【アップ】2024年4月14日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年4月14日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/srKR7tIunTg?app=desktop&feature=share


【ブログ】

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12849182306.html



前奏

招詞 詩編102編16〜19節

詩 編 歌 65 2節

罪の力強し、されど神は

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 83

「十戒を守って歩む」

こどもさんびか

よあけのほしが[改86(3,4節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 24番

聖書

ヨハネによる福音書 20章 30,31節(新約 P210)

詩編 104 編 13〜30節(旧約 P941)

説教

「さあ、朝の食事を

〜復活の主と共にある今日」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 508番

みことばの交読文

ペトロの手紙一1章5~9節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝 祷

報告



讃美歌~♪


讃美歌24番(歌詞付)54年版「父の神よ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=E_siYoiEOsI


1

父のかみよ、夜は去りて、

あらたなる朝となりぬ。

われらは今みまえにいでて、

御名をあがむ。

2

万有の主よ、み顔あおぐ

しもべらをつよくなして、

あまつくにのつきぬめぐみを

えさせたまえ。

3

三つにましてひとりのかみ

みすくいはとうときかな。

御名のひかり照りかがやきて、

世にあまねし。


讃美歌508番 主よ日に日に 聖歌隊

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=iGXha5hDA_M


1、

主よ日に日に 増したまえ

罪を悔ゆる 真心を

きよめらるる 身の幸を

仕えまつる 喜びを

2,

主よ日に日に なしたまえ

試みには 勝つ者と

御心をば 知る者と

みことばにぞ 立つ者と

3,

主よ日に日に 見せたまえ

のりとすべき 御姿を

天(あま)つ家に 行く道を

とこしなえの 御栄(みさか)えを



2024年4月14日 礼拝説教 中心聖句


イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

ヨハネによる福音書21章12節


あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

詩編104編28節


はじめに

情報洪水の中で、今日、復活の主キリストの平安の中に、神の言葉に聞きたい。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」とは、まぎれもなく弟子たちが見たことの証言はたくさんあることを証しする。「弟子たちの前で」とは、弟子たちが本当に見、聞いたことがどれほどの深い記憶と慰めに満ちているかを物語る。「多くのしるし」とは、いわゆる奇跡に限らず、イエスご自身が、神の子にして安息日の主であり、当時の神殿にまさって、三日目に復活されたお方であることを告げる御業。「それはこの書物に書かれていない」とは、福音書自体がもつ目的を示唆する。それでは、福音書の目的は何か、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア[キリスト]であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」。福音書は、単なる伝記・証言集ではなく、神自ら、「受肉」された、永遠の「言」、神の独り子イエスを啓示する「神の言葉」。その目的は、神とキリストの栄光(1章14節)。聖書信仰は、その栄光を見、復活のイエス・キリストを「わが主、わが神」と告白する。

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された」。それは、「死者の中から復活た後」「三度目」のこと。そこには、「 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル(多分バルトロマイと同じ)、ゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)」「ほかの二人の弟子が一緒にいた」。

  シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」弟子たちは日常の働きで糧を求めて生きる。夜明けで、霧か何かで、岸に立っておられたイエスの姿を確認できなかった。岸から「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』」と呼びかけると、「彼らは、「ありません」と答えた」「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキス(約90m)ばかりしか離れていなかった」。ペトロの、主への愛は、不器用ながらも、誠実に示された(!?)。

「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった」。「その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた」。「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』」と尋ねようよしなかった。「主であることを知っていたから」。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与え」「魚も同じようにされた」。弟子たちは大きな感動の中、主イエスの備えられた朝の食事の時をともにした。主の全面的な愛は、その日の糧を与え、今日の生活に備える。

おわりに

神に造られた生き物は、神に自分の食物を求める。人は自分の仕事をし、生き物にまさって、食卓を整える。主の御手が開かれているなら、今日、その中で共に憩いたい。



(Mynote)

二〇二四年四月一四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問八三』

「『十戒』は罪を気付かせる為だけにあるのですか?」

「いいえ、『十戒』は、父なる神様の愛の親心です。私達は、救いの完成に向かって、祈りつつ、聖霊に助けられながら、光の子供らしく、喜んで『十戒』を守って歩みます。」

隣人を愛する事が大事である。先ず『十戒』の基はそこにあり、その上で神様が教えた本来の人間の生活の模範が、この『十戒』に全て在る。

(公同礼拝)

『ヨハネによる福音書』(第二〇章三〇〜第二一章一〜一四節)

『詩篇』『第一〇四篇一三〜三〇節)

この『ヨハネによる福音書』の箇所には、イエス様が甦られた後、弟子達がテベリヤの海辺で、漁に出ようとして居た時からのエピソードが記される。そう、イエス様が岸に立って舟上の弟子達に声を掛けられ、

「舟の右の方に網を降ろして見なさい。そうすれば、何か取れるだろう」

と教えられ、その前に左側に網を降ろして何も取れなかったのに、一五三匹もの魚が大漁に取れた、あの時のエピソードである。イエス様はこれ迄にも、いろいろな奇跡(この書に書かれて居ないしるし)を弟子達の前で行われて居た。しかし、これ等の事を書いたのは、「あなた方がイエス様を神の子キリストであると信じる為であり、又、そう信じて、イエスの名に依って命を得る為」であった。

この舟のエピソードにしても奇跡と見て良いであろう。このとき漁には、もともと漁師のペテロを始め、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ら、そして他の弟子二人と一緒に居り、ペテロが「私は漁へ行くのだ」と言うと、彼らも一緒に漁へ付いて行った。そして夜通し漁に精を出したが、一匹も魚が取れなかった。そして夜が明けた頃に、イエス様が岸に立って居られた。でも始め、弟子達はその人がイエス様だとは知らなかった。そこでイエス様が(上記した様に)弟子達に声を掛け、その通りにすると大量の魚が取れたのである。

そしてイエス様が愛して居られた弟子が、ペテロに「あれは主(しゅ)だ」と言った。それを聞いたペテロは裸になって居たので、上着をまとい、そのまま海へ飛び込み、泳いでイエス様の元へ行った。舟のある場所が、陸から余り離れて居なかったからである。

福音は先ず、独りで居る時にその誰かが聞くよりも、複数人が共に居る時に聞かされる事が大事にある。無論、神様の御計画により独りの時、複数人で居る時にその人に福音が伝えられる事もあるが、信仰を持つ者同士が共に居る時に福音を聞き、そのしるしを見知る事は、先ずキリストの信仰に依る大いなる絆が生まれ、その後の大きな福音活動の原動力・引き金にも成る。

イエス様はこの前に、鍵を掛けた部屋の中に弟子達が隠れて居た時にその真中に現れ、皆を祝福され、嗜め慰めて、その後もこの様に弟子達を更に励まし、福音の途に就かせる為にしるしを成し、弟子達と共に居て下さった。イエス様は天に上げられて、弟子達といつまでもこの地上で一緒に居る訳ではない。だから更に信仰を強め、弟子達を力付ける為に、この様に朝の食事を共にされ、トマスに「見ないで信じる者に成りなさい」と諭し、ペテロには、

「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人達が愛する以上に、私を愛するか」

と聞かれた。そうイエス様から聞かれたペテロは応えて、

「主よ、そうです。私があなたを愛する事は、あなたがご存知です」

と言い、それに対してイエス様は、

「私の小羊を養いなさい」

と教え、このやり取りが三度なされた。三度目にはペテロは悲しくなり、心を痛めた。そのペテロにイエス様は今後のペテロの在り方を預言され、その上で、

「私に従って来なさい」

と言ったのである。

この様に三度、イエス様がペテロに聞いた理由は、この前に、イエス様が群衆に捕えられた時、鶏が鳴く前に三度「私はあの人(イエス様の事)を知らない」と否定した事に起因する。ペテロは三度イエス様を裏切り見捨てて逃げたが、その後、激しく後悔し、号泣した。その事もイエス様は(この様に成る事を預言した通りに)知って居り、それでペテロがイエス様を見捨てた回数と同じく三度、この時この様に聞いたのであろう。

食事をすると言うのは、その人を養うと言う事である。これはあの五千人のパンと魚の奇跡の時でも同じで、彼らの心身を神様はイエス様を通して養い、信仰の途へ歩める様に備えて下さった。

この時も弟子達がこの後、『使徒行伝』に於いて使徒として福音に遣わされる為の充分な土台として、その奇跡(しるし)を以て食事を用意し、この後の安泰と救いを弟子達を始め、その弟子達から福音を受ける全ての人達(罪人)に約束された。

(御言葉の交読文)

『ペテロの手紙一 第一章五〜九節)

あなた方は、終わりの時に現される様に準備されて居る救いを受ける為に、

神の力に依り、信仰に依って守られて居ます。

それ故、あなた方は、心から喜んで居るのです。

今暫くの間、いろいろな試練に悩まねばならないかも知れませんが、

あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で洗練されながらも朽ちる他無い金より遥かに尊くて、

イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

あなた方は、キリストを見た事がないのに愛し、今見なくても信じて居り、

言葉では言い尽せない素晴らしい喜びに満ち溢れて居ます。

それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けて居るからです。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=q0lc_w0zV-I


「食べたり飲んだり、労苦の中にしあわせを見いだすことも神の賜物」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=9DaaFcqmrkk


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)



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