35.【蒼月と告白】
「シシィ、皮剥きは俺がやろう。その調子じゃあ指の皮まで剥いちまう」
ぼんやりと月明かりが照らす森の中。
焚き火の前に座り込んで林檎と格闘しているシシィに、俺は声をかけた。
彼女は少し躊躇すると、すまなそうにナイフを差し出す。
「ごめんなさい……せめて、あなたの役に立てちたくて……」
「気にするな。なんでも頼ってくれ」
シシィの隣に腰掛けた俺は、林檎にナイフを押し当ててクルクルと回し始める。
「今は、夜ですか?」
「ああ。昼間はよく晴れていたからな。星がよく見える」
シシィがじっと空を仰ぐ。
遠くでふくろうが一声、夜を割いた。
「なぁ、シシィ」
「はい?」
「俺と旅に出たこと……本当に後悔してないのか?」
俺の問いかけに、シシィはしばらく黙っている。
焚き火の火が小さく爆ぜる音だけが、間を埋めていた。
「……怖いと思ったことなら、少しだけ。でも、後悔など、一度もありません」
彼女の声は落ち着いていて、まるで森の静けさそのものみたいだった。
「たとえ目が見えなくとも、あなたの隣りなら、私は世界を感じることができます。今だって、風の音、草の匂い、焚き火のぬくもり……それに――」
そっと、俺が剥いた林檎を受け取る手が、俺の指先に触れる。
「あなたの手を握っている限り、私はどこまでも行けるんです」
星が揺れ、風が森の梢を優しく撫でていった。
林檎をかじる小さな音が、焚き火の静けさに溶けていく。
シシィが口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……ヴィクター様」
「……なんだ?」
「わたくし、巨像兵に触れた時……なにか不思議なものを感じたんです」
彼女の声はいつになく慎重で、焚き火の揺らぎのようにかすかに震えていた。
「まるで、誰かの祈りのようなものが流れ込んできた気がして……遠くから、何十年も、何百年も前から、ずっと――あの場所で誰かが、何かを守ろうとしていた」
俺は思わず、火の中に視線を落とした。
黒く焦げた林檎の芯が、灰に埋もれている。
「確かに……あの巨像は、ただの兵器じゃなかった。なんつぅか、人の願いが込められていた」
「はい……『ロレンツォ』と、
「その名に、なにか心当たりはあるのか?」
「はい……四百年前、魔王を討ったの勇者ラウルスのかつての仲間、賢者ロレンツォ……」
「俺の先祖の……仲間だと!?」
焚き火がぱちりと火花を散らす。
「じゃあ俺は、先祖のツレに殺されかけたってのか!?」
「いえ……賢者ロレンツォが意味も無く、巨像兵のような危険なものを遺していくとは考えにくいです……」
「チッ……大司教に問いただすことが増えたな」
「問いただす、こと……そうですね」
シシィはその言葉を、噛みしめるように繰り返した。
そして、焚き火の温もりに包まれながら、ゆっくりと拳を握る。
その手に宿る小さな震えが、やがて静かな決意へと変わっていくのを、俺は黙って見ていた。
「ヴィクター様。あなたの、記憶……空白の一年間について、お話があります」
「……話して、くれるのか?」
「はい……私の知る限りでよければ」
迷いの色が消えた眼差しが、まっすぐに俺の方を見据える。
「あなたはかつて『緋月の鎧』を求めて、とある月神の乙女と旅に出ていたのです。記憶の欠落は……緋月の鎧との契約の代償です……」
「お前以外の、月神の乙女と……?」
信じられない――というよりも、実感が湧かなかった。
シシィが言う"空白の一年間"が、確かに自分の人生に存在していたという証のように、心の奥がひりついた。
「その方の名は――ルビー様。かつての月神の乙女の一人にして、あなたが……」
シシィの言葉が、ふと宙に溶ける。喉の奥で息がつかえる音がした。
膝の上で組んだ手が、かすかに震えているのが見える。
「……言わなくても、いいんだぞ」
そう言いかけたが、彼女はゆるく首を横に振った。
焚き火の音だけが、夜の静寂に溶けていく。
その中で、彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。
まるで、見えない何かと向き合うように。
「あなたが……愛した方です……」
「ルビー――」
名前を口にした瞬間、何かが胸の奥で軋んだ。
聞き覚えのないはずの響きに、なぜか心がざわめく。
「そのルビーとやらは……今どこで、何をしている?」
問いかけに、シシィはわずかにうつむいた。
焚き火の光が彼女の頬を淡く照らし、その表情を隠す。
「……それは、わたくしにも分かりません。ただ、あなたが彼女と共に過ごした時間は、確かに存在しました……その一年が、あなたを今のあなたにしているのだと……私は、そう思います」
シシィの声は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
彼女の言葉の奥に、隠しきれない切なさが見え隠れしていた。
「すまん……お前がそこまで心を痛めてくれてるってのに、微塵も思い出せねぇんだ。まぁ、俺はこんなんだからよ、そいつも愛想尽かしてどこかに行っちまったんだろうな」
「これ以上……何も訊かないのですか?」
「ああ……覚えてもいねぇ、居場所もわからねぇと来たら、今さら何を訊いても仕方ねぇからな」
「そう……ですか」
シシィが小さく笑った。
それはかすれた吐息に似ていて、焚き火の揺らぎに紛れるほど弱々しかった。
「私は……卑怯者です」
そっと、胸元で手を重ねる。
「記憶を失っているあなたを前にして……寄り添えることを、どこかで安心してしまっている。過去の誰かより、今の私を見てくれていることに――安堵してしまっているんです……」
言葉の終わりとともに、シシィの口元が少しだけ歪んだ。
情けなく、どこか投げやりに。
俺はそんな彼女の震える手をそっと握る。
「記憶の有無なんざ関係ねぇ……俺が今、お前と寄り添いたいと思うこの感情だけは、過去だの未来だのに干渉されることのない、本当の気持ちだ」
シシィの目に光が灯る。
その泣きそうな笑みは、痛みとも、喜びとも捉えられるものだった。
「明日の朝が、来るのが怖い……」
「お前が怖がる物なら、俺が全部取っ払ってやるさ……」
シシィは視線を落とし、俺の手をそっと握り返す。
俺らはそれ以上何も言わず、ただ手の温もりだけを伝え合った。
シシィが、ほんの少しだけ身体を預けるように肩を寄せる。その重みは、軽くて、切なかった。
ずっと、こうしていられたら――そんな願いが、焚き火の煙と共に夜空へ浮かんで消えていった。
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