半分だけ合っている
ayame
第1話
「緑川 奈津子さん、ですよね」
保育園に子どもを預けて一旦マンションに戻る途中、建物の入り口の前でそう呼び止められ、私は振り返った。
そこにいたのは自分と同じくらいの若い女性。ふんわりとした明るい栗色の髪に、体のラインを強調するような明るめのスーツ。韓国系のファッションサイトに出てきそうな、ウエストをこれでもかと絞ったデザインだ。色白の顔は目を強調するようなメイクが施され、ぽってりとした唇と泣きぼくろが印象的な、綺麗な女性だった。
「そうですけど……」
頭の中で、どこかで知り合った相手かどうかを検索する。人の顔と名前を覚えるのは得意な方だが……正直こんなケバい印象の女性はピンとこない。子どものママ友では絶対ないし、となると時短勤務している職場で会った人だろうか。職種上、いろんなタイプの客がやってくるから、その可能性はある。
怪訝に思っていることを悟られないよう、無表情で応対していると、女性は小馬鹿にしたようにふっと笑った。
「やっぱり。見てすぐわかりましたよ。真司さんの言う通り、地味な印象だから。こんな高級マンションからあなたみたいな地味な人が出てくると、余計に目立ちますよね」
女性の発言に「なんだ、夫の知り合いか」と納得した。真司というのは緑川真司。私の4つ上の夫の名前だ。
「主人に御用でしょうか。あいにくと仕事に行っておりますが」
「そんなことわかってます。緑川法律事務所の弁護士さんですものね。お父様も有名な弁護士だとか。いずれその跡を継いで所長になるって聞いてます。ほんと、なんであんな素敵な人があなたなんかと結婚したのか……あ、そうでした。子どもができたから仕方なく結婚したんですよね。相手の両親に詰め寄られて散々だったって、嘆いてましたもの」
「……失礼ですけど、どちら様ですか」
「私、朝比奈ほのか、って言います。あなたのご主人、緑川真司さんとおつきあいしている者です」
「は?」
「単刀直入に言いますね。私のおなかには真司さんの子どもがいます。というわけで、彼と別れてくれませんか?」
そうして目の前のケバい女は挑戦的な笑みを浮かべた。
「……どういうことでしょう」
声が震えないよう、いつもより声を低めて応対すると、朝比奈ほのかと名乗った女性は呆れたようにため息をついた。
「だから、今説明したでしょう? あなた、地味なだけでなくて頭も悪いのね。そんな人がイケメン弁護士の真司さんの奥さんだなんて、冗談がすぎるわ。あの人に相応しいのは私みたいに華やかな美人よ。それくらい、あなたの軽い頭でもわかるでしょう? おまけにおうちは資産家で、このマンションだってもともとは彼のお父様の持ち物なんでしょ? こんな豪華なところに住んでいるのに、なに、その地味な色のスーツ。おまけにダサい黒縁メガネとか。恥ずかしくないのかしら」
言われて自分の服装を振り返る。スーツを着ているのはこれから出勤するからだ。時短勤務とはいえ、いい加減な服装が許される職場ではない。それに服装と住んでいるマンションは関係ないと思う。
……って、そんなことよりも。
「あなたのお腹に彼の子どもがいるですって?」
「あら、ちゃんと聞いてはいたみたいね。そうよ。今2ヶ月なの。私、真司さんと結婚するつもりだから、あなたはさっさと彼のマンションと人生から退場してくださる?」
「つまり、主人とあなたは不倫していたってことですか」
「そんな人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。私と彼は真実の愛で結ばれているんだから。あなたの方が邪魔者なの」
「彼の法律上の妻は私です」
「法律上はそうかもね。でもそれも今だけのことよ。彼は私のことを愛しているんですもの。妊娠がわかったときも本当に喜んでくれたわ。彼はあなたと別れて、私と結婚するの。私と、お腹の子どもと一緒に本当の家族を作るのよ」
私は軽くめまいがしてふと地面を見た。身じろぎした際にポケットからスマホが滑り落ちる。慌てて拾い上げ、画面が割れていないか確かめる。そのとき、スマホカバーについた小さなミラーに自分の顔が映った。
色白ではあるが、取り立てて目立つ顔ではない。ブスというほどひどくもない、普通の顔。今から仕事なので軽く化粧はしているが、薄づきのためノーメイクと変わらない。目の下にクマができているのは睡眠不足のせいだ。5歳になる一人息子が小児喘息を患っていて、昨晩発作を起こした。看病をしているうちに朝になったのだ。発作が治ればケロッとしているので、いつも通り保育園には送っていけた。
この顔が真司と釣り合わないことは付き合い始めた大学生の頃から知っている。彼はロースクールの1年生で、私は大学の学部生。狭いキャンパスで、イケメン高身長の真司はとにかく有名だった。スポーツも万能で、高校時代はテニスで全国大会入賞したほどの腕前。性格も温和で冷静、ロースクールに身を置き、将来は弁護士を目指しているということもあり、先物買いを狙った女子たちが常に群がっていた。
そんな彼と出会ったのは所属していたテニスサークルだ。私も中、高とテニス部で、体を動かすことが好きというのもあって、大学でもテニスサークルに所属した。真司のように全国大会に出られるほどの腕前ではなかったから、完全に遊びだったけれど、日々のストレス発散のために熱心に参加していた。ほぼ皆勤賞だったこともあり先輩たちからも可愛がられた……というよりいいように遣われて、雑用を任されることも多かった。もちろん、信頼されてのことだからある程度は進んでやっていたけれど、中には悪意があるものもあった。
「おまえら、なんでもかんでも奈津子ちゃんに押し付けるなよ。いくら彼女が優しいからってやりすぎだ」
そして私に押し付けられた掃除用のモップを取り上げ、部室の掃除を始めたのが真司だった。ロースクールは大学院のようなものだ。学部3年の部長からすれば真司は大先輩。「真司先輩が掃除なんて!」と慌てる彼に「ならおまえがやれよ」と、今度は雑巾を投げつけた。
その瞬間、単純な非モテだった私は、実に呆気なく真司に恋をした。
とはいえ、私では彼とは釣り合いがとれるはずもない。あちらは学校一の有名人。こちらはただの地味な大学生。
ところがその掃除事件以降、彼は熱心に私に話しかけてくれるようになった。
「ロースクールに進学してから、前みたいにしょっちゅうはサークルに来られなくなって。だけどたまに来ると、いつも雑用をこなしている子がいるなぁって思ってたんだ。みんなが飲み干したペットボトルを片付けたり、部室の隅に転がっているラケットの修繕をしたり。かと思うと、コートで走り回ってボールを熱心に追いかけたり。真面目に雑用に取り組んでいる真剣な眼差しとか、元気にボールを追う躍動感とか、そんなくるくる変わる表情に惹かれたんだ」
彼から告白されたのは掃除事件から3ヶ月後のことだ。緊張で真っ赤になった私は言葉もなく、ただただ頷くしかできなかった。
こんな素敵な人が私の彼氏だなんて、しかも人生初の、だ。嬉しいやら信じられないやら。
だから私は勉強とサークルの時間以外は全て彼に捧げた。一人暮らしの彼が「食事を作るのが面倒」と言えば差し入れにいき、「欲しい資料が手に入らない」といえば国会図書館にまで足を運んでコピーをとったりもした。なにせこちらは自宅生。時間だけはたっぷりある。彼の役に立ちたくて、彼に信頼されたくて、必死に尽くした。
彼の望みはなんだって叶えたいーーー。そんな思いが暴走した結果だったのだと思う。彼が求めるままに身体の関係をもち、そして妊娠してしまった。大学2年、20歳のときだ。
これに烈火の如く怒ったのが私の父だ。一人娘の私は両親の遅くにできた子で、それはそれはかわいがられた。大学に入ってからもアルバイトが禁止されるなど、過干渉なところもあっただけに、怒るのは当然のことだった。大激怒しながらも、お腹の子どもの将来を考えられる程度には冷静だったのだろう。父が真司に求めたのは、すぐさま私と籍を入れることだった。真司は当時ロースクールの2年生。将来を嘱望されているとはいえ、まだ学生の身分。しかしそれが言い訳になるはずもなく、妊娠が発覚した翌月には入籍した。
「こんなことになってしまったけど、俺は奈津子ちゃんと結婚できてよかったと思っている。ロースクールを卒業して弁護士になったら、君とお腹の子どもを養うために一生懸命働くよ」
そう笑ってくれる彼に、涙をこらえきれず、私はその胸に飛び込んだ。
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