49.【命脈と末裔】
回廊は、夜の底のように静まり返っていた。
埃の積もった祭具、朽ちた書物。
そのひとつひとつが、かつてこの場所でどれほど深い祈りが捧げられていたのかを物語っていた。
そんな静寂の中、私はただ一つの名を頼りに、奥へ、奥へと慎重に足を進める。
「セリーヌ……さん?」
声を押し殺し、壁際の影に耳を澄ます。
すると、消え入りそうな低い呟きが、風のように微かに届いた。
「……誰?」
薄闇の奥、その声のする方に目を凝らすと、華奢な輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
「……私は、アンナです。ヴィクターさんに、あなたをここから逃がすように頼まれて、その……迎えに来ました」
その影は、やがてランプに火を灯すと、揺れる明かりを携えてこちらに静かに歩み寄ってきた。
「……ということは、ヴィクター、ノーブル倒した?」
「はい、ですが……信じられないかもしれませんが、実は、大司教も魔人で……」
「じゃあ、今、祭壇から感じる魔力は、パウルと、ヴィクター……」
ところが、人形のように整ったその顔は、その事実を前にしても眉ひとつ動かす様子はない。
「あの……驚かないんですか?」
「パウルが、魔人……それは、知ってる」
「え……知ってて、行動を共にしていたんですか!?」
セリーヌは僅かに俯き、曇った表情を浮かべた。
しかし、今は立ち止まっている暇などない。
「そんなことよりも、早くここを出ましょう!」
私はその冷たい手を掴み、ぐっと引いた。
しかし、彼女の体は動こうとはしない。
「ダメ……パウルからは、逃げられない……人質のお母さん、殺される……」
「そんな……! そのお母様は、今どこに?」
「分からない……でも、月神の防具を集めるの、協力しないと、お母さん殺すって……月神の乙女、みんな、本当にいい人たちだった……凄く、辛かった……」
「どこまでも、卑劣な……」
無表情だったセリーヌの頬を、そっと一筋の涙が伝う。
私はパウルの、そのぞっとする悪意に、思わず拳を震わせた。
「ヴィクターさんが……ヴィクターさんが、きっとどうにかしてくれます! だって、あの魔王にだって勝ったんですよ!」
「それは、月神の防具の力があったから……失墜の刻を過ぎれば、その力、少しずつ失われていく……」
確かに、そんなことをパウルも口にしていた。
あんな人智を超えたものを、月神の防具無しで――?
私は唇をきゅっと噛み締める。
「……それでも、あんな怪物に、ヴィクターさんは負けません……今までだって――」
「アンナ……今、"あんな怪物"って、言った?」
突然、セリーヌが何かを訝しむような表情で私を見る。
「え、そりゃ、急に見た目が若返って……でも、その姿もなんだか、人間を逸脱していて……」
「どうして……あの姿を間近で見て、アンナ、平気でいられる? 私の魔力でも、耐えるのがやっと」
私の脳裏に、あの時、身をもって知ったそれが
――不可侵の呪い。
「アンナ、あの魔力量を直接浴びて、立っていられるはずない。ましてや、無事でいるなんて、とても……」
「え、ああ……一度、ノーブルの不可侵の呪いで死にかけたから、慣れちゃった……とか?」
「それは、考えにくい……」
セリーヌが私の胸にそっと手を当てる。
すると、しばらく瞳を閉じた彼女が、ふいに目を見開いた。
「アンナ……まさかあなた、その時すでに――」
言いかけたその言葉は、喉の奥で途切れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「じゃあ……開けますね……」
セリーヌが、静かにこくりと頷く。
私も無言で頷き返し、祭壇部へと続く扉に手を伸ばした。
「……ねぇ」
彼女の揺れる声が、湿った石壁に鈍く反響する。
「アンナは、本当にそれで、いいの……?」
その問いに、一瞬だけ指先の力が緩む。
しかし私は、もう一度しっかりと扉の握りを掴み直した。
「ええ。私は――あの人の装備ですから……!」
扉が跳ね飛ぶように開き、乾いた音が辺りに鳴り渡る。
しかし次の刹那、その音をも掻き消すような轟音が、すぐそばで炸裂した。
「ヴィクターさん……!?」
その光景に、思わず痛切な声が上がる。
壁に打ち付けられたヴィクター。
そして、その装備たちに刻まれた痛々しい破損――
「……なぁに、やってやがる。さっさと逃げろってんだよ、
体をよろめかせ、悪態をつきながらもパウルの猛攻を必死に受け続けるヴィクター。
鎧は無数のひび割れを抱え、盾は軋みを上げている。 兜の
彼女らが彼を守っているのか。それとも、彼が彼女らを守っているのか――
その
「ほぅ、せめてセリーヌだけは逃がそうという魂胆か……実に健気だな。だが、そやつは責務を終えた。もはや何処へとでも、好きに連れてゆくがよいわ」
「え、でも……」
声を震わせるセリーヌ。
怒りはおろか一片の興味すらも感じさせない、パウルの淡々とした佇まいが、心を凍りつかせる。
「そんなこと、したら……わたしの、お母さんは……」
「ん? ああ、そうかそうか。お前はまだ、母が生きていると信じておったのだな」
パウルの表情に、一瞬、僅かな笑みが浮かぶ。
それは凍てつくほど静かな、感情の欠片もない笑みだった。
「どういう、意味……?」
それでも、
「お主の母など、とうにこの世におらぬ。おおかた、娘の枷になるのが耐え難かったのであろう。舌を噛み切って、さっさと自決しおったわ」
それを聞き終えるや否や、セリーヌが、まるで操り糸を断ち切られたかのように、膝から崩れ落ちた。
「ああ……あああっ……お母さん……お母さんっ……!」
地に沈むように両手をつき、壊れたような嗚咽を漏らすセリーヌ。
その悲痛な声は、ただただ空虚な空間に滲んでいた。
「もっとも、我は誓いは果たしたぞ? なにせ"殺し"てはおらぬからな?」
唇の端を上げ、ククッと嘲笑を見せるパウル。
それを目の当たりにした瞬間、熱が満ちているのか、それとも冷たさが染み渡っているのか、自身でも分からないほどの怒りが体内を渦巻いていた。
「許せない……なんて小さな"人間"……」
「……なんだと?」
今までこちらに目もくれなかったパウルが、突然私の言葉に反応し、眉をひそめる。
「魔人の血を取り込んだからって、心まで強くなったと勘違いして……誰かを
目眩がするほど、感情を吐き出した私は、ハッと我に返りパウルを見る。
すると彼は、これまで見たことのないほどの怒りをその顔に浮かべ、こちらを睨みつけていた。
「ヴィクター……まったく、貴様になびく女というは、ことごとく我の
ゆっくりとこちらへ近づいてくるパウル。
足は
それでも、不思議なことに「言ってやった」「ざまあみろ」という感情が私の心を満たしていた。
やがて、パウルの腕に青筋が浮き、その長い爪が剥き出しになる。
「我の魔力に屈しておらぬのは、どんなからくりかは知らんが……
ゆっくりと目を
それと同時に、振り下ろされる刃のような鋭い音が空気を震わせた。
しかし――
「――やっぱりお前、大したヤツだぜ」
声がすると同時に、何かに突き飛ばされる。
衝撃で床に突っ伏した私は、思わず二人を見上げた。
「――女のために命を張るとは……どこまでも酔狂な男よの」
「勘違い……す……な、こいつ……俺……」
パウルの腕を伝って、おびただしい血が床へと滴り落ちる。
私の目に飛び込んできた、信じたくない現実――それは、冷たい手刀が、ヴィクターの喉元を深く抉っている光景だった。
鮮やかな赤が、じわじわと辺りの白を染めていく。
「フン……文字通り、片腕だけで充分だったようだな」
やがてその腕が引き抜かれると、傷口からは、まるでコルクを抜いたワインのように鮮血が勢いよく流れ出した。
「長かった……ラウルスの血も、ここまでだ」
その場に膝から倒れ込むヴィクターを、蔑むような目で見下すパウル。
白魔術には、治癒の限界がある。
死んだ人間は二度と還らない。
私は、目の前の景色が暗転していくのを感じていた。
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