50.【微睡と選択】
「……娘、何か言い残すことはあるか?」
遠くで誰かの声がする――いや、案外近いのかもしれない。
思考が、指の隙間から零れる砂のように散っていく。
光も音も、遠くて、騒々しくて、どうでもいい。
「貴様らは、魔王ノーブルを打ち倒し、そして刺し違えて散った英雄として後世まで語り継がれるのだ。想い人と共に名を残せるのだぞ、さぞ名誉であろう?」
想い人――ああ、そうか。
私はきっと、心のどこかでヴィクターのことを……
しかし、それももう二度と戻らない。
思えば、ほんの一日にも満たない白昼夢のような出来事だった。
今はただ、静かに沈んでいたい。
「――おい、アンナ……」
誰かに名を呼ばれた気がした。
いや、きっとそれも気のせいに違いない。
何もかもが、どうでもいい。
瞼が焼けるように重い。これ以上、開けている意味もない。
「――アンナ、呆けてんじゃねぇぞ」
それでも、私はまだ生きているらしい。
かけがえのないあの人の声が、意識の淵で木霊している。
「私は……もう……」
しかし、全てを諦めかけたその刹那、頬を張るようなその声が、ハッキリと私の微睡みを突き破った。
「アンナ! お前は俺の――何だ!?」
そうだ、私は――
「貴方の――装備です!」
己の声が、空虚を裂くように響いた。
ぼやけた視界が次第に焦点を取り戻す。
するとそこには、パウルの苦悶に満ちた顔があった。
「ヴィクター! まさか、貴様まで……!?」
背後からパウルの胸を貫く、ひと振りの剣。
その
「……悪ぃな。俺も、捨てちまったんだわ」
そこには、パウルの背に深々と剣を突き立てるヴィクターの姿があった。
「ヴィクターさん……!」
彼は無造作に、パウルの背を蹴り飛ばす。
抜かれた剣の軌跡に、黒煙が尾を引いた。
祭壇へと叩きつけられた奴の巨躯が、聖域の石を砕いて崩れ込む。
「良かったな。お似合いの玉座じゃあねぇか」
いつものように、静かに皮肉を吐くヴィクター。
しかし、刃の軌跡に黒煙を纏わせるその背中は、どこか知らない誰かのように見えた。
「やっぱり……混じってる」
突然、強ばった声が聞こえる。
その声に振り返ると、つい今まで地に膝をついていたセリーヌが、ヴィクターを凝視しながら震えていた。
「混じる……?」
「そう……焔の一族の、日輪の魔力と……もうひとつ……」
セリーヌが言い掛けたその時、祭壇からガラリと音が鳴った。
「やっぱ、これぐらいじゃあ――終わらせちゃくれねぇか」
ヴィクターが苦笑いを浮かべ、舌打ちをする。
その視線の先には、怒りに顔を歪ませながら、片腕で胸を押さえるパウルの姿があった。
「おのれ……先祖が先祖なら、子孫も子孫というわけだな……!」
「……魂まで売ったてめぇにだきゃあ、言われたくねぇよ」
ヴィクターが剣の柄を握り直し、静かに構えを取り直した。
「来いよ
「我は、大魔王パウルだ……貴様の剣ごときに、倒れはせん!」
パウルの叫びが、崩れかけた祭壇に響き渡る。
まるで、その禍々しい魔力が、満身創痍の肉体を奮い立たせているようだった。
「アンナ、セリーヌ──ここから先は、下がってろ」
ヴィクターが振り返らずに告げる。
その声音には、揺らぐことのない決意が宿っていた。
やがて、その背中が一歩、また一歩と遠ざかっていく。
――しかし、私には、どうしても彼に還さなければならないものがある。
「ヴィクターさん……実は、あなたに――」
言い掛けた刹那、剣と魔力がぶつかる鋭い音が、空気を震わせた。
私たちは
「……これでも、まだ互角かよ、流石に年季入ってんな老いぼれ!」
「互角? 笑わせる! 次は頭蓋を砕いてくれるわ……ノーブルの遺志ごとな!」
パウルの猛攻がさらに激しさを増す。
そう、僅かではあるが、ヴィクターが押されている。
息を呑む私の耳元で、セリーヌが私に呟く。
「アンナ……今しか、ない……」
その言葉に、私はセリーヌの顔を見つめた。
その瞳に宿る、強い覚悟。それが、私の迷いを断ち切る。
私は小さく頷いた。
――その時だった。
衝撃音とともに、吹き飛んだヴィクターの体が、私たちのすぐ目前に転がり込んだ。
よろめきながらも、ヴィクターは苛立った声を上げる。
「おい……下がってろって、言ったろ……!」
すぐに、私たちを庇うように立ち上がる彼。
私は、その横顔をじっと見つめる。
そして、ゆっくり首を横に振ると、一歩、彼の
「おい、アンナ……何をする気だ?」
戸惑いを滲ませるヴィクターに、私は、ただにっこりと微笑みかけた。
そして、そっと瞳を閉じる。
「――あなたに……いえ、あなたたちに、お還しします!」
静かに、しかし確かに言い切ったのと同時に、私の背中に手を当てたセリーヌが、詠唱を始めた。
「
彼女の魔力が空気を震わせる。
そして私の胸の奥に灯り続けていた、三つの温かな気配が、光となって弾けた。
それは緋く、蒼く、紫に輝きながら――ヴィクターの鎧へ、盾へ、兜へと吸い込まれていく。
やがて、防具たちが
まるで、彼女たちが再びヴィクターを支えるために、そこに戻ってきたかのように。
「まさか、有り得ん……月神の防具の力が蘇るなど……」
その輝きに、パウルは思わずたじろぐ。
だが、その動揺に向けて、セリーヌが静かに、しかし鋭い眼差しで言い放つ。
「アンナは……不可侵の呪いによって、一度命を落としていた……その命を再び繋いだのは、アンナに流れ込んだ、彼女たちの魂の欠片……それを今、器に還した……」
その言葉に、パウルは歯を噛み締め、怒りを露わにしてセリーヌを睨み据える。
「欠片だと……? そんな付け焼き刃、我に通じるはずが――」
「通じる!」
セリーヌの声が鋭く空気を裂く。
彼女は一歩踏み出すと、様々な想いをその瞳に宿し、叫んだ。
「お母さんの……アンナの……彼女たちの意志は、お前に負けない……その意志が、今ここで! お前を討つんだ!」
涙を零しながら、身を震わせるセリーヌ。
そんな彼女の肩にヴィクターがそっと手を置いた。
「言うじゃあねぇか。お前とは色々あったけどよ……ちったぁ見直したぜ」
ヴィクターはセリーヌにふっと笑みを向けると、そのまま鋭い眼差しでパウルを射抜いた。
「そういうことだ。てめぇもここまでだぜ、パウル」
その言葉に、パウルが低く呻く。
しかし、次の瞬間、獣のような息遣いと共に顔を歪め、本性を剥き出しにする。
「黙れ……黙れ! ノーブルを裏切り、ニコラには
弾かれたように、ヴィクターに飛び掛かるパウル。
刃のような腕が、ヴィクターの胸を真っ直ぐに貫かんと伸びる――だが、その手は止まった。否、止められたのだ。
彼の身を包む、赤く
「……通らん、だと!?」
その瞬間、ヴィクターの剣閃が走り、黒煙と共に足が飛んだ。
片足を失ったパウルが膝から崩れ落ちる。
「このような……ことが!?」
それでも地に突っ伏したまま、パウルはその片手を掲げ、咆哮とともに魔術を放つ。
凄まじい熱風が地を焼き、煙と爆風がヴィクターを包んだ。
「油断したな!」
パウルがほくそ笑むように呟いた刹那、煙の中から一枚の盾が姿を現す。
青白く輝く蒼月の盾が、ヴィクターを護っていた。
「こ、この魔力さえも凌ぐというのか!?」
慌てふためき声を上げるパウル。
やがて、ヴィクターの鋭い視線と目が合うと、小さな悲鳴を漏らしながら、咄嗟に魔術障壁を展開した。
いくつもの重層結界が、彼の身体を包み込むように広がっていく。
しかし――
「黙って焼かれろ」
ヴィクターが放つ、落雷のような光――
それが容赦なく、幾重にも重なった障壁を貫いていく。
その瞬間、紫月の兜が淡く紫に脈動し、ヴィクターの魔力と共鳴するように輝いた。
そしてついには、硝子が砕けるような乾いた音が響き、結界は粉々に弾け飛ぶ。
「そん……な……!」
そして、ヴィクターの更なる一閃――パウルの残された片腕が、音もなく宙を舞う。
やがて、奴の体は崩れ落ちるように地面へ倒れ込み、天井を仰いだ。
その肉体からはおびただしい黒煙が噴き出し、魔力が一気に抜けていくのが見て取れる。
みるみるうちに
「よう……大魔王気分は味わえたかよ」
ジリジリと歩み寄るヴィクター。その足取りに、もはや迷いはない。
ただの
「ま、待て……交渉だ……!」
顔を引きつらせ、命乞いの声をあげるパウル。
しかし、まるで虫でも見下ろすかのようなヴィクターの目には、一片の情も感じられなかった。
「お
その言葉に、パウルの口元がわずかに歪む。
「そう……そうだ、貴様が望みは“乙女たち"の還りであろう? 我を見逃すのならば、一人だけ……防具の生贄になった女を、一人だけ蘇らせてやろう……!」
空気が凍りつく。
剣を構えたまま、ヴィクターの腕がぴたりと止まっている。
やがて、呼吸を思い出すように、彼の背中が荒く息を吐いた。
「おい……助かりてぇからって、口からでまかせ抜かしてんじゃあねぇぞ……ンなこと、できるワケ――」
「いや……できる……」
か細い声――隣りで、セリーヌが震えるように呟いた。
「彼女たちは、死んだ訳では、ない……月神の防具に、その肉体と精神を、幽閉されているだけ……だから、月神と相反する魔力で打ち消すことによって、一人だけなら、蘇らせることが、できる……」
月神と相反する魔力。
その言葉が、私の背中をひやりと這い上がる。
そう、それは、すなわち――
「そうだヴィクター……貴様の持つ、"日輪の剣"こそがそうだ! それを我に差し出すならば、約束しよう……必ず一人、蘇らせると……!」
パウルの甘言が、ヴィクターの瞳に迷いの影を落とす。
彼が、彼女たちと笑い、泣き、命を懸けて生きた、旅の記憶。
今、それら全てが、世界の命運と天秤にかけられているのだ。
「そんな、そんな残酷なこと……!」
声にしようとしたその瞬間、意識がふっと遠のいた。
頭がぐらりと揺れる。身体が鉛のように重い。視界が、滲んで、暗く、霞んでいく。
「おい、どうしたアンナ!?」
崩れ落ちる私を、駆け寄ったヴィクターの腕が優しく支える。
「アンナは……月神の乙女たちの力で、命を繋ぎ止められていただけ……それももう、防具に還してしまった。つまり……」
セリーヌの声が、どこか遠くで響いた。
ヴィクターの顔が青ざめていく。その怒りと悲しみに歪む表情を、私はぼんやりと見つめていた。
「お前……なんてこと! 俺は、こんな……」
彼の叫びが胸を打つ。
しかし、私は微笑んで、そっとその手を握った。
「いいんです……私が、頼んだんです……」
私の言葉に、ヴィクターも手をぎゅっと握り返してくれる。
今、わかった気がする。
――ルビーさん、シシィさん、ダリアさん。あなたたちも、こんな気持ちだったんですね。
「ヴィクターさん……私は、あなたのどんな選択でも受け入れます……だから――」
だからもう、苦しまないで。
その想いを込めて、最後の微笑みを彼に向ける。
やがて私の意識は、音もなく、静かに闇の中へと沈んでいった。
鎮魂の審判編[完]
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