2節

マンハッタンの夜

 草木も眠る丑三つ時、という言葉がある。だが、巨大な一枚岩の上に作られたこの町が、真に眠ることはありえないのだろう。


 煌めく摩天楼の都、マンハッタン。文化と享楽のるつぼ、ブロードウェイ。繁華街から北に向かった比較的閑静な高級住宅街であろうと、同じことだ。誰もがどこかで人知れず、終わらない一日の底にその身を沈めている。


 広々としたダイニングは、気まずい沈黙に包まれていた。クリーム色の壁紙に、窓を覆う濃紺のカーテン。壁際の四十二インチテレビと向かい合って置かれた革張りソファーには、ザジがぐったりと背中をあずけている。背もたれ越しにのぞく少年の金色の頭が、食卓の椅子に座ったおれからも見えた。

 浴室ではシェリファがシャワーを浴びており、かすかに水音が響いてくる。ルナはひと足さきに湯をもらい終えて、いまは寝室で電話をかけているようだ。


 男ふたりの間に、言葉はまったくなかった。

 空手対決で敗北を喫したザジの失意はよく分かる。彼のような高いプライドの持ち主にとって、曲げようのない現実を突きつけられることはなにより耐えがたい苦痛に違いない。もっとも、落ち込み具合ではおれも負けたものではないだろうが。


 おれが意識を取り戻したのは、あのブルックリン橋での襲撃からほどなくのことだったようだ。目を開ければ、頭をルナの膝の上に乗せたまま、カローラの後部座席で揺られていた。彼女の口からおれは橋上での詳細な顛末を聞かされた。


 例のコートの男は、ノートパソコンの入ったバッグをおれから奪ったあと、それを欄干のたもとで防水袋のようなものに入れ、追いかけてきたルナの手をすり抜けてイースト川へ飛び下りたそうである。川面まで数十メートルの高さがあるはずだが、欄干にはロープの垂れ下がったフックが引っかけられており、どうやらそれを伝ったらしい。


 おれがバッグを抱えて車を降りなければ、盗んだデータの入ったノートパソコンを奪われずに済んだ。かすかに痛みの残る首筋をさすりながら、おれは自身の軽率さを謝罪したが、ルナは穏やかな顔つきで首を横に振るだけだった。


「たとえ車内に留まっていたとしても、どうせ袋のねずみだった。ザジを突破された以上、結果は変わらなかったと思うよ」


 むろんその慰めの言葉で、おれの気持ちが晴れるわけはなかった。暗澹たる空気を乗せたまま、ボンネットがへこみフロントガラスに大穴が空いたカローラは、目立たない路地を抜けて五番街裏手のアパートメントを目指すのだった。


 ドアの音に物思いを破られる。顔を上げると、バスルームを出たシェリファがダイニングに向かって廊下を歩いてくる姿があった。


「……まったく。野郎ふたりが、そろって辛気くさいツラを晒してるものね」


 それぞれに脱力した様子のおれとザジを見比べ、彼女は呆れたように両手を腰に当てる。

 すらりとした長身を包んでいるのは、丈の長いグレーのTシャツ一枚のみ。下着は上下とも着けていないようで、起伏に富んだシルエットがくっきりと浮かび上がっている。きらきら艶めく豊かな黒髪も色っぽく伸びる長い脚も、あいにくと平生ほどには視線を引きつけられない。


「おいどうした、日本少年。疲れてるならおねえさんが元気づけてやらうか」


 テーブルの向かいに立ったシェリファが、おれの顔をのぞき込んでにやりと笑う。身を屈めた拍子に、ゆったり空いたTシャツの胸もとから深い谷間がのぞいた。

 おれの反応はつれないものだったろう。彼女は小さくため息をつくと、ソファーを回り込んで今度はザジの前でおっぱいを揺らし始める。だが、やはり満足なリアクションは得られなかったと見えて、やがてへそを曲げたように部屋のすみのストゥールでスマホをいじり出した。


 なんだか、気まずい空気がもうひとり分増えてしまった。ほどなく寝室のほうで電話をかけている気配が止み、ルナが能天気そうな表情をダイニングにのぞかせる。やたらもこもこした、ピンクのボーダー柄の部屋着を彼女は身につけていた。


「シェリファ、上がったの? じゃあ次はヒデトかザジ、シャワー浴びてきなよ」


 ルナの提案を、男ふたりは無言を返答に代えて断る。彼女はさして気分を害した様子も見せず、


「そう。でも、寝るまでに必ず浴びとくんだよ。仕事で疲れてるときは、身体のリフレッシュがなにより大切だからね。せっかくだから、先に作戦会議済ませとこっか」


 いっそ傍若無人といっていいくらい朗らかな態度で、話を進めていく。


「今夜のことをデュラン氏に報告したら、早速新しい指示が来たんだ。それを踏まえたうえで、みんなの意見を聞きたいところもある。休む前にもうひと踏ん張りだ。せっかくだから、会議のおともに温かい飲み物でも用意するよ。ヒデト、ちょっと手伝って」


 いそいそとキッチンに向かうルナのあとを追って、おれはのっそり腰を上げる。彼女の傍若無人さがありがたいと思うときが、不思議とままあるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る