こんなにもまばゆい月の下で

 まるで世界から切り離されたような、寂しい夜だった。


 静寂に包まれて、パーティー会場での喧騒が嘘みたいに感じる。部屋を出るとき灯っていたベランダの照明はすっかり落ちてしまい、窓の外は孤独な薄闇に覆われている。あの日、ひとりそぞろ歩いた町はずれの倉庫街を思わせる夜。


 こうしてベッドの端に腰を下ろしたまま、どれくらい時間が経ったのか。乱れた心はいまだ落ち着いたとはいえず、千々に割れた感情のかけらが濁った渦のなかに散らばり、ぐるぐる取り留めのない流れの線を描いている。


 自身がここまでの動揺に襲われていることが、驚きだった。一年前の事件はショッキングではあったが、終わったこととしてすっかり割り切れていると思っていた。窃盗チーム〈ボトルムーン〉の精鋭、ヒデトにとっては、彼の過去を知る人物との再会など些末なアクシデントにすぎない。切り抜けることは造作もないはずだった。


 なのに――


 カールシュタット教授の喜びに満ちた顔を見たとき、彼の口から叔父の死に関する言及を聞いたとき、狂おしいほどの郷愁と悔恨の念が湧いてきたのだ。ずっと聞こえないふりをしてきた呪いの叫びが頭蓋で激しく反響し、矢も楯もたまらなくなって会場を飛び出してしまった。


 いったいなぜ叔父は死ななければならなかったのか。あの書斎での運命的な一瞬、どうして自分は逃げ出してしまったのか。問うにはあまりにもいまさらすぎるいくつもの問いが、耳の奥で虚しい往復運動を続けている。


 廊下のドアが開く音がしたが、おれはすぐには反応しなかった。穏やかな足音が近づいてきて、顔を上げればそこに紺青のドレス姿のルナが立っている。


「やっぱりここにいたんだ、ヒデト」

「……ルナ」


 少女の銀色の髪は、わずかな月明かりにも美しく輝いている。右手に握られているカードキーはザジから借りてきたものだろう。


「悪かった、作戦中なのに勝手な行動をとってしまって」

「慣れない旅先で不安になってたのかもね。ブライアン・カーマのほうは、シェリファとザジのふたりで当たってもらってるから大丈夫。作戦は順調だよ。そんなことより、わたしこそごめん。ヒデトのつらい過去に、勝手に触れてしまった」

「あそこにルナが居合わせたのは不可抗力だ。謝られることじゃないよ」


 少女の声音がひたすらに優しくて、おれは申し訳なさでいっぱいだった。


「断片とはいえヒデトの過去を見てしまったおわびに、わたしのことも話してあげる」


 おれの隣にそっと腰を下ろすと、窓の外の夜闇を眺めながらルナは語り始めた。


「わたしにはね、兄がいるんだ」

「ルナの、お兄さん?」

「うん。名前はアレク・ウッドワーズ。わたしとは四つ離れてるから、いまは二十一歳だね」


 彼女の横顔には初めて見る、幼子のような安らかな表情が浮かんでいた。


「わたしたちの家は資産家だったけど、父がどうしようもない暴君でね。昔からわたしはことあるごとにひどい暴力を受けていた。母は見て見ぬふりだし、使用人たちも父の言いなりだ。だけどアレク――兄だけは、常に身をていしてわたしを護ろうとしてくれた。自分だっていつも殴られてたのに、それでもわたしの前では笑顔を絶やさないようにして、ぼくがいるって、だから怖がることなんてないんだって、言ってくれた。ウッドワーズの屋敷での日々は地獄だったけど、兄がいたからわたしは耐えることができた」


 ふたりきりの部屋はどこまでも静かで、ゆっくりと流れる時間の音まで聞こえるようだった。


「わたしが小学校を卒業したころから、父の暴力がさらにひどくなっていった。というより、暴力を振るう父のわたしを見る目が変わってきた。兄はその危険な兆候をいち早く察知した。そして決定的な事態に至る前にと、ある日わたしを屋敷から連れ出したんだ」

「……ふたりで家出したってこと?」

「そう。住んでいた町を離れ、ウッドワーズ家の力も及ばないできるだけ遠い土地へと、わたしたちは逃げていった。やがてたどり着いた新たな町で、わたしたちは新たな生活を送り始めた。だけど」


 そこまで話したところで、少女の横顔にかすかな影が差した。


「子供ふたりだけの暮らしは、思っていた以上の困難が伴った。ごはんを食べるお金を稼ぐため、兄は毎日必死に働いた。わたしも自分ができる仕事を探して稼ぎの足しにしたけど、兄のほうがずっと、ずっとがんばっていた。兄は決してわたしの前で弱音を吐かなかった、日々の激務は確実に兄の身体を追い詰めていたはずなのに。だからわたしは、兄が本当に取り返しのつかない状態になってしまうまで気づけなかった。そう、消耗する肉体をごまかすために、兄はわたしの知らないところで違法ドラッグに手を出していたんだ」


 おれははっとしてルナの横顔を見るが、彼女の口振りは淡々としていた。


「生活の限界のなかでドラッグに手を出した人間の未来は知れてる。薬の効果でごまかすことはできても、肉体が消耗してることに変わりはない。無茶な仕事はさらに肉体に負荷をかけ、それをごまかすために使用するドラッグの量が増える。薬そのものによる悪影響も倍々、まさに負のスパイラルだ。兄は心身ともに急激にむしばまれていき、その変化をわたしに隠していられなくなるのも時間の問題だった」

「まさか……」


 嫌な予感がして口を開きかけるおれに、彼女は淡く微笑みながら首を横に振ってみせる。その仕草はどうしようもなくやるせなかった。


「兄は最後まで、わたしに手を上げることはなかった。ただ、ある日突然倒れた。そしてそのまま長い眠りについた。わたしたちがウッドワーズの屋敷を飛び出して、半年経ったころのことだった」

「…………」


 静謐に凪いだ眼差しからは、彼女のなかに去来している感情はうまく読み取れない。


「意識障害に陥った兄の身柄はある男のもとに回収された。その男は兄の使っていたドラッグの開発、流通を手がけていた人物で、兄はかなり危険な手段で彼のところから薬を調達しようとしていたらしい。男は兄を処分しようとしたけど、そこにわたしが待ったをかけた」

「まさか、その男って……」


 彼女は重々しくうなずき、


「そう。裏の世界でデュランと呼ばれ、絶大な影響力を持つ実業家だ。わたしはデュラン氏に取引を持ちかけた。デュラン氏のビジネスにわたしが実働要員として貢献する、その代わりに氏は兄を殺さずにその身柄を保護しておくようにと。わたしは自身の能力をデュラン氏に示した。そして自ら才能を持つメンバーを集め、氏の犯罪ビジネスを支える実働部隊とした。すべてはいつか兄の目を覚まさせ、デュラン氏のもとから救い出すため」

「それが、チーム〈ボトルムーン〉のルーツ……。でもそんな重要なこと、おれなんかに話してよかったのか?」

「問題ないよ。このことはシェリファとザジも知ってるし、デュラン氏だってどうせわたしの腹の内なんて察してる」


 気楽そうな態度でルナは肩をすくめ、


「それに言ったでしょ、おわびだって。ヒデトの過去を垣間見た代わりに、わたしも自分の過去を明かした。だからこれでおあいこ」

「……どこがおあいこなもんか。ルナはすごくがんばってる。大切なものを取り戻すために、相手が何者だろうと真っ向から闘ってるんだ。それにひきかえ、おれは肝心なときに目を逸らし、そのままずっと逃げ続けてるだけだ」

「ううん。わたしだって同じだよ。厳しい現実を直視しようとせず、大変なことを全部兄に背負わせてしまった。わたしが逃げてたせいで、兄をいまの状況に追い詰めた、だからもう逃げたくないと、ただそう思ってるだけ」


 どこまでも真摯な彼女の声に耳を傾けながら、おれはあることに思い至っていた。


 ハーレムの地下バーでドラッグ中毒の男が暴れていたときだ。無力化した男の耳もとでルナが口にした「ごめんね」という言葉。あれが本当は誰に向けられたものだったのか、ようやく理解がかなったのである。


 運命に苦しんでいるのは、自分だけではない。しかしそれが、おれにはかえって残忍な仕打ちに思える。こんなにも聡明で純粋な少女を暗い地の底に突き落とし、過酷で危険な日々を強いておいてなぜ、世界はこうも平然と回っているのか。


 隣でルナの立ち上がる気配。気づけば、おれは正面からそっと抱きしめられていた。


「そんな顔しないで」


 まるで母親のように、おれの耳もとで少女は優しく囁く。


「わたしは不幸なんかじゃない。不幸な人間なんて、ひとりもいない。それくらい、人間は強い。ちっぽけな肉体の内に、無限のエネルギーを秘めてる。ヒデトが、みんながいるから、わたしはそう信じられる」


 背中に回された細い両腕から、彼女のなかを流れる熱が伝わってくる。


「……ああ」


 おれが静かにうなずくと、ルナはゆっくり身体を離した。その端整な顔に柔らかい笑顔を浮かべ、おれの右手をつかんで引き上げる。


「さあ、立って、ヒデト」


 フランス窓を開け、彼女はおれを屋外にいざなった。夜空に浮かぶ月は大きく、意外なほどの明るさでベランダを照らしている。


「いい夜だ。こんな夜のただ中に産み落とされるのが生きるってことなら、悪くないね」


 つかんでいた手を離し、ルナはひとり凪いだ水面をのぞかせるプールの端に歩み寄る。ハイヒールを脱ぎ、かと思うとまとっていた紺青のドレスも足もとに取り去ってしまう。その下には少女はなにもつけていない。


「お、おいっ」


 とっさにうろたえるおれに向かって、彼女は勢いよく右手の指先を突き出してきた。


「わたしを見てて、ヒデト」


 自信に満ちた笑顔とともに、彼女は高らかに言い放つ。


「わたしたちはやれる。チーム〈ボトルムーン〉に盗み出せないものはない。つらい過去も心の傷も、みんな奪い去ってやる。そのおかげで明日にはもう少し、世界が素敵なものになっているようにと願って。それがわたしの、生きてる意味」


 おれは言葉もなく、見惚れていた。

 銀色の長い髪。褐色に艶めく肌。ありのままの少女のすべてが、月光にまばゆく浮かび上がっている。


 彼女の足が地面を蹴った。

 爽快に響き渡る水音。イルカのような美しいフォームを残し、少女の影は水中へ消える。

 飛び散った水の粒が、月明かりを受けて無数に煌めいていた。

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