第8話 変わりゆく思いと後悔
あの人は私をいろいろな所へと連れだしてくれた。
それは、彼とは決して持てなかった時間。
普通のカップルなら、当たり前のようにすることばかりなのに、どれもこれも、私には新鮮だった。
もちろん、彼より以前には、私もそれなりに経験はしていた。映画やショッピング、ただ公園を散歩するだけの他愛のない時間……。
彼と過ごした四年、そして離れてからの四年。
八年もの間に、私はその楽しさを、すっかりと忘れていたんだと、あの人といることで気づかされた。
一年が過ぎ、結婚が曖昧なものから、少しずつ形を成してきた夏のある日、あの人は言った。
「一度、二人でどこかに旅行に行きたいね。どこか行きたい所はある?」
私の頭をよぎったのは、いつか彼が行こうと言った場所――。
初めて旅行に行こうと言ったときの彼の笑顔、冷え切った部屋で温もりを求め合うだけの時間。
私の中に、急速にあのころの思い出があふれだし、その場所が唇からこぼれた。
あまり知る人もない山あいの温泉郷、あの人はまるであのときの彼と同じように、楽しそうに日程を組み立ててくれた。
予定が近づいたころ、準備を進める私に、あの人は突然、行き先の変更を申し出てきた。
「でももう、宿の予約も取っているし……」
「それはキャンセルをすれば済むことだよ」
「けど……」
なかなか首を縦に振らないでいた私に、あの人は驚くほど大きな溜息つき、怒ったような表情を見せた。
「そんなに、彼との思い出の場所へ行きたいの?」
「……えっ?」
その場所に、思い出などありはしない。あるのは捨てきれなかった執着と、今、それを捨てようと思う感情だけ――。
「そんな場所へ行っても、僕はきっと楽しむことなんてできないと思う」
去り際にそう言った背中を、なにも言えずに見つめた。
(――なぜ?)
どうしてあの人がそんなことを言いだしたのか。それがわかったのは数日後のこと。
世の中にはとても親切な人がいて、私の過去の思いをあの人に伝えてくれたそうだ。
人の噂は七十五日どころか、三百六十五日を過ぎても、消えることはないらしい。
あの日以来、ぷっつりと連絡をくれなくなったあの人に、私から連絡をすることはなかった。
また、通話中のコール音が響くのが怖かったから……。
旅行まで一週間になっても、連絡はこないままだった。
同じ会社とはいえ部署もフロアも違うと、会おうとしなければ会えるものでもない。
さして関わりのない部署同士であれば、なおさらだ。そう考えて、私はまた落ち込みそうな心と折り合いをつけた。
思い返せば行き先など、そんなにこだわることではなかったのに。きっとあの人となら、どこへ行っても楽しかったのに。
ただ私は、あの場所に行って、思い出ごと彼への未練を捨ててきたかった。
さようならさえ言わせてもらえないまま、彷徨っていた思いを置いてきてしまいたかった。
そしてあの人だけに向き合っていこうと――。
でもあの人は、私と彼との思い出がある場所だと思っている。楽しめないと、ハッキリと拒絶されてしまった。
私はバカだ。反対の立場ならどんな気持ちになるか。
大切にしたいと思いながら、私はあの人の気持ちなど、これっぽっちも考えようとしていなかったのだ。
じわりと涙がにじみ、手にしたカップが揺れる。
私は気づいてしまった。
ずっと彼を忘れられないと、密やかに思い続けていこうと考えたのは、決して彼を純粋に愛していたからではないんだと。
私は、あっさりと捨てられても、まだ彼を愛し続ける自分を……偏った一途な愛を抱えている、そんな自分の姿を愛していたんだ。
可哀想な私。哀れな私。そうやって自分に酔っていたんだ。
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