笑み(第一改訂版)

茜 彦太郎

ハロウィン

 私は煌々と夜道を照らす自販機を睨んでいる。今日は何を買おうか。バイトが終わり帰路の途中にある自販機で少し贅沢するのが最近の私の小さな楽しみであった。財布から小銭を出し細い口へ滑らせボタンを押す。ゴトンという音と共に缶珈琲が落ちる。私は煙草をくゆらせながら珈琲を流し込む。じんわりと奥深い香りが鼻を抜ける。

「美味いな、これ」と私は一人呟いた。


 国道495号線を真っ直ぐ進み大学に続く道を左に曲がる。この先を進むと私の家である。家の裏手には竹林がごうごうと生い茂り、風が吹く度にからからころころと騒がしい音を奏でる。窓さえ閉めていれば心地がいいので意外と気に入っている。

 私は家に着き鍵を開けようとしたが鍵が回らない。「このオンボロめ」と悪態をつき力任せに鍵を捻る。ガチャっと鈍い音がした。扉を開けると染み付いた煙草の匂いが鼻腔を直撃する。

さすが私の部屋だ、部屋が私に順応していると言ってもいいだろう。

 私は衣服を脱ぎ捨て浴槽に赤カビの群生地がある風呂場へ直行した。冷たい床が足裏を襲うが気にせずシャワーの蛇口を捻る。私はいつもシャワーは浴びるだけで済ませている。なぜなら前述した赤カビ達の小さく儚い命を私のエゴの為に葬り去ることに若干の抵抗があるからである。彼等もまた生きているのだ。

 嘘をついた、掃除をするにはすでに手遅れだから面倒なだけである。


 風呂から上がるとすぐに小さな冷蔵庫から冷えたビールを取り出し布団に座る。濡れた髪は自然の力に任せ乾かす。以前冬場に自然乾燥を試みたところ髪の毛が凍ってとんでもない思いをしたものであるから、これは夏場の特権である。

 ビールを開け一気に飲み干す。酒は百薬の長と言うが睡眠導入剤としても使える。エチルアルコール万歳。

 一通り寝る支度を済ませ、私は芋虫の如くもぞもぞと布団に潜り込む。夏場といえど十月も後半になると夜は冷え込む。

 ここまではいつもと変わらぬ日常であった。



 深夜であろうかそれは突然やってきた。

 私は起きた。普段の気怠げな起床とは異なり気持ちのいい目覚めであった。しかし、目の前は暗黒であり体も動かない。

 私はすぐに金縛りだと理解した。

 この世に生を受け二十と四年。金縛りを経験したことがない私の気持ちは高揚していた。

「おお!金縛りだ!全身が動かないし、おまけに瞼もカチコチだ!」

 そう、瞼も動かないのだ。本当にカチコチである。何も見えない。金縛りの原因は疲れの蓄積であると聞いたことがあるから、この頃疲れていたのだろうと呑気に考えている時であった。ぎしりと床が軋む音がした。物音はこのオンボロアパートでは日常茶飯事であったが問題はそれが部屋の中から聞こえたことだ。

 私はもちろん一人暮らしである。鍵もしっかりと閉めた。私は優秀な脳細胞達を総動員させて考えた。その結果ひとつの結論を導き出した。

「ああ!幽霊だ!存在したのか!」

 気持ちの高揚とはオソロシイものである。その時の私は恐怖よりも好奇心が勝っていたのだ。しかし、口も動かないため耳をすますことしか出来ない。私は何とか幽霊を感じることにした。ぎしりぎしりと軋む音は私の部屋の至る所で聞こえる。どうやら幽霊さんは徘徊しているようだ。人様の家で不躾な奴である。

 もっと詳しく音を拾うため耳に全神経を集中させた時であった。全身の毛が逆立つのを感じた。

 隣にナニカいる。そう確信したのだ。

 部屋を徘徊しているナニカとは別である。

 私の顔の横、数センチの位置にナニカいる。それはごにょごにょと恐ろしく低い音でなにか呟いている。それが何かは聞き取れなかった。いや聞き取りたくなかったのだろう。その時の私の脳みそは恐怖という概念でパンパンになったようだった。

 私はひたすらに望むことしか出来なかった。「帰ってくれ、帰ってくれ」と。先程までの好奇心は既に塵ほども無かった。

 どのくらい念じていただろうか、急に体が軽くなった気がした。血が全身を巡るのをありありと感じていた。しかし瞼を開くわけにはいかなかった。床の軋む音が消えているわけではなかったからだ。

 その状態が数刻続いた。体の緊張がほぐれ時間が経ったからだろうか、恐怖よりも怒りが込み上げてきた。私はバイトをして帰宅し就寝した。しかし何故、幽霊如きに私の安眠を邪魔されねばならないのか。私は覚悟を決め隣に居るナニカと徘徊するナニカに要求した。

「私は今日もバイトがあるのだ!帰りたまえ!」

 次の瞬間であった。床が軋む音はピタリと止んだ。そして


「アーーーーーーーーーーー」


「アーーーーーーーーーーー」


「アーーーーーーーーーーー」


 家が、いや大地が震える程の地を這う低音の大絶叫が部屋の至る所から私のそばを駆け巡った。幾人もの足音を私の耳は捉えた。

 私は意外にも冷静に「そうか何人も居るのだな」と思った。私は死ぬかもしれない。死を悟ると冷静になれるものなのか。弱気になった私は体の力が抜けていくのを感じた。



 からからころころと竹同士がぶつかる音で目を覚ました。窓からは部屋全体を少々暑すぎる程の日の光が包み込んでいた。昨晩の悪夢を思い出して身震いしたが、それが夢では無く現実であったことはすぐに分かった。

 壁と天井を含め部屋を埋め尽くすようにおびただしい数の大小様々な足跡があった。そして、昨日私の横のナニカがいた場所を見ると、木の床材は凹み、そこに妙な液体を溜まり腐っていた。

 私は逃げようと決心した。



 そしてまた夜を迎えた。

 私の耳には心地よい竹の音、そして地を這うような蠢く無数の声が聞こえるだけである。

 目が覚めてから実に十五時間は経過したであろうか。私がこの部屋を出ることは許されなかった。

 外に繋がる窓、扉は何をしても開かなかった。窓を割ろうとしても傷一つつかず、扉に全身全霊を込め体当たりしても私の体を痛めるだけでビクともしなかった。焦った私は外への通信を試みたがこれも失敗に終わった。圏外であり繋がらない。私は玄関の扉に背を寄せ座り込んだ。

 やはり私は冷静であった。死を悟ってしまったから。人間死ぬ時は死ぬのだ。それが私の場合、今日なのであろう。

「好きにしたまえ」

 私がそう言うと私を取り囲むようにしていた人の形をした黒いナニカはゆっくりと手を伸ばしてきた。



 男は鼻腔を直撃する腐臭に顔をしかめていた。

 通報があったのが午後三時過ぎ、近隣住民から「腐臭がするが普通では無いからすぐに来てくれ」というものであった。

 通報があり現場に向かったのは、たまたま近くをパトロールをしていたその男だった。男は到着した際、あまりの腐臭に孤独死を想定しすぐに管理会社を呼んだ。管理会社が到着すると同時に腐臭のする部屋の住民に用があるという二十代の男がやってきた。どうやらバイトを二日無断欠勤しており心配になり来たとのことだった。若い男は続けて「ハロウィンだし」と言って飴を渡してきた。

 管理会社が鍵を捻ると男は扉を引いた。無数の蝿と共にどちゃりと嫌な音がして何かが倒れ込んできた。辺りが静まり返ったのち悲鳴が上がる。”それ“は人だとも判別がつかないほどに腐敗したものだった。全身の表面の肉は溶け液体状になり所々白い骨のようなものが見える。

 男は急いで応援を呼んだ。



 あれから三週間は経過した。あの一件は孤独死ということで片付けられたが男は納得できなかった。あれにはおかしな点がいくつもあったからだ。住民を訪ねてきた二十代の男は言った。三日前まではバイトに来ていたそうだ。

 男は頭を抱えた。人の肉体とは三日であそこまで腐敗が進むのだろうか。確かに死後四十八時間ほどで腐敗が始まるが三日で原型を留めないまで腐るというのは聞いたことがない。極め付けはあの部屋の中のおびただしい数の足跡と床の腐敗。誰が見ても異常だった。

 しかしそんなことを考えても男には意味がなかった。上層部から直々に話があったのだ。それも最上位である。警視総監の言葉は至極単純なものであった。

「例の件に首を突っ込むことは許さない。忘れなさい」

 警視総監はそれだけ言うと電話を切った。


 男は今も生きている。しかしハロウィンがトラウマになってしまったことは誰も知らない。


 

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