ニュー・オーダー!

二度寝沢 眠子

第1話



 法廷コートは異様な熱気に包まれていた。興奮、狼狽、疑問、感嘆――百人を超える傍聴人たちの感情が囁き声となり、さざ波のようになって場内に渦巻く。静かな、だが熱を孕んだ波だった。


「静粛に!」

 すかさず一喝が響き渡る。くぐもって低く、しかしよく通る威厳のある声。傍聴人たちは一斉に口を閉ざし、場内は張りつめた静寂を取り戻した。

 法廷の正面、上座は階段状になっていて、その最上段にはデスクとタペストリーが掲げられていた。華美な中期帝国様式インペリアル・スタイル。タベストリーには帝国国章である七芒星ヘプタグラムが掲げられている。その佇まいはまるで神を奉る荘厳な祭壇を思わせる。そしてその壇上には七人の男が横並びになって法廷内を睥睨していた。

 七人は皆、揃いの出で立ちをしていた。全身を覆う板金製の甲冑。山羊の角を模し顔全体を隠う漆黒の兜とマント。肌ひとつ見せる場所のない完全鎧フルプレート・アーマーは、まるでここが戦場かと思わせるほどの偉容に満ちている。〝大審官ジャッジ〟と呼ばれているその異装の七人は、まさしくこの法廷コートの支配者。そしてすべての決定権を握る絶対的な裁断者であった。

「これにて〝剣の騎士スパーダ〟による口頭弁論を終了します――」

 良く通る声が場内に響く。声の主は〝大審官ジャッジ〟の眼下、向かって左側に登壇している男だった。

 こちらの男も華美な礼装をしていた。厳つい籠手ガントレット脚甲グリーヴ。金銀の繻子で彩られた美しい外衣サーコート。その全てが赤と黄に染められている。それは今や古き良き時代の戦支度。凛々しい中世騎士の出で立ちだった。男の脇にはまったく同じ軍装をした男たちがズラリと並んでいる。

「……以上の証言により、被告人が本事件の真犯人であることは、疑う予知がありません」

〝剣の騎士スパーダ〟を名乗った戦士が言葉を張りあげる。自信に満ち溢れた口調だ。

「犯行の瞬間を目撃したという複数人の証言と状況証拠、そして犯行の動機と必然性……そのすべてが被告人が本件、〝ランベリス卿殺害事件〟の実行者であることを指し示しているのです!」

〝剣の騎士スパーダ〟が身振りを交えて演説を打つ。端正な顔つきと勇ましい衣裳も相まって、その様子はまるで舞台上の人気俳優のように華麗で、その言葉は説得力に満ちていた。

「もはやこれ以上の議論は不要! 剣の騎士団側は、本法廷に速やかな結論と判決を求めるものであります!」

〝剣の騎士スパーダ〟が最後の一節に最大のボルテージをこめ、ダン!と、手に持った儀仗剣を大理石の床に打ちつける。場内に硬質の音が心地よく響いた。

 法廷がシンと静まり返る。反論の余地はない、完璧な弁論――沈黙は雄弁であった。

「――では〝盾の騎士スクード〟、反対尋問を」

 間をおいて〝大審官ジャッジ〟の声が響く。法廷内の全視線が〝剣の騎士スパーダ〟と反対方向、向かって右側に登壇している人物に注がれる。

「は、はいっ!」

 その返事は重厚な法廷内にはそぐわない、上擦った声だった。

「え、え……と、反対尋問……ですね!? は、はい……今すぐっ!」

〝盾の騎士スクード〟と呼ばれた男は、慌てた様子でせわしなく両手を動かしている。どうやら手元の書類を確認しているようだ。

「え……と、その……」

 取り乱したその様子は威風堂々とした〝剣の騎士スパーダ〟と正反対だった。見るとその顔はまだあどけなさの残る少年だ。今にも泣きそうな表情。極度の緊張により完全に平常心を失っている。その動きは大道芸の道化師のように滑稽だった。

「げ、原告側の指摘は、ぶ、物的証拠に乏しく、えーと、あ、あくまで推測の域を出ておらず……その……わわわっ!」

 バサバサバサと〝盾の騎士スクード〟の手から無数の資料が地面に落ちた。散乱する書類の束。そのコミカルな失態に今までの緊張の糸が切れ、一転して法廷内が弛緩した空気になる。

「……もう結構」

大審官ジャッジ〟の低い声が轟いた。カチャリと鳴った甲冑の触れ合う音が、彼の溜息であることに気づいた者はいない。

「で、でも……ま、まだ弁論が――」

「本日はこれにて!」

 頭上に無情の一言が鉄槌となって落ちてきた。必死で食い下がる〝盾の騎士スクード〟の少年に〝大審官ジャッジ〟の返答は非情だった。

 顔をあげると〝剣の騎士スパーダ〟がこちらを見ていた。蔑みと嘲りをこめた冷笑を浮かべて。

大審官ジャッジ〟が再び言葉を継ぐ。

「本件は五日後の最終法廷にて結審、判決を言い渡す。〝剣の騎士スパーダ〟と〝盾の騎士スクード〟の両騎士団オーダーは、それまでに本件における真実を余すところなく希求、及び看破し、来たるべき最終弁論に備えること」

帝国騎士インペリアル・オーダーの名にかけて!」

〝剣の騎士スパーダ〟が横一列になり、喊声とともにガシャリと軍礼をする。一糸乱れぬ様式美だった。一歩遅れ、たった一人の〝盾の騎士スクード〟の少年も慌ててそれに倣う。こちらはイマイチ締まらない。

「帝国にあまねく法と秩序のあらんことを」

 お決まりの口上とともに、法廷は終了となった。

 傍聴席にいる人々が雑談をしながらまばらに席を立ち始める。七人の〝大審官ジャッジ〟と、検察側の〝剣の騎士スパーダ〟の面々も控室へと帰って行く。

「楽勝だな」

 退出しながら〝剣の騎士スパーダ〟の一人が隣の仲間に耳打ちする。聞かれたのは先程、壇上で切れ味鋭い弁論をしたリーダー格の騎士だった。

「余裕すぎて勝った気もしねぇよ」

 リーダーの男が軽薄そうな笑いとともに返事する。

「特に……弁護騎士があれじゃ、な」

〝剣の騎士スパーダ〟が一瞥する先には、未だ地面に散乱した書類を拾い集めている少年がいる。

「もっとマシな人選はなかったモンかねェ。騎士の面汚しめ」

「どこの騎士団オーダーにも所属できない未熟な徒士スクワイアさ。しかも今回が初法廷の新米って話だ」

「そんな奴が法廷に立つってんだから、世も末だな」

「誇り高き帝国騎士も、質が落ちたもんだ」

〝剣の騎士スパーダ〟の男たちが一斉に声をあげて笑う。有らん限りの侮蔑をこめた、冷ややかな笑い声だった。

 その嘲笑を背に〝盾の騎士スクード〟の少年が立ちあがった。拾い集めた書類を握りしめ、俯いて沈黙する。その顔は後悔によって歪み、失意によって今にも泣きだしそうだった。

「騎士様……」

 ふと少年は微かな声を聴いた。ハッと気づいて顔をあげると、視線の先に一人の少女が立っていた。

 少女――法廷内の中央に位置する証人席に、まるで見せしめのように立たされていた少女。そう、彼女こそこの裁判において告訴の対象となった被告人――。

 刹那、二人の視線が交錯する。悲しみに満ちた少女の顔を目の当たりにして、少年は思わず目を背けた。そして少年は強く唇を噛んだ。激しい憤りととともに。


 帝国暦五八七年、穣乃月十日。連合帝国ユナイテッド・インペリアル大法廷グラン・コート、第十三法廷。

〝ランベリス卿殺害事件〟第三回審議はひとまず終結した。

〝騎士〟として始めて法廷に立った、一人の少年の強い挫折と後悔を残して――。


   ★   ★   ★


 その日、帝都グィンギルは実に一か月ぶりの青空を覗かせていた。工場の煙突群から立ち上る黒煙のせいで、ほぼ一年を通し鉛色の曇天の下にある帝都にとって、それは僥倖ともいえる一日だった。

 帝都グィンギル――大陸全土をその版図とする統一国家〝連合帝国ユナイテッド・インペリアル〟の首都。人口八十万を超える、まさしく世界随一の大都市である。現地特産の黒石灰岩ブラックライムストーンを削り出して作られた漆黒の城郭は、無骨で荘厳な街並みを形成し、かつて圧倒的な軍事力で世界を席巻した覇権国家の発祥地たる気風を見事に物語っている。しかし今では人口の増加よって街の城壁は取り壊され、都市の規模は郊外にまで拡大。中世時代の古き城塞都市の趣は消えつつある。その代わりに現れたのは、人々の暮らしに画期的な変化をもたらした工業化の申し子――カーファックス区、スタンベイ区などの工業地帯に立ち並ぶ禍々しい煙突と工場群であった。

 そんな帝都グィンギル中央地区、帝国大法廷にほど近いロイヤル・マーケットは、今、大勢の市民によってごった返していた。

 折しも青天の秋晴れに加え、今日は帝国北部キルヴェリー地方の豊穣祭であった。北方人ノースレイスからの移民の多い中央地区には、朝から市の小屋や興業用のテントが立ち並び、蜂の巣を突いたような大盛況である。

 そんなお祭り騒ぎの往来を歩く一人の少年。世間の浮かれ具合とは対照的にその足取りは重い。

 少壮の新米騎士ウィルフレッド・ブライトリング――通称ウィルは失意のどん底にあった。

「はぁ……」

 ウィルは大きく溜息をつく。そして底抜けに青い秋晴れの空を見あげた。

 枢機庁から正式に騎士階級の叙任を受けたのは、三か月前――ちょうど彼の十七歳の誕生日だった。

 蛍雪の末、帝国最難関である騎士位を取得した彼は、高い青雲の志を抱き、皇帝直々による刀礼の儀を受け入れた。幼少より抱いていた夢――かつて尊敬する父がそうであったように、騎士となり、無辜の民を蛮行から守る正義と秩序の守護者たらん――そう願う心は一点の曇りなく、その夢の第一歩を踏み出した彼の前途はまさに順風満帆。そう信じて疑わなかった。

 しかしその理想はつい先ほど、泡のように儚くはじけ、消えた。

 もうダメだ……勝てない。

 初めて〝騎士〟として立つ大舞台、大法廷。

 そして初めて〝スクード〟として担当することになった案件――〝ランベリス卿殺害事件〟。名門貴族の殺人事件というこの大事件は、元より法廷未経験の新米騎士の懐には大きすぎる案件だった。しかしウィルはこの依頼を快諾した。この件で被告人の無罪を勝ち取ったら、自分はたちまち尊敬と羨望に包まれ、名誉騎士の仲間入りを果たす。それはいきなりやってきた千載一遇の大チャンスだった。

 いや、違う――と、ウィルは唇を噛む。

 それはチャンスなんかではなかった。それは功名心に逸り、舞い上がったウィルの勝手な思い込みに過ぎなかったのだ。今でははっきりと断言できる。

 明白な事件だった。法廷で〝剣の騎士スパーダ〟が論じていた通り、もはや何人も疑う必要のない事件。あらゆる事象が反論の余地なく被告人が事件の真犯人であることを示している。そんな状況で被告人の弁護人──〝盾の騎士スクード〟を引き受けるなど、負け戦の自殺行為に等しい。そんな莫迦ばかな騎士は、この帝国のどこを探してもいない。彼を除いて。

 一敗地に塗れ、しかも今回のあの失態。もはや取り返しのつかない大失敗だ。名誉を失った騎士に生きる価値はない……。絶望に眩暈がする。視界が涙で歪む。ウィルは立ち止まり、再び天を仰いだ。

「ごめん――父さん、いきなり騎士は廃業……かもしれません……」

 そこには映るはずのない彼の憧れの存在、かつて名門第十二騎士団を率いた伝説の男、そして彼の父である偉大なる〝騎士の中の騎士〟サー・ヴァリアン・ブライトリングの峻厳な顔が浮かんでいるように思えた。


   ★   ★   ★


帝国騎士インペリアル・オーダー〟――それはかつて世界最強と謳われた、伝説の戦士たちの称号。

 今から約五百年前。元は辺境の一都市国家だった小国が、大陸全土に版図を広げる〝連合帝国〟にまで拡大した最大の理由は、その精強かつ強大な軍事力であった。民族・身分を問わず招聘され、厳格な規律と修練により極限まで効率化、組織化された武装戦闘集団。その圧倒的な戦力は瞬く間に周辺諸国を併呑し、大陸全土を席巻するに至った。

 対抗する人間国家はもちろん、辺境にはびこる亜人種デミヒューマン、獣人、異界の歪から生じた悪しき魔獣や幻獣――彼らに仇なす敵対勢力のことごとくは、彼らの光り輝く剣によって屠られた。そして帝国によって森は切り開かれ、未開の山河や大海は踏破され、暗黒の混沌は秩序の光にあまねく照らされた。

 その積み上げられた勝利に比例し、彼らは次第に神格化され、やがて〝騎士〟と呼ばれる特権階級として支配者層のトップに君臨することになる。

 そして糾合された多民族、多文化の諸王国との連合政権〝連合帝国〟の成立により、名実ともに人類は世界の支配者となった。

 もはや人類が魔獣や妖魔に怯えて生きる歴史は終わった。暗黒時代ダークエイジは終わりをつげ、平和な世界が到来したのだ。

 そして現在――もはや〝帝国騎士〟の活躍も今は昔。数々の武勲が伝説や御伽噺として語られるようになった時代。しかし〝帝国騎士〟の威光は失われていなかった。

 彼らは今も尚、伝説の集団として帝国の表舞台に燦然と君臨していた。しかも武装集団ではなく新たな職務と特権を以て。そう、それは立憲国家として生まれ変わった〝連合帝国〟の秩序と平和を守る〝法の番人〟として。

 ある時は、その弁舌を悪を滅する〝スパーダ〟とし、ある時は、鉄壁の論理を無辜の民を守る〝スクード〟とする。飽くなき真理への希求、遵法という誇り高き理想を胸に宿し〝法廷コート〟という新たな戦場を駆ける〝法〟の守護者。

 それが帝国最強の集団――〝新たなる騎士ニューオーダー〟たちなのである――。


   ★   ★   ★


 グゥと腹が鳴った。

 こんなに落ちこんでいても、腹は空くのか……と思うと、ウィルはなんとも情けない気分になる。街は豊穣祭の真っ只中。浮かれた街の様子は、相対的にウィルの気分をより深く落ちこませた。

 ウィルは仕方なく、往来の屋台で蕎麦粉のクレープとハチミツ水を買った。

「へい、三デナリス、まいどあり」

 屋台のオヤジが愛想よく品物を差しだす。面長の顔のオヤジは良く見ると耳が微かに尖っていた。きっと耳長族エルフの血をひいているのだろう。

 エルフやドワーフなどの有力亜人種デミヒューマンは、永き歴史の中で人間との交配を繰り返した末、もはや種族として独立できないほどの同化が進んでいた。ハイエルフなどの一部の高位純血種は、とっくの昔に本来の住処である妖精界へと帰ってしまっている。ゴブリン、コボルド、オークなどの妖魔は人類の徹底的な掃滅の末、その大半が駆逐され、残った者は完全な隷属階級となって従属を強いられた。つまり人類は名実ともに世界の支配者になったのだ。

 現在の世界の紛争は、人と人──人間国家間の争いが主流である。しかしその争いも連合帝国という超大国の出現以来、舞台は辺境の小競り合い程度が主。しかも重火器の発達や戦術の進化により戦場の主役は傭兵や民兵に移り、伝説の勇者や英雄は、とうの昔に退場して久しい。世界はもはや剣と魔法の幻想を必要としなくなったのだ。

 簡素な昼食を購入したウィルはその足でロイヤル・マーケットを抜け、その先にある河の堤まで歩いた。

 帝都の中央を流れるシル河は悪臭を放つドブ河だった。工業排水の灰と汚泥で濁った水面に、秋空の陽光が鈍く光っている。ただそのユラユラとした水面の揺らめきが妙に眩しいのは、自分の視界が潤んでいるせいであることに、ウィルはすぐに気づいた。

 上着の袖で涙と洟を拭く。そして外套の懐に手を入れ、ゴソゴソと内衣嚢ポケットを探った。

 出てきたのはピカピカに光る大きなバッジだった。〝七芒騎士章〟――七芒星ほ基調に緻密な紋章が象られている。叙勲された者だけが胸に掲げることのできる正式な騎士の証であった。

 おもむろにウィルはそのバッチを握りしめ、河に向かって腕を振りあげた。

 子供の頃から欲しくて欲しくてたまらなかった憧れの宝物なのに、手に入れてたった三ヶ月で、僕はそれを捨てようとしている――。

 ウィルは勢いをつけて、バッジを川に投げ捨てようとした。その刹那――。

 にわかに近くで激しい爆発音が轟いた。

 そのあまりの轟音に、ウィルは驚き紋章を掴んだ腕を引っ込める。

 音は川辺近くに並ぶ建物の二階から巻き起こっていた。そこは巡礼者用の木賃宿、その二階の壁が真っ黒に煤けて、窓枠が跡形もなく吹き飛んでいる。黒煙が立ち上り、周囲に焦げた匂いが立ちこめていた。きっと室内で何か激しい爆発が巻き起こったのだろう。

「な、何がおきたんだ……!?」

 突然の大事件に、しばし呆然とするウィル。

「てめェ! 待ちやがれッ!!」

 間を置かず怒声がして宿の扉が開け放たれた。声の主は岩のような顔と体格をした荒くれ者だった。人相の悪い、いかにもヤクザ風の大男だ。

 怒髪天の荒くれは丸太のような腕で室内から一人の男を引きずり出す。男はまるでドラ猫がつまみ出されるように路上に転がり放り出された。

「あいててて……ヒドいな、痛いじゃないか」

 外套コートを埃まみれにして尻もちをつついた男は、したたか打ちつけた左肩をさすって言う。

 痩身で背の高い男だった。薄汚い外套コートと時代遅れの鍔広の旅人帽トラベラーズ・ハットを被ったみすぼらしい身なり。しかしその容姿は女性と見紛うような美青年だ。細い鼻梁とキレ長の目、そして白い肌――ただ体の線は細く、少なくとも荒くれ者を相手にして喧嘩で勝てる見込みのあるとは思えない。

「てめェ、いったい何しやがったッ!?」

 荒くれの怒号が轟く。

「何を……って……見れば分かるだろう?〝魔法〟に決まってるじゃないか」

 美青年はヤレヤレとでも言いたげに、ため息交じりに言葉を返す。反省の色はない。

「ま、魔法だとォ……!?」

「いかにも。見たまえ」

 そう言って美青年は得意気に宿の方を見やる。宿の二階の壁、おそらく窓のあったはずの大穴から、プスプスと黒煙が立ち上っている。

「ふぅむ、まずは実験成功というところかな。触媒リージョンを暗黒茸から闇ヨモギに変えてみたんだけど、問題なく発動できたようだ。副作用で噴煙爆発が付与されてしまうのは予想外だったけど……」

「な、な、な、なんなんだ!? 何やってんだテメェ!?」

 荒くれの顔が怒りで深紅に染まった。美青年はこともなげに返答する。

「だから実験だよ。〝昏倒雲スタンクラウド〟の魔法の試用実験さ」

「て、てめェ……いかがわしい手品使いやがって!!」

「いががわしい? 心外だなァ。〝魔法〟は由緒正しき深遠なる学問だよ? そこらの手品や迷信と一緒にしないでほしいな……まったく、これだから浅学の徒は困るねェ」

 はぁ、と大きく、わざとらしいため息をつく美青年に「うるせぇ!!」と怒号一声、いよいよ荒くれの怒りが沸点を越えた。

「ゴチャゴチャ言ってるんじゃねぇ! よくもダチを殺りやがって!!」

「人聞き悪いこと言わないでほしいな、殺してなんてないよ。この〝昏倒雲スタンクラウド〟の魔法は、周囲二十クィート四方に人の意識を奪う霧状の雲を発生させるんだ。だから殺したんじゃなくて気を失っただけ。まぁ、六十時間くらいしたらケロッと目が覚めるから安心したまえ」

「ふざけるなッ!!」

 荒くれが丸太のような腕を振り上げた。そして眼下の美青年を目がけ、鉄拳を振り下ろす

「あぶない!」

 傍観者のウィルが思わず声を上げた。そのとき──。

「ぐおっ!」

 突如、荒くれが顔面を抑え、その場にガクリと両膝を付いた。見ると美青年の右手に短刀ほどの長さの棒が握られている。そしてその棒の先を荒くれの顔に突き付けていたのだ。

「あ、ちなみにこれは〝悪臭スティンク〟の魔法。難しい詠唱ナシで発動できる小魔法ティッキースペルと呼ばれる、まぁ、取るに足らない……君が言う手品のようなものさ」

「むおおおおおおっ!! てめぇ……!」

 耐えられぬほどの異臭を顔に纏わりつかせ、のたうち回りながら荒くれが吠える。

「ごめんね、悪気はないんだ」

 美青年はそう言って立ち上がり、懐に棒をしまってパンパンと外套コートの埃をはたく。

「あ、あの……」

 傍らでその始終を見ていたウィルが、意を決し話しかけた。

「おや? 君は――?」

 美青年がウィルに気付いて振り返る。

「すみません、ええと……今のは──」

 言葉に詰まり、話しかけたことをウィルは少し後悔した。確かに面倒に巻き込まれるのは御免だ。……御免だが、その存在にウィルは好奇心を抱かずにはいられなかった。謎の技を駆使して、巨躯の荒くれを翻弄する謎の美青年手品師。ウィルは今まで落ちこんでいた自分の心境も忘れ、目の前の謎の怪人物の披露する奇術に魅入られていた。

 そのとき、不意に宿の裏手でけたたましい声と足音がした。

 足音からして数は十数人。カンカンと金属のかち合う音は、物々しい武器や装備を容易に連想できた。そう、恐らく警邏小隊の兵たちだ。これほど派手な爆発があったのだ。お上が飛んでくるのは必然だろう。

「おお、大事になってきたねェ」

 にわかに騒がしくなった周辺をキョロキョロと見渡す美青年。その口ぶりは楽しげでもある。当事者である自覚はまったくない様子だ。

 余裕綽綽な態度に、「ど、どうすれば……」と、傍観者であるはずのウィルが逆に狼狽する始末である。

「ああ、君、こっちにきたまえ。ホラ、早く」

 美青年はそんなウィルの手をいきなり掴み、グイっと引っ張る。

「え? い、いや、ちょっと……! ど、どこへ……!?」

 驚きながら、ウィルは訳が分からず彼の導く路地裏へと体を任せる。

「決まっているじゃないか。君の家、さ」

「ど、どういうことですか!?」

 美青年のあまりに能天気な言動に呆気にとられるウィル。あまりに軽い。まるで旧来の親友に話しかけるかのような馴れ馴れしさだ。

「さぁ、早くいこう。追手に捕まっちゃうと少々面倒だからね」

 展開が意味不明ながら、どうやらウィルはこの男と逃避行を決め込む羽目になってしまったようだ。

「おっと、自己紹介が遅れたね。僕はレイファス。レイファス・ヴェネラビリス・アプ・メルリヌス・カレドニス……その後、通称やら祖先の名前やら生まれ故郷の名やら、合計十六ほどの姓がつくけど……まぁ長くなるから省略するよ。それじゃ、ま、いこうか」

「ちょ、ちょっ……!」

 戸惑うウィルに対し、美青年は走りながら振り返り、そして再びニコリと笑う。それは無邪気で、屈託がなく、輝くような、しかしどこか悪魔的な魅惑を秘めた笑顔だった――。


   ★   ★   ★


 ウィルの家はウィンギルの西の郊外、スラッシュクロス・アビー地区の八九一番地にある。

 一応寝泊りする自宅と〝騎士〟の事務所を兼ねている。といってもパン屋の二階に間借りしたオンボロ長屋の一角で、隣の家の馬小屋よりも小さい木造アパートメントである。この界隈は流民や貧民が多く、お世辞にも治安がいいとは言えないが、安月給のウィルにはこの部屋の家賃を払うのも精一杯だった。

「……何があったんですか?」

 階段を駆け上り、二階にある自室のドアを閉めて開口一番、ウィルは同道した謎の美青年に尋ねた。

「うん、なかなかいい部屋だね。ちょっと狭いけど……」

 謎の美青年――レイファスが室内を見渡して言う。ウィルの質問は完全に無視だ。ウィルは呆れてもう一度同じ質問をした。

「なぁに、とるにたらない出来事さ。説明するのも億劫だ」

 心底面倒臭そうな表情だった。無関係である自分を騒動に巻き込んでおいて、悪びれもしないこの態度。見あげるほどの厚顔無恥さである。

「えーと……」と呟きながら、レイファスはおもむろに持ちこんだトランクを開ける。

 中には何やら大量のガラス瓶や、良く分からない実験器具のようなものがゴチャゴチャになって入っていた。そして彼は「コレコレ」と、そこから一本の試験管を出してウィルの鼻先に突き付ける。試験管の中には、何か得体のしれない赤黒い干物のような物体が入っていた。

「〝火蜥蜴サラマンダーの尾〟という触媒リージョンさ。なかなか希少な品でね。最近は裏ルートでしか手に入らない。僕はちゃんと相応の金額支払ったつもりだったんだが……なんだか納得いかなかったみたいでねぇ。軽く拉致監禁されちゃったみたいだったから。つい」

 どうやら争っていた荒くれは取引先のヤクザ連中で、先程の騒動は商売のイザゴサが拗れた結果だったらしい。

「それで……例の爆発の手品を起して、逃げてきたってことですか?」

「はぁぁぁ~、君もやはりその程度か! 期待した僕が莫迦ばかだったよ!」

 レイファスが、あからさまな失意の溜息を吐き出す。

「いいかい? 手品じゃなくて魔法だってば、魔法! さっきも言ったけど、魔法は数千年の歴史をもつ由緒正しき学問なんだ。タネもシカケもあるインチキなお遊びと一緒にしないでくれないかなぁ」

「はぁ……、魔法……ですか」

 レイファスの熱弁にも、ウィルはいまいちピンときてはいなかった。

〝魔法〟……という言葉と意味は、確かに知っている。三角帽子を被って裾の長いローブを来た白髭の老人。ゴニョゴニョ訳の分からない呪文を唱え、エイッ振りかざすと杖の先から電撃が迸る。そしてその魔法で、人々を苦しめている悪い竜を倒したりする――それが〝魔法〟のイメージだ。でもそれは大概、子供の頃に聞いたり見たりした御伽話や絵本の中の世界の絵空事だった。

 かつてこの世界には、超常的な〝魔法〟という力と、それを操る〝魔法使い〟と呼ばれる人々がいた――その歴史的事実は流石にウィルでも知っている。しかしウィルが生まれて――いや、ウィルが生まれる百年前にはもう、〝魔法〟はこの世から忘れ去られて久しい存在だった。ウィルが生涯に見た事がある魔法というと、六歳のときに故郷の祭にやってきた〝大魔術師オーウェン一座〟と呼ばれるサーカスの興業で、道化師の手からボワッと巻きあがった炎の球を見たときの一回きりだった。

〝剣と魔法の世界〟――かつてこの世界はそう呼ばれていたこともある。しかし先進的な機械工業文明が台頭した現在では、もはや〝魔法〟は全時代的な〝忘れられた技術〟となっていた。

「実に嘆かわしいことさ」

 レイファスは役者のような大げさな身振りで嘆く。そしてウィルの「貴方はその〝魔法使い〟ってことですか?」という問いに「いかにも」と大きく頷いてみせた。

「八年前に帝国が魔導院を解体し、いわゆる宮廷魔術師制度を撤廃したせいで、今まで首の皮一枚でつながっていた魔法の学問としての公的意義は失われ、ついにこの世界から純粋な〝魔法使い〟という職業は消滅してしまった。大学の研究室も軒並みお払い箱となり、今、この時代に真面目に魔法を求道する者は……まぁ、よほどの変わり者さ」

 あぁ、貴方はその〝変わり者〟の一人というわけですね? という言葉をウィルはぐっと飲み込む。

「……もっとも大学なんていう白亜の塔には、僕は元々興味などこれっぽっちもないけどね。あんなところは莫迦共の通う砂上の楼閣に過ぎない。政治闘争と権謀術数に明け暮れ、碌すっぽ古代語エンシェントも読めないようなナマクラな御用学者と僕は違うのさ。僕はあくまで魔法という禁忌にして究極、深遠にして膨大なる真理を求める学究の徒にすぎない。いいかい? そもそも魔法とは――」

「あ、ちょ、いいです。分かりました! とても良く理解できました!」

 ウィルは慌てて彼の言葉を制する。放っておいたら朝まで喋るかと思う勢いだった。このレイファスという男、やはり自称に違わずかなりの変人のようだ。人は悪くなさそうだが、あまり関わない方がいい部類の人物であることに間違いはない。ウィルは適当に話を合わせつつ、早くこの家から追い出す計画を心の中で画策し始めた。何故なら今はこんな変人に付き合っている暇はない。なにせ自分の〝騎士〟としての運命を決める大事な最終法廷は五日後。タイムリミットはあと僅かなのだから――。

「……おや、これは?」

 そんな腹積もりのウィルをよそに、レイファスは一枚の紙を手に取って眺めだした。それは部屋のテーブルに散乱して、そのままになった書類の山の一枚だった。

「あ! ちょっとそれは……駄目です! 機密情報ですから!」

 ウィルが慌ててレイファスの手から書類を奪い取ろうとする。しかしその拍子にテーブルの脚を蹴ってしまい、書類の山を派手に地面にぶちまけてしまった。

「……〝ランベリス卿殺害事件〟?」

 散乱する書類を一覧し、レイファスが目を細める。そして何かに気づいたのか、顔を上げてキョロキョロと室内を見まわした。そして壁に掲げられた一枚の額縁に目を留める。それはウィルの騎士叙勲証明証を飾ったものだった。

「君は〝騎士〟なのか?」

「は、はい……。まだまだ駆け出しですけど……」

 ウィルは開き直って自分の素性を告げる。それを聞いてレイファスは「ふむ」と頷いた。

「君は、ランベリス卿の例の事件の担当なんだね?」

 そのとき思わずウィルはレイファスの横顔を見直した。今まで飄々として、絶えず笑顔を浮かべていた美青年――その男の顔に、一瞬だが真摯で神妙な色が浮かんだように見えたからだ。

「事件を……知ってるんですか?」

 ウィルはレイファスに聞いた。しかし聞いた後で、なんて間抜けな質問をしたんだろうと後悔した。ウィンギルの名士ロバート・ランベリス卿が殺害されたのは一か月前。犯行の行われた翌日には、すでに有名大衆紙〝インペリアル・ガーディアン〟が一面でこのニュースを素っ破抜いていた。その後ゴシップ系を含め、都内十六紙もの日刊・週刊誌がこの事件を取り上げている。恐らく帝都に住む文字の読める物なら、ほぼ全員がこの事件のことを知っているはずである。むしろこの数日、帝都の話題はこの事件のことでもちきりなのだ。

「駆け出しの割には、ずいぶんと大きなヤマを担当してるんだねぇ」

 レイファスは関心した様子で言う。しかしウィルの顔は暗い。大きなヤマだからこそ憂鬱なのだ。なにせこの裁判で勝てる可能性はゼロ。誰もが匙を投げた案件なのだ。法廷で負ければ帝都中に自分の無能を晒す、まさしく自殺行為だ。

 暗い顔のウィルの心境を知ってか知らずか、レイファスが「ふゥん」と鼻を鳴らす。

「じゃあ、いってみようか」

 レイファスが唐突に言い放つ。そして玄関に歩いていき、帽子掛けの旅人帽トラベラーズ・ハットを被った。

「ちょ、ど、どこにいくんですかっ!?」

「もちろん……会いに行くのさ」

「あ、会うって!?」

 玄関口で立ち止まり、振り向くレイファス。そしてとびきりの笑顔を作って答える。

「決まってるだろう? ランベリス氏を殺害した犯人さ。おッと、まだ犯人と決まったワケではないんだっけ。ええと……〝被告人〟か」

「な、なに言ってるんですか!? そんな……いきなり……」

「君は被告の弁護人――〝盾の騎士スクード〟なんだろう? だったら面会の権利があるばずじゃないか。ホラ、いくよ」

 レイファスが声を弾ませる。心底楽しそうな口調は、まるで親に新しい玩具を買ってもらいに行く子供のようだ。

「ちょっと!そんな勝手な……ま、まってくださいっ!!」

 ウィルは慌てて後を追う。

「ふゥン、帝都というところは人ばかり多くてゴミゴミしてて……何の刺激もない退屈な場所だと思ったが……面白くなってきじゃないか。しばらく退屈できずに済みそうだ」

〝魔法使い〟を名乗る謎の美青年は、そう言って楽しそうに鼻を鳴らした。

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