第2話 少女
『——私の通う大学の構内にも砲弾が撃ち込まれました。幸い死傷者は発生しませんでしたが、食堂と図書館の入り口が瓦礫で塞がれてしまいました。救助隊の方々のほか、海兵隊からも応援の方々が派遣されたと聞いています。一刻も早い復旧をのぞみます——』
片耳に挿したイヤホンから流れるザラの声に癒されながら、ステーキコーナーの前の長蛇の列に加わった。順番が回ってくるまでの間に山盛りのシーザーサラダとチーズフライ、なぜか誰も取りたがらない毛ガニのボイルを皿に取っていく。
「それ美味しいんですか?」
後ろに並んでいたロイにそう聞かれたので、素直にうなずいてみせる。飛行隊が日本の岩国基地に駐留していた頃、たまたま外出先の店で出されたカニが美味しかった思い出を語ると、ロイはおそるおそるといった様子で毛ガニを皿にのせた。
新設された食堂の雰囲気は大学時代によく通っていたカフェテリアを思い出させた。駐留部隊の増強に伴い、この航空基地の人員は二倍近くに増え——アフガン国内で我々に残された最後の基地だった——駐機場に並ぶ作戦機の機数も増えていた。
もっと正直に言えば、増えすぎた。迫りくる「群体」やタリバンから逃れる形で多数の西側製軍用機が飛来してきた。それで基地の拡張工事が始まったわけだけれど、そのために必要な一切合切は民間軍事企業に委託していた。
『CCAS』
胴体横にデカデカとそう記された輸送機が空港に着陸するたびに、CCASはもはや一介の
ザラが「リスナーさんからのお便り」を読み上げ始めたタイミングでステーキの順番が回ってきたのでミディアムレアで注文する。その場で焼かれる分厚いステーキを眺めていると、視界の隅にちらりと彼女が見えて思わず顔を向けた。やはりザラだった。一瞬驚いたけれど、今日は生放送ではなかったのだろうとすぐに納得する。
「大尉?」
ロイに呼ばれて何故かビクッとしてしまう。ウェルダンになりますよとせっつかれてステーキを受け取る。ほどよく焼けた状態で皿に盛られて、香ばしい匂いが鼻をつく。
ほどなくしてザラもこちらに気づき、それから、私のトレーを見てわずかに口角を上げた。
「奇遇ですね」
大柄な軍服姿たちの間を縫うように彼女がやってきて、
「二人そろって同じメニューになることがあるなんて」
「私以外にも毛ガニを食べる人がいたのね」
ロイが空きテーブルを見つけて案内してくれる。腰を下ろした一分後には、私もロイもザラも一品平らげている。いつだったか、ここに取材に来た従軍記者が、将兵や現地人スタッフたちの食欲に目を丸くしていたことを思い出した。戦地における強い生存本能がそうさせるのだと説明すると、なるほどと頷きつつ、記者自身も貪るように食事をとっていた。
毛ガニを素手で解体していると、ロイが珍しいものに出会ったような目でこちらを見てきた。ザラもコーラを飲みながら、カニ身を口に放り込んでいる。
「流石、世界最大の
「クライアントとしての要望でもあるの?」
「いえ……ただ、あれです、時代の変化ってやつについていけないだけですよ」
藪から棒に何を言い出すかと思えば。けれど、ロイの気持ちも分からなくはない。世界中の主権国家が崩壊して、主を失った正規軍の代わりにPMCが台頭してくるなど、誰にも予想はできなかった。各国での「群体」の発生に伴う混乱を一時的であれ収束させ、今や治安維持に加えて兵器取引まで担う彼らのプレゼンスは強化されつつある。「群体」時代の国際情勢を、PMC抜きで語ることはできない。
北米大陸も例外ではなかった。星条旗が引きずり降ろされ、私たちは亡国の海兵隊員と化した。
「……予定を決めました」
ザラが口元を拭って、まっすぐ視線を向けてくる。
「次の日曜日に、帰るつもりです」
「四ヶ月ぶりね。またエスコートしなくちゃ」
彼女を遠くまで出かけさせるのは、赤子に針山を歩かせるのと同じだ。だから私がついていくことにしている。本当にいいんですか、あなたはパイロットですよねと言われるのも毎度のこと。しかし、いまやこの基地の全員が貴重な人材なのだし、何より、私には彼女らのもとへ赴く義務がある。あの男の妹として。
一つの国家が滅ぶ瞬間に、兄は立ち会った。その後始末はまだ終わっていない。
クサい言葉だけれど、この基地でザラと出会えたことは運命なのだろう。まさにこの食堂で、別の現地人スタッフから人種を理由に罵倒された彼女を庇ったあの日から、この地の血みどろの歴史の潮流に飲み込まれ始めた。テロリズムと民族浄化が跋扈する地に持ち込まれた軍事力の、その一翼を担う存在であることを改めて自覚した上で、新たに守るべき主を私は探し始めていた。それは戦争ではなく、生存競争と呼ぶべきものに変貌しつつあった。
ザラ・カルザイは、私たちがアフガンに派遣される遥か昔からその最前線に立っていたのだろう。この基地でラジオ局のパーソナリティという仕事を得た彼女は、銃の代わりに声を用いていた。
「父はAKで体中に穴を開けられ、母は石打ちの刑に処されました。軍閥による虐殺と、タリバンによる処刑に、私は違いを見出すことができません」
欧米人と共に働くソルド人というだけで、ザラの名は暗殺リストの上位に記される。
それでもこの基地で寝泊まりし、私たちの味覚に合わせた食事で腹を満たし、こちら側の情報戦の一環でもあることを知りつつ、毎日のように放送室へ足を運び続けるのが彼女なのだ。
「ザラ」
「はい」
無意識に名前を呼んでしまって、つぶらな瞳に見つめられる。
オリエンタルな妖艶さとでもいうのだろうか。ふとした瞬間に、年齢に釣り合わない色っぽさがザラからは感じられた。
ケシ畑を分け入っていった先に日干し煉瓦を積んで造られた家々があった。一歩中に入れば、うだるような外の暑さは全く感じられない。厚い泥の壁が断熱効果を発揮してくれるのだ。
ザラを育て上げた彼女の叔父は地元の高校で教鞭をとっている。彼に会うのもこれで三度目になるけれど、相変わらず肩の力は抜けない。空を飛ぶ時の十倍は緊張している気がする。
無意識に床についた手に柔らかな感触を感じて視線を落とした。羊毛を織り込んだキリムが敷かれていて、シンプルなストライプ柄を見つめているといくらか心が落ち着く。
「こうして何度も会っていると」
年長者らしい落ち着いた声に、こちらの背中も自然と伸びて、
「あなたが兄君と似ていることがよく分かる。あの男も、常に巨視的な視点を持つことを忘れなかった。アメリカという国家に対してさえ、だ」
「軍人には珍しいタイプでしたか?」
そう尋ねてみると、彼は少し間を置いてから、
「自国を客観視できる程度に教養を持つ軍人はいくらでもいるだろう。あの男からはそれ以上の何かが感じられたのだ。私の言葉ではうまく言い表せない、なんとも形容し難いものだったが……」
隣に座っていたザラが、そっと一枚の写真を渡してくれる。まさにこの居間で撮られた写真に、三人が並んで映っていた。ザラと伯父の間で、世界中の誰よりもよく知っている男が笑顔を浮かべている。
アフガン国内のソルド人ゲリラ部隊を率いていたのは
小は子供のいじめグループから、大は国家まで、人間の集まりや共同体といった類のものを忌避したのが兄だ。血を分けた私にはよく分かる。軍人となってもなお、その思いが完全に消え去ったわけではない。
合衆国に対する「裏切り」も、兄なりの報復だったのだろうか。
「たしかに、ユリシーズには少し不気味なところがありました」
ザラが口を開いた。
「ですが、私たちのために尽くしてくれたのもあの人です。彼と出会わなければ、この手で銃を持つこともなかった」
「ザラ」
「意外でした? 私も彼に訓練されたことがあるんです」
血と硝煙の匂いには慣れています。私だって、完全にキレイな人間じゃありません。
ザラの叔父が不意に私の肩を叩いてきて、現実的な相談もしたいと言ってきた。あなたがたの軍隊はこれからどこに向かわれるのかと、どことなく慈悲が感じられる目つきで問うてくる。
「あなたがたの祖国は……アメリカは滅んだも同然と聞く。今後に備えた計画は何かお持ちなのかな」
「それは」
ない。
そんなものが、あるはずがない。
「つい先日、そちらの士官の一人がこの街にやってきて、我々のうちの幾人かはこの国に骨をうずめることになるだろうと告げた。少なくとも私はそれを拒もうとは思わない」
彼は窓の外に目を向けて、
「あのケシ畑はタリバンの金脈ともなってきた。あなたがたが彼らを追い出してもなお、ケシの花はここで咲き続けている。もはやあれを育てねば暮らしてゆけぬ人々もいるからだ。今のあなたがたはそれを理解してくれた。武器を持ち出す前に、対話の場を設けてくれた」
そこで言葉が一旦切られて、それから、
「だから、この地を終の棲家としたいと望む方々を、私は拒まない」
図星だった。私たちがこの地で果てる将来をも、彼は見抜いていた。
「群体」もタリバンも、私たちの理解を超えた脅威になりつつあった。彼らに勝つことを願う前に、かろうじて負けない戦略を練る必要があった。目をそらすことはできない、いまや故郷は滅んだのだ——他の国へ逃れようと、遺体袋に入るまでの時間が伸びるだけだ。
そこでより現実的に考えてしまうのがパイロットの性というものか。航空機はひとりでに飛んでくれるわけではない。動かすためには燃料と、機体を整備し、運用できる人員と場所が常に必要だ。兵装のストックも考えなければならない。そのための兵站をまだかろうじて維持できているのはまさに奇跡と言えた。
私たちは綱渡りをしているのだ。ハイヒールを履いて、空高く張られた綱の上を歩いている。
「お言葉に感謝します」
いつの日か翼を失う日が来たら、私はどこへ向かおうか。
小さな指でツンツンとわき腹を突かれる。
「ザラ……?」
「たまには……抜いてください、肩の力」
改めて見つめると、本当に澄んだ瞳をしている。そこに映る私は、いくらか情けない表情をしていて。ふうっと息を吐くと、全身から力が抜ける。
何かに包み込まれているような感覚は、嫌ではなかった。
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