。こんなにも真っ白な生き物を、ゼノは彼女以外に見たことがない。心のいっとう柔らかい部分に突き刺さるほどの無邪気さを人は成長とともに失うというのに、それを未だに抱えたまま生きているなんて。
息苦しくて、しかたないだろうに。
「賢明だけど、馬鹿だね」
「ひ、ひどいわ!」
「でも、君らしいとも思うよ」
ゼノには無理だ。自己防衛のために盲目的になることはできても心まで騙せない。苦しいと叫ぶ声を無視して笑うぐらいならと別の道を模索する。大人になって諦めと折り合いを覚える方を選択する。
だけど、この生き物は違うのだ。苦しいという叫びを肯定して受け入れて、そうして笑う。伸びやかに愛を謳い、好意をぶつけ、誰もが失くすものを後生大事に持ち続けている。
何となく、何となくだがウェリタスの態度もわかる気がした。いっそ気味が悪いぐらい真っ直ぐなこの生き物は、それでいて誰もに笑うのだ。開けっぴろげに好意を示して、大好きよと心の底から宣うのだ。
相手がどんな悪人でも、善人でも。
ゼノにとっては腹立たしいことこの上ないウェリタスだって、ミーティアからしたら面白くて大切な友人なのだ。
「君はもう、ファルサの一番になりたいとは思わないのかい?」
だからそんな問いが出てきたのは、ほんの出来心だ。
博愛主義のミーティアがたった一人恋人にと望んだ相手だったから、それは純粋な問いかけだった。
「もう一度?」
きょとんと大きな瞳が丸くなる。あどけなさすら残した響きでもう一度、と転がしたミーティアはふるりと首を横に振った。
「もう、いいの」
「……どうして?」
「誰も幸せになれないから」
それは、いったいどういう意味だろうか。ゆらゆらと薄氷に揺れる感情の名前を付けあぐねて、ゼノは口ごもる。
ゼノはミーティアの闇を知っている。知っているというのも烏滸がましいかもしれないが、それでも以前、触れたことがある。
倒れたのだと言っていた。意識を失ったのだと言っていた。直接的な言葉こそなかったが、それが毒によるものだとゼノには理解出来てしまった。
命を狙われる危険を、ミーティアは笑って語る。朝起きて挨拶をするのと同じくらい気軽な調子で、それこそ日常の一部ですと言わんばかりの当然さで言ってのける。
真っ白な彼女の、白い闇。白すぎて狂気にさえ映るその実体を掴もうとゼノは目を眇め、嘆息する。それが如何に無駄なのかは、もうわかっていた。
休み明けから、ファルサがミーティアの側を離れることが増え、一人になった彼女にウェリタスが声をかけるようになった。それを目新しいと物珍しげにする者が多い中で、休暇中学園に残っていた者たちは微笑ましそうに頬を緩めていた。遊び人と名高いウェリタスがミーティアを誑かすなど微塵も想定していなさそうだった。
だから、そういうことなのだ。
別に目の前のこの生き物は、何も変わらなかったわけではない。失った代わりに得たものがあって、失ったものを数えるより得たものを数えただけなのだ。
そうやって生きてきたのだ。そうやってでしか、生きることも難しかったのだ。
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